#076:影法師







「今日は来ないんだ? 楽しみにしてたのに」
「明後日がレポートの提出日だからのう。さすがに、おぬしの人体実験に付き合って時間を浪費する気はないらしいよ」
「人体実験って・・・・人聞きが悪いなぁ。新作のカクテルを試してもらってるだけじゃないか」
「思いつきだけの味見もしてないようなカクテルを、立て続けに5杯も6杯も飲ませれば、十分に人体実験だ」
「なーに言ってるんだよ。二人揃ってザルのくせに」
「だからといって限度があるわい」

言い返す手元で、グラスを洗う水がぱしゃりと跳ねる。

夜も更けて、狭い小さなバーの中にはもう、客は一人もいない。
懐かしいメロディーを聞かせるオールディズだけが変わらず流れる中、オーナーと雇われバーテンは手際よく片付けを済ませてゆく。

「つまらないなぁ。せっかく休みの間に新しいレシピを幾つも考えておいたのに」
「明後日には、また来るだろうよ。その時の楽しみにとっておけ」
「そうするけどさ。──でも、太公望」
「ん?」
「楊ゼンと付き合って、もう結構立つよね」
「・・・・かれこれ2年かのう。大した長さの時間でもないと思うが」
「まだ飽きないわけ?」
「は?」

初めて、太公望はシンクを磨く手を止め、顔を上げた。
フロアを見れば、太乙はモップを杖代わりに寛いで、こちらを見つめている。
光量を絞った照明の下、その表情は、真面目ともからかっているとも判別しがたかった。

「だって、最初からずっと一緒に暮らしてるわけだろう? 1日24時間、365日一緒で飽きないのかい?」

その言葉に太公望は、まだ少しきょとんとしたまま小さく首をかしげ、そして肩をすくめて笑った。

「それで飽きるような、ちゃちな相手と、わしが付き合うと思うか?」

不敵な、カウンターを照らすスポットに瞳をきらめかせた微笑に。
太乙も、モップに寄りかかったまま破顔する。

「そりゃそうだ。そんなつまんない相手で、君が満足するわけないよねぇ」
「当然」

すまして答え、シンクを洗い終えて水を止めた太公望に、太乙はからかうような笑みを向けた。

「まぁ、確かに楊ゼンはいい男だよね。見た目はああだけど、中身は意外に真面目で誠実だし」
「納得すれば、素直に躾けられるタイプだしな」
「せこい真似はしないし、年齢の割に自分をコントロールするのが上手いし」
「案外、忍耐強いし、細かいところにも気が回るから便利だし。一緒にいても全然気を使う必要がなくて、楽だぞ」
「幸せなんだ?」
「さてのう」

くすりと笑って、太公望は後片付けの間だけ身に着けていたエプロンを外す。
そして、着替えるために奥のスタッフルームに向かいながら、肩越しにちらりと太乙を見やった。

「毎日楽しいのは確かだがな」

そう言ってドアの向こうに消えた後ろ姿に。
太乙は温かな色を瞳ににじませ、そして杖代わりにしていたモップを握りなおし、途中になっていた床磨きを再開した。









「お疲れ」
「また明日」

決まり文句の挨拶をかわして外に出れば、涼しいを通り越すくらいに冷たい夜の空気が、衣服を通して肌に染みる。
眠ることを知らないネオンの洪水を抜け、通りに出れば、街を照らす明るさにはさほど差が無いものの、別世界かと思うほどに夜更けの街は静かだった。
時々タクシーが通り過ぎる大通りをしばらく歩いてから横に逸れると、その後は、こんな時間には車も滅多に通らない閑静な住宅街が続く。

寝静まった家々の間を、半月と街路灯に照らされながら歩く。
30分程度の、その静かな時間が太公望は好きだった。

街路灯の光は、通り過ぎるたびに幾つもの影を四方八方に散らし、その中を明るさの足りない月光の造る影が、濃くなったり薄くなったりしながら、それでも消えることはなく歩みについてくる。
子供の頃に戻ったように、そんな影法師の動きが少し楽しくて、足元を見ながら歩き続ける。

