空は抜けるように濃い青をしていた。
 標高が高い分、大気は薄く澄んで、風は冷たく鋭い。複雑なシルエットを描いて林立する岩山の間を吹きぬけてゆく風の音は、どこか悲痛な物悲しい響きを帯びている。
 夕刻が近づいた今、手を伸ばせば届きそうに近い空は、透明度を増して更に冴え渡っている。  その中で、哮天犬の背上から楊ゼンが最初に認識したのは、荒削りな輪郭を見せる巨大な球形の建造物だった。
 次いで、大掛かりな工事現場の騒音、人々のざわめき。
 本来なら殺伐とした荒涼な山岳地帯に、不似合いというべき活気と熱気が満ちている。
 その様子を少々の物珍しさと、ついにこの時が来たかという何ともいえない感慨と共に見やりながら、巨大建造物の外壁に設けられた、出入り口と思(おぼ)しき開口部に降り立った楊ゼンは、哮天犬を袖に収め、話をできそうな相手を求めて歩いた。
 そうして、あちこちに立ち入り禁止のロープが張ってある内部の通路を歩くこと数分。
 この現場の総指揮者であるに違いない人物の後姿が、大型工作機や機材らしい機械類や、山のように積まれた種々の建材の向こうに見えた。
 忙しそうなら……と言うより、忙しいことは辺りの様子を見れば問うまでもなかったから、手を離せないような状況であれば声をかけずに通り過ぎるつもりだったが、どうやら向こうの方が気付いたらしい。
 図面を片手に道士に指示を出し終えた太乙真人が、ふと顔を上げ、楊ゼンを見つけると破顔して手招きした。
「ずいぶん遅かったね。太公望は午前中に帰ってきたのに」
「ええ。僕は一番最後まで朝歌に残って、全員の出発を確認してましたから」
 楊ゼンの言葉に、なるほど、と太乙真人はうなずく。
「そういえばいつもそうだよね。太公望の性格なら、自分は一番最後に出発しそうなものなのに……」
「確かに師叔はそういうところがありますけどね。それ以上に、自分自身で真っ先に状況を確認しないと納得されないんですよ。どんなに危険な場所だろうが、気にするような人ではありませんから」
「というより、危険な場所ほど自分で行きたがるからねぇ。で、結果的に毎回、副官の君が殿(しんがり)になるわけか。指揮官自ら飛び出していって、何かあったらどうするつもりなんだろうね、彼は」
 濃い色のバイザーを跳ね上げたまま首をひねる太乙真人の表情は、いつもと変わらない。
 だから、その態度の裏に含みがあるのかどうか、楊ゼンには判断がつかなかった。
 それならばと、敢えて自分からは問いかけずに別の話題を持ち出す。
「これが新しい崑崙山ですか」
「そうだよー。時間が足りないから規模は大分小さくなったけど、性能は折紙付き。居住性も大幅にアップしたからさ、期待しておくれよ」
 自慢げに腰に手を当てて胸を張る太乙真人には構わず、楊ゼンは目の前の建造現場を見上げる。
 巨大な岩山から削り出したと思われる壁は、まだ未完成らしい荒削りな風合いだが、しかし機能的なデザインであることは十分に伝わってくる。
 数千年以上も前に造られ、技術の進歩に合わせて改修を重ねていた旧崑崙山に比べると、明らかに近代的な設備を備えているのが外観からも見て取れた。
 もっとも、太乙真人の設計である以上、有用なだけではない余分な機能があれこれついているのだろうな、と内心で楊ゼンは思う。
 とはいえ、それらがすべて、本当に徹頭徹尾役立たずというものでもないということは、これまでの経験から分かっていたから、口に出しては何も云わなかった。
 と、、足元の道具箱にかがみこんで、何やらごそごそしていた太乙真人が、手のひらサイズの端末を手に体を起こす。
「ほら楊ゼン、見てごらん。これが崑崙山2の内部設計だよ」
 端末の起動スイッチを入れると、数秒のタイムラグの後、淡い青色に輝く立体映像が浮かび上がる。
 キーを操作する太乙真人の指の動きに従って、その映像は形を変えた。
「ここが現在位置で、君の部屋は二十三階左翼のここ。二十階から二十四階は幹部用のフロアだから、太公望や私の部屋も近くにあるよ。で、その上が最上階の展望室。一応、用途別に細かい部屋を幾つか仕切ってはあるけど、基本構造としてはワンフロアで、動力制御装置もここにある。
 肝心の動力炉は、下層……基準層がこの層で、それ以下の階層が便宜上の地下になるんだけど、そこに他の環境維持に必要な装置なんかと一緒に配置してあるから」
 立て板に水のような太乙真人の説明を聞きながら、楊ゼンは映し出される映像に見入る。
 それから読み取れる限りは、基本的な内部構造のレイアウトそのものは旧崑崙山とあまり変わってはおらず、規模もかなり縮小されてはいたが、確かに使い勝手は良さそうだった。
 一通りの説明を終えると、映像を閉じて太乙真人は、はいと端末を楊ゼンに渡す。
 思わず手を出して受け取ってしまった青年の顔を見て、彼は笑った。
「一応、それには一般には公開してない崑崙山2の全情報が入ってるから、失くさないようにしておくれよ。元始天尊様や太公望にも同じのを渡してあるけどね」
「はあ……」
「使い方は分かるだろう?」
「ええ」
 手のひらサイズのコンパクトな端末は太乙真人の発明品だが、扱いが難しいということはない。使い方次第によっては、かなり高度な情報処理も可能であり、楊ゼンもこれの前機種──二回りほど大きかった──なら、これまでに何度か利用したことがあった。
「それでは、ありがたくいただいておきます」
「うん」
 うなずき、バイザーを引き下ろして装着しなおしながら、
「そうそう、太公望なら多分、今は自分の部屋にいるよ」
 太乙真人は思い出したように言葉を続けた。
