Little flower 3








「白菜、大根、しいたけ、えのき、人参、鳥モモ肉……。うん、これで全部だな」
 手にした買い物メモを確かめて、呂望はうなずき、傍らの愛娘を見下ろす。
「あとは、おやつを買って帰ろうか、邑姜」
「うん」
 こっくりとうなずいた少女に微笑み、メモを上着のポケットにしまうと呂望は手を差し伸べる。
 すぐに邑姜はその手を握り返し、父娘は仲良くお菓子コーナーに向かった。





「うわぁ」
「ああ、そうか。もうそんな時期か」
 いつもなら特売品が積み上げてある企画コーナーを見上げて、呂望と邑姜は同時に声をあげる。
 鮮やかな赤とピンクを主体にしたディスプレイには、ハートマークがいっぱいに散りばめられ、いかにも可愛らしい。
「バレンタインデーか」
 そういえば、そんな行事もあったな、と流行には少々疎い呂望は微笑した。
 呂望自身はビジュアルも悪くないし、中身も博識かつ温厚な性格で、学生時代にはそれなりの数(平均して大きな紙袋2つ分)のチョコをもらった経験もある。
 しかし、今現在の職業は、コブつきの絵本作家。一応、著作の奥付に小さな顔写真が載ることもあるけれど、いくらなんでも絵本作家にチョコレートを送ろうと考えるファンなど、はっきりいっていない。
 おまけに性格的にのほほんとしすぎて、家事と子育てと創作活動に日々奮闘し、年中インドアのくせにバラエティー番組も週刊誌も滅多に目にしない毎日を送っている。
 クリスマスだけは、プレゼントを贈らなければならない大事な娘の存在があるから意識するが、お父さんに義理チョコを贈ってくれるには幼すぎる娘の存在ゆえに、大学卒業以来、これまでバレンタインデーというイベントは、はっきりいって無縁だった。
 けれど、可愛い愛娘の邑姜も、もう三歳だ。
 そろそろバレンタインデーという行事が、世間にはあることを教えても悪くない。
「お父さん、バレンタインデーってなに?」
 同年代の子供に比べると、邑姜は言葉を話し始めるのも、文字に興味を持つのも早かった。
 ディスプレイに踊る大きな文字を、正しく読み取って父親に意味を尋ねる。
「バレンタインデーというのはな、大好きな人にプレゼントをする日のことだよ」
 優しく微笑んで、呂望は小さな娘にも分かりやすい言葉を選んで説明した。
「2月14日に、大好きの気持ちを込めてプレゼントをする。プレゼントは何でもいいが、チョコレートが普通かな。チョコは甘くて美味しいだろう?」
「うん!」
「そういう、もらった人が嬉しい気持ちになる物をあげるんだよ」
「ふぅん」
「邑姜は誰にあげたい?」
「えーっとね。お父さんとお兄ちゃん!」
「亦にもか」
「うん。お父さんが一番好きだけど、お兄ちゃんも大好き」
「そうか」
 花が咲いたような笑顔で見上げる邑姜に微笑んで、呂望は少女の頭を撫でた。
「だったら、亦が喜ぶようなやつを選んでやるといい。あやつも甘いものが好きだしな」
「うん!」
 うなずいて邑姜は背伸びし、ディスプレイの台を真剣な目で物色し始める。
 その可愛らしい様子を優しい瞳で見つめていた呂望は、自分たちがいるコーナーに他の客が近づいてきたのに気付き、立ち居地を譲ろうと何気なく目線を上げた。


