Little flower
「次の方、どうぞー…」
そう呼びかけた声が、不意に吹いた風に途切れる。
はらりと風に乗って、足元に届いた葉書大の白い紙を拾い上げ、表書きを確かめてから視線を戻すと。
椅子から立ち上がった人が、軽く目をみはってこちらを見つめていた。
───深い深い色をした、大きな瞳。
その色に一瞬見惚れて言葉を失くしていたら、驚いたような大きな瞳が、ふわりと優しく笑んだ。
「すみません」
やわらかな陽射しを思わせる笑顔に似つかわしい、澄んだ声が高くもなく低くもない響きで耳に届いて。
そして、差し出された手に、はっと我に返った。
「呂邑姜ちゃんと御父兄の方ですね」
「はい」
拾ったばかりの紙を差し出しながら問いかけると、穏やかな笑顔のまま、その人はうなずく。
瞳や声と同じ、青い空のように澄み切った印象の笑みに、思わず内心でどぎまぎとしながら、顔は平静を装って普段通りの声を出そうと努めた。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
「はい。行こうか、邑姜」
後半の言葉は、こちらに向けられたものではなかった。
彼が差し出した手を、うんと小さな、華奢な手がきゅっと掴む。低い位置から、じっと見上げてくる大きな瞳の色は、彼にとても良く似ていて。
……一目惚れの瞬間に、失恋を自覚するしかなかった。
* *
「それでは、改めて当園への入学ご希望をありがとうございます。これから幾つかの質問をさせていただきますが、どうぞ気を楽にしてお答え下さる様お願いしますね」
「はい」
先輩の教師がにこやかな笑顔を浮かべながら語りかける様子を、一番端の席から眺めやりながら、楊ゼンは手元の書類に視線を落とした。
出願表に書かれている事柄は、いずれも基本的なことばかりだが、その分、わざわざ問わなくとも相手の名前や年齢を知ることはできる。
が、知ったところで、それにどれほどの意味があるのだろうか、と人知れず溜息が零れるのを無理やりに押し込みながら、楊ゼンはそっと、面接の席に座っている相手を見つめた。
書類で見る限り、年齢は自分より二歳年上。そして……子供が一人。
(でも……)
家族構成欄には、それ以上の記載はない。
(父子家庭、なんだ)
結婚相手は死別したのか離婚したのか。さすがにそこまでは書いていないし、また自分が質問できる立場にいるわけでもない。聞いてくれないかな、と先輩の教師を盗み見るが、楚々とした外見に反して豪快な性格をしている彼女が、そんな微妙な事柄を質問してくれるかどうか。
不純に思い悩む間にも、スムーズに質疑応答は始まって。
「まず、当園への入学を御希望なさった理由をうかがってもよろしいですか?」
「はい」
面接官の質問に、彼は優しいまなざしを隣りの椅子に座る娘に向けた。
「家から近いということも大きな理由ですが、それ以上に、自然教育に重点を置かれているこちらの教育方針に惹かれました」
小さな少女は、緊張しているのか、むっつりと黙り込んだまま、目の前の大人たちを大きな瞳でじっと見つめている。
「面接の順番を待っている間に、園内の様子を拝見させていただきましたが、小鳥小屋やウサギ小屋も世話が行き届いていて、動物たちがとても健康そうでしたし、野菜畑もよく手入れがしてあるように見えました。
教室も、全部木造というのは維持が大変だろうと思いますが、室内は明るくてとても居心地が良く、面接を気持ちよく待つことができました。
神経質にはならずに、しかし子供たちの環境に隅々まで目を配る。口で言うのは簡単ですが、なかなかできることではありません。それを実践しておられるここの先生方になら、大切な娘を是非とも預けたいと思いました」
「そうですか」
穏やかに答えながら、女性教師は書類をめくる。
「ですが、こういっては何ですが……先日のテストの結果を見る限り、お嬢さんは非常に能力が高く……、簡単に言えば、平均よりもかなり高い知能指数を示されています。当園のような牧歌的な教育ではなく、もっと能力を伸ばす教育を方針としている幼稚園に預けられるお考えはないのでしょうか?」