「少し前まで、皆と雑談してたけどね。まぁ、色々考えることもあるんだろうな」
「太乙様……」
 名を呼んだものの、それ以上どう続ければいいのか、言葉を選びかねて楊ゼンは惑う。
 確かに聞きたかったことではあるが、こんな風に先手を取られて不意打ちされてしまうと、消して軽々しく口にできる内容ではない分、余計に何と言えば良いのか分からなくなる。
「──お聞きに……なったのですか?」
「聞いた、というかねぇ」
 何をと目的語を示さない楊ゼンの言葉に、太乙真人は濃い色の端末を兼ねたバイザーをかぶったまま、首をかしげた。
「正確に言うと、ちゃんとは聞いてない、だよ。この崑崙山2も、戦争が終わるのにいつまでも周に居候しているわけにもいかないだろうなと思って設計図を引いてたところに、元始天尊様から正式に急ぎの建造命令が出たから、規模を当初の予定より縮小して、手の空いている道士を総動員して突貫工事で造ってるだけだし。
 まぁ、これでも十二仙だし、封神台の設計やら建造やらにも私はかなり深くかかわってたから、うすうす気付いてた部分もないわけじゃないけどね。まだ、何だかヤバそうだなーって程度にしか、正確な情報はもらってない」
 取り立てて感情のこもらない、あっさりとした口調で太乙真人は告げる。
 そして、バイザーを装着したままの顔を楊ゼンの方に向けた。
「太公望は明日、全員が揃ったところで詳しいことを話すつもりらしいよ」
「──そうですか」
 目の前の相手が、明らかに何も知らないわけではないという態度をとっているにもかかわらず、「君はどこまで知っているか」とも「どうするつもりなのか」とも問わない太乙真人に、楊ゼンは何とも言えないものを感じる。
 こちらの状況を正確に察して、さりげなく必要な情報を与えてくれる観察眼も、あとの判断を完全に任せる厳しさも、生半可な度量でできることではない。
 やはり、まだまだ自分は敵わないのかと、わずかな悔しさに似た気分をも味わいながら、楊ゼンは軽く一礼して謝意を示した。
「それでは、これから太公望師叔の所に行ってみます。何か伝言などはおありですか」
「いいや、何にもないよ」
 口元を笑みの形にしながら、太乙真人はひらひらと片手を振る。
「とりあえず外装が整い次第、出発するそうだからさ。せいぜいあと二、三日しか余裕はないと思うけど、君も頑張ってスーパー宝貝を探しなよ。で、見つけたあかつきには、是非私にも見せておくれね」
 その言葉に、楊ゼンはかすかに眉をしかめた。
「……見せるのは構いませんが、貴重な宝貝を分解しようとか思わないで下さいよ」
「そこまで節操なしじゃないよ。もちろん、研究はさせてもらいたいけどね。禁鞭も六魂幡も、ずっと金鰲に保管されてたから、崑崙にはデータがほとんどないんだ。
 太公望の大極図にしたって、一体どういうシステムで他の宝貝の威力を無効にするのか、使うところを見ただけじゃイマイチ分からないし……」
「ご要望はすべてが終わってから、ゆっくりお聞きしますよ。ですから、それまではスーパー宝貝には手を出さないで下さい」
「はいはい。つれない返事だけど、私も遊んでいられる状況じゃないからね。スーパー宝貝に触らせてもらうのを楽しみにして頑張るさ」
「ええ、是非そうして下さい」
 その会話を最後に、二人は分かれた。






 真新しい通路の両側に、等間隔で部屋が並んでいる。それを一つずつ確認しながら楊ゼンは歩いた。
 ほどなく上層階まで通じているエレベーターにたどり着き、二十三階まで一気に上がる。高速で上昇するエレベーターが到着を示すチャイムを鳴らすまでは、ドアが閉まってからほんの十秒程度だった。
 目的階でエレベーターを降りても、目の前の通路の内装は、別に先程の階と何ら変わらなかった。
 表示がなければ、違う階だということにも気付かないのではないかと思いながら、楊ゼンは太乙真人が端末を操作して見せてくれた映像を脳裏に思い返し、左手の方へと通路を歩く。
 そして、各部屋の入り口横に設けられた、電子ロックとインターフォンを兼ねた小さな表示画面を確かめて、足を止めた。
 部屋の主が在室中であることを示すパイロットランプを見つめ、一つ呼吸をしてから、ノック代わりの呼び鈴を押す。
 数秒の待ち時間の後、無機質なドアが軽い音を立ててスライドした。
「楊ゼン」
「遅くなりました、太公望師叔」
 来訪者を出迎えた太公望は、上衣を脱ぎ、頭の白布も外した軽装だった。
 楊ゼンが太乙真人と話し込んでいた間に、既に夕刻を過ぎている。まだ崑崙山内に人が少なくて静かなのをいいことに、彼は早々とくつろぐ体勢に入っていたらしい。
 通路に立つ補佐役の青年を見上げて、太公望は小さなねぎらいの微笑を浮かべる。
「御苦労だったな。茶もろくに出せぬが、良かったら入ってくれ」
「はい。御迷惑でなければ、お言葉に甘えます」
 全員が無事に周を出立したのか、とは太公望は訪ねなかった。
 たとえ太公望のいない場で、何か不測の事態が起きても、楊ゼンが自分の判断で最善の対処をすればそれでいい──そんな信頼関係が、いつの頃からか二人の間には自然にできあがっている。
 そのことに楊ゼンは、胸の奥がふと温かくなるような感覚を覚えた。
 が、すぐにその思いは太公望の横顔を見た途端に霧散する。
「適当に……といっても、座る場所もろくにないのう。とりあえず寝台にでも腰掛けてくれ」
「はい……」
 内鍵をロックしながらの太公望の言葉にうなずきながら、楊ゼンは不躾(ぶしつけ)にならぬ程度に室内に視線を走らせる。
 初めて見る内装は、通路と同様、無機質な機能一辺倒の印象で、さほど広い室内面積でもないのに、妙にがらんとしている。
