#046:名前
「ここは……?」
突如として目の前に現れた建物を、青年は多少の驚きを込めた目で見上げた。
建築の規模としては、それほど大きいわけではない。
だが、一目で百年近くも前の建築物だと分かる、それは古い洋館だった。
淡い月明かりの中で見れば、瀟洒なこしらえの高い青銅製の柵と、ひときわ精緻を凝らした門扉の向こうには、深い緑の木立と薔薇園が広がり、咲き誇る花に抱かれるように石造りの建物が建っている。
二階建てのそれは、大きさはさほどでもなく、豪壮というには当たらなかったが、洗練された古い時代の息吹を伝えてくるような重厚さと典雅さの調和した、美しい館だった。
門灯の光が届かない暗がりに身を潜ませながら、誰の持ち物だろうか、と青年は考える。
あいにく、この付近に関する情報は自分の中に乏しい。
深い木立と、通りにまで満ちている薔薇の香りは、中にまぎれてしまえば、おそらく完璧にこちらの気配を隠してくれるはずである。が、逆に、ここが虎口である可能性も少なくないのだ。
どうするべきか、と油断なく周囲の気配を探りながら、わずかに逡巡した、その時。
青年の居た位置のすぐ横、門扉の片隅にある通用口としての小さな扉が音もなく開いた。
誰かが近づいた気配などなかったのに、と驚き見ると、一人が通れるほどに開かれた扉の所に、小柄な人影があった。
淡い月光の下で、その人間のまなざしが真っ直ぐにこちらへと向けられている。
攻撃の意思は感じなかった。が、何者かと青年は、全身に緊張をはらんだ鋭い視線を向ける。
と、その人物が、あるかなきかほどの小さな微笑を口元と瞳に滲ませた。
「──中に入らぬか?」
静かな声は、高くも低くもない。
夜の中で、凛と心地よく澄んでいた。
「理由は知らぬが、その状態では動きようがあるまい。簡単な手当くらいならしてやれる」
「────」
取り乱すことを知らないような落ち着いた声に、青年は油断なく相手を見つめる。
声の主は、青年よりもずっと小柄で細い少年に見えた。
だが、雰囲気が外見を裏切っている。
少なくとも10代とは思えない。かといって、何歳なのかと問われると見当がつかない。そんな掴み所のない空気を身にまとっている。
そして、やはり殺気も邪気も感じさせない。
「──あなたは?」
「ここの住人だよ。この館には、他には誰も居ない」
「───・・・」
信じていいものかどうか迷った。
確かに青年の現状は、危険だった。
追手は撒いたものの、執拗な敵だ。いつ発見されるか分からない。
そして、ここへたどり着くまでの間に負傷した左肩が、痺れたように痛みよりも熱さの方を強く感じるのは、それだけ深手だということだ。現に簡易な血止めの布は、じっとりと重く濡れて、そろそろ用を成さなくなりつつある。
自分の状態を確認し直してから、青年は改めて目の前の相手を見つめた。
正体は分からない。
殺気も感じないが、人畜無害、丸腰に見えて全身に暗器を装備している刺客を、青年は何人も知っている。
もし彼がそういう相手なのだとしたら、今の自分では分が悪い。
しかし、かといって、この場にいつまでもとどまっていられるわけもない。傷のことも考えれば、せめて朝までしのげる場所が必要だった。
この人間を信じることはできない。
だが、危険なのはどこにいても同じだ。
覚悟を決めて、青年は足を踏み出す。
それを見届けて。
少年のような姿をした相手は、一歩後ろへと退き、客人を門内へと招きいれた。
「薔薇だらけだろう?」
庭園の曲がりくねった小道をたどりながら、前を歩く人が語りかけてくる。
「わしの趣味ではないのだがな。色々な種類の薔薇が年中、入れ替わり立ち代わり咲いておる。特にこの季節は芳香が強いから、血の臭いは綺麗に隠してくれるだろうよ」
そう言ううちにも、青年の腕からは傷口を縛った布から染み出た鮮血が、ぽつりぽつりと滴り落ちて、地面に斑紋を描く。
だが、それも長くは続かず、二人は館の玄関へとたどり着いた。
重厚な装飾の施された大きな扉は、予想に反して、館の住人を名乗った人間が手をかけると、音もなくなめらかに開く。
相当に年代ものの建物だが、手入れはきちんとされているらしい。
館の内部もそうだった。
外観を裏切らない内装が、旧時代的な等間隔で壁に並んだ燭台の炎に、朧気に照らし出されている。