と、あと10分足らずで家に着くという距離で。
複数あるうち一番長く伸びた影が、前方から伸びてきている影にぶつかった。
何だろうという思いと、やっぱりという想いとが、小さな気泡のように同時に胸のうちではじけるのにまかせ、顔を上げてみれば。

「楊ゼン」

思った通りの相手が、一つ向こうの街路灯に軽く寄りかかるようにして立っていた。

「お帰りなさい」
「こんなところで待っておったのか?」
「そういうわけじゃないんですけどね。角を曲がったら、あなたが何だか一生懸命、足元を見ながら歩いているのが見えたので、邪魔をするのは止めようかなと」
「そんなに一生懸命に見えたか?」
「ええ。小学校帰りの小さな子みたいでしたよ。たとえが悪くて、怒られるかもしれませんけど」
「別に怒りはせぬよ」

肩をすくめるようにして笑って、太公望は歩き出す。
楊ゼンも、その隣りに並んだ。

「で、何を熱心になってたんです?」
「大したことではないよ。街路灯の影が移ろっていくのが、なんだか面白くてな」
「ああ・・・・。確かにね」

足元を見て、楊ゼンも微笑む。

「光が当たれば影ができるのは当たり前の話なんだが・・・・。でも子供の頃は、足元に幾つも影ができることや、月がどこまで行ってもついてくるのが不思議で仕方なかった。その感じを思い出してな」
「どれだけ歩いても、それこそ車で移動しても、月は同じように見えますからね。僕も、親に聞きましたよ。どうしてお月様はついてくるのって」
「皆、一緒だな」

傾いた半月を見上げ、太公望は隣りを歩く楊ゼンへと視線を向けた。

「レポートはどうなった?」
「書き上がりましたよ。明日、もう一度見直したらプリントアウトします」
「ふん。あの頃のおぬしに聞かせてやりたいよ。大学生になった途端、真面目になりおって」
「受験用に数字や単語を詰め込むのと、好きなことを勉強するのは全然違いますよ。第一、大学は単位を落としたら留年するじゃないですか」
「特にうちの学部は、その辺は容赦ないからな」
「さすがに放任主義のうちの親も、留年までは認めてくれないですよ、多分。仕送りを打ち切られたら打ち切られたで、奨学金を取るなり何なりしますけど」
「その気になれば、人間、どうとでもなるさ」
「ええ」

さらりと言った太公望にうなずいて、楊ゼンは街路灯に見え隠れする夜空を見上げる。

「あ、この時間になるともう冬の星座が見えるんですね。ちょうどオリオンが真上に来てますよ」
「そうだのう・・・・さすがに、ここからだとプレアデスは見えぬか」
「それはもう少し郊外に行かないと・・・・シリウスとオリオンの三ツ星がせいぜいですね」
「近いうち、どこかに行くかな」
「悪くないですけど、行楽シーズンですからねぇ。どこ行っても人だらけですよ」
「人込みなんぞ、この街で十分だ」
「まぁ、どこか穴場の温泉でもさがしましょうか」
「平日を選べば多少はマシだろうしな」

他愛ない会話を交わしているうちに、二人は家へとたどりつく。

「お風呂、沸いてますから」
「こういう時、同居人がいるとつくづく便利だな」
「これからの季節は部屋が暖まるまでの時間とか、結構辛いですからね」
「そうそう」
「で、便利ついでに、一緒に入りますか?」
「・・・・・湯当たりしない程度になら、な」
「分かってますよ」
「本当にか?」

かちゃりと小さな音を立てて、太公望の手元で玄関の鍵が開く。
ドアがゆっくりと開いて、また元通りに閉ざされて。
あとに残された欠けた月と気の早い星座が、静かに二人の家を照らしていた。










最近、Midnightばかりの100のお題ですが。
何だかこの二人、書きやすいのですよ。
おかげで思いつく話は、片っ端からこの砂吐きバカップルばかりです。

しかし、このシリーズの太公望って本当に楊ゼンが好きらしいですね。
ええんかな、こんなんで。
・・・って、うちは楊太サイトじゃないのか俺・・・。


NEXT 027 >>
<< PREV 002
100のお題に戻る >>
小説リストに戻る >>