 家具らしい家具は、寝台と事務仕事用の卓、材質はいいが装飾は簡素な箪笥、そして端末装置くらいなものだ。
 すべてが真新しすぎて、まだ部屋の主の雰囲気が馴染んでいないことが、更に無機質な印象を強めていた。
「個室は全部、こんな感じですか?」
「らしいのう。幹部の部屋も一般の同士の部屋も、基本的な造りは一緒らしい。仮の総本山だからな、別にそれでも構わぬだろうよ」
 個々の仙人の洞府や必要な施設は、状況が落ち着いてからゆっくり造ればいい、と笑った太公望は、室内を横切り、寝台に腰掛ける。
「立ち話もなんだろう。おぬしも座れ」
 穏やかに促されて、楊ゼンは素直に従う。
 確かに、これから離さなければならないことは、立ち話ですむような内容ではなかった。
 人半分ほどの距離──ほんの少し手を伸ばせば触れることのできる、だが自然にしていれば衣服も触れ合わないだけの感覚をとって、楊ゼンは太公望の隣りに腰を下ろす。
 そして、改めて太公望の顔を見つめた。
「師叔」
「何だ?」
「僕の前でまで平気な顔をしなくてもいいですよ」
「───…」
 静かな言葉にも、太公望はほとんど表情を動かさなかった。一、二度まばたきして、それからふっと唇の端に淡い笑みを浮かべる。
「──時々、おぬしはわしを困らせることを口にするのう。楊ゼン」
「困らせること……ですか?」
「うむ」
 微笑したまま太公望はうなずく。
「どんな顔をすればいいのか、分からなくなる」
「────」
 今度は楊ゼンが沈黙する番だった。
 何と言うべきか言葉を探し、少しの間だけ迷う。
「……迷惑、ですか?」
 そして迷った挙句の、否定してくれることを期待しつつも、もし本当に困らせているのなら、と窺うような問いかけに。
「わしは困る、と言っただけだよ。迷惑ならそう言う」
 太公望はあっさり笑った。
「師叔」
 だが、楊ゼンが名を呼ぶと、笑顔がふっと静まる。
「うむ……」
 残照の輝きと夕闇の陰りに彩られた夕凪のような、穏やかではあるけれど、光と影が複雑に揺らめきなが見え隠れする表情で、太公望は少しだけうつむいた。
「何から、話せば良いのかのう」
 小さく溜息をつくように呟き。
 そして、隣りに腰掛ける楊ゼンにまなざしを向ける。
「とりあえず、先におぬしの話を聞こうか。おぬしが何をどこで知ったのか、それによってわしの話の糸口も変わってくるからのう」
「───…」
「あの時……、おぬしはわしに何を話そうとしたのだ?」
 あくまでも穏やかな声と表情で、太公望は問いかける。
 あの時──牧野の戦いの直前に。
 宵闇の中で野営の炎を見つめながら、それまで一度も口にしたことのない封神計画についての疑問を投げかけたのは、何を打ち明けたかったからか、と。
「……大した事ではありません」
 決して咎める色ではない、静かな瞳を見つめ返しながら、楊ゼンは答える。
「あの時言った通り、僕は最終決戦の前に、殷周易姓革命が隠された真の目的のための布石、あるいはカモフラージュでしかないということを、あなたが御存知かどうか確認したかっただけですから。
 僕が知っていることは、真実の一端でさえない。ほんの小さなかけら程度です」
「それは?」
「──『歴史の道標』という存在を元始天尊様が異様に警戒されていること、そして、それに封神計画の真の目的を決して気付かれてはならないということ。その二点です」
「どこでそれを?」
 感情の混じらない要点のみの短い問いが、先を促して。
「仙界大戦の折に……。僕が聞仲の元へ向かうあなたに連絡を入れたことがあったでしょう? あの時、元始天尊様が側にいらっしゃったんです。そして、僕が封神計画の真の目的について質問した時に、それ以上言ってはならない、聞かれている、と……」
 楊ゼンもまた、特に感情を交えず、あくまでも淡々と真実を告げる。
 それを太公望は、表情も変えずに聞いた。
「そうか……」
 そして、小さく溜息をつく。
「そんなに長い間……。すまなかったのう、楊ゼン」
 仙界大戦が起きたのは、既に一年以上も前のことだ。それだけの期間、楊ゼンは太公望に対し、沈黙を保っていたことになる。
 だが、楊ゼンは太公望の謝罪をはっきり否定した。
「いいえ。元はといえば、僕自身の感じた疑問のためですから。あの時は……僕も平静であるとは言いがたい状態でした。ですから、元始天尊様が封神計画の目的を偽っておられるのを、分かっていて放置することはできなかったんです」
「───…」
 計画の目的が妲己を倒し、平和な人間界を造ることではないのなら、真の目的を知らされないまま、封神された人々の戦いの──生の意味は、どうなるのか。
 大儀が偽りであるかもしれないのに、ひたすら目の前の敵と全力で戦い、そして死に到ったことを誇りと思えというのか。
 それではあまりに残酷に……無残に過ぎるのではないか。
 目の前で師と父を失った楊ゼンにとって、その思いは抑えるには強烈に過ぎて。
 何としてでも問わずにはいられなかったのだ。
 元始天尊があのような態度さえ見せなければ、どんな手段を用いてでももっと徹底的に問い詰めて、真実を吐かせていただろう。
「そうだな……」
 静かな、だがいつもの潤いを失った声で太公望は呟く。
「その責めは、わしも負わねばなるまい。元始天尊さまが重大な何かを隠しておられることを分かっていながら、封神計画のために知らぬふりを続けた。わしを信じて戦ってくれるものたちのために、真実を明らかにしてやることができなかったのは、わしの罪だ」
「師叔」