他に誰も居ないというのは真実なのか、動くもの、あるいは息を殺して隠れているものの気配は、まったく感じない。だが、確かに人が日常を暮らしている気配だけは、静かに空気に染みている。
「こっちだ」
カーペットの敷き詰められた長い廊下を、迷いもせずに歩いてゆく。
そして彼は、一つの部屋の前で足を止め、ドアを開けた。
すぐについて中に入ることはせず、入り口から窺うと、室内も廊下と同じように、電灯ではなく燭台で淡く照らし出されていた。
おそらく居間なのだろう部屋は広い上に家具も多く、明かりの少なさもあいまって、衝立や飾り棚の裏に刺客が隠れようと思えば、いくらでも隠れられるようだった。
だが、周囲を警戒している人間を、そういった部屋に案内するというのは、罠だとしたら逆にわざとらしい。
おそらく本当に何もないのだろうと判断して、しかし緊張を解くことはせずに、ゆっくりと青年は室内に足を踏み入れる。
「そこに座れ」
壁際にある戸棚のあちこちを明けたり閉めたりしながら、相手が指示してくる。
しかし、その言葉を無視して、立ったまま青年は相手の次の反応を待った。
と、彼はすぐに薬箱らしきものと大量の布を手に、こちらへと戻ってくる。そして、もう一度、ソファーに腰を下ろすよう言った。
「言ったであろう、簡単な手当程度ならできる。座れ」
「薬と包帯さえ貸していただければ、自分でできます」
「たわけ。利き腕でなかろうと肩だろうが。警戒するのも分かるが、わしは少なくともおぬしの敵ではないし、害意もない。敢えて言うなら、家の目の前で怪我をしてうずくまっておった野良犬を、見捨てられずに拾ってきただけだ」
「────」
あまりといえばあまりの、だが的を得たたとえに青年は眉をしかめる。
が、相手の物言いに多少馬鹿らしくなったのも確かで、目線で促されるままに、大きな布張りのソファーに腰を下ろした。
それを見届けて、相手が手を伸ばせばすぐ触れる距離まで近づいてくる。
「どうしても気になるというのなら、身体検査をしてくれても構わぬが?」
「……いいですよ」
「じゃ、この血止めを外してくれ」
言葉とともに差し出されたのは、細刃の小刀だった。
向けられた柄には、小さくも美しい螺鈿の花が咲いている。
「見ず知らずのわしに、刃物を持たせたくはないだろう?」
だから、おぬしが自分で血に濡れた布を切り裂け、と言われて青年は、小刀を受け取る。
本物の暗殺者なら、小さなガラスの破片、細紐、針、そんなものでも容易く獲物をしとめることはできる。
だから、小刀を受け取ったくらいでは安心できなかったが、それはそれとして、無造作に肩と布との間に刃を入れ、血止めの布を切った。
途端に流れ落ちる鮮血を手にした布で抑えて、正体不明の館の住人は傷口の様子を見つめる。
「……相当に切れ味のいい刃物だな。肩の骨で止まっているのが不思議なくらいだ」
「向こうもいい腕でしたから」
「上から切り付けたのではなく、突きをかわしたのか」
「ええ」
やや投げやりに言いながらも、青年はさりげなく全身の神経を動員して相手の仕草を観察する。
しかし、怪しいそぶりを見せることはなく、彼は慎重な手つきで新しい布で肌を濡らしている血をぬぐう。
「朝になったらきちんとした手当を受けて、縫合しなければならぬだろうな。骨も、この分だと、ひびくらいは入っておるだろう」
「でしょうね」
己の怪我の程度は分かっていた。
むしろ、相手が怪我に──それも重傷を見るのに慣れているらしいことに、少しだけ意外さを感じる。
本当にこんな館で一人で暮らしているというのであれば、何か訳ありである可能性も少なくないが、しかし血生臭さに慣れているような雰囲気は感じなかったのだ。
だが、肩の骨が見えるほど大きく開いた傷口にも、大量の出血にもひるむ様子を見せず、淡々と手際よく膏薬を厚く塗った布を傷口に当て、更に固く包帯を巻きつけてゆく。
物慣れたその態度に、青年は改めて相手に不審を覚えた。
と、目の前に水の入った杯と、4粒の丸薬が差し出される。
「血止めと化膿止めと造血作用の強化によく効く。毒ではないから飲んでおいた方がいい」
「────」
「・・・・まったく、疑い深いな」
手を出そうとしない青年に溜息をついて、彼は自分の口に丸薬を放り込む。更に、杯をあおって水を含み、何をするのかと見ていた青年のあごをくいと人差し指の先で持ち上げて、唇を重ねた。