「ありません」
切り込んだ質問に、さらりと彼は答えた。
「極端なことを言えば、数学の公式は50代、60代になっても覚えることができます。ですが、自然と親しむことを覚えるのが60代では、気付かずに一生を過ごすよりは遥かにましとはいえ、やはり遅いと思うのです」
気負うでもなく、挑むでもなく、ごく当たり前のことを語るように、凛とやわらかに言葉を紡いでゆく。
「私は、この子に、すべてのものを大切にすることができる優しい人になってもらいたいと思っています。優しさのために傷つくことがあっても、優しさを知らずに誰かを傷つけるよりは、ずっといい。そう思える強い子になってもらいたいんです」
静かに響く優しい声に、少女が大きな瞳をまっすぐに父親へと向ける。
その少女の頭を、彼は優しい仕草で撫でた。
「この子が本当に優秀な頭脳を持っているのであれば、わざわざ教えなくとも数の計算や文字は自然に覚えていくでしょう。それならば、限られた教育の時間は、もっと大切なことを学ぶために費やしたいんです。動物の世話をしたり、花を育てたり、皆で一緒にお遊戯をしたり、友達と喧嘩をしたり仲直りをしたり……。平凡であることが罪だとは、私は思いません」
「そうですか……」
彼の言葉は、穏やかでありながら真摯だった。
それが彼女の琴線にも触れたのかもしれない。質問の声が、ほんのわずかながらも柔らかくなったことに楊ゼンは気付く。
「あと、御家族はお二人だけのようですが、お父様に御用事などがあった場合、お迎えなどはどうなさいますか? 近くに御親戚などは……」
「おります。従兄ですが、彼も自由業なので、私の都合が悪い時には迎えを代わってもらうことで話がついています。もともと家は近所ですから、お迎え自体は苦になりませんし……」
「失礼ですが、お父様のご職業は……」
「ああ」
確かに出願表には、自由業、としか書かれていなかった。
問われて、彼の表情が少しだけ気恥ずかしげなものになる。
「絵本を書いています。太公望というペンネームで……」
「あの『小さなくまさん』シリーズの……!?」
思わず楊ゼンは声を上げる。
途端、視線が集中して、自分に発言権がないことを思い出したが、もう後の祭りだった。
が、彼は気恥ずかしげな表情のまま、楊ゼンへと視線を向けてうなずく。
「あのシリーズも、もとはこの子のために書いたものだったんですが、出版を勧めてくれた知人がいて……。幸い、好評を得てシリーズにすることができました。ですから最近は調子に乗って、将来的には、この子の成長に合わせて、童話や児童文学も書けたらいいと思っています。それをこの子が喜んでくれるかどうかは、別の話ですけれどね」
「そんなことないですよ。『小さなくまさん』は幼稚園の子供たちも大好きなんです。これからも書いていただければ、皆、すごく喜びますよ。きっとお嬢さんも……!」
「楊ゼン」
ごほん、と軽い咳払いと共に、先輩教師に軽く横目で睨まれて。
楊ゼンは慌てて、すみません、と頭を下げた。
面接の場でファンコールをして、どうしようというのか。
自分の馬鹿さ加減に今更気付くが、しかし彼は気を悪くした様子は見せず、いいですよ、と微笑む。
「喜んでもらえているのなら光栄ですよ」
ありがとうございます、と告げられて、思わず楊ゼンは胸が高鳴るのを感じた。
何が、というわけではない。
深い色の瞳も、
凛と澄んだ声も、
優しい指先も、
晴れ渡った空のような笑顔も。
すべてがあまりにも綺麗過ぎて。
───こんな綺麗な人、今まで見たことない。
どうしよう、と思う間にも、事態は進行していて。
「見習いが失礼しました。それでは改めて……園長、何かお伺いしたいことはありますか?」
「いや。これ以上の質問は、もはや失礼に当たるだろう」
それまでずっと黙っていた園長が、重々しくうなずいて面接者に向き直った。
「我が蓬莱幼稚園は、お嬢さんの入園を歓迎いたします。お若いのに、実に立派な見識をお持ちでおられる。教育者として、まことに感銘いたしました」
「そんな……若輩の身で賢しげなことを申し上げました。こちらこそ恐縮です」