「真実を問うたところで、元始天尊様は答えては下さらなかっただろう。そして、わしも真実を知ったところで、皆に打ち明けることはできなかっただろう。だが……彼らのことを思うのであれば、もう少し何とかできなかったかと思うよ」
 ゆっくりと紡がれる乾いた声は、ひどく物悲しく楊ゼンの耳に響いた。
 悔やむなとも、あなたの責任ではないとも口にはできず、楊ゼンは黙って太公望を見つめる。
 彼が封神計画の責任者であることは誰にも否定しえない事実であり、人々の死にも責任を負う立場であることは動かしようがない。
 そして、これまでに封神された人々が、真実も知らないままに命を落としたのは、偽りようのない現実なのだ。
 その重さが分かる以上、太公望が受け入れるはずもない慰めや詭弁を口にすることは、楊ゼンにはできなかった。
「師叔」
 だから、せめて……決してそれは太公望一人の咎(とが)ではないことを告げようと、口を開く。
「僕もあの時、元始天尊様に真実を問いながら、それ以上追及することはできませんでした。結果的に、自分の疑問や、父や玉鼎真人師匠の無念よりも、計画の成功を優先したんです」
「楊ゼン」
 何を言い出すのかと顔を見上げた太公望に、楊ゼンは静かな微笑を向けた。
「それに……、『歴史の道標』を警戒する元始天尊様の態度に、僕は疑念と同時に恐れを抱いたんです。あの元始天尊様が、『歴史の道標』には明らかに何らかの脅威を感じておられた。恐怖なのか畏怖なのか……、妲己や聞仲相手にも動じられることのない方なのに……」
 明らかに異常だった元始天尊の態度を思い返して、楊ゼンはまなざしを伏せる。
「責められるべきは、決してあなただけではありません。太公望師叔」
「楊ゼン……」
 そして自分に向けられた静かなまなざしに、太公望は深い色の瞳をわずかにみはってから、ゆっくりとうつむいた。
「そうかもしれぬ……」
 膝の上でゆるく指を組んだ自分の手を見下ろしながら、太公望は溜息まじりにうなずく。
「だが、決しておぬしに咎はないよ。わしが知ることを望んでいれば、おぬしは必ず真実を探り出そうとしただろう。それを止めたのは、知る必要を認めなかったわしの態度だ」
 低く、太公望は言葉を紡ぐ。
「わしも……怖かったのかもしれぬ。わしが元始天尊様に真実を問わなかったのは、封神計画のためにはその方が良いと思ったからだ。それはおそらく間違ってはいなかった。この機を逃したら、次の易姓革命まで数百年を待つことになる。そして、その時にこちらに十分な戦力が準備できるかどうかは分からない。
 だが……、知ることが怖いと少しも思わなかったと言えば、多分、嘘になる」
「───…」
「何とかして手持ちの戦力を妲己相手に戦えるレベルに持っていかねばと苦心している時に、彼女を遥かに上回る敵が待っていると言われたら、いくらわしでも途方に暮れただろうよ」
 しばらくの間、うつむき加減の太公望の横顔を見つめて。
「今なら、どうですか」
 楊ゼンは問うた。
「途方に暮れただろう……、と過去形でおっしゃったでしょう? 今はどうです?」
 かすかに優しい笑みを含んだような口調に、太公望は顔を上げる。
 そして、小さな微苦笑を瞳に滲ませた。
「だから、おぬしは困ると言っておるのだ。そうして次から次に人の心理を言い当てて……」
 性質(たち)が悪い、と軽くなじるように口を尖らせ、子供っぽい表情をした太公望に、楊ゼンもすみませんと微笑する。
 それだけの会話で、重かった雰囲気が少しだけ和らいだ。
 さすがに屈託なくとはいかなかったが、小さな笑みを零し合って、二人は本題へと話を進める態勢を整える。
 互いの体温は感じられなくとも、そこにいる、という安堵感は十分に感じられる距離で、瞳を見交わしたまま。
「元始天尊様は、どんなお話を?」
 楊ゼンはいつもと変わらない、落ち着いたよく透る声で問いかけた。
「うむ……」
 彼からまなざしを逸らさないまま、太公望も小さくうなずいて。
「想像以上に途方もない話だったよ……」
 静かに語りだした。

  

 昼間、元始天尊が語ったことを、太公望は一つ一つ丁寧に楊ゼンに告げた。
 遥かな昔、宇宙から飛来した五人の『最初の人』がいたこと。
 そのうちの四人は地球と同化することを望み、反対した『女禍』を封じた後、この星と融合して仙人や妖怪の発生する因子となったこと。
 だが、長い年月を経て魂魄のみで動く術を開発した女禍は、『歴史の道標』として自らの望む歴史を創り上げるべく動き出し、元始天尊自身もかつて、『歴史の道標』の啓示を受けて、通天教主と共に仙人界を造ったこと。
 夏王朝の末期に妲己が『歴史の道標』と手を組み、それに気付いた三大仙人は、彼女と『歴史の道標』を排除すべく極秘に封神計画を立案したこと……。
 太公望が語る間、楊ゼンは何も口を挟まなかった。ただ黙って、長い話に耳を傾けた。
「──つまり、女禍は宇宙から飛来した『最初の人』の一人であり、彼女がいる限り、この星の歴史は彼女の望む方向にしか流れないということですか」
「うむ……」
 一通りの話を聞き終えて、要約した楊ゼンの言葉に太公望はうなずいた。
「元始天尊様の話が正しいのなら、この星の歴史の脚本は既に女禍によって用意されていて、わしらは与えられた役を演じるだけの駒ということになる。元始天尊様でなくとも、そんな存在は排除したいと思うだろうよ」
 ……たとえば、誰かと出会ったことも別れたことも、すべて最初から仕組まれたことであったとしたら。
 誰かを大切に思う感情も、憎む感情も、すべて歴史を唯一つの方向に進めるための、意図された小道具であったとしたら。