口移しに流し込まれた薬を、一瞬ためらった後、青年は飲み下す。
そして、感じた独特の匂いと苦さに、それが相手が言った通りの効能を持つ薬であることを知った。
「苦いのう」
唇を離すと、いかにも不味そうに彼は顔をしかめ、水差しから水を注いで杯を飲み干す
。
そして、青年を見やって軽く肩をすくめた。
「あいにく、わしは毒に体を慣らすなどという酔狂な真似はしておらぬからな。第一、怪我の手当てをした相手を毒殺して何が楽しい?」
「そういうのが好きだという人間もいますよ」
「そういうタイプがおぬしの好みなら、残念だったのう」
青年の皮肉めいた台詞を軽くかわして、館の住人は余った包帯を元通りに巻き始める。
小さな燭台の明かりだけが室内を薄く照らす中、白い細布がゆらゆらと揺れながら短くなってゆくのを、見るともなしに青年は見つめる。
「──あなたは何です?」
それから薬箱を閉じ、布の後片付けをしている様子をしばらく眺め、問いかけた。
と、彼は手を動かす合間に、青年の手前を指差した。
「それだよ」
見ると、ソファーの前には、瀟洒な螺鈿細工の卓があり、その上に何かが置いてある。
綺麗に積み重ねられた、カードだった。
トランプより一回り以上大きいサイズで、枚数ももっとあるように見える。
「タロット・・・・?」
知識としてはかろうじて知っている、だが直接は目にした事のない物の名を口に載せる。
と、薬箱を片付けて戻ってきた相手が、向かい側のソファーに腰を下ろした。
「そう。これがわしの商売道具だ」
無造作な仕草でカードを掴むように持ち上げた手から、パラパラと小気味よい音を立てて元通りにカードが落ちる。
「──占い師?」
「そうだ」
言いながら、彼はテーブルの上に裏向きのままカードを広げ、ひと混ぜした後、ひとつにまとめてから3つの山に分け、そして順番を変えて積み重ねた。
「おぬしは占いなど胡散臭いと思っておるだろうが・・・・、見るといい。占術の一番基本、過去・現在・未来を占うやり方だ」
テーブルに置いた3枚のカードを中心に、それぞれ5枚ずつのカードが配される。
「こちらから順に、過去、現在、未来。このカードが中心で、残りのカードは解釈のヒント。過去は見られたくないだろうから省略するとして、これが、おぬしの現在(いま)だ」
そう言い、細い指が表に返したのは。
「運命の輪・・・・?」
「そう。正位置の場合、人生の大きな節目、あるいは転機の到来をあらわす。これが今夜のおぬしの運気だ」
そして、と続けた。
「わしは今夜までおぬしを知らなかったが、これには面白いおまけがある」
彼はカードをそのままにして立ち上がり、戸棚から何かを持って戻ってくる。
見ると、裏の絵柄は違うが、同じくらいに使い込まれたタロットだった。
元通りにソファーに納まった彼は、青年の運勢だというカードの隣に、同じ手順で新たなタロットを配する。
そして、『現在』の中心にあるカードに手をかけた。
「見よ」
運命の輪──絵柄は多少異なるものの、巨大な車輪を背景に不安げな表情をこちらに向ける少年を描いたカードに、青年はわずかに目を見開く。
そんな青年の前で、占術師を名乗った相手は、静かな口調で告げた。
「これは、わしの運気だ。もう何年も前から、このカードは常にわしの『未来』の位置にあった。カードは正直だから、問えば教えてくれたよ。7の年、6の月、12の日、欠けた月が地平線を昇る頃」
何を、と思いつつも、青年は相手の言いたいことを理解する。
「──まさか、それで僕を助けたと?」
「そうだ」
彼は小さく微笑んだ。
「その日その時間に、誰かがわしの前に現われるということは分かっていた。だが、それだけだ。まさか血まみれの怪我人を拾うとは思いもしなかったが・・・・。でも、多少は分かることもある。──ほれ」
細い指が、『現在』の位置にある補助カードを一枚、めくる。
そこにあったのは。
「ワンドナイトの正位置・・・・・突然の状況変化を意味し、直感と決断力、行動力を併せ持つ機敏な青年をあらわす。言うなれば、戦士だな。そして・・・・こちらは、おぬしの『現在』のカード」
伸びた指が、今度は青年側のカードを一枚、表に返す。
「隠者の正位置。・・・・真実を照らす者、助言を与える者」