「あ……」


 声をあげたのは、どちらが先だっただろうか。
「こんにちは……もう、こんばんはの時間かな」
 見覚えのある二人連れに、呂望はにこりと笑んだ。
 その声が聞こえたのだろう。父親の声に振り返った邑姜が、近づいてきた男女の客を目にして、大きな目をみはる。
 そこに居たのは、たぐいまれなと言ってもいいほど美しい若い女性と、彼女にどこか容貌が似通っている、これまたたぐいまれな美形の青年だった。
「幼稚園のおやつの買出しですか?」
「は、はい。お久しぶりです……!」
 聞く者が聞けば、言葉尻にしっぽが生えてぶんぶん風車のように回っているのが見えたかもしれない。そんな喜色に満ちた声で答えたのは、二人のうち、青年の方だった。
 対して、女性の方は、
「ご無沙汰をしております。今日はお嬢さんとお買い物ですか?」
 落ち着いた透き通るような声で言い、あでやかに微笑み返す。
「はい。いつもこれくらいの時間に来るんですよ。邑姜、覚えておるか? 幼稚園の先生だよ」
 言いながら、呂望は傍らを振り返る。
 と、邑姜は呂望の陰に半ば隠れるようにして、むっつりと二人を見上げていた。
「こんばんは。邑姜ちゃんだったね」
 いかにも不機嫌な少女のまなざしに、青年は一瞬ひるむが、果敢に笑みを浮かべ、目線を合わせるようにかがみこむ。
 しかし。
「……………」
「邑姜、お返事はどうしたのだ?」
「………………………」
「邑姜」
「………………………………こんばんは」
 少々厳しい声で名を呼ばれて、いかにも嫌々ながらに邑姜は答える。
 その様子に、呂望は小さく溜息をついた。
「すみません。少し人見知りをするもので……」
「あ、そんなことはいいですよ。こちらも入園試験の時に一度、顔を合わせただけですし……」
「それに小さなお子さんが、見慣れない大人に人見知りをされるのは普通ですわ」
「すみません」
 恐縮しながらも、呂望は宥めるように邑姜の頭をそっと撫で、改めて二人に視線を向けた。
「お買い物の最中だったのでしょう? お忙しいところを呼び止めてしまってすみません」
「いいえ。僕たちもおやつを買いに来ただけですから……。そういえば、クリスマスに出された『小さなくまさん』の新刊、ものすごく評判いいんですよ」
「え……」
「園の、お話の時間に読み聞かせした時、子供たちがものすごく目を輝かせて聞き入ってました。他の絵本じゃ、あんなことはないんです。休み時間に絵本の取り合いをする子たちもいるくらいで……。本当に素敵な作品を出して下さって、ありがとうございます」
「あ、そんな……。礼を言うのはこちらの方ですよ。そんな風に子供たちに見てもらえるのは、本当に嬉しいです」
 少し照れながらも、呂望はやわらかな春の日差しのような笑顔を、見習い幼稚園教諭の青年に向ける。
 と、その時、邑姜がきゅっと父親の手を握った。
「ん?」
「早く帰らないと、お兄ちゃんがおうちにご飯食べに来ちゃうよ」
「あ、ああ、そうだな。もうこんな時間か」
 レジの向こうの壁にとりつけられた大時計の針の位置を確かめ、呂望は少し慌てた顔になった。
「すみません、そろそろ帰らないと……」
「いえ、こちらこそ、すみません」
「それでは、また」
「はい。邑姜、どのチョコにするか決まったか?」
 慌しく二組の客は別れ、呂望と邑姜は再びバレンタインデーコーナーに向かい、やがて一つのチョコレートを選び出してレジへと向かった。