 否、それ以前に、己の存在そのものは。
 はたして、何のためにこの世に生まれ出たものか。
 もとより曖昧な、それぞれが見出(みいだ)すしかないはずの人の生と死の意味は。
 どこにあるのか。
「ええ、当然でしょう」
 想像を遥かに越えた現実の空恐ろしさと、込み上げる深い憤りに拳を握り締めながら、楊ゼンは低く呟く。
「ここにいるのが自分の意思ではないかもしれないなどと……。そんなことを許せるわけがない。これまでに一体どれだけの人々が……」
 犠牲になったと思うのかと。
 人々は……、自分は己の意思で、足掻きながらもここまで生きてきたのではないのか、と。
 唇を噛んだ楊ゼンの横顔を見やり、そして太公望は再びまなざしを落とす。
 低い声が、しんと物の少ない室内に響いた。
「わしもそう思う。夏も殷も……本来なら、あの時点で滅びるべき王朝ではなかった。『歴史の道標』の意図さえなければ、もっと違った運命が待っていたはずなのだ」
 もしかしたら、それはこの現状以上に悲惨な結末であったかもしれない。
 けれど、どんな結末であれ、それは人間の力が引き起こしたものだ。高みの見物をしている人外の存在が、己の欲望を満たすために人々を操った結果ではない。
 あくまでも、この星の人類の歴史──人々が必死にもがき、生きた成果だ。
「だが……、これまでの人々の死が本来あるべき姿であったのかどうか、確かめる術はない。妲己に良いように振り回されたわしらの行動も、それが真実我々の意思だったのか、誘導されていただけなのか判別することはできぬのだ」
 歴史を操作する存在に気付かぬふりをして、真の意図を隠したまま進められた封神計画。
 終始、妲己に先手を取られたままだった長い長い戦いの間、どこまで自分たちは己の意志を貫けたのか。
 妲己の意図に抗ったつもりの行動でさえ、すべてを見透かされた予定調和であったとしたら。
 何も知らなかった自分たちは。
「まるっきり、道化だ」
 苦い声で太公望は低く言った。
「師叔……」
 歴史の変わり目にしか動かないという『歴史の道標』をおびき出すには、殷の荒廃も、周の革命も、仙界の滅亡も、すべてが必要な要素だった。
 いくつもの戦いと、数千数万の死が。
 人々の血と涙が。
 供犠(くぎ)として捧げられなければならなかった。
 ──それは、何と迂遠な陽動作戦か。
 たった一つの目的のために、本来ならば必要のない幾多の苦しみを世界に強いて。
 これは、なんという戦いか。
 なんという……計画か。
「──戦わねばならぬ」
 まなざしを上げ、宙を見据えたまま太公望は低く呟く。
「勝たねばならぬ。そうでなくては、人々は……この世界は、一体何のためにここまで……」
 声が……細い肩が、抑えきれぬ激情に震えて。
「楊ゼン」
 名を呼び、太公望はまっすぐに青年を見上げた。
 その深く澄んだ瞳が。
 灼熱にきらめいている。
「わしは『歴史の道標』と戦う」
 まるで無限の火花を封じ込めたように。
 生まれては消える銀河の星々のように。
 激しいきらめきが、深い色の瞳に渦を巻いて。
「元始天尊様に命じられたからではない。もはや世界のためにでもない。わしが『歴史の道標』を許せぬからだ」
 強い瞳が。
 強い声が。
「だが、わし一人ではどうにもならぬ。この星を解放するためには、わし一人の力では到底足らぬ。楊ゼン、おぬしたちの力がなければ……!」
 何よりも、強い想いが。
 楊ゼンの心を焼き尽くす。
「だから、女禍をこの星の歴史から排除するために、わしはおぬしたちを巻き込む。これは崇高な理想のためでも何でもない、女禍を許せぬと想う、ただのわしのエゴだ」
 そこまで言った太公望の表情が、ふっと険しさを失った。
 まっすぐに見上げる瞳が、まるで泣き出しそうに苦しげに見えて、楊ゼンは目を逸らせないまま、その真剣なまなざしを受け止める。
「負ける気はないが、かといって勝ち目がどれ程あるかは分からぬ。これ以上の犠牲を出す気もないし、出したくもない。だが、わしは戦うことを諦めることなどできぬ。ここまできて退くことなどできぬのだ!」
 深い色の瞳が揺れる。
 込み上げる激情に。
 身を引き裂く葛藤に。

「許してくれ……!」

 両手を伸ばし、楊ゼンの胸の辺りの道服を掴んで。
 悲鳴のような声が楊ゼンの胸を打つ。
「────」
 うつむいてしまった太公望のさらさらと流れる黒髪を、楊ゼンは目をみはって見つめた。
 ──初めてだった。
 これまで太公望は一度も、誰にも許しを求めたことはなかった。
 いつでもすまないと……許されないことをしてしまったと謝罪を繰り返すばかりで。
 許してくれとは決して口にしない人だった。
 なのに。
「師叔……」
 震えている小さな肩をそっと抱くように、腕をさしのべて。
「──許します」
 静かに楊ゼンは告げた。
 ぴく、と肩が揺れて、太公望はゆっくりと顔を上げる。
 葛藤を滲ませ、揺らぐ深い色の瞳を見つめながら、楊ゼンは真摯な声を紡いだ。
「間違えないで下さい。僕たちは決して『歴史の道標』と戦うことを厭いはしません。女禍を許せないと思う気持ちは皆、同じでしょう。たとえ勝ち目が薄かろうと、そんなことは何の問題にもなりません。妲己にだって最初のころは勝てる見込みは薄かった。それでも、誰も怖気づいたりはしなかったでしょう?」
 それはもう最初から決めていることだから、罪と感じなくてもいい、と告げて。
「僕が言うのは、そういう一つ一つのことではなく、この先何があっても……。たとえ、あなたが僕の命を奪うようなことになっても、僕はあなたを許すということです」
