「よう、ここにいたのか」
声をかけられて、天化は顔を上げた。当然、近づいてくる気配には気付いていたから、無様に驚くこともない。
「……王サマ」
「弟はどうした?」
「宝貝人間と遊んでるさ」
「またか。本当に懐いてるな。一緒にいて何が面白いんだか」
そう首をかしげて、武王・姫発は天化の隣りに腰を下ろした。煙草をくわえたまま、天化はその横顔を見る。
「──迷惑か?」
その視線に、姫発はちらりと視線を流した。
だが、口元にも彼らしい愛嬌のある笑みが浮かんでいて、内心、拒絶されるとは思っていないことが見て取れる。
「そんなことねぇけど……。こんなとこに来てていいさ?」
「敵が来たら、お前が守ってくれんだろ?」
まさか見捨てて逃げはしないだろうと、姫発は笑った。その様子に天化は肩をすくめる。
「王サマは能天気さね」
「国王が辛気(しんき)臭かったら、国全体が暗くなっちまうだろうがよ」
そう言って、姫発はやや遠目に周の兵士たちを眺める。
現在、周軍は昼の休憩時間だった。
既に豊邑を出立してから、一ヵ月半が過ぎようとしている。今のところ行軍は順調で、つい先日、周と殷の国境であるレ水関を抜けたばかりだった。
「それにしても、太公望が居ないとなんか静かだよなー」
ざわざわと動いている兵士たちを見つめながら、軍人から少し離れた木陰で姫発は天化に語りかける。
「師叔は存在感があるさ。身体はちっこいけど」
「ああ。あいつも不思議なやつだよな。楊ゼンも軍師代理でよくやっててくれるけど、やっぱりどっか違うんだよ、兵士の雰囲気が」
「そうさね。確かに楊ゼンさんは強いし、頭も切れるけど……」
「結局、太公望でなきゃダメなんだよなぁ」
そう言って、姫発は軽く溜息をつく
そして、天化を見やった。
「でもよ、天化」
「ん?」
「お前さぁ、太公望がいなくなってほっとしてねぇか?」
一瞬、煙草を持った天化の手が止まる。ゆっくりと、表情を消した顔で天化は姫発の方を見た。
姫発は、その視線を正面から受け止める。
「太公望がいなくなってから、お前、いっつもこんな風に人の来ない所にいるだろ。西岐城でもそうだった。いつも一人で、何か考え込んでる。太公望がいた間は、そんな事してなかったのによ」
まっすぐな揺るぎない瞳を向けられて、天化はふいと視線を逸らした。そうして、ゆっくりと火の付いた煙草を口にくわえる。
「……王サマは妙なとこで鋭いさ」
どこか感情を置き忘れた低い声で、天化は言った。
「そうさ。師叔がいなくて、俺っちはほっとしてる。その通りさ」
ゆっくりと二人の目の前を白い煙が流れる。それに木漏れ日が反射して、陽光の軌跡がゆらゆらと揺れた。
どこか遠くを見るような、それでいて深く物思いに沈んでゆくような瞳で、天化は言葉を紡ぐ。
「……十二仙が死んで、親父が死んで。師叔がすっげえ傷ついてるのは知ってるさ。けど、師叔は絶対それを出さねぇから。いつもと変わらない師叔見てると、あの時、何とかならなかったのかって思っちまう。俺っちはそういう自分が嫌さ。だから、師叔がいないのは嬉しいさ」
自嘲気味に天化は呟いた。
初めて聞く類(たぐ)いの天化の声に、姫発はちらりと深い影をその鋭い瞳に走らせる。
だが、出した声は普段と変わらないものだった。
「太公望はいつもニョホホ〜ンとしてるからなぁ。旅に出たいっつった時に見せた目がなかったら、俺だって、あいつは何にも傷ついてなくて平気なんだと思っちまったかもしれねぇ」
「師叔はそういう人さ」
天化の低い声は、いくつもの微妙な感情を含んでいた。
悲しみを見せようとしない太公望への思い。
大事な人を失った自分の思い。
そして今、それを言い当ててくる姫発への思い。
それらが交じり合って、複雑な陰影を形作っていた。
「でも……本当に師叔は悲しんでるさ。カバっちが言ってたけど……仙界大戦が終わった時、スースは少し一人になりたいって、どっかにいっちまったんだけど、その時、師叔は泣いてたってさ」
「太公望がぁ!?」
思いがけない言葉に、姫発は頓狂な声を上げる。
だが、太公望の人物像と涙とをつなげるのは、確かに難しかった。
どんな時も──たとえば、姫発の父親である姫昌が亡くなった時も、自らの左腕を失いながら殷の王太子を倒したときも、太公望は 毅然として前だけを見つめていたのだから。
どんなに辛いことがあっても、太公望は泣かない───。
そんなイメージが彼にはあった。
だが、天化は低く言葉を続ける。
「膝抱えて、背中丸めて……。声を殺して泣いて立って。カバっちも何も言えなかったってさ」
「そっか……」