「久しぶりにお会いしたが、相変わらず綺麗な人じゃのう」
 街灯に照らし出された明るい夜道を歩きながら、竜吉はかなりの上機嫌だった。
 その傍らを、バレンタインデーのおやつ用に仕入れた大量のハート型チョコが入った紙袋を提げた楊ゼンが、少々渋い顔で歩いている。
「………姉さん」
「なんじゃ」
「まさかと思いますが……あの人にちょっかいを出そうとか思ってませんよね。さっきも、あんなよそ行きの声出して……」
「はてさて」
「うちの園の父兄ですよ」
「それは、そなたも同じであろうが」
「!」
「射石飲羽は良いが、見掛けに反して、あのお人は相当に手強いぞ。スーパーで偶然会ったくらいで余裕を失くすそなたに攻略できるかのう」
「………御自分ならできると言いたいんですか」
「もちろん!と言いたいところではあるがのう」
「何です?」
「ああいう綺麗な殿方は、恋仲になるより、近くから見て愛でるに限るものじゃ。それが綺麗なお顔と末長〜くお付き合いする秘訣というもの」
「ああ、そうですか」
 何とかならんのかこの性格は、と思いながらも、逆に、この従姉が単に綺麗なもの可愛いものが好きなだけで良かった、とも楊ゼンはひそかに思う。
 はっきりいって、竜吉は一見儚げな絶世の美貌とは裏腹に、かなり押しが強く、他者に有無を言わせない。彼女が本気で呂望を狙う気になったら、さすがの自分もかなりの不利を覚悟しなければならないところだった。
「だからのう、そなたには頑張ってもらわねばならぬのじゃ」
「………はい?」
「園の父兄とはいえ、それは令嬢が卒園するまでの間だけのこと。それ以降も、足しげく通ってもらうには手段は一つであろう?」
「……………あの人の顔を見るために、あの人を僕の恋人にしろと?」
「うむ。そなたの恋人ならば、わたくしの妹も同然。いっそ、そなたの妻になってもらっても構わぬぞ」
「……………………」
 誰か何とかしてくれ、と思わず楊ゼンは夜空に祈る。
 しかし、色恋の意味合いで竜吉が呂望を攻略する気がないことだけは、はっきりしたのだ。
 彼女の物言いはともかく、それだけは間違いなく喜ばしい。
 とはいえ、彼女の性格上、必ず自分の恋路には茶々を入れられるだろうが。
「……まぁ、春になったら頑張りますよ」
「うむ。健闘を祈るぞ」
「はいはい」
 うなずきながらも、でも3ヶ月ぶりに会ったあの人は相変わらず綺麗だったなぁ、笑顔が素敵だったなぁ、もっと話したかったなぁと、思いがけない邂逅の余韻に浸る楊ゼンは、間違いなく竜吉の従弟だった。








