#066:666








頭を抱えたくなるような、怖い噂は山ほど聞いた。
それでも、気持ちは変わらなかったのだから、やっぱり一目惚れも初恋も、男を馬鹿にするものらしい。








とんでもない高嶺の花に一目惚れしたと気付いたのは、春先のこと。
しかし、本命ができたからといって、楊ゼンは女の子たちとの付き合いをやめたりはしなかった。
むしろ、情報源として積極的に、群がってくる女の子たちを利用したのである。
面倒な方向に行きがちなコンパや飲み会は慎重に避け、一人の相手に深入りしない代わりに、真っ昼間の茶飲み友達レベルの付き合いを至る方面で広げて、他愛のない話に耳を傾けてみせたのだ。
それはもう、ファッションの話から恋の相談まで、どんなにつまらない話題でも、気安い信頼できる男友達の態度で付き合った。
そんな涙ぐましいまでの努力の結果、詳しいことは何も知らなかった本命の相手について、それはもう膨大な噂話を収集することができたのである。


しかし、その内容たるや、惨憺(さんたん)たるものだった。


いわく、どんな美形やエリートや抜群のプロポーションが言い寄っても、すげなく袖にしてしまうとか。
ちょっとでもしつこく言い寄ったりしたら、心臓を抉るようなクリティカルヒットの一言で退けられてしまうとか。
そのくせ、下心のない相手には優しいし、とても親切だとか。
恋人としては誰も相手にしないため、好みのタイプは分からないが、親しく付き合っている人間は、男女を問わず才色兼備ではあるものの軒並み変人の評判が高い相手ばかりだとか。

一癖どころか、十癖も二十癖もあるのではないかと思えるほどで、集めた情報を脳裏に並べた楊ゼンは、思わず頭を抱えてうなってしまった。

こんな人を、一体どうやって落とせばいいというのだろう。

少なくとも、標準以上の頭脳の切れと会話のセンスは最低条件。
あと外見には、どれほどのこだわりがあるのか。(あればあるほど多分有利だ)
しかし、友人が変人揃いというのはどうだろう。

普通というか、まともな思考力の持ち主なら、この時点で諦める。
楊ゼンもその例外ではなく、一瞬、やめようかな、という気分にはなった。
一目惚れの初恋とはいえ、好きになってからまだ日は浅い。ここでストップして回れ右してしまえば、大して傷つかずに済むだろう。

だがしかし。
ここでちょっと考えてみたい。

こんなに毒と刺をあからさまに持っているのに、どうして変わらずキャンパスNo.1の高嶺の花でいられるのか。

考えられる理由はただ一つ。
うんと綺麗な花なら、どんな毒や刺を持っていても構わない、あるいは毒や刺があるからこそ花は綺麗なのだと思う愚者が、圧倒的に多いからに決まっている。

──遠くから見ていれば、清楚といってもいいほどの透明感があって、ただ綺麗。
──近くで見ても、凛とした透明感のある力強さが感じられて、やっぱり綺麗。

どんな毒があろうが刺があろうが、高嶺の花は高嶺の花。
結局、楊ゼンもとんでもない苦労を予感しつつ、それでも賢くは立ち回れなかったのである。











あれこれと悩みながらも恋心を募らせていた楊ゼンが、ようやくチャンスを掴んだのは、一目惚れを自覚してから半年も過ぎた頃だった。

夏の終わりの夕方、いつものコンビニで、急に降ってきた土砂降りの雨を、どうしたものかと言いたげな表情で見上げている太公望を見つけたのだ。
これは天の配剤とばかりに、すかさず天気予報を素直に信じて持っていた傘を渡し、自分は雨の中を走って部屋まで戻った。

さっさと立ち去ったのは、カッコつけの意味もなかったではないが、それ以上に下手に長時間喋っているとボロが出そうな気がしたからである。
計算し尽くした上でのアプローチではなく、なりゆきでのことだったから、平然した笑みの下は、実は心臓バクバクだったのだ。