 まっすぐに楊ゼンは太公望を見つめる。
「あなたのすべてを……過去も未来も、すべてを僕は許します」
 深い静謐に満ちた声に、太公望の顔にゆっくりと驚愕が広がる。
 そして。
 浮かんだ時と同様に、ゆっくりと驚愕の色は消えてゆき、代わりにひどく無垢な表情が生まれた。
「────」
 怒りも悲しみも。
 喜びも。
 まるですべての感情が美しく昇華したような、何物にも染まらない、無防備なまでに真摯な、透明な瞳で。
「──信じる」
 間近にある楊ゼンの瞳を見つめたまま、太公望はひそやかに告げる。
「おぬしを信じる。だから……」
 そこまで言って、太公望の瞳が迷った。
 ──口にしてもいいのか。
 ──口にする資格があるのか。
 迷い、けれどまなざしを逸らすことはなく。
 見つめる楊ゼンの瞳に促されるように、ためらいながらも、薄い唇が動く。
「おぬしは……死ぬな」
 これまで決して口に出したことのない、真摯な願いが。
「おぬしは、死んではならぬ」
 消え入りそうな声で紡がれる。
 太公望の頬に、そっと楊ゼンは指先を触れた。
「──約束します」
 わずかに触れ合った肌が、互いの温もりを伝え合って。
「あなたが僕を信じて下さる限り、僕は決して死なない。あなたの傍から離れることはありません」
 ──その静かな誓いの言葉が。
 目に見えぬ糸のように互いを絡め取ってゆく。
 心の底からの祈りが。
 切ないまでの願いが。
 淡くきらめきながら互いの心を優しく、けれど、ほどけることのない強さで束縛する。
 昨日までの記憶も。
 明日からの未来も。
 すべてが泣きたいほどに優しい約束へと紡がれて。
 ゆっくりとどちらともなく瞳を閉じ、二人はそっと唇を重ねる。
 触れ合い、互いの存在を確かめて。
「───…」
 もう一度、太公望は楊ゼンの瞳を見つめた。
 紫を底に秘めた青い瞳は、決して逸らされることがない。そのことを、ふと太公望は不思議に思う。
 一体いつの間に、彼はこんな傍にいるようになったのか、と。
 こんな当たり前のように、真摯な瞳を向き合えるようになったのは、いつの頃からか。
 ──出合った時は、互いに好印象を持たなかった。
 己が優れていると信じて疑わず、興味を満たすためには弱者の苦境をも只の道具とみなす彼の傲慢と不遜に、ひどく怒りを覚えた。
 最後には彼の方が頭を下げて、その場は和解したが、けれど、やはり力や技では己の方が優れているという無言の自信は、その時も次に再会した時も変わってはいなかった。
 けれど、それでいいと思ったのだ。
 他者と優劣を競うことなどに興味はなかったから。妲己にいかに勝つか、いかに人間界に平和を築くか。それだけが自分の行動原理だったから、彼がこちらをどう評価しているのであれ、協力してくれるのなら、それで十分だと。
 彼が本当は人ではないかもしれないという可能性にも気付いてはいたが、それさえも構わないと思っていた。
 それが、いつの間にか。
 彼が表面だけではなく、全面的に──本心から尽くしてくれているのではないかと思えるようになって。
 最初は驚いた。
 彼のような強い矜持を持った人物が……、ましてや本性が人ではないかもしれない彼が、封神計画に協力する程度の妥協ならともかく、まさか自分に心服してくれるなどとは思っていなかったから。
 けれど、時には厳しい言葉も、渋々ながらもこちらの不条理な強情を見逃してくれる態度も、明らかに嘘偽りのない彼の心情をあらわしていて。
 忘れもしない、趙公明の部下であった狂科学者の呂岳と初めて戦った折。
 楊ゼンの瞳が、本当にまっすぐに……こちらの力量を測ろうとしているのではなく、自分に向けられていることに気付いた時に感じたのは、不思議な感動だった。
 命令されたからではなく、彼自身の意思で自分の補佐役になろうとしてくれている───。
 そのことを理解した時、喜びとも驚愕ともつかない感覚が、ゆっくりと全身に染み渡っていった。
 それは、他の誰に対しても感じたことのない、静かな嬉しさだった。
 楊ゼンが自分の何を認めてくれたのかは分からない。
 過大評価をしているのではないかと思うことがないわけでもない。
 けれど、軍師の仮面の裏で、時には揺らぎ、迷い、己の感情に囚われそうになる卑小な自分を支えてくれたのは、間違いなく彼だった。
 彼とて出自の秘密を抱え、絶大な葛藤に苦しんでいただろうに、あの仙界大戦の折でさえ、こちらに対する態度は一度たりとも揺らがなかったのだ。
 優しすぎて……、向けられる想いが綺麗すぎて辛いと感じるほどに、いつでも真摯で。
 慰めや救いを厭い、拒絶してきたはずの自分が思わず受け取ってしまうような、細心の気遣いをされた優しさは、切ないほどに温かくて。
 その存在にどれほど救われてきたか分からない。
 どれほど大切に……かけがえないと思っているか。
 言葉でなど言い尽くせない。
「楊ゼン」
 見上げた綺麗な色の瞳に優しい光が浮かび、温かな唇がそっと額に触れる。
 目元に、こめかみに、頬に落とされる幾つもの優しい口接けを目を閉じて受け止めて。
 唇をついばむようにしては離れる甘やかな感覚に、太公望は青年の広い背中にそっと腕を回す。
 抱きしめるというほどの強さではない。けれど手のひらに確かな楊ゼンの温もりを感じて。
「師叔……」
 名を呼ぶ声と、少しずつ深くなってゆく口接けを受け止め応える。
 激しさも性急さもなく、ただ互いの温もりを……存在を優しい触れ合いで確かめる。
「───…」
 もう言葉は何も必要なかった。
 寄り添った温もりと、見交わす瞳と、優しい口接けと。
