「……かれこれ五年ぶり、か」
 長く沈黙した後、響いた声は、かつてと何も変わってはいなかった。
「久しいな……と言いたいところだが……。よく五年でここを見つけられたものだ」
 揶揄というには静かな、淡々とした声に、水面が波立つとも鎮まるともつかない感覚が沸き上がるのを感じながら、楊ゼンもまた、静かに応じた。
「お誉めにあずかり光栄ですが、随分と苦労はさせられましたよ」
 そして、周囲を見渡すように曇天にまなざしを向け、それから延々と白い水飛沫を上げる大瀑布を見やる。
「水音を利用して結界を造られているとは……」
「たまたま、この霊穴を発見した時に思い付いて試してみたのだよ。これだけの音と自然の霊気が満ちておれば、それだけで十分に気配を攪乱できる。加えて、この轟音に気配を同調させてしまえば、まず完璧だ。ここに気付くことができただけでも、おぬしは大したものだよ」
 そう言い、淡く笑むひとを、楊ゼンはただ、見つめた。
 予想外に……あるいは、予想していた通りに、彼を目の前にしても自分が平静でいることを少しだけ不思議に思う。
 だが、いつか会える、とは思っていたのだ。
 周の国を介して、生存の知らせを聞いた時から。
 そして、武吉と四不象では彼を見つけることが叶わなかったという報告を聞いた時から。
 待っているのだ、と思った。
 何を考えているのか、何のために待っているのかは知らないし、分かるはずもない。
 けれど。
 自分が行くのを……探し出すのを待っているのだと信じた。
 それは愚かな、あるいは盲目的な自惚(うぬぼ)れであったかもしれない。
 それでも、あの時まで自分と彼との間には、確かな繋がりがあった。
 彼を誰よりも大切に想い、誰よりも側にあって理解したいと願っていた自分の心を、彼もまた、分かってくれていたはずだった。
 だから、たとえ彼という存在が本質から変わってしまったのだとしても、かつての仲間に何かを伝えようとした時、自分をないがしろにすることはないと、必ずその伝達の対象として自分を選ぶはずだと信じられるだけのものがあったのだ。
 そして、武吉と四不象が諦めきれずに地上に降りては、落胆して戻ってくるのを何度も見、また元始天尊の千里眼にもまったく何も感知できないという報告を聞くたび、その確信は揺るぎないものとなっていった。
 一方、蓬莱島に集(つど)っている、かつての彼をよく知っている面々もまた、おそらく教主自身が出ていかなければ、彼は姿を現さないだろうという憶測に、薄々到達していたのだろう。
 新しくできたばかりの仙界の教主が、激務の合間を縫っては鍛練に熱中し、たびたび地上に降りることに、多少困った顔をされることはあっても、面と向かって文句を付けられたことはこの五年、一度も無かった。
 そうして探して、探して。
 ──ようやく、見つけた。
「太公望師叔」
 まっすぐに視線を向けたまま、楊ゼンは静かに彼の名を口にした。
 それは仮初めのものにすぎず、他に真実の名があることは知っている。
 けれど、それが今の彼を現しているとは、やはり思えなかった。
 五年前、肩を並べて女禍と戦っていた最中にも感じたことではあるが、こうして面と向き合うと、更に強く実感できる。
 ひそやかに、だが、ひしひしと押し寄せてくる存在感。
 初めて出会った頃に比べれば、目の前の相手の気配は圧倒的に強烈ではあるが、その輝きの色合いは変わらない。
 確かに、かつて誰よりも近くに感じたものとは異なる気配もかすかに混じってはいる。が、ここにいるのは、間違いなく『太公望』の魂そのものを持った存在だった。
「あなたは何を望んで、僕をここに呼ばれたのですか」
「──呼んだ、とは?」
「お呼びになったでしょう?」
 問いかけに問いかけで返す。
 決して揶揄ではなく、淡々と。