部屋に戻ってからも、全然落ち着かなかった。
濡れた髪をタオルで拭きながら、何度溜息をこぼしたか知れない。

かなり強引に傘を押し付けてしまったけれど、嫌な感じを与えなかっただろうかとか。
雨の中を走り去ってしまったけれど、気障に思われなかっただろうかとか。

それから、今度会えるのはいつだろう、とか。

グルグル考えて。
それでも、これまでのパターンで、土曜日の朝にコンビニでの遭遇率が高いことは分かっていたから。
二日後の土曜日、ドキドキしながら早めにコンビニへと行ったのだ。






そして、今。
楊ゼンの目論見が成功したのかどうか、想い人は目の前で美味しそうにブランチを食べている。
デザートのシャーベットまで綺麗に平らげ、満足げにスプーンを置いたところで、楊ゼンはコーヒーカップ片手に切り出した。

「とりあえず、ブランチは合格ですか?」
「そうだのう。美味かったよ」
「それは良かった」

明るいカフェスタイルの店内は、ふんだんに外の光が取り込まれていて、太公望の横顔も、少し高くなった朝の日差しに照らし出されている。
光に透けた瞳が、吸い込まれそうに深い色をしていて、思わず見惚れそうになる視線を楊ゼンはさりげなく、けれど内心はかなり努力して外した。

「それでだ、楊ゼン。確認しておきたいのだが、さっきのおぬしの発言は、わしと付き合いたいという意味だな?」
「他にどう聞こえました?」
「それ以外の意味に聞こえなかったから、覚悟の程を確認しておるのだろうが」
「覚悟?」
「そう」

耳慣れない単語に、楊ゼンは訝しげに眉を軽くしかめる。
だが、目の前の相手は平然たるもの、それどころか余裕の笑顔を浮かべている。

「とりあえず飯は美味かったからな。第二関門だ。今日一日、お試し期間として付き合ってやるから、おぬしの好きなようにデートのプランを立ててみろ」
「・・・・・それに合格したら、僕と付き合って下さるんですか?」
「合格したら、な」

にっこり、いや、にんまりと太公望の笑みは更に深くなって。

「第二関門のルールは一つだけだ。絶対に、飾るな。普段のおぬしを見せてみよ」
「普段の僕?」
「そう。わしは、おぬしのことは何も知らぬからな。さしあたって、おぬしの普段の好みを知りたいわけだ。デートするにしても、店の好みが違いすぎるようではお互い、楽しめぬだろう?」
「・・・・一理ありますね」
「更に、付き合っている相手に、よそ行きの顔ばかり見せられるのはわしの好みではないからな。おぬしの普段の顔を見て、付き合ってもいいかどうか決める」

なるほど、と楊ゼンは考える。
筋は通っているし、最初からルールを明確にしてくれるあたりは、かなりフェアだ。
ルール自体は相当に厳しいといえば厳しいが、確かに、こちらの事を何も教えないで、付き合って下さいも何もない。

「分かりました。僕が普段行く場所でいいんですよね?」
「うむ。先に言っておくが、わしはかなり勘が良いからな。こっちに気に入られようと小細工したら、すぐに気付くぞ」
「分かってます」

うなずいて、レシートに手を伸ばす。
そして、にっこりと笑って見せた。

「そういうことでしたら、早速、行きましょう。今日はあなたと会えなかったら、一人で買い物に行くつもりだったんです。ちょうどいいでしょう?」






街を歩きながら、まるで高校生だ、と楊ゼンは思った。
東急ハンズを回って、有数の店舗面積を誇る大型書店を回って、レコード屋を回って。
キスどころか手も握らず、映画さえ見ない。こんな野暮ったいショッピングデートなんて、一体いつ以来だろうと思う。
下手したら、今時の中学生以下かもしれない。

おまけに心臓はドキドキしっぱなしなのだ。
隣りには半年間、憧れ続けた綺麗な先輩がいて、でもテストだと言われているから、女の子相手のデートの時のような、エセフェミな態度は抹殺して。
極力普段の自分と同じように喋りながら、心の中では四六時中、こんなのでいいんだろうかと考えている。

こんな本を読んで、格好つけと思われないだろうかとか。
こんなCDを好きだと言って、気障だと思われないだろうかとか。
こんな日常品の店ばかり巡り歩いて、つまらない奴だと思われていないだろうか、とか。

ちょっと休憩しましょうと、いつもレコード屋に行った後に決まって入る喫茶店で、向かいあってコーヒーを飲んでいる今も。
趣味が悪いと思われていないだろうかと、ドキドキしている。

