#058:風切羽
この辺りかと見回した視線の先に、探していた後ろ姿が見えた。
ゆっくりと土を踏んで近付いても、その背中は振り返る気配を見せず、抜けるように青い空を見上げ続けている。
ならば、といつもの一歩下がった位置ではなく、隣りに立ってみると。
天上の青を映した瞳は、いつになく静かだった。
張り詰めるでもなく、揺れるでもなく。
深い森に抱かれた湖を連想させる静寂を、水面にたたえている。
と、その瞳が、こちらを見る。
いつにも増して深い深い色あいに、吸い込まれそうだ、と楊ゼンは思った。
「どうした?」
「どうした、ではありませんよ。執務をすっぽかした軍師殿を探しに来たんです」
「それはご苦労だったな」
くすり、と太公望が笑む。
その笑顔にも、違う、と楊ゼンは感じる。
いつもの・・・・よく見知った彼ではない。
何か、どこかが違っている。
一体何が、と思った時。
さらりと揺れる風が、甘く清々しい香りを伝えた。
「桂花・・・・?」
「ああ、おぬしも気付いたか。あそこだよ」
太公望が指差すその先に、こんもりと濃緑の葉を茂らせた大樹が、堂々とそびえている。
「ここしばらく、急に冷え込んだからのう。今朝から咲き出したようだ」
言われて見ても、本当にまだ咲き始めたばかりなのだろう。少し距離のあるここからでは、小さな星を思わせる濃金色の花は葉陰のどこにも見えない。
それでも、甘やかな秋の香りは、誇らかに薫っている。
「もう秋なんですね」
「うむ。空の色も、もう夏とは違っておる」
見上げたその先に広がるのは、一点の曇りもない青。
眩暈を覚えるほどに、どこまでも高く澄んでいて果てがない。
しばし、その青さを見つめてから、楊ゼンは隣りへと視線を引き戻した。
「──意外ですね」
「何がだ?」
「いや、意外でもないのかな」
「だから、何がだ?」
不意に言った楊ゼンの言葉の意味が取れず、空から視線を離した太公望は、まっすぐに隣りに立つ青年を見上げる。
その瞳を見つめて、楊ゼンは淡く笑んだ。
「いえ・・・・。この空とあなたが似合って見えるので。それが、少し新鮮な発見のような気がしたんですよ」
「──それを言うのなら、おぬしにも似合って見えるように思うがのう。意外にな」
「そうですか?」
「うむ」
そして、どちらともなく天上の青を見上げる。
「──そういう時代もあったかもしれませんね。空が青いことに疑問も持たず、無邪気に笑っていた頃が、あなたにも僕にも」
「今、あの青が似合うような気がするのは、その頃の名残ということか」
「どうでしょう」
楊ゼンの言葉に、太公望は静かに微笑む。
だが、その瞳はやはり、いつもの翳りは帯びない。
透明な青さを映したまま、深い湖のように凪いでいて。
「やっぱり今日のあなたは、いつものあなたとは違いますね」
「そうか?」
「ええ。この空と桂花のせいですか?」
「おぬしがそう思うのなら、そうかもしれぬな」
また小さく笑って、花の姿は見せないまま香りだけを伝えてくる桂の大樹をちらりと見やり、太公望はゆっくりと体の向きを変えて歩き出す。
「戻る」
「はい」
乾いた足元に降りそそぐ日差しは、相変わらず眩しい。
けれど、そこにはもう夏の激しさもなく、早くも傾きかけた光線が長い陰影を作り出していて、葉ずれの音を立てながら過ぎてゆく風が、その光と影の模様を揺らめかせる。
と、不意に歩みを止めた太公望が、足元から白いものを拾い上げた。
「師叔?」
「鳥の羽根だよ。鷺か何かだろう」
その手元を見れば、真っ白な長い羽根が乱れの一つもなく、初秋の日差しを受けて光っている。
しばらくそれを見つめ、くるりと子供がするように指先で軸を回転させると、太公望は羽根を手にしたまま、再び前へと足を踏み出す。
そのままどちらも何も言わず、何も聞かず。
静かに澄みわたった空を頭上に抱いて、二人は歩いた。
『雪』の二人ですが。
今回はちょっと、いつもの痛さに小休止。
きっと年に何度か、こういう静かな1日もあるのでしょう。
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