「生きていることを遠回しに知らせておきながら、蓬莱島に現れる様子もなければ、武吉くんたちの懸命の探索にもさっぱり応じない。人をからかうのが好きなあなたらしいと言えばそれまででしょうが、僕にはそうは思えなかった。何か理由があるのだと考えました」
 だから探したのだ、と告げる。
 ただ待っていて再会できると思ったのであれば、大人しく蓬莱島で教主としての執務をこなしながら日々を過ごしていたと。
「その理由を伺うために……あなたを見つけだすために、僕は五年もの時間をかけて自分の経験不足を補い、相当なレベルまで心身の能力を引き上げなければならなかった。そうまでの手間と時間をかけさせて……、あなた自身も無為の時間を過ごしてまで、僕をここに呼ばれた理由は何なのですか?」
「───」
 静かに尋ねると。
 太公望は、ふと微笑した。
「そこまで分かっておるのに、来たのか」
 深い色の瞳に、表現しがたい色が走るのを楊ゼンは見つめる。
 哀しみか。
 痛みか。
 このひとがこんな瞳をするのを、あの頃何度も見た、と思う。
 どんな感情も……痛みも苦しみも、いつでもすべてを飲み込んで、自分の中に深く沈めてしまうひとだった。
 苦しいばかりのはずなのに、零れ落ちていった生命を思い、己の傷を癒すことを拒んで、血を流し続けて。
 そんな自分のためには、泣くことすらできなくなっていた。
 優しいひとだった。
 誰よりも透明で綺麗な、哀しいひとだった。
 ……だから。
「そこまでしなければならぬものが、ここには待っていると分かっていたのだろう? よもや、楽しいものや美しいものが待っているなどとは、天地がひっくり返っても期待することはできなかったはず。それなのに……?」
「ええ、来ましたよ」
 まっすぐに告げる。
 何にも揺らぐことなく。
「それでも、あなたが僕を待っているのだと分かっていましたから」
 ……いつもそうだった、と届かないものを思い出すような心地で、楊ゼンは遠い日々を振り返る。
 一番苦しむのは他の誰でもないのに、彼はいつも、自分の傷を顧みることはなく、他人の痛みばかりを気遣っていた。
 確かにこの五年、先に何が待ち受けているのか分からないまま、彼を捜し続けることには不安が常につきまとっていた。
 だが、再会した時に何が起きるのか……それが喜びに属すものではないことが分かっていて、それでなお、いつ来るとも知れない時を待ち続けていた彼の五年間は、どれほどの苦痛であったか。
 それが想像できないほど幼くはない。
 自分ばかりが苦しいと信じ込み、他者もまた同じような、あるいは自分を上回る苦しみを抱いていることに気付けないほど、愚かな存在には楊ゼンはなりたくなかった。
「────」
 太公望が数度、まばたきをする。
 どこかもの言いたげに見えた唇が、けれど静かに引き結ばれて。
 そして太公望は、ゆっくりと曇った初冬の空を仰いだ。
「そこまで分かっておるのであれば、余計な説明は要るまい。この地を選んだのは、単にわしがここを気に入ったからだが、地上でしか見られないものを仙界教主のおぬしに見せたかったのだ」
 その言葉に。
 楊ゼンは引っ掛かりを覚える。
「……教主である僕に?」
「そうだ」
「教主が見なければならない……あるいは、知る必要のあること、ですか……?」
 それは何か、と考える。
 これほどの手間をかけて、また手間をかけさせて彼が示そうとしているものである。それは必ず、始祖に関わる事柄だろう。
 そして、それは新しい仙界に少なからぬ脅威、もしくは危険をもたらすものだ、と無言のうちに楊ゼンは断じた。
 そうでなければ、敢えて『仙界の教主』と彼が口にする必要はない。
 こんな形で、一対一で相対する必要などなかったはずだ。
「……いいでしょう」
 だが、こうなるだろうということは、楊ゼンもとうに予想していた。
 五年という月日、それだけで不吉な予感を覚えるには十分すぎたのだ。