「御自分だと、言いたいわけですか」
「それはおぬしが考えることだ。おぬしの周囲に、当てはまる人物像があるのなら、そちらかもしれない。だが・・・・少なくとも今、おぬしの前に居るのはわしだな。そして、今のわしはおぬしの陥っている状況から一時的にせよ、かくまってやることはできる」
そして、彼は部屋の片隅を指差した。
「見えるだろう?」
そちらに目を向けると、今まで気がつかなかったが、完全に影になる位置に何かが置いてある。
よくある飲料水や燃料を入れるポリタンクのように見えた。
「中身は二つともガソリンだ」
「!?」
思いがけない言葉に、青年は目の前の相手を見直す。
が、占い師の方は平然としていた。
「この館は今夜、焼け落ちる。──あと1時間後くらいだな」
「・・・・・何故、です?」
「わしにも敵が多いということだよ。おぬしに負けず劣らず、な。そして、襲撃されるはずの日時が今夜というわけだ」
「・・・・・それも占いで?」
「そう。あいにく、外れたことがない」
聞きながら、馬鹿馬鹿しい、と青年は思う。
占いなど、せいぜいが統計学だ。ましてやタロットのようなカード占いなど、どうして信じられるだろう。
だが、占い師の方は気にする様子もなく続ける。
「だから、2時半になったらガソリンを撒いて、3時になると同時に火をかける。脱出口はあるから、わしとおぬしは敵に悟られることなく逃げられる」
「・・・・つまり、無事に逃がして欲しければ、あと1時間、茶飲み話にでも付き合えと?」
「そうだ」
あっさりと相手は答えた。
「おぬしほどの技量の持ち主なら、ここに居ても感じるだろう? 館の敷地の周囲はぐるりと取り囲まれておるよ。おそらく、おぬしの追っ手だろう。だが、彼らは敷地内には入って来れぬからのう。おぬしが出てくるのを待つしかない」
「何故、そう言いきれるんです?」
「この館の持ち主に手出しをできる輩は、国内にも国外にもそうそう居らぬからだよ」
そう言って彼が口にしたのは、一般市民なら誰でも知っているだろう巨頭政治家の名だった。
「な・・・・」
「そやつはわしの顧客の一人でな。色々と便宜を図ってくれておる。数年前に同じような襲撃を受けた時に、この館も提供してくれた。ついでに今夜、この文化財を燃やしたいと言ったら、苦笑しながらも、そうなることもあるかと思っていたと承知してくれたよ。できたら薔薇園は燃やさないでくれと注文もつけられたが」
まさに茶飲み話のような口調で語る。
が、その言葉に、青年は一つの名前を思い起こしていた。
「──太公望、師叔?」
「さすがに知っておったか」
くすりと、少年のような姿で笑う。
その微笑を、青年は目をみはって見つめた。
裏の世界の住人なら、誰もが耳にしたことがあるだろう名前。
どんな問いであろうと決して外れない、百発百中の稀代の占術師。
だが、人前に姿を現すことはなく、年齢も外見も一切が不詳とされている。
この魔都で半ば伝説と化した存在。
それが。
「あなたが・・・・?」
「外見はこんなだがな。おぬしよりは年上だぞ。おぬしは23、4といったところだろう?」
「でも、あなたの噂を最初に聞いたのは、ほんの子供の頃ですよ・・・?」
「そりゃそうだろう。ほんの子供の頃から、わしも祖父から受け継いで占いの仕事をしておったのだから。年齢は伏せてもらっていたから、直接占ってもらいに来た客以外は、わしが子供だということは知らなかっただろうがな」
「────」
青年が絶句すると、面白げに太公望という名の占術師は笑った。
「そういうわけだからのう、この館に火をつけたら、わしは新しい隠れ家に移る。派手に火をつければ、しばらくの間は生死の情報を撹乱できるだろう。それは、おぬしにとっても都合がよいのではないか?」
「・・・・一体、何をどこまで御存知なんです?」
「何も。わしがカードで占うのは自分のことと、依頼されたことだけだ。だから、おぬしのことは、わしの未来に関するカードに出た情報以外、何も知らぬよ。名前も生まれも育ちも経歴も」
ただ、と続ける。
「わしも裏の社会の住人だからな。そういう意味で、見れば分かる事柄もある。──おぬしは、『玄』だろう?」
ぴしり、と緊張が走った。
だが、太公望の方は表情を変えない。