こんなことは今までなかった。
デートをしてくれと寄って来る女の子に、自分が一番好きな作家や演奏家を教えたことはなかったし、たとえ聞かれても、適当に当り障りのないところを答えてやれば、彼女たちは十分に喜んでくれた。
趣味が悪いとか、格好悪いだなどと言われたことは一度もない。
そんな風に思われているかもしれないなどと、気にしたこともない。

こんな風に、好きな人の前で自分を曝け出したのは初めてなのだ。

だから、正直なところ、ひどく怖いと思う。
これで不合格だと・・・・ダメだと言われたら、自分はどうしたら良いのだろう。
趣味が合わなかったといえばそれまでだが、初めて好きだと思った人に、そんな風に評価されるのはたまらなく辛い。

「──どうした?」
「え?」

ふと黙り込んだ拍子に、内心の思いが顔に出てしまったのかもしれない。
何気なく問いかけられて、楊ゼンは少々慌てた。
そうして、どう答えようかと考えて。

「・・・・いえ、これで不合格と言われたらどうしようかと、ちょっと思いまして」

取り繕うことなく、正直に答えた。
今の気持ちのままに、少しだけ苦笑を口元に浮かべて、目の前の人の深い色の瞳を見つめる。

「テストだと言われて、僕は自分のありのままを見せているでしょう? それで好きな人に、自分の好みじゃないと言われたら、かなり辛いかな、と」
「・・・・別におぬしの人格や趣味を否定するのではなく、わしという人間とは合わないというだけだろうに?」
「それでもですよ。僕はあなたが好きだから、拒絶されるのは痛いんです。だからといって、好みじゃないという人に、無理に付き合ってくれと言って困らせる気はありませんけど」
「ふーん。おぬしは、わしがダメだと言ったら、それですぐ諦めるわけか?」

そう言う太公望の声は、悪戯っぽくも皮肉にも聞こえた。

「・・・・諦められるわけじゃないですよ」

意地が悪い、と思いながらも、楊ゼンは正直に答える。
太公望は、テストに際しては絶対に飾るなと言った。そして、第二関門は、まだ終わったという宣言は出ていないのだ。

「いつかあなたを忘れるか、誰か他の人を好きになるまで、あなたのことはずっと好きでいますし、好きになってもらえる努力はしますよ。あなたの好きな作家の本も読んでみるし、あなたの好きなCDも聞いてみます。・・・・もっとも僕は僕で、自分が好きなものは捨てられませんし、あなた好みに変わるにしても限度はありますけど」
「ふぅん」

今度の嘆息は、やわらかな響きだった。
その声に、楊ゼンは太公望の顔を見る。
と、深い色の瞳が、面白げにこちらを見つめていた。

「面白いのう、おぬし」
「そう、ですか?」
「うむ」
「・・・・これまで、面白いと言われたことはないんですけどね」
「そりゃ、その連中に見る目がなかっただけだろう」
「・・・・そういう言い方だと、あなたには見る目があるように聞こえますけど」
「他の、のほほんと生きてきた人間よりはな。あるつもりだよ」

さらりと笑って、太公望は答えた。
そして、手にしていたコーヒーカップをソーサーに戻す。

「さて、次はどこに行く?」
「買い物は大体終わりましたから・・・・ちょっと早いけれど、夕食にしますか? ここから30分くらい行ったところに、割と美味しいお店があるんですけど」
「良いよ」
「僕は味付けはさっぱり系の方が好きなんですけど、先輩は?」
「わしは何でも食うがな。まぁさっぱりの方が、こってりよりは好きだよ。でも、今日のところはおぬしに任せる」
「分かりました。じゃあ、行きましょう」

うなずいて、楊ゼンは立ち上がった。





今日一日で分かったことだが、太公望は実によく食べる。
好き嫌いもそれほどないらしく、ブランチに引き続き、楊ゼンが案内した無国籍創作料理の店でも、次から次に美味しそうに皿を空にしていって、その細い体のどこに消えていくのかと不思議になるほどだった。
だが、食べ方自体は行儀がいいせいか、その食欲は小気味いいもので、つられて緊張していたはずの楊ゼンも結構食べて。
とりあえず胃袋は満足して、店を出た。