「そのために、僕を呼ばれたというのであれば見せていただきましょう」
 まっすぐに見つめて、答える。
 太公望も、目をそらすことなく楊ゼンのまなざしを受け止めた。
「──うむ」
 ……静かな、既に何かを思い定めた表情を、彼はしている、と楊ゼンは思った。
 顔立ちは、以前の『太公望』と何も変わらない。
 だが、雰囲気は最期の時と同じまま──さほど大きな差異ではないが、自分の見知っていた彼からは深い部分が変質したままだった。
 草原を渡る風のようにつかみ所のないところは変わらないが、その澄み方が以前とは桁違いに深い。
 以前も、彼の深い色の瞳を見つめて、底が見えない、と感じたことはよくあった。が、今は、まるで宇宙の深淵そのものを見つめている気さえするのだ。
 何十億、何百億年という年月を越え、それでもなお、遥かな何かを見つめている瞳。
 その先にあるものを……彼が見ているものと同じものを見たい、と楊ゼンは思う。
 この五年。
 考える事は嫌というほどにあった。
 仙道と妖怪が共生する新しい仙界の教主として膨大な執務に追われ、太公望を探すための鍛練に心身の限界まで連日疲弊しながらも、一時も忘れることはできなかった。
 過去、現在、未来。
 悲しみ、苦しみ、怒り、後悔。
 絶望。
 そして。
 どれほど苦しみ嘆いている時でも消えなかった、消すことができなかった、たった一つの……想い。
 言いたいことも、聞きたいことも。
 今にも溢れ出しそうなほどに降り積もっている。
 この瞬間も、他のことなど──仙界も人間界もどうでも良いから自分達の話をしたい、と叫んでしまいたい衝動をぎりぎりのところで抑えている。
 あの時、彼と自分の間にあったはずのものを見失い、今は何が存在しているのか、何が残っているのか、あるいは何もないのか。
 どこに辿り着くのか。
 何一つ分からなくても。
 この先に、何が待っているのだとしても。
 ……もう一度、出会いたかったから。
 どんな形であっても、もう一度、出会いたかったから。
 そのために。
 ここまで来た。
 今さら躊躇う理由など、どこにも存在しない。
「────」
 ゆっくりと太公望が曇った空を仰ぐ。
「この結界を見つけることができた今のおぬしであれば、見えるだろう。あれが分かるか、楊ゼン」
 楊ゼン、と呼ばれたのは、一体いつ以来か。
 ひどく懐かしい響きに、言葉にならない感情が淡く波立つのを感じながらも、楊ゼンは同じように上空に視線を向けた。
 一面に広がっている厚い灰色の雲は、今にも雪が降り出しそうな重苦しさで低く垂れ込めている。
 その向こうにあるもの……太公望が視ているものを捕らえようと、楊ゼンは意識を集中する。
 ───え…?
 何かを感じた。
 否、天高く伸ばした不可視の触覚が、何かに触れた。
 だが。
「これは……」
 まるで壁のようだった。
 感覚を上下左右どこまで広げても、それの端には到達しない。
 これでは埒があかないと判断し、楊ゼンは探知の感覚を触覚から視覚へと切り替える。
 ──途端。
 視えたのは。
「これは……何ですか……?」
 問いかける声が、ほんのかすかにではあるが、震えた。
「まるで……」
 漢字に似た複雑な文字が七色に輝きながら、無数に上空を覆っている。
 見える範囲すべてを、異形の文字が……各々に明滅しながら刻一刻と微妙に変化し続ける大小の文字が、遥かな空を埋め尽くしている。
 それは以前、太公望が使用した太極図や万仙陣に形式は似ていながらも、まったく非なるものだ、と楊ゼンは感じた。
 ただ、見ている。
 それだけなのに、異様な緊張が背筋に走る。
 女禍を初めて目の当たりにした時でさえ、これほどの強烈な印象は受けなかった。
 こんなもの……こんな存在は他に知らない。
 恐ろしい、と思った。