「それくらいは分かるよ。だが、わしにとっては意味がない。おぬしが何者であろうと、今日この日に出会った人間、それだけで十分だ」
「──すべてを占いの結果で済ますつもりですか?」
「そういうわけではない。人生など岐路の連続だ。一挙一動にでさえ運命の行き先は分かれる。だが、一つ一つの道がすべて同じ太さというわけでもないのだ。
たとえば、千本の糸があるとする。それらはすべて太さが違う。蜘蛛の糸のように細いものから、荒縄のような太さのものまであって、タロットが指し示すのは、そのうち最も太いもの──最も実現の可能性の高い糸の行方だ」
「ですが、一番太い糸が一番丈夫とは限らない」
皮肉めいた言葉に、しかし占術師はうなずいた。
「そう。そのあたりが占い師の能力だ。太いだけで短いかもしれない、細くても切れないかもしれない。見かけでなく、本当に太い糸がどれなのか正しく浮かび上がらせることができるのが、上等の占い師ということになる」
「──それが、あなたですか?」
「とりあえず、今のこの国では、な。1ヵ月後には、わしではない別の占い師が百発百中をうたわれておるかもしれぬ」
そう言い、彼はまっすぐに顔を上げた。
淡い明かりの中で、驚くほどに深い色の瞳が青年を見つめる。
「おぬしはどうする? おぬしの『現在』のカードは見た通りだ。今すぐここを出てゆくか、それとも炎の中の脱出劇に付き合うか?」
「・・・・脱出に失敗して、黒焦げになったらどうするつもりです?」
その言葉に、太公望は笑った。
「それはないよ。あいにく、わしは自分が死ぬ年まで知っておるから」
「百年後ですか?」
「いや、二年後だ」
皮肉のつもりで言った言葉に返ってきた答えに、青年は目をみはる。
その表情を、どこまでも澄んだ瞳で太公望は見つめた。
「子供の頃から何度も繰り返し占ったが、結果は絶対に変わらない。どうしても、その年の位置に死神のカードが出てくる。だが、それまで大怪我や大病の暗示は出ておらぬから、今夜、わしが失敗することはないよ」
「・・・・そんな、ことが・・・・」
「だから、言っておるだろう。わしのカードは嘘をついてくれぬ。おかげでしばしば困らされるのだ。挙句、こうして命を狙われる羽目になっておるわけだし」
そう言われて、初めて青年は相手を取り巻く状況に思い至る。
「あなたが命を狙われているというのは・・・・」
「勿論、この商売のせいだよ。わしの顧客は政治家からマフィアまで幅が広い。そう言えば分かるだろう?」
たとえば、Aという人物に請われて占った結果が、Bという人物の悪事や策略を察知していたとしたら。
そうでなかったとしても、自分の敵が稀代の占い師の所へ行ったという情報を聞きつけただけで、後ろ暗いところのある人間は不安にならないか。
しかし、現時点で敵に対して動けないとしたら。
取るべき手段は──。
「わしは結果を伝えるにしても、具体的な名前を出すことはしないし、必要最低限のことしか告げぬ。ましてや、目の前にいる依頼人本人以外の人間を勝手に占うことはしないし、情報を垂れ流すこともしない。しかし、それを解さない相手もいるということだ」
「────」
「災難だがな。こういう商売をしている以上、リスクを負うのは仕方がない」
そして、改めて太公望は青年と目線を合わせた。
「そろそろタイムリミットだからのう、これが最後の問いだ。おぬしは今すぐここを出て行くか、否か?」
「──・・・」
半ば脅迫だと、青年は思う。
敷地の周囲を追っ手が囲んでいると言ったのは、太公望の方である。
今、のこのこと出て行ったところで、肩を負傷しているこの状態では手ぐすね引いている刺客たちに、なぶり殺しにしてくれと言っているようなものだ。
そしてまた、新たな殺気が近付きつつあるのを、遠い感覚で捉えている。おそらく、こちらが太公望の命を狙う刺客なのだろう。
「選択肢のない質問をして下さいますね」
「そうでもないぞ。おぬしが偉大なナルシストか、破滅型の自殺願望者なら違う答えも出せるだろう?」
「あいにく、僕はどちらでもありません」
「それは良かった」
何が良いのだろうと青年は思うが、太公望は本気らしい笑みを瞳に滲ませる。
そして、手早くテーブルに広げてあった2組のカードを片付け、ソファーから立ち上がった。
「おぬしは休んでおれ。ガソリンはあと玄関と廊下と、この部屋に撒くだけだから、一人で十分だ」