「美味かったな」
「喜んでもらえたのなら嬉しいですよ」

並んで、緩やかな上り坂になっている道を歩きながら、二人は言葉を交わす。
夜空には満月に近い月が昇っていて、街路灯と共に、アスファルトに幾つもの影法師を作っている。
そして、

「今度行く時は、もう少し酒中心の店がいいのう」

太公望が何気なく言った言葉に、楊ゼンは、ええと、と戸惑った。

「それは・・・・とりあえず食事だけなら、これからも付き合って下さるということですか?」
「さてのう」

楊ゼンを見上げて、太公望は悪戯に微笑する。

「言っておくが、第二関門はまだ終わっておらぬぞ?」
「まだって・・・・でももう、先輩や僕のマンションはすぐそこですよ?」

道の向こうに見える地下鉄の駅を指差した楊ゼンに、太公望はちっちっと人差し指を横に振った。

「あと一箇所、行ってない場所があるだろう?」
「? どこです?」
「おぬしの部屋」
「は・・・あ?」

にっこりと笑った相手に、楊ゼンはちょっと待て、と思う。
部屋を見たがる気持ちは分からないでもない。
部屋にはその人との性格が現われるというし、もともと今日のデートは、楊ゼンのひととなりを見るためのテストだったのだ。
けれど。

「・・・・本気ですか?」
「もちろん。別に散らかっておっても構わぬよ。わしの部屋だって、レポートの締切直前には床も見えないカオス状態になるしのう。ただ、おぬしの部屋を見てみたいのだ」

駄目か?と、月明かりと街路灯の灯りの下で綺麗に微笑まれて。
楊ゼンは正直、めまいを覚える。
この笑顔に勝てる男が居るというのなら、今すぐ連れてきてほしいと思いながら、うなずいた。

「・・・・分かりましたよ」

部屋を見せて、その挙句、やっぱり駄目だと言われたら、もう当分立ち直れないだろうなと、半ば自棄になりながら、少し先にある交差点を指差す。

「あそこを渡って、真っ直ぐ行ったらすぐですから」







「片付いておるではないか」

部屋に入っての、第一声はそれだった。
ワンルームだが、結構広い面積をぐるりと見渡し、本棚やCDラックにも目を向けて。
それから太公望は楊ゼンを見上げる。

「おぬしらしい部屋だのう」
「そう、ですか?」
「うむ」
「前の部屋から引っ越してきて、まだ半年くらいにしかならないんですけど・・・・」
「ああ、そういえば今朝、コンビニでそんなことを言っておったな」

くすりと笑って、太公望は楊ゼンを手招いた。

「何です?」
「うむ」

そうして目の前まで来た相手を、太公望は綺麗に微笑んだ瞳で見上げる。

「おぬし、本当に一つも嘘をつかなかったのう」
「え?」
「今日一日。好きな本もCDも、好きな店も。全部、正直だっただろう?」
「それは・・・先輩がそうしろと言ったから・・・・」
「そうなのだがな。それが出来ぬ輩が多いのだよ。男も女も」

誰しも自分をよく見られたいものだから、と太公望は笑った。

「今日のようなテストをすると、皆、格好をつけようとするのだ。これまでに聞いたこともないクラシックをいいと言ってみたり、あらすじを聞きかじっただけの純文学が好きだと言ってみたり、雑誌で見たことはあるけど入ったことのない洒落たカフェに行ってみたり。
そんなものはすぐに本当かどうか分かるからな、嘘だとわかった時点でテストは終わるのだ。いつもは」
「・・・・いつもは?」
「そう。いつもは」

悪戯に微笑した瞳のきらめきに、楊ゼンは声もなく見惚れる。

「最後まで嘘をつかなかったのは、おぬしが初めてだよ。おぬしの本棚にもCDラックにも、今日の昼間に好きだと言っていたものが、ちゃんと並んでおる。喫茶店でも夕飯を食べた店でも、店員はおぬしのことを常連客として見ていた。おぬしが嘘をつかなかった証拠だ」
「・・・・嘘なんかつくわけないでしょう。あなたがテストだと言ったのに」
「うむ。だからな」

第二関門は合格だよ、と太公望は言った。

「・・・・合格?」
「第二関門はな」
「・・・・・まさか、まだ続きがあるんですか?」
「そう」

笑ってうなずいた太公望の手が、楊ゼンの肩にかかって。

──え?