 何も分からないのに、見てはならないものを見ているのだと、そのことだけははっきりと分かる。
 なのに、目を離すことができない。
「太公望、師叔」
 とてつもない圧迫感に押しつぶされそうになりながら、かすれかけた声で助けを求めるように名を呼ぶ。
 と。
「あれが封神計画だよ」
 静かな声が届いた。
「え……」
 その声と、言葉の意味に、ようやく上空の異様なものからまなざしを離すことに成功して、楊ゼンは石柱の上に座しているひとの姿を見つめる。
「薄い亜空間の膜に挟んであるから、一定レベル以上の能力の持ち主で、わしの作る亜空間と波長を合わせることができるものにしか、地上からも宇宙からも見ることはできぬ。だから、女禍も気付くことはできなかった。あやつは空間使いではなかったからのう」
「あ…れが……?」
「そうだ」
「何故、です? あれが封神計画だというのなら……、あれから五年も経つのに、何故あんなものがまだあるんですか……!?」
 その強い問いかけを。
 太公望は静かに、感情を消した瞳で受け止めた。
「その答えは、おぬしにはもう分かっておるのではないのか?」
「───!」
 抑揚のない返答に、楊ゼンは思わず息をのむ。
 そんな青年を見やって、太公望は再び天上にまなざしを向けた。
「あれが見えた瞬間に、おぬしには分かったはずだ。あんなものがまだ、存在している理由はな」
「───…」
 応じようとして、楊ゼンは躊躇い、口を閉ざす。
 たやすく言葉にするには、あまりにも問題が大きすぎた。
 だが、太公望はそれ以上の言葉を続けようとはせず、このまま永久に沈黙を続けるわけにもいかない。
「まだ……」
 そして何度も躊躇し、ようやく押し出した声は、低くかすれかけていた。
「……まだ、終わっていないということなのですか。あれは……」
 言いながら、信じたくない、と楊ゼンは思う。
 これまでに、どれほど苦しみ、胸を引き裂かれるような思いを経てきたことか。
 それは楊ゼン自身に限ったことだけではない。封神計画すべてに関わった者たち、この時代、この星に生まれ、生きてきたすべての者……あるいは、始祖が地球に飛来した時から連綿と続き、繰り返されてきた血と涙の歴史。
 それがようやく終焉を迎えたのだと、これからは喜びも悲しみも、すべて自分たちのものなのだと、目の前に広がる茫漠とした自由と、長かった戦いの記憶を言葉もなく噛み締めたのは、ついこの間のことではなかったか。
 なのに。
 終わっていないと。
 まだ、封神計画はこの星に息づいているのだと、目の前のひとが言う。
 よりにもよって、彼が。
「……何故、終わっていないのですか。女禍は消えたのに……」
 呆然と思い浮かぶままに言葉にして、はたと楊ゼンは気付いた。
 女禍は消えた。
 だが、まだ始祖は居る。
 まだ、残っている。
 今、この目の前に。
「まさか……」
 冷たい水を浴びせかけられたように背筋を走り抜けた痛烈な悪寒に、思わず顔を上げれば。
 彼は、少しばかり困ったように微苦笑を浮かべて、こちらを見ていた。
「察しが良いのはおぬしの美点だが、そう先走るでない」
 そして、彼は言葉を選ぶように、きんと冷えた深山の空気を吸い込んだ。
「おぬしのために、結論だけを先に言うなら、封神計画のプログラムがまだ消滅していないのは、わしと妲己の存在が原因ではある。だが、わしがおぬしを呼んだのは、今おぬしが考えた目的のためではない」
 端的に告げられた答えを、楊ゼンは深く吟味するように反芻する。
 そして、改めて太公望を見つめた。
「……では、何のため、ですか?」
 静かに、探るように問いかける。
 彼のまなざし、呼吸、何一つ見逃さないように。
 かつて、いつもそうして彼のために心を砕いていた頃のように、細心の注意を払って。
「あなたは僕に何をさせたいのですか? 今、プログラムとおっしゃいましたが、封神計画という名のプログラムを、あなたはどうしたいのですか?」