 それだけを伝達手段にして、二人はもう揺らぐことのない互いの心を感じ合う。
 悲しみも喜びも。
 辛い記憶も愛しい記憶も。
 すべてが無言のうちにほどけ、やさしく開放されてゆく。
 ひそやかに寄り添い口接けて、互いの温もりを確かめ、時間さえも止まったような、切ないまでの安らぎに包まれて。
 それぞれの心に長い長い年月に降り積もった孤独が音もなく溶け、消えてゆくのを、二人は静かに見つめていた。

  

「───ん…」
 ぼんやりと太公望は目を開けた。
 心地好い温もりに身を浸したまま、二、三度まばたきを繰り返すと霞んでいた視界がくっきりとしてくる。
 そして、一番最初に見えたものが、自分を見つめる優しいまなざしであったことに、太公望はもう驚かなかった。
 目覚めの挨拶代わりに、温かな指先で髪を梳かれて、その心地好さに淡く微笑んで目を閉じる。
「──すごく良く眠った気がする」
「眠っていらっしゃったのは、ほんの一刻くらいの間ですが……。もうすぐ夜が明けますよ」
「うむ」
 うなずいて太公望は目を開け、くつろいだ姿勢で寝台に座る楊ゼンの胸に寄りかかっていた身体を起こした。
 そして、改めて青年を見つめる。
「───…」
 昨夜のことを……眠りの中でも感じていた心地好い温もりまで、何一つ己と彼の言動を忘れてはいなかったが、それらを醜態とは感じなかった。
 本心からの言葉をさらけ出した記憶も、ただ寄り添い、時折思い出したように口接けを繰り返した記憶も、安らぎにまどろむような優しさにくるまれていて、思い返しても心に何の苦しみももたらさない。
 そのことに、失われた人々に対するほんの少しの申し訳なさと、それを遥かに上回る温かさを感じて、太公望はかすかに瞳を笑ませた。
「そろそろスーパー宝貝を探しに行くか?」
「そうですね」
 楊ゼンもまた、昨夜のことについては何も言わなかった。
 ただ微笑して、太公望の癖のない髪に手をのばす。
「禁鞭は良いとして、もう一つの六魂幡はどんな宝貝なのか、おぬしは知っておるのか?」
 肩を引き寄せられ、やわらかく髪を撫でる指の動きをごく自然に受け止めながら、太公望は問いかける。
「ええ。実際に父があれを使うところを見たことはありませんけどね。どんなものかは大体分かってます」
「ほう」
 好奇心に大きな瞳をきらめかせる太公望に、楊ゼンは穏やかな笑みを向けた。
「でも、まだどんな能力を持っているかは内緒です」
「どうしてだ?」
「六魂幡に関する僕の知識は、曖昧なものですから。何せ、あれに触れたのはもう随分と昔のことですからね。この手で使いこなすまでは、確かなことは言えません」
「この完璧主義者め」
 揶揄まじりに軽く彼を睨んで、太公望は笑った。
「まぁそう言うことなら、おぬしが報告してくれるのを楽しみに待っておるよ。スーパー宝貝は気難しくて、なかなか手懐けられてはくれぬが、おぬしなら、わしのように使いこなすのに半年もかかったりはするまい」
「師叔が大極図の習得に時間がかかったのは、あれが特殊な宝貝だったからでしょう? 六魂幡は大極図と違って、威力は桁違いでも通常攻撃目的の宝貝ですからね」
 あなたが別段、能力不足だったというわけではないだろうと言う楊ゼンに、太公望は肩をすくめるようにしてうなずく。
「まぁのう。打神鞭の形がちょっと変わっただけに見えて、使い方は全然違ったからのう。それこそ普通なら上流から下流に流れる川の水を、河口から源流に逆行させるような感じというか、地上から空に向かって雨を降らせる感じというか……」
 通常とはまるで異なる力の使い方を何と説明すればよいかと、太公望は首をかしげる。
「とにかく手懐けるのに一ヵ月、コツを掴むのに二ヵ月、あとはその妙な力の使い方に少しでも慣れるのに三ヵ月……」
「で、その前の太上老君様の説得期間も合わせて、合計九ヵ月になったと」
 揶揄を含んだ楊ゼンの言葉に、太公望は決まり悪げに首をすくめた。
「だから、おぬしに面倒をかけたのは悪かったと思っておるよ。本当は、もう少し訓練を積んで大極図に慣れたかったのだがな。ただでさえスーパー宝貝は消耗するのに、力の使い方が慣れぬものだから余計に疲れるし……」
「ちっとも悪かったと思ってないじゃないですか」
「そんなことはないぞ。老子に夢の中から叩き出された後、九ヵ月も経ったとスープーに聞いて、おぬしに怒られると思って慌てて……」
 そもそも出発そのものが、まるで夜逃げのようだったし、と小さな声で付け足す太公望に、楊ゼンはくすりと笑う。
「今だから言いますけど……」
 そして、少し真剣な言葉で責め言葉を口にした。
「本当は結構ショックだったんですよ。あなたが置き手紙一枚残して、出て行ってしまったと知った時は……」
「だから……!」
 弁解しようとして、太公望は自分を見つめる楊ゼンの笑みに気付く。
 からかわれたことを悟り、途端にむくれた表情になった太公望を見て、楊ゼンは破顔した。
「まったくおぬしという奴は……」
「すみません」
 笑いながら、楊ゼンは宥めるように不機嫌な顔になった太公望を抱き寄せる。
「そもそも、わしがあんな風に出発する羽目になったのは、おぬしが原因だろうが」
「それは分かってますよ。だから僕も反省しましたし、あなたが帰って来て下さった時は、本当に嬉しかったんです」
「────」
「すぐにスーパー宝貝を二つとも見つけて、あなたのところに戻ってきますから」
 許してくれませんかとささやいた楊ゼンに、気恥ずかしさと少々馬鹿らしくなった気分を溜息に変えて、太公望は肩の力を抜いた。
「──おぬしがスーパー宝貝を見つけるまで、のんびり待ってなどおらぬからな」
