初めまして、と言って笑顔を浮かべていたのは、自分とほとんど同じ年頃、同じような背格好の小柄な少年だった。
まだ、崑崙山の元始天尊さまに弟子入りして、半年も経っていなかった頃。
その少年も、元始天尊さまの直弟子になるのだと紹介された。
君と同期になるんだよ、と。
「初めまして。呂望です」
自己紹介すると、何故か少年は、ますます嬉しそうな笑顔になった。
その笑顔が眩しくて、少し辛かった。
まだ自分は、一族を殺された記憶が生々しくて、こんな風に笑えなかったから。
屈託なく笑える少年が、少し羨ましかった。
けれど、少年とは直ぐに仲良く話をするようになった。
他の元始天尊さまの直弟子は、既にみんな仙人の資格を取っていて、道士は自分たち二人と白鶴童子だけだったから、それは当たり前のこと。
修行も休憩も、いつも一緒なのだから。
そんなある日の休憩時間、少年は驚くようなことを言った。
出会ってから半年ほどが過ぎていた。
「僕はね、両親の顔を知らないんだよ」
まさか、と思った。
屈託のない少年の笑顔は、かつての自分のように、家族に可愛がられていた為のものだろうと思っていたから。
けれど、彼は静かに言葉を続けた。
「父も母も、僕がまだほんの赤ん坊のうちに死んで……ちょっと事情があったらしいんだけどね。遠縁の叔母さんが引き取ってくれたんだ。叔母さんも叔父さんも、その子供のお兄さんたちも、みんな良い人だったよ」
遠い記憶を語るように、少年は言った。
ほんの数ヶ月前まで一緒に暮らしていたはずの人たちのことを。
その遠いまなざしをみて、そうか……と思った。
少年がいつも屈託のない笑顔をしているのは、義理の家族の中で暮らしていたから。
きっと、優しい人たちに心配をかけることはできず、いつでも楽しそうに、穏やかに振舞っていたのだろう。
それでも、こんなまなざしをするのは、事情のある死に方をした夫婦の子供を引き取ってくれた人たちの優しさに、負い目を感じることがあったからではないかと、そう思った。
そんな自分の思いに気付いたのか、こちらを見て少年は笑顔を見せ、
「僕は幸せだったんだよ、本当に」
はっきりと、そう言った。
「……でもね、今の方が楽しいのも本当」
ついで、少しだけ寂しげに。
でも、寂しい表情は一瞬だけで、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「ここには、望ちゃんもいるしね」
少年は出会ってすぐから、自分のことを「望ちゃん」と呼ぶようになっていた。そんな呼び方をされるのは初めてだったけれど、優しい声でそう呼ばれるのは嫌いではなかった。
だから、
「……僕も、君が来てから楽しくなったよ。ここで、こんな風に話せるのは、白鶴しかいなかったから」
そう言ったら、彼は本当に嬉しそうな顔になった。
そんな表情をされるのはくすぐったくて、でも何か嬉しい気持ちがして───。
「あ、望ちゃん、笑ったね」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「僕がここに来てから、初めて笑った」
「…………本当に?」
うん、と少年はうなずいた。そして、よかったぁ、と言ったのだ。
本当に嬉しそうに、安心したように。
その優しい笑顔に、目を奪われた。
崑崙山で笑顔を見せたことがなかったわけではない。いつでも自分は、普通に周囲の人々と接していたつもりだった。
───でも、本当は笑っていなかった。
本心からは、一度も笑えなかった。
そのことに少年は気付いていて……。
「………!?」
不意に少年の指が伸びて、自分の頬に触れた。
涙をぬぐってくれる優しい感触に、初めて自分が泣いていることに気づいた。
「いいよ、泣いてもいいよ」
優しい声と笑顔で少年はそう言い、今度は髪を撫でてくれた。
その温かい手の感触は、失くしてしまったものと、よく似ていて。
なぜ涙が零れたのかは、よく分からなかった。
でも、その温かさにこらえきれず、初めて泣いた。
家族と一族を失ってから──帰る家を失くしたあの日から、初めて。
声を上げて泣くほど、もう子供ではなかったけれど。
でも、どうしても、涙が零れて止まらなかった。
「大丈夫。僕はずっと望ちゃんと一緒にいるよ。何があっても、絶対望ちゃんの側にいるよ……」
そうして泣いている間中、少年は繰り返しそう言い、髪を撫で続けていてくれた。
ずっと、その温かい手で。
ようやく落ち着いて顔を上げ、少年の顔を見返したのは、ずいぶん時間が過ぎてからだった。やっぱり少年は、優しい顔で笑っていた。
その笑顔に、特別だ、という思いが不意に込み上げて、それはそのまま確信に変わった。
この少年が、今の自分にとって、たった一人の。
そして、少年にとっても、自分がたった一人の。
特別なのだと気付いた。
彼が何故、そう思ったのかは知らない。けれど、この地上から遠く離れた仙界で、自分たちは互いしか持たないのだと。
そう思った。
「……ありがとう」
「うん」
少年は、ずっと一緒にいると言った。
夢みたいなことだけど、その言葉は絶対に嘘ではないのだと、ごく自然に思えた。
だから。
「……一緒にいよう? 僕たちが仙人になっても、ずっと」
自分もそう言った。『ずっと』なんて、絶対に有り得ないと思っていた言葉を。
「うん。ずっと一緒だね」
そうしたら、少年は笑った。
本当に嬉しそうに笑って、うなずいた。
その笑顔が嬉しかった。嬉しくて、自分も自然に微笑んでいた。
もう二度と笑えないと思っていたのに、笑うことができたことが不思議で、少しだけ切なかった。
やがて、空を見て少年が、そろそろ休憩時間が終わるから帰ろう、と言ったのを樹に、二人とも立ち上がった。
並んで玉虚宮に戻りながら、ここに来て良かった、と初めて心から思った。
まだ悲しみも憎しみも、何一つ消えていない。この痛みが消えることは生涯ないだろうけれど、それでも何か癒された気がしていた。
一番痛かった、どこかが。
───ずっと一緒にいるよ。
隣りを歩く少年がくれた言葉が、痛みを癒してくれる呪文だった。
だから、自分も一番優しい気持ちを、この少年にあげたいと思った。
───ずっと一緒にいよう。
そう思ったから、たった一つの大事な約束をした。
大切に……何よりも大切に、この約束を守ろうと思った。
……絶対に守ろうと、思った───…。
end
BACK >>
opening text by 「berangkat」 THE BOOM