 射るような鋭い視線を受けて、何を感じたのか、太公望は淡い笑みを口元に滲ませる。
「そもそも封神計画とは何だったのですか!?」
 ごまかしや偽りを決して許さない険しさで、楊ゼンは訊う。
「答えて下さい。そのために僕を呼ばれたのでしょう、太公望師叔!」
「…………」
 太公望は即答をしなかった。
 揺らぐことを忘れたかのように静かに凪いだ、だが深すぎる瞳で楊ゼンを見つめる。
 一時存在を忘れていた、激しく水の落ちる轟音が二人の鼓膜を乱打して。
 痛いほどに冷たい風が、渓流を凍り付かせんばかりに吹き抜けてゆく。
 その中で、二人は只、互いの瞳を見つめた。
「──封神計画は、この星から我々始祖の存在を排除するためのプログラムだ」
 そのままどれほどの時間が過ぎたのか、ゆるく前髪をなぶる風に、太公望は凛と響く声を乗せる。
 おそらく意図的にだろう、一切の感情を消した声は、恐いほどにこの冷厳な風景に似合っていた。
「最初は、遥かな昔に女禍が再び活動することを可能にした時のために備え、仲間の協力を得て、わしが作ったものだった。
 その後、時を得て仙界で『封神計画』が企画された時点で多少手を加え、女禍のみならず、我々始祖のすべての因子を排除できるように改良したものが、おぬしらの見た封神計画だ」
「────」
 一旦、太公望は言葉を切り、どこか遠くを見つめるように視線を灰色の雲が垂れ込めた空に向けた。
「我々がこの惑星に降りて来た時、女禍と意見に齟齬を来した経緯は、燃燈から聞いたであろう。だが、暴発しようとした女禍を封じ込めることには成功したものの、完全に消滅させるには我々四人の力は、あとわずかながら足りなかった。……勿論、全宇宙であと五人を残すのみとなった同胞を抹殺するのは忍びなかったという感情も無いではなかったが、それ以上に彼女は危険だったのだ。
 女禍の性格から鑑(かんが)みて、彼女が改心し、この星に同化しようと考えることは、おそらくありえない。いずれ自由を取り戻した時、彼女がこの星と我々にとってとんでもない厄災となることは目に見えていた。
 だが、いつになるか分からない封印の無効化を待ち続けるには、我々は疲れ過ぎていた。故郷を失い、この星を発見するまで、実に長い長い年月をあてもなく宇宙を放浪しておったのだ。
 それゆえに、故郷に似た美しい星で静かに眠りたいという欲求が、女禍に対する懸念を上回り、結果として我々四人は一つのプログラムを作ることで同意に至った」
「……それが封神計画ですか」
「そうだ。念入りに検討されたプログラムは、幾つかの段階を踏んで展開する複合的な形式に組み上げられた。
 まず、女禍が封印され眠っている間は、プログラムもセンサーだけを残して休眠している。そして、彼女の魂魄の活動を感知すると、プログラム本体が動きだすのだ。
 そして、最初の段階では、プログラムはセンサーが感知したこの星全体のエネルギー合計値と、女禍のエネルギー値を常時、相対化し、星のエネルギー合計値が女禍を上回った時、次の段階に入り、地上における『封神計画』の時期設定を始める。
 そして、我々のエネルギーを無駄なく計画に利用できるよう、時間軸のある一点に合わせてエネルギーの具現化……つまりは始祖の因子を持った人間及び動植物、あるいは物質を発生させ、女禍との対戦時に最大のエネルギーを回収できるよう調整し、同時に、始祖一人分の因子を回収して、最終段階における実行役となる伏羲を復活させる。
 ……そこまで計画は恙(つつが)無く進み、まず伏羲、この星での名は王亦が地上に誕生して仙界へと赴き、三大仙人に女禍の存在と、その抹殺の必要を告げて、『封神計画』を立案した」
「────」
 とてつもない、自分の感覚をもってしても計れないような遠大な計画を、どうにか自分の裡に収めようと楊ゼンは太公望の言葉を噛み砕く。