引き寄せられた唇に。
温かなやわらかい感触を感じる。

「ここからが第三関門だ」
「先・・・輩・・・?」
「シャワー、借りるぞ」
「え・・・!?」

ちょっと待て、と思う間もなく笑顔をひらめかせた太公望の姿が、バスルームのドアの向こうに消える。
冗談でしょう、と先ほど思ったばかりのことと同じ事を、楊ゼンは今度は声に出して呟いたが、返事はなく。
聞こえてきたのは本当にシャワーの水音だけだった。





頭から浴びていたシャワーを止めて、楊ゼンは溜息をつく。
そしてバスルームを出て、バスタオルで全身と長い髪の水滴を、少々乱暴に拭った。
それから手早く、シャツのボタンは留めないまま服を身に付け、リビングへと続くドアノブを見つめて、もう一度溜息をつく。
だが、いつまでもここにいられるわけもない。
思い切ってドアを開け、フローリングの床へと足を踏み入れる。
途端。

「遅いぞ。これ以上待たされたら寝るところだった」

ベッドに腰を下ろしていた相手からの声に、楊ゼンは小さく眉をしかめた。
ゆっくりとベッドに近付き、人半分ほどの隙間を開けて、太公望の隣りに腰を下ろす。
そして、隣りに居る人を見つめた。

「──本当に、本気ですか?」
「おぬしに嘘をつくなと言っておいて、自分が嘘をつくほど、わしはせこくないぞ」
「嘘の方がマシですよ」

そう言って、楊ゼンはまた、溜息をつく。

「ねぇ先輩。もう一度、ちゃんと考えてくれませんか。僕はあなたを好きですけど、あなたは違うでしょう? 嫌うとまではいかなくても、僕はまだ赤の他人に等しい。そんな相手に抱かれてもいいんですか?」
「いいも何も、誘ったのはわしだろうが。据え膳も食わずに逃げてどうするつもりだ?」
「・・・・・・」

一体どうするべきか、と楊ゼンは考える。
呆然と流されているうちにシャワーまで浴びてしまったけれど、この先に進んでもいいものなのだろうか。
太公望は、お互いに割り切って遊んできた女の子達とは全く違うのに。

──けれど。

ちらりと視線を向けると、シャツの上しか着ていない太公望のすらりとした脚が目に入る。
男性にしては華奢な骨格をしていることは服の上からでも分かっていたけれど、これほど綺麗な脚をしているとは予想外だった。
触れたくないといえば、それはもちろん嘘になる。

「・・・・・第三関門だと言いましたよね?」
「言ったよ」
「じゃあ、良くなかったら不合格ということもあるんですよね?」
「そりゃ勿論」
「・・・・・・それって、男にとっては相当ヘビーなんですけど」

単に本や音楽の趣味が違うというのとは、根源が違う。
男にとっては存在意義、あるいはプライドのすべてを否定されるのに等しい。

「じゃあ、不戦敗を選ぶか?」
「それは嫌です」

揶揄するような太公望の声に、即答する。
それだけは論外だった。

「だって、そんなことをしたら、もう声もかけさせてはくれないんでしょう?」
「当然」
「だったら退けませんよ」

仕方がない、と楊ゼンは覚悟を決めた。
そして、太公望をまっすぐに見つめる。

「その代わり、もう一度だけ確認させて下さい。──本当に僕に抱かれても、後悔しないんですね?」
「・・・・・おぬしも大概しつこいのう」
「悪かったですね。でも嫌なんですよ、あなたの思い出したくもない記憶として残るのは」
「・・・・・・」

憮然として言った楊ゼンの言葉をどう取ったのか、太公望はくすりと笑った。
そのまま、細い手がゆっくりと動いて、楊ゼンの髪を一房、指に絡め取る。

「おぬしは優しいな、楊ゼン」
「そ・・・んなことを言ってるんじゃ・・・・」
「自分が思い出したくない記憶として残るのが嫌、ではないだろう? わしを後悔させるのが嫌だ、ではないのか?」
「──買いかぶりです。僕は、そんな優しい人間じゃ・・・・」
「大丈夫だよ。そんな嫌な思い出になりそうな相手に、このテストを仕掛けるほど、わしも悪趣味ではない」