「いやいや。ついでですからこの場で紹介しておきましょう。こちらが、教師の竜吉。現在は年長組の担任をしております。そして、こちらが来年から正式採用予定の教師見習いで、不肖ながら、わしの息子の楊ゼンです」
「そうですか。春からお世話になります。何分、二人きりの家族なので、行き届かない面も多いと思いますが、どうぞよろしくお願い致します」
「いえ、こちらこそよろしくお願い致します」
双方が頭を下げたところで、切りよく竜吉が面接の終了を告げた。
「それでは面接を終了させていただきます。入学に必要な書類はこちらですので、一通り、目をお通し下さい。制服などの販売は来月5日の予定になっていますので、御都合が悪い時は御連絡をお願いします」
「分かりました」
そして彼は娘をうながして立ち上がり、改めて一礼する。
「ありがとうございました」
それに答えて、教師側も立ち上がり会釈して、出て行く父娘を見送った。
その仲良く手を繋いだ姿が、廊下の向こうに消えて。
「この馬鹿者が!」
「っ!」
ごん、と握り拳が楊ゼンの頭の上に落ちる。
「大事な面接の場で、何を呆けておるのだ! 呂望さんが寛大だったから良かったものの、よその幼稚園に娘を預けると言われても仕方がなかったぞ!」
「すみません……。でも、だからといって殴らなくても……」
「いい年をして、馬鹿息子が馬鹿息子のままだから、手を上げざるを得んのだろうが。まったく、これが後継ぎとは……」
「だから、後継ぎも何も、僕は最初から嫌だと言ってるじゃないですか。それでも幼稚園を継ぐことだけは妥協したんですから、父さんも妥協して下さいよ。誰に何と言われようと、寺は絶対に継ぎませんからね」
「まだ、そんな往生際の悪いことをぬかすか!?」
「まあまあ伯父上、今はこの程度でよいではないか。いずれ気の変わることもあろうし」
「ありませんよ。それより、あなたは一体どちらの味方なんですか、竜吉姉さん」
「さて、どちらであろうのう」
ころころと鈴を転がすような美しい笑い声が響いて。
ひとしきり、午後の陽射しの差し込む教室はにぎやかだった。
* *
「よぉ、邪魔するぜ」
チャイムと共に、いささか乱暴にマンションのドアが開かれた。
侵入してきたシルエットは細身で、黒革を素材にした衣服が実に様(さま)になっている。
身動きする度に、全身に身につけたシルバーアクセサリーが硬質な音をさやかに立て、男ながらきついダーク系のメイクを施した容貌と相まって、独特の雰囲気を醸し出していた。
「亦か」
「他に誰が来るってんだよ。面接、どうだったんだ? 今日だったろ?」
玄関先でブーツを脱ぎ捨て、家人に断りなくどかどかとリビングへと入ってきた人物は、そのまま遠慮なくソファーへと腰を下ろして、ダイニングキッチンへと声をかけた。
そんな傍若無人な態度にも慣れているのだろう、呂望は鍋をかき混ぜる手を止めることなく答える。
「無事に済んだよ。春から邑姜は、晴れて蓬莱幼稚園の年少さんだ」
「そうか、そりゃ良かったな」
答えて、それから亦と呼ばれた青年はリビングの中へとまなざしを戻し、うん?と眉を寄せた。
彼が腰を下ろしているソファーの傍らでは、小さな少女がクマのヌイグルミをかかえたまま、カーペットに座り込んでいる。
「チビ姫?」
「……チビじゃないもん」
言い返す言葉も、いつものような威勢が足りない。
呂望の愛娘である邑姜は、どちらかというと人見知りをする愛想のない女の子だが、しかし案外、気が強くて、親しい人間には幼児とは思えない口達者さで言葉を返すのが常なのである。
これは何かあるな、と素早く察した青年は、ソファーを下り、少女の前にしゃがみこんだ。
「チビ姫、どうした? 腹でも痛いのか?」
「………」
「また買い物行った時に、欲しいお菓子を買ってもらえなかったのか?」
「………」
「じゃあ、今日行った幼稚園が気に入らないのか」
そう言った途端、むっつりと黙り込んでいた少女の表情が、ぴくりと動いた。
意を得たり、と青年は言葉を続ける。
幸い、家主は夕飯の支度中だ。換気扇も回っているし、大声を出さない限り二人の会話が届く心配はない。