 そして、気付きたくなかった、あるいは気付くべきでなかった事実に、ふと思考を躓(つまづ)かせた。
「……それでは、僕たちがこの時代に生まれたのは……女禍の仕業ではなく……」
「──女禍は故郷の歴史に似せて、この星の歴史を導いただけだ」
 楊ゼンの落とした呟きに、何一つ感情を感じさせない声で、太公望は答える。
「だから、我々の故郷で遥か古代に起きた『封神計画』は、この星でも女禍によって何度でも繰り返し上演された。殷が滅びて周が興り、二つの仙界が衝突し、その後は人間界にも仙界にも、再び何百年かの平隠が訪れる。──女禍が意図していた『封神計画』は、本来それだけの意味しか持たない歴史の一幕に過ぎない。
 だが、我々の意図をカモフラージュするには、派手に仙道が動く『封神計画』は最適だった。だから、『王亦』は将来、『封神計画』の指導者となることを歴史の道しるべに定められていた、羌族の赤子の器を借りたのであり、また、女禍が作った歴史の舞台に上がった役者もすべて、プログラムがこの時のために用意した駒だった。
 結果、これまでになく強大な力を持った仙道、妖怪、そして人間たちが揃い、それゆえに、これまでになく歴史は故郷の過去に似せて進み、喜ぶ女禍の油断をも、ささやかながら招いたのだ」
 淡々と明かされる真実に楊ゼンは言葉も失くして、ぎり…と歯を噛み締める。
 そんな青年を見つめたまま、太公望は静かに続けた。
「この星と同化して眠っていた間、わしは、おぬしではない『封神計画』総指揮者の片腕を何人も見た。その時々によって、姿形も性格も生まれも育ちも違ってはおったが、それでも今から振り返ってみれば、どこか共通する所があったようにも思う。……今の、おぬしにも。同じ配役を担っていたのだから、似ておって当然なのかもしれぬが……」
「僕は僕です」
 強い調子で、楊ゼンは太公望の言葉を遮るように言った。
「誰のどういう意図があったのであれ、僕は僕です。この世界に生まれ、自分のあるべき人生をここまで歩いてきただけです。あなたに出会ったのも、今、ここにこうしているのも他の誰でもない」
 どこか言葉が空回りをしているのを感じながらも、楊ゼンは言いつのる。
 封神計画というプログラムがなければ、あるいは女禍という存在がなければ、この世界にはいなかったかもしれない自分。
 どこまでが偶然で、どこまでが恣意的なものであったのか、今となっては確かめる術もない、数えきれぬ人々の生と死。
 すべてが仕組まれ、操られただけのことだったのではないのかという疑惑に、やり場のない憤りに似た感情が、炎の蛇となって心臓に絡み付く。
 だが、そのまま感情の荒波に攫われそうになる自分を、楊ゼンは懸命に押しとどめた。
 あるいは、この自制心を自分が手に入れるのを待って、五年もの間、彼は行方を晦(くら)ませていたのではないのかと、埒のないことも思いながら、目の前のひとにまなざしを向ける。
「師叔、僕を怒らせようとするのは止めて下さい。あなたはいつも、自分一人が悪者になりたがる。でも、あなたの偽悪趣味には、僕はこれ以上付き合えない。隠し続けてきた封神計画の真実を明かして、仙界教主である僕に何をさせたいのか、何を望んでいるのか、それをおっしゃって下さい」
 理不尽な現実をつきつけて。
 怒りを導いて。
 そうして彼が誘い出そうとしているものは、何なのか。
 見極めなければならない、と楊ゼンは思う。
 激情に任せて、破壊衝動を解放するのは簡単なことだ。
 今の自分であれば、始祖たる彼を傷つけることさえ、ことによっては可能なだけの力がある。
 だが、感情に任せて行動し、後から悔やむような真似はもうしたくはなかった。
 だから、楊ゼンは懸命に己を制御しながら、太公望を見つめる。
 彼の真実はどこにあるのかと考えながら。