今一つ想像の及ばない光景だったが、旅に出る前、「これ以上味方を失うわけにはいかぬ」と言った太公望の瞳を思い出し、何となく分かるような気もして姫発は深く息をついた。
その隣りで、天化は地面に視線を落とす。
「──分かってるさ。師叔は十二仙と仲良かったし、親父のことも信頼してた。親友の普賢真人サマまで失くしたさ。だけど……!!」
初めて、天化の声が激情をはらんだ。
父親と、師匠。
天化が仙界大戦で失ったもの。
もちろん、仙人界の関係者全員が、仙界大戦では何らかの形で自分に関わる人を失っている。
そして、その中でも最も多くの友人知人を失ったのは、間違いなく太公望だ。崑崙山の中枢に位置していた分、十二仙を始め、多くの仙道と親交があったのだから。
いや、それ以前でも、太公望は多くの自分に関わった人々を亡くしている。自分の村を殷の軍隊に襲われた十二歳の時から、太公望は妲己のために大切な人を失い続けている。
だが、それを知っていても。
かつて母親と叔母を謀殺され、今度は父親と師匠が戦死して。
平気でいられるわけがなかった。
しかも、今回は同じ場所にいたのだ。なのに、再会もせぬうちに師匠は戦死し、父親が斃れるのも、ただ見つめているしかなかった。
──何のために、これまで修行を積んできたのか。
──何のために戦ってきたのか。
どこにも向けることのできない激情が、胸の内を灼く。悔しさが、悲しさが紅い火炎となって、心の中で渦を巻く。
───どうして。
繰り返す言葉は、ただ一つ。
どうして……、と。
「天化」
ギリ…と唇を噛み締める天化を見つめ、姫発は低く言った。
「その気持ち、分かるって言ったら……怒るか?」
「え……」
思いがけない言葉に、天化は顔を上げる。ひどく真剣な面差しで姫発は天化を見ていた。
もともと父親の姫昌に良く似た鋭い顔立ちをしている姫発は、普段の闊達な表情が消えると、ずいぶん厳しい雰囲気になる。
極たまにしか目にしない姫発の素顔に、天化は軽く目をみはった。
「伯邑孝兄貴が殺されたって聞いた時の俺の気持ちと、今のお前の気持ちは多分、同じだ」
男っぽい姫発の声が、低く木漏れ日の中に消えてゆく。
「七歳年上だった兄貴は、ちっちゃい頃から何でもできて、優しくて、俺のヒーローだった。完璧な兄貴にコンプレックスもあったけど、でも俺は世界中で一番、兄貴が好きで尊敬してた」
「王サマ……」
「なのに……たった二十六歳で、妲己に殺されちまった。ひっでえやり方で……!!」
姫発の声が熱をはらむ。
「そのせいで、親父も寿命を縮めたようなもんだ。どうして、朝歌に行くって言うのをもっと止めなかったのか……! 兄貴を柱にくくりつけてでも行かせなきゃよかったって、今でも悔しくて悔しくて、眠れなくなる……!!」
唇を噛んで、姫発は目を閉じた。
そんな姫発の横顔を、天化は言葉もなく見つめる。
──何でもできて、優しくて、俺のヒーローだった。
──一番好きで、尊敬してた。
そういう存在を天化も知っている。
そんな大切な人を、失くしてしまった悔しさや悲しさも。
こんな耐え難い、同じ痛みを知っている人間が、こんな近くにいたなんて。
その事に、今まで気付かなかったなんて。
思いもよらなかった驚愕が、天化から言葉を失わせた。
「天化」
やがて、ゆっくりと目を開け、姫発は天化を見つめた。
鋭い漆黒の瞳が、暗い陰影を底に沈めて強く光る。
「一人で考え込んでるなよ。俺は全部は分かってやれねえけど、お前の一番辛くて悲しい部分は、分かってやれるからさ。一緒に悲しんでやるから、こんな風に一人でいるんじゃねえよ」
「王サマ……」
天化の大きくみはった瞳に浮かぶ光が、姫発の言葉にゆっくりと激しさをひそめてゆく。
まだ少年の面影を残した青年の顔に、深い陰りが……やるせない悲しみが浮かぶ。
そして、これまで太公望にも弟にも、誰にも決して見せなかった顔で、天化はうつむいた。
「……師父も親父も、後悔なんかしてねぇと思うさ。二人とも、いつでもすっげえ潔かったし、やるべきことをやったって満足してると思う。でも……」
ゆっくりと低く天化は言葉を紡いだ。
「でも……そんなこと関係なくって、俺っちは二人がもういないのが……何もできなかったことが辛いさ」
そう呟くように行った天化の頭を、姫発は無言で手を伸ばし、自分の方に引き寄せる。
言葉は何もなかった。
決して癒えることのない悲しみと悔しさを、ただ二人は分かち合う。
言葉など必要なかった。
吹き渡る乾いた風が、二人の頭上の梢を揺らし、さやさやと葉ずれの音がかすかに響く。
兵士たちのざわめきが遠く風に乗って流れてくる。
それ以外に物音は、何も聞こえない。
天化の頭を抱き寄せたまま、姫発は幹に背を預けて、頭上で揺れる木漏れ日を目で追っていた。