「よう、チビ姫」
 いつもの通り、やや乱暴な足取りで呂家のリビングを訪れた王亦は、大好きなくまさんのぬいぐるみを膝の上に抱き、ぽつんとホットカーペットに座り込んだ邑姜を目にして、軽く眉を動かした。
 もともと邑姜は絵本を読んだり、ぬいぐるみ相手にままごとをしたり、一人遊びばかりをしている物静かな子供だが、しかし、こんな風に何もすることなくだんまりになっているのは、何かがあった時と相場が決まっている。
「どうした。また何かあったのか」
 仕方がない、と内心で呟きながら王亦は、羽織っていた黒のレザーコートを脱いでソファーに放り出し、邑姜の隣りの温かなカーペットに腰を下ろした。
 邑姜は本来、さほど気難しいタチではない。
 むしろ利口で聞き分けのいい子供だから、悪戯をしたり言いつけを守らなかったりして父親に怒られることも滅多にないし、こうしてしょんぼりした様子を見せることも、決して回数の多いことではない。
 だからこそ王亦も、どうして俺が、と思いながらも、毎回聞いてやらずにはいられないのである。
「ん?」
 しかし、顔を覗き込んでもうつむいたまま、邑姜は答えない。
「チビ姫、言わねーと分かんねぇぞ」
「…………」
「ほれ、言ってみな。大丈夫、望にゃ言わねぇからよ」
「……お父さん……」
「ん?」
 小さな小さな声だった。
 至近距離から顔を覗き込んでいなければ、聞き逃してしまったかもしれない。
「すごく嬉しそうに笑ってたの……」
 少女が口にできたのは、そこまでだった。
 それ以上は言葉にできずに、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「チビ姫」
 手に持っていたぬいぐるみをぎゅっと顔に押し当てた少女に、あーあ、と内心で溜息をつきながら、王亦は手を伸ばし、ぬいぐるみごと邑姜を抱きしめた。
 子供特有の高い体温が、ついさっきまで屋外を歩いていた身には、かなり温かい。
「我慢してたのか。馬鹿だな」
 ぽんぽんと宥めるように背中を叩いて、少女が落ち着くの待つ。
 そして、不器用な子供だな、と思った。
 性格ばかりでなく、物心つく前に母親を失くして、父親と二人きりの生活だということにも原因があるのだろう。
 寄り添える相手が一人しかいない、ということは、どうしても幼い子供の心を不安定にする。
 呂望は子供に不安を与えるような言動をする性格の持ち主ではないが、少々神経質なところのある邑姜にしてみれば、父親が自分以外の相手とにこやかに会話をすることにさえ、子供の焼餅を超えた『お父さんがどこかに行ってしまうかもしれない』『自分は要らない子なのかもしれない』という不安を覚えるのに違いない。
 それなのに、邑姜は、自分から『抱っこして』と言うことも、父親に抱きつくこともできない性格の子供だ。
 王亦が、そんな邑姜の性格に気づいたのは、それまで赤ん坊だった彼女が成長に伴い、『我慢』という感情表現を身につけ始めた、今からちょうど一年程前のことだっただろうか。
 そして気づいてしまった以上、それ以来、少女の様子がおかしい時には手を差し伸べてやらないわけにはいかなくなったのである。
(望には借りがあるし、俺も可愛げのない子供だったしな……)
 俺は結婚どころか決まった相手もいないのに、これじゃ誰が父親か分からねぇだろ、と思いながらも、その一方で、父親ではないからこそいいのだろう、と王亦は邑姜を抱きしめつつ冷静に考える。
 親ではないけれど、親身になってスキンシップもしてくれる大人。
 そういう存在も、きっと子供には必要なのだ。
 やわらかな少女の髪を撫でてやっているうちに、ふと腕の中の重みが増したような気がして、
「邑姜?」
 王亦は声をかける。
 と、
「う…ん……」
 と眠たげな声が返ってきた。
 胸に抱かれて泣いているうちに、眠くなってきたのだろう。
 泣き疲れて眠ってしまう辺りは、まだまだ赤ん坊だな、と思いながら王亦は邑姜を抱き上げ、すぐ隣りのソファーへと寝かせた。
 そして、お昼寝用に置いてあるミニ毛布を小さな身体にかぶせてやり、足音を立てないようにリビングからダイニングキッチンへと向かった。
「あ、ちょうどいい時に来たのう。もう食べられるぞ。邑姜はどうした?」
 盛んに湯気の立つ土鍋をガス台からテーブルのミニコンロに移動させていた呂望が、王亦の姿を認めて笑みを向ける。
 今夜は鳥鍋か、と夕食の献立を確認しながら、
「寝てる」
 王亦は短く答えた。
「え?」
「なんか疲れてるみたいだから、このまま寝かせておいてやれ」
「しかし、ご飯も食べずに……」
「一食くらい抜いたくらいじゃ死なねぇさ」
「それはそうだが……」
「それより飯にしよーぜ。俺は腹がへってるんだ」
「うむ……」
 仕方ない、と呂望は気遣わしげなまなざしをリビングへの続きドアと向けながらも、伏せてあった茶碗を手に取る。
 そして、炊飯器からご飯をよそいながら、何でもない口調で言った。
「そういえば夕方に買い物に行った時、蓬莱幼稚園の先生と会ったぞ」
「……へえ」
「入園試験の時の女の先生と、男の先生と。男の先生は園長の息子さんで、女の先生は姪御さんらしいが、どちらもものすごく綺麗な方でのう。スーパーの中なのに、お二人が立っていたそこだけ、ドラマのロケ現場か何かみたいだった」
「ほう」
 なるほど、と王亦は邑姜の不機嫌の原因を納得して、テーブルに並べてあった小皿から沢庵を一切れ取り上げ、口に放り込む。
 ほどよくいい塩加減のそれは、ぽりぽりと口の中でいい音を立てた。
「……鈍い親父を持つと子供は苦労するよなぁ」
「うん? 何か言ったか?」
「いや。鈍感は罪だよなーっていう話」
「?」
「ほれ、飯にしようぜ」
「あ、うむ」
 いただきます、と声をそろえて。
 ぐつぐつと美味しそうな音を立てる鍋に、従兄弟たちは箸を伸ばした。






to be continued...?










大分遅れましたけれど、バレンタインネタ。
やっぱり邑姜ちゃんを書くのは楽しいです。可愛いチビ姫と、カッコいい王亦兄ちゃんを書きたいがために、このシリーズを続けてるような気がしないでもないですね。
きっとカリスマデザイナーの王亦兄ちゃんは、バレンタインにも沢山チョコをもらうんでしょうが、お返しをあげるのは邑姜ちゃんだけなんでしょう。
比べて、本当ならヒーローであるはずの楊ゼンがヘタレなこと……。私の作品では既に当たり前ですが、竜吉お姉さまの方が遥かに漢前のようです。

一応、この後もネタはあるので、とろとろとシリーズは続くかと思います。
頑張れ邑姜ちゃん…!






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