「太公望師叔!」
 まっすぐに彼の名を呼ぶ。
 その声を、彼はどこか曖昧な、ふとまなざしを反らした隙に消えてしまいそうな表情で受け止める。
 先刻、五年ぶりにその名を口にした時のような、ここまで真実を知らされたのに、それでもなお、その名で呼ぶのかとでも言いたげな瞳で。
「師叔、答えて下さい!」
「───…」
 そして。
 幾度目かの呼びかけに、すう…っと太公望の表情が冴えた。
 否。
 『太公望』の色が、彼の表情から消える。
 『太公望』でありながら『太公望』ではないもの──人外の超越者へと、『伏羲』へと彼の眸が変貌してゆく。
 冬の夜空にも似た、深い色合いは変わらない。
 だが、この世の果てを映したような計り知れぬ深淵に、遥かな宇宙が見えるような……、幾億光年の深い海の底のどこかに、黄金の太陽がまどろんでいるような。
 ───始源の、瞳。
 その瞳が、楊ゼンを見据える。
「おぬしは何もする必要はない」
 いつもの凛とした音程に加えて不可思議な響きを帯びた声が、ゆっくりと告げた。
「わしが成すことを黙って見ていること……、それが、おぬしに依頼したい唯一つの用件だ」
「──何を、ですか?」
 身動き一つせず、石柱の上に座しているだけの相手から受ける、とてつもない圧迫感に押し潰されそうになるのを全身の力で抗いながら、楊ゼンは問う。
「あなたは何をしようとなさっているのですか、太公望師叔!?」
 その声に。
 ふと、『伏羲』が淡く笑んだ。
 人間には持ち得ないその微笑のあまりの透明度に、楊ゼンの背筋に思わず寒気が走る。
 これまでに感じたこともない畏怖の念だった。
 神にも等しい存在に……かたちを構成している理(ことわり)そのものが異なる存在に対する凄まじいまでの違和感に、肌が粟立ち、全身の細胞が恐慌に陥ろうとしているのを、楊ゼンは感じる。
 だが、その言葉を聞かねばならない、という想いにすがりつくようにして、肉体と精神を抑え込み、彼の返答を待った。
「……封神台、今は神界と名を変えてはおるが……」
 そんな楊ゼンの心理をどこまで気付いているのか、あるいはすべてを見透かしているのか、『伏羲』は表情を変えることなく、静かに告げる。
「あれを、破壊する」
「……え…?」
「女禍を抹殺し、我々の因子を完全に排除するためには必要だと思って、後から加えて造った仕掛けだが、女禍の消滅後まで機能が残るように設定したのは、わしの誤りだった。しかし、幸か不幸か、こうして生き長らえたからのう。自分の手でプログラムを修正することにしたのだよ。
 だが、あれが仙界の管理下にある以上、おぬしには、そのことを一応、断っておかねばならぬと思ったからな、多忙なのを承知の上で呼び立てした」
 まるで何でもないことのように。
 路傍に生えた雑草を抜くことを断るよりも無造作に、『伏羲』は言った。
 楊ゼンは言葉も失い、その深すぎる瞳を凝視する。
 その視界を、ふと小さな白いものがかすめた。
 雪、だった。
 この冬最初の粉雪が、重く垂れ込めた灰色の雲から流れるように落ちてくる。
 冷えきった大気の中、見る見るうちに数を増してゆくそれは風の中を舞い踊り、地に落ちても溶けることなく形を保って、暗色の木々の枝や岩を白く飾ってゆく。
 ただ、冷たい渓流の上に落ちた結晶だけが次々と水面に触れては溶け、同化して遥かな海を目指して流れを下ってゆく。
 だが、それらの光景には目もくれず、二人は只、互いを見つめていた。
 一方は、驚愕を隠しもせずに凝視し。
 一方は、ただ静かに淡い笑みさえ浮かべて。
「仙界に立ち入る許可をいただけるか? 蓬莱島教主殿」
 ゆるやかに舞う風に。
 粉雪が小さな白い花のように散った────。












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