「ええ」
 間近にある瞳を見交わして。
 楊ゼンの甘やかなまなざしに太公望は目を閉じ、軽く触れるだけの口接けを受け止める。
 そして楊ゼンは、目を開けた太公望を見つめて微笑した。
「それじゃ、僕はそろそろ行きます」
「うむ」
 手を離して立ち上がった楊ゼンにうなずきながらも、太公望は自分も寝台の足元に脱いであった靴を履く。
「最上階まで一緒に行くよ。何となく空が見たい気分なのだ」
「……はい」
 揶揄するでもなくやわらかく微笑んで、楊ゼンは太公望が立ち上がるのを待ち、そして二人は、連れ立って部屋を出た。




 朝と呼ぶにはいささか早い時刻の廊下は、しんと静まり返っている。
 元始天尊や竜吉公主の私室は階が違うし、太乙真人は外装工事の現場につきっきり、道行天尊は父親に合いに行った蝉玉に土行孫ともども引きずられていったから、おそらく今、この階には自分たちしか居ないのだろうと思いながら、二人はエレベーターまでの通路を言葉を交わすでもなく歩く。
 そして、昨夕、楊ゼンが使用した時のまま停止していたらしいエレベーターに乗り込んで、最上階のボタンを押した。
「これなら階段でも良さそうですけどね」
「ま、あるものは使った方が楽で良いよ」
 そう言って太公望が笑う間もなく、エレベーターは最上階に到着する。
 軽やかなチャイムと共にドアが開いた途端、風が吹き込んできて、昨夜から上着を脱いだままの太公望は思わず身をすくめた。
「さすがに朝早いと寒いのう」
「ここは標高が高いですからね。日中でも気温はそれほど上がりませんよ」
 最上階は小部屋が幾つか造ってあるものの、基本的にはワンフロアで、しかも壁は等間隔で幅広の柱が残してあるだけの吹きさらしである。
 実に景気良く風が吹き抜けていくその構造は、風通しがいいというレベルではなかった。
「本格的に動力炉を稼動したら、シールドが展開して外気を遮断すると言っておったが……」
「それはそうでしょう。高速飛行するのに風が入ってきたら、人も備品も全部吹き飛んでしまいますよ。旧崑崙山だって、移動する時にはシールドを展開したじゃないですか」
「まぁのう。太乙はピントがボケとるが、そういう抜かりはないからな。多分大丈夫だろう」
「そんな言われ方をしたら、太乙さまが拗ねますよ」
「おぬしこそ、普段ろくな言い方をしとらぬくせに」
 他愛のない言い合いをしながら、楊ゼンと太公望は最上階の東の端へと歩いていく。
 ほどなく前方の空間一面に、眠りからいまだ覚めやらぬ浅い青に霞んだ空と、朱紅に輝く雲が広がった。
 ちょうど正面の雲間から、薄紅を帯びた朱金の太陽が姿を現し始めている。
「夜明けだのう……」
 端まで歩み寄り、雄大な朝の風景を見つめる太公望の隣りで、楊ゼンは道服の袖から哮天犬を出した。
 真っ白な毛並みの大型犬は、主人に向かって嬉しそうにふさふさの尻尾を振る。その頭を軽く撫でて、楊ゼンは太公望に顔を向けた。
 そのまなざしを受け止めて、太公望も小さく微笑む。
「スーパー宝貝はとかく気難しくて、使い手を選ぶ。おぬしなら大丈夫だろうが、あまり無理をして大事の前に消耗してはならぬぞ」
「ええ。その辺りはちゃんと心得てますよ」
 答えながら楊ゼンは上体をかがめ、軽く太公望の唇に口接ける。
「僕を信じて、待っていて下さい」
 瞳を覗き込むように甘やかに響く声でささやかれて。
「うむ」
 くすりと太公望は微笑い、うなずいた。
 そしてもう一度、少しだけ深い口接けを交わして、楊ゼンは太公望から離れ、哮天犬の背に乗る。
「では行ってきます、太公望師叔」
「出発に間に合わぬようなら連絡をよこすのだぞ」
「はい」
 その会話を最後に、またたく間に飛び去ってゆく哮天犬を見送り。
「───…」
 正面の朝日にまなざしを戻した時。
 既に、その表情からは楊ゼンに向けたやわらかな微笑は消えていた。
「何故……」
 わずかに眉をひそめて、薄紅を帯びた朱金に燃える太陽を見つめ、太公望は胸の辺りを手で抑える。
 ──衝撃の真実を知らされてから一晩が経ち、あれほど波立った心も嘘のように鎮まっていたはずなのに。
 何故か今、まばゆい朝日に突然、胸の奥底がざわめき始めている。
 否。
 昨日の動揺は確かに過ぎ去っている。
 『歴史の道標』のことを考えても、この先の戦いのことを考えても、心は決して波立たない。
 むしろ、不思議な自信が静かに心の中にたゆたっている。
 なのに。
 この落ち着かない感覚は。
 何か。
「不安なのか……?」
 それとも。
 ──予感?
 不快感とは少し違う。
 ざわざわ、ざわざわと。
 何かが遠いさざなみのように寄せてくる。
「楊ゼン……」
 表現しようのない感覚に左手でぎゅっと心臓の上の衣服を掴み、太公望はたった今飛び去って行ったばかりの青年の名を呼ぶ。
「楊ゼン」
 得体の知れない微かなざわめきは、静まらない。
 けれど、ほんの少しだけ、心が落ち着くような気がして。
 太公望は青年の名を繰り返す。
「───…」
 そして一つ深呼吸して胸から手を離し、まっすぐに太陽を見据える。
「──大丈夫。何があろうと負けはせぬ」
 昨夜の約束も温もりも、決して嘘偽りにはならないと、自分に言い聞かせるように呟いて。
 そのまま、世界が眩しい朝の光に包まれるまで、太公望は肌寒い風の中に立ちつくしていた。





continued on 2...








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opening text by 「両手いっぱい」 鈴木祥子