「それくらい手伝えますよ」
「無理はするな。かろうじて出血を抑えてあるだけなのだからな。ここを脱出したら知り合いの医者に連れて行ってやる。おぬしが治療を受けたことは、絶対にどこにも漏れぬから心配しなくていい」
「そこまであなたにしてもらう義理はないですよ」
「わしにはあるよ。ずっと会いたかったのだから」
何を言われたのかと思う間もなく、一瞬、肩越しに笑顔をひらめかせた太公望はポリタンクを片手に居間を出て行ってしまう。
あっけに取られ、それから我に返って、青年は自分がすべきことを考えた。
左肩は動かせないが、利き腕側ではないし、まだ貧血もさほどではない。多少、動くくらいなら大丈夫だと判断して、ずっと座っていたソファーから立ち上がる。
そして、部屋の片隅に残されたもう一つのポリタンクを持ち上げ、片手だけでもどうにかなる重量だということを確かめてから、広い居間の端からカーペットにガソリンを撒き始めた。
ポリタンクの底に少し残して、室内にガソリンを撒き終えた頃、太公望も戻ってきた。
「休んでいろと言ったのに・・・・」
「これくらい、片手で十分ですから」
「だからといって、脱出の最中に倒れられたら困る」
「脱出に失敗するとは、占いには出なかったんでしょう?」
「・・・・・・」
真実をついたのか、太公望は肩をすくめて見せる。
それから、テーブルの上に置いてあったタロットカードを上着の内側に納め、青年を手招いた。
呼ばれるままに足を踏み出して、ついて廊下に出る。
ガソリンの匂いが鼻をつく館内を歩いてゆくと、やがて館の生活をまかなう厨房その他の設備のある場所へとたどりついた。
その片隅にある、狭い石階段を太公望は降りてゆく。
そして、突き当りの木製の扉を開けた。
「脱出口としては定番なのだがな。ここのは結構、上手く造られておる」
そこはワインカーヴだった。
入り口にある燭台に火をつけ、太公望は迷うことなく端から2番目の棚の、上から3段目の隅からワイン瓶を床に下ろし、その隙間に腕を突っ込む。
数秒後、床石の一つが下に向かって開き、人一人がくぐれるほどの穴ができた。
青年が覗き込むと、穴の壁には鉄製の足がかりが等間隔で打ち付けられ、ぎりぎり燭台の明かりが届く底には、事前に用意してあったのだろう懐中電灯が置いてあった。
そして、そこからどこまで続いているのか知れない横穴が伸びているのが見える。
そこまでしておいて、太公望は懐から小さなリモコン装置を二つ、取り出した。
「それは?」
「こっちは発火装置。火花を飛ばすだけの単純なものだがのう。館中に仕掛けてある」
「こちらは?」
「庭園のセンサーと連動した非常用モニター。敷地内に一歩でも入ったら分かる。そろそろ・・・・・ほれ、言う傍から侵入者だ」
モニター画面で、小さな光が点滅を始めた。
太公望は、モニターから目を離し、自分の腕時計の秒針が動くのを見つめる。
一秒一秒がひどく長い時間に感じられ、青年も背筋がかすかに緊張するのを覚えた頃。
太公望が発火装置のボタンを押した。
「さて、行こうか」
一気に火の海になったであろう館を思うように、地下室の天上にちらりと目を向けてから、太公望は青年へと笑みを見せる。
「この脱出口を抜けたら、ここも、この非常用モニターについている起爆スイッチで爆破する。
そうしたら、もう誰も追っては来れぬよ」
そう言って、先に行こうと穴に進みかけて太公望は振り返る。
「そういえば、おぬしの名前をまだ聞いてなかった。呼びにくいから、通り名でもいいから教えてくれぬか?」
一瞬迷って。
「楊ゼン」
青年は自分の名を口にした。
何故、本当の名を名乗ったのかは、自分でも分からなかった。
一応、生命を救ってくれた相手に何らかの恩義を感じたのか、それとも──。
「楊ゼンか。いい名だな」
初めて耳にした名前を、太公望は大切そうに呟く。
そして、改めて言った。
「行こう、楊ゼン」
その夜。
二人きりの長い旅路が始まった。
新シリーズ開幕。
とりあえず舞台は日本じゃないと思います。香港とかマカオとかに似た、極東アジアのどこか。
そろそろSARS騒動もおさまってきたし、中国旅行、行きたいな〜。
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