深くきらめく瞳が、至近距離から楊ゼンを見上げる。

「それにおぬしは肝心なことを忘れておるよ。わしに後悔させたくないのなら、おぬしが後悔させなければいいのだ」
「・・・・・こんな時まで、性質が悪すぎますよ」
「そうと知っていて惚れたのだろう? なら、文句を言うな」
「ええ。でも、あなたにだって言わせませんよ」

そう告げて。
楊ゼンは細い腰を抱き寄せ、唇を重ねる。
先ほどの一瞬の触れ合いとは異なる、深く絡み合うキスは、これまでに感じた何よりも甘くて。
とろけそうな甘さに名残惜しさを感じながら、楊ゼンはゆっくりと離れた。

「どうしてこんな事になったのか、正直まだ分からないんですけど、でも、もういいです」
「その気になったか?」
「ええ。ここまできたら、絶対に後悔なんかさせてあげませんから」

いくつも軽いキスを落としながら、腕に抱いた躰をゆっくりと押し倒してゆく。

「・・・・好きです」

低いささやきと共に、ベッドのスプリングが二人分の重みにかすかな音を立てて沈んだ。










          *          *










「──やっぱり、きちんと聞かせて欲しいんですけど」
「・・・・眠いから、明日にしてくれ」
「今、聞いておかないと僕が眠れそうにないんです」

憮然とも困惑とも聞こえる声で言いながら、楊ゼンは腕に抱いた人の髪を指で梳いた。
その動きをうるさがったのか、太公望は閉じていた目を開く。
が、楊ゼンを見上げたその瞳は本当に眠たげで、その分、不機嫌そうに見えた。
それでもどこまでも深く澄んだ色合いを、楊ゼンは覗き込む。

「初めてだったくせに、どうしてこんな真似をしたんです?」

はっきりと発音しながらそう問いかけると、太公望は面倒くさそうにまばたきして。

「・・・・初めてだったのは、第三関門までたどりつけた奴がこれまで居なかったからに決まっておるだろうが」
「だから、どうしてこんなテストが必要なんです? これで僕のやり方が最低だったら、どうするつもりだったんですか?」

言いながら、楊ゼンは本気で困惑していた。
あまりにもあっさりと誘ってくれたから、それなりに経験もあるのかと思ってみれば、とんでもない。
最初に胸に触れた時、指先に速い鼓動を感じて、この人も緊張しているのかと可愛らしさを感じたのだが、緊張していて当たり前だった。
女性相手にはどうだか知らないが、少なくとも太公望の躰は、男相手の経験は皆無だったのだから。
楊ゼンも、同性を相手にしたのは初めてだったが、それでも経験があるかどうかくらいは触れれば分かる。
最初はまさかと思い、けれどすぐにそれは確信に変わって、どうしようかと本気で悩んだ。
けれど、太公望が未知のはずの感覚に抗うことなく、楊ゼンの愛撫を全て受け入れようとしたから。
結局、そのまま最後まで進めてしまったのだが。

「そんなの・・・・付き合い始めてから、体の相性が最悪と分かるより、それ以前に確認しておいた方が、間違いがないからに決まっておるだろうが・・・・」
「それはそうですけど・・・・。でも、無茶すぎますよ」
「どこがだ」
「どこがって・・・・」

耳元で騒ぐ楊ゼンが本気でうるさくなったのか、太公望はころりと寝返りを打って楊ゼンの腕から逃れる。
そして、相変わらず眠そうな瞳で楊ゼンを見上げた。

「おぬしが、わしが経験がないということに気付かなさそうな阿呆なら、最初から相手になんぞせぬわ」
「・・・・・・・」
「今日一日、おぬしに付き合って、おぬしが外見に似合わず、生真面目で正直なのは良く分かった。そうと見られるのは好きではないようだが、細かいとこまで気遣うタイプだということもな。だから、いいかと思ったのだ」
「・・・・・外見に似合わず、というのが引っかかるんですけど」

文句をつけてから、楊ゼンは手を伸ばして、指先で太公望の髪に触れる。
それは振り払われることはなかった。

「つまり、第二関門を突破した時点で、合格だったということですか?」
「まさか。第三関門は第三関門だ。おぬしが自分本位にSEXを進めようとしたら、その場で蹴り倒して終わりだったよ」