「意地悪な子がいたのか?」
ううん、と少女は無言で首を横に振る。
「じゃあ、望の絵本が置いてなかった」
「いっぱいあった。くまさんも全部あった」
「じゃあ、何があった?」
「………」
「嫌な先生が居たか?」
その言葉に。
少女の眉が、八の字になった。
ものすごく嫌そうな、下手につついたら泣き出しそうな少女の表情に、これは大事(おおごと)だと王亦は腰を据えなおす。
邑姜は年齢より遥かに賢いし、我慢強い。これは余程の事があるのだろうと、慎重に言葉を選んで問いかける。
「何が気に入らなかったんだ。話し方か? 嫌なことを言ったか?」
ううん、と首が振られる。
その泣きそうな少女の顔に、王亦は嫌な予感が高まるのを感じた。
「じゃあ……」
これだけは当たって欲しくない、と思いながら続けて。
「顔、か? まさか……」
途端。
ふにゃ、と少女がべそをかくような表情になった。
それを見た途端、最悪……、と王亦は心の中で呟く。
「そんな美人が居たのかよ……」
思わず零れた言葉に、邑姜はこくりとうなずいた。
「そのせんせいもお父さんを、じっと見てたの」
「うーわー」
溜息をつきながら、王亦は泣き出しそうな少女の頭を、ぽんぽんと優しく撫でる。
「望は全然自覚のねぇ面食いだからなぁ。まぁ、あいつも顔は綺麗だから、面食いとは言わねぇのかな」
「どうしよう……」
あーあ、と王亦は半べその少女を見つめる。
この少女の母親も、優しげで楚々とした美人だった。間違いなく、望は彼女に一目惚れだったはずなのだ。自覚があったかどうかはともかく。
「泣くなって、チビ姫。あいつにとって一番大事なのは、今はお前だからよ」
「でも……」
「大丈夫だって。オヤジのこと、ちったあ信じてやりな。それより、その先生の邪魔をする方法を今から考えておけよ。望とその先生が仲良くなるのは嫌だろ?」
「うん!」
小さなこぶしを握り締めて、少女は真剣な顔でうなずく。
父親も娘を溺愛しているが、娘の方のファザコン加減も相当なものだ。父一人子一人の家族では仕方のないことなのかもしれないが、と思いながら、王亦は少女の頭を撫でた。
「じゃあ頑張れよ。俺も協力してやるから」
「ほんと?」
「本マジ。望に恋人なんか作らせねぇよ。んなもん出来たら、美味い飯が食えなくなるしな」
「じゃあ約束?」
「おう、約束だ」
指きりげんまん、と少女と青年は指切りをして。
それから、ひそひそと密談を交わす。
「邑姜、どうしたらいいのかな」
「そうさなぁ、一番効果的なのは……」
ぼそぼそと二人の会話は続いて。
「二人とも、御飯だぞー」
「はーい」
「おう」
ほどなく響いた呼び声に返事した二人は、顔を見合わせ、共犯者の笑みを見交わして。
仲良く手を繋いで、ダイニングへと向かったのだった。
to be continued...?
というわけで、ひさしぶりの新作。
最近シリアスばかり書いていた反動で、阿呆なホームコメディです。しかも超!珍しいことに、太公望がほんわかさん。
こんなのを書いていると、また反動でとんでもない作品が飛び出すかもしれません。
で、続くかどうかはともかく、大雑把な設定だけご紹介。
・呂望 … 24歳。絵本作家。PNは太公望。娘を溺愛するほんわかさん。
・呂邑姜 … 3歳。来春から幼稚園児。ものすごくお利口でパパ大好き。
・王亦 … 24歳。ご近所に住む呂望の従兄。シルバーアクセサリーのカリスマデザイナー。
・通天 … 51歳。蓬莱寺の住職にして、蓬莱幼稚園の園長。一人息子を後継ぎにしようと奮闘中。
・楊ゼン … 22歳。大学生にして蓬莱幼稚園の見習い教師。坊主には絶対にならないと長髪を貫いている。
・竜吉 … 27歳。蓬莱幼稚園のベテラン教師。絶世の美人だけど実は豪快な楊ゼンの従姉。
・燃燈 … 26歳。蓬莱幼稚園の熱血教師。楊ゼンの従兄で竜吉の弟。
・姫発 … 22歳。楊ゼンの大学の友人。蓬莱幼稚園にもよく遊びに来るお兄さん。
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