陽光に透けた葉の色は鮮やかな翠で、雲一つない青空と好対照を成している。
それを見上げながら、どうしてこんな気分の時はいつも、一生忘れられないほど風景が綺麗に見えるのだろう…、と姫発は思った。
辛い時ほど、空は高く、どこまでも青い。
大切な人を失くした時は、いつでも……。
きっと、今は誰の目にも空は青く、泣きたくなるほど綺麗に見えるのだろう。
まだ、戦いも悲しみも終わらない。
何一つ、終わってはいない。
一日でも早く終わらせたいと、姫発は祈るように思った。
……やがて、ゆっくりと天化は姫発の肩から顔を上げた。姫発の腕も、それを引き止めないまま下ろされる。
そうして天化は、いくらか明るさの戻った瞳で姫発を見上げた。
「ありがとう、王サマ。俺っち、少し楽になったさ」
「そっか」
そんな天化の顔を見つめ、姫発も瞳を和らげて彼らしい笑みを浮かべた。そしてそのまま、ざわめいている兵士たちに視線を向ける。
兵士を眺める姫発の横顔が、闊達で自信に満ちた周の国王のものに変わるのを、天化はどこか不思議な気持ちで見つめた。
数年前に出会った頃と、陽気で友誼に厚い姫発の本質は何も変わらないのに、そこにいるのは確かに『武王』と呼ばれる彼だった。
「天化、俺も太公望のニョホホンとして、何があっても平気そうな顔してるのにムカついたことあるけど、あいつのことは本当にすげえと思ってる。お前も本当はそうなんだろ?」
問われて、天化は素直にうなずく。
「ああ、俺っちも師叔のことは尊敬してるさ」
その返事に、姫発はニッと笑った。
「なら、頑張ろうぜ。太公望は、これまでに十分すぎるくらい傷ついてるんだ。あいつをこれ以上悲しませるようなこと、俺はしたくねえし、誰にもして欲しくねえよ」
闊達だが、どこか本気の感じられる姫発の声に、天化はまばたきする。そして、首をかしげた。
「……王サマは、師叔のことが好きさ?」
「まぁな」
もしかしたら、という感じで尋ねた天化に、あっさりと姫発は肯定する。照れる様子もない。
「へぇ……。そりゃまた物好きな……」
なので、つい天化も本音を漏らしてしまった。
「物好きで悪かったな」
天化の言葉に姫発はじろりと睨んだが、むしろ不貞腐れているように見える。
その様子に、なるほど、と天化は思った。
「王サマは分かってるんさね。師叔が一筋縄じゃいかない人だってこと」
「………まぁな」
「それどころか、本人だけじゃなくてライバルも相当、手強(てごわ)いさね?」
「だーかーらー、言うなって。滅入るだろ?」
その不貞腐れたような、すねたような姫発の様子に、天化は笑った。
「そんな弱気じゃ師叔は落とせないさ、王サマ」
「うるせぇよ」
今度こそ本当にすねた表情になった姫発に、天化は声を上げて笑う。楽しそうな笑い声に、ますます姫発は嫌そうな顔になった。
笑いながら、久しぶりだ、と天化は思う。
前にこんな風に笑ったのがいつだったのか、思い出せない。それどころか、もう笑えないと思っていた。
誰よりも大切な人を、失くしてしまったから。
でも、またこうして笑えた。
──生きてる。
笑いをおさめながら、天化は思う。
──俺っちは、まだ生きてる。まだ、何でもできる。
だから、これからも走り続けよう。
何もかも、すべてを託して逝った大切なあの人のために。
「天化……?」
「何でもねぇさ、王サマ。砂埃が入っただけ」
目じりに浮かんだ涙を、こすって天化はごまかす。
そんな天化を、姫発は同じ痛みを知るものの瞳で見つめた。が、口に出しては何も言わなかった。
「──そろそろ戻ろうぜ。時間だ」
代わりに、こう言って立ち上がる。
「ああ」
天化も応じて立ち上がり、服についた砂を払った。
そうして二人は、軍陣に向かって歩き出す。
「なぁ、王サマ」
「ん?」
歩きながら話しかけられて、姫発は半歩後ろの天化を振り返った。そんな姫発に、天化は強い光を帯びた瞳を向ける。
「絶対、この戦争は俺たちが勝つさ。妲己を倒して、平和な世界を造る。俺っちたちみたいな思いをする奴が、もう二度と出ないように」
その言葉に姫発は真顔になったが、すぐにふっと笑った。
「当然だ。絶対に負けやしねぇよ」
「ああ」
強く天化もうなずき返す。
そして眩しい陽射しの中、乾いた大地に影を刻みながら、二人は確かな足取りで自分たちのあるべき場所へ歩いてゆく。
朝歌への道程(みちのり)はまだ遥かに遠く、道はどこまでも白く続いていた。
end
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opening text by 「good-by friend」 松任谷由美