そう言うと、聞かれたことには答えたとばかりに太公望は目を閉じる。
が、楊ゼンはまだ引き下がらなかった。
指先で髪を梳きながら、もう一つ、一番聞きたかったことを問いかける。

「じゃあ、僕は合格したんだと思っていいんですよね」
「・・・・まぁ、飯は美味かったし、嘘はつかなかったし、今も気持ちよかったしな。第三関門までは突破でいいだろうよ」

目を閉じたまま答える太公望のその言い方に、楊ゼンは引っかかった。

「・・・・・まさか、まだ続きがあるんじゃ・・・・」
「たわけ。ずっと続くに決まっておるだろうが」
「は・・・?」

思わず眉をしかめた楊ゼンを、太公望は薄目を開けて見上げた。

「おぬしは、わしが恋人に安穏とした怠惰な日々を許すほど、お優しい性格をしとると思っておるのか?」
「・・・・・・つまり、恋人でいたければ精進し続けろと?」
「当然」
「────」

ふん、と眠たげにふんぞりかえる人に、楊ゼンは二の句を告げなくなる。
そして、脳裏に浮かんだ言葉は。

「・・・・・博士課程の高値の花・・・・・」
「そういうことだ。分かったら、せっせと自分磨きに励め」

無情に言い捨てると、太公望はころんと寝返りを打ち、一度は逃げ出したはずの楊ゼンの懐に戻ってきて、その腕を枕代わりにして頭を乗せた。

「先輩・・・」
「うるさい。これ以上の話は明日にしろ」
「・・・・はいはい」

考えてみれば、初体験の直後である。慣れない行為に疲れていないわけがない。
軽く溜息をついて、楊ゼンは太公望の眠りを邪魔しないように、細い体にそっと腕を回す。
と、しばらくしてから腕の中で、太公望が小さく呟いた。

「一つ・・・・言い忘れておった・・・・」
「はい?」
「おぬしが貸してくれた傘・・・・」
「いいですよ、そんなの」
「そうでは、なくて・・・・」

眠りかけているのだろう。太公望の声はくぐもって、途切れがちだった。

「わしの部屋な・・・・あのコンビニの、隣りのブロックにあるのだ」
「・・・・はい?」
「おぬし・・・それも確かめずに・・・傘を貸すから・・・・。お人よしで・・・・マヌケで・・・・面白い奴だなと・・・・・」
「え、ちょっと先輩!」

呼びかけたが、そのまま太公望の語尾は、安らかな寝息に消えてゆく。
完全に寝入ってしまったらしい太公望を腕の中に見下ろし、困惑に眉をしかめていた楊ゼンは、やがて溜息をついた。

「──まったく・・・」

どうも先日貸した傘は、全然違う意味で太公望の印象に残ったらしい。
だが、それがかえって興味を引いたというのなら、結果オーライなのかも知れない。

「一応、恋人としては合格したみたいだし」

常識外れのテストの連続だったが、合格と認めてもらえたのなら、もう過ぎたことだ。
とりあえず、こうして華奢な躰を抱きしめて眠ることを許されたのだから、その幸せを素直に喜ぼうと決めて楊ゼンも目を閉じる。

「あとは・・・・捨てられないようにしないとな。案外、この人の許容量は狭いようで広いみたいだけど」

呟いて、そっと太公望のやわらかな髪に頬を寄せる。
かすかな甘い香りに、不意にいとおしさが込み上げて。
楊ゼンも穏やかな睡魔が訪れるのを感じた。

「おやすみなさい、先輩」

きっと明日からは、苦労だらけの、それでも楽しい毎日が始まる。
何があっても、隣りにこの人が居てくれるのなら、それでいい、と楊ゼンは眠りに落ちながら思った。










というわけで、コンビニ改めWild Heavenの馴初め編。
読んでお分かりの通り、企画ページのナンパ編の午後〜夜の出来事です。
太公望の常識外れも、ここに極まれり。

しかしSSとは絶対に呼べない長さですね。
本当は文庫に放り込みたかったんですけど、#036地下鉄で前振りしてしまったので、ここに収める事に・・・・。


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