修羅 蒼雲の章
−峰雲−
───何なんだ、この人……!?
半ば呆然と、ユイファは目の前の背を見つめた。
彼の外見年齢そのものは、自分よりも二つ三つ上だろう。しなやかな痩身で、背丈は成人男子の平均身長程度。
そして、漆黒の髪に、底の知れない青藍色の瞳。整った顔立ちは決して派手ではないのに、人目を惹きつけてやまない、不可思議な磁力がある。
だが、問題はそんなことではなかった。
───今、この人は何をした?
つい先程まで、自分たちは峠道で遭遇したワームに苦戦していた。
昆虫系のモンスターは体の構造が単純な分、概して耐久力に優れており、対した時はどうしても持久戦を強いられることが多い。
今回もまた例に漏れなかったのだが、その最中、彼に、モンスターの鼻面をちょっとだけ跳ね上げるよう指示されて、どうするつもりなのかと訝しく思いながらも、そのの通りにしたならば。
ほんの瞬きするほどの間に、彼によって心臓を衝き潰されたモンスターの巨体は、地響きを立てて大地に崩れ落ちたのだ。
彼の武器は、何の変哲もない長棍であるというのに。
素材が黒金製という辺りからして尋常ではないが、しかし重量がどうあれ、刃のない獲物の一突きで、熊や虎よりも大きさで勝るようなモンスターを倒せるものだろうか。
───どうしてそんなことができる?
ユイファも、武道家だった義父の教えを物心付いた頃から受け、そこいらの武人には引けを取らないくらいの腕の覚えはある。
だからこそ、目の前の相手が、まるで何でもないことのように見せ付けた神技に、感嘆の声すら出ない。
───人間技じゃ、ない。
それどころか、冷たい汗が背筋を伝い落ちてゆく。
───近隣に名を轟かせた名将テオ・マクドールの唯一子、シェイラン・E・マクドール。
トラン建国の英雄。
現代の、生きた伝説。
そんな幾つもの彼にまつわる呼称が脳裏をめぐる。
それらの大げさな呼び名は、決して事実を歪曲拡大したものではなかった。
今、ユイファは、以前初めて野生の虎を目の前にした時の感覚にも似て、僅かに手足を動かすことすらままならない。
だが。
「おい、どうだ?」
その金縛りは、緊迫した傭兵たちの声によって解けた。
「まずいな、毒消しが利いていない。このままバナーまで戻ったとしても、そこから瞬きの手鏡を使って……ホウアンに診てもらうまでに時間がかかりすぎる」
「クソッ。医者さえ近くに居れば……!」
毒熱にあえぐ子供を囲んで、傭兵たちが悔しげに歯噛みする。
その言葉に、ユイファははっと我に返り、今の自分たちが置かれた情況を思い出した。
「コウ!」
慌てて彼らの下に駆け寄り、ビクトールの膝に抱え上げられた少年の顔を覗き込む。
「コウ、しっかりして……!」
土気色をした幼い顔は、時折起こる痙攣に苦悶の表情を浮かべて荒い呼吸を繰り返しており、危険な状態にあることは一目瞭然だった。
なのに、幼い少年のの苦しみに対処する方法が咄嗟に思い当たらず、ユイファは唇を噛み締める。
──そもそもの原因は、ユイファたち一行がバナー村に滞在しているという旅人に興味を示したことにあった。
そんなユイファたちの好奇心に応えようとした少年の無邪気さが、思わぬ災難を引き寄せた。それは不運としか言いようのない出来事だったが、現に目の前で幼い命が危険に晒されている。
戦場での事ならばともかくも、今それを見過ごすことは、彼らには到底できないことだった。
しかし、
───どうすれば……!?
間の悪いことに、北方のハイランド育ちであるユイファには、ジョウストン都市同盟でも最南端に当たるこの地域についての土地勘が殆どない。
軍主として最低限の地理は頭に入っているし、トランとの国境が近いことは分かるが、近くに助けを求められるような集落はあるのか、どこに行けば医者が居るのかといった詳細は、皆目見当がつかないのである。
今の自分に出来ることといえば、先程ビクトールが言った通り、バナーの村まで戻って瞬きの手鏡を使う、それくらいのことしか思いつかない。
しかし、そのバナーまで戻るにも数時間を要する。それでは間に合わないのだ。
焦燥に駆られて見つめる間にも、毒にあえぐ少年の小さな身体が、苦悶を訴えるように痙攣を起こす。
どうしよう、と鉄錆の味がするほどに唇を噛んだその時。
「ビクトールもフリックも、もう老人ボケが始まったんだ? 医者なら居るだろう? すぐ近くにこれ以上ないってくらいの名医が」
心底呆れ返ったような、場違いにも程がある声が木立の間に響いた。
「何だと!?」
緊迫感の欠片もないシェンの言葉に血相を変えて反応したのは、当然の如く子供を抱えた熊だった。が、すぐに何かに勘付いたように、思案する顔になる。
「そうか……リュウカンか」
ビクトールの言葉に、彼はさらりとうなずいた。
「御名答。聞くところによると、四六時中、往診していて留守らしいから、診療所に居るかどうかは賭けだけどね。この峠さえ越えてトラン領に入ってしまえば、移動魔法も使い放題だろう、ルック?」
「──僕を乗合馬車代わりにする気?」
「君の怠慢のせいで、目の前で小さな子供が死んでもいいというのなら、別に拒否しても構わないよ」
「…………」
「ユイファは?」
「え?」
不意に名を呼ばれて、ユイファは慌てる。
だが、シェンは相変わらず悠然と棍を手にしたまま、まるで日用品の買い出しの予定を決めるかのような口調で続けた。
「君がリーダーなんだから、君が決めてくれないと皆、動けないよ?」
「あ、はい……」
うなずいたものの、しかしユイファは困惑する。
事情の説明も何もなく、決断してくれと言われても、それは無理な話だ。
目の前で交わされたばかりの会話を脳裏で再現して、彼らの言わんとしている事を把握しようと努力しつつ、口を開く。
「あの、この近くにお医者さんがいるんですか」
「うん。近くはないけどグレッグミンスターにね。現在位置だと、バナーに戻るよりトラン国境の砦に向かった方が余程早いだろうし」
「ルックは、峠を抜けたら移動魔法を使えるの?」
「……この程度の人数ならね。一気に飛ぶには少し遠いから嫌だけど、運べないこともない」
その返答に、ユイファは考える。が、その間は数秒もなかった。
「分かった。じゃあ悪いけど、ルック、お願いするよ。皆も急ごう」
「おう!」
「分かった」
軍主の言葉にめいめい立ち上がり、荷物と武器を抱えなおして、ビクトールはコウを広い背に負う。
「行こう」
「スピード上げるからな、遅れるようならオウランとナナミは後から来てくれ。ここまで来ていれば、どうにか二人で国境砦まで辿り着けるだろう」
「何言ってんのよ、ビクトールさん。私たちも行くに決まってるじゃない」
「……って、ナナミは言ってるからね。こっちは臨機応変にやるよ」
そして、駆けるような速度で走り出したビクトールとフリックを先頭に、一行は険しい峠道を一気に踏破し始めて。
その殿(しんがり)を、何故か自分と肩を並べて歩を進めているシェンを、ユイファはちらりと横目で見た。
彼が何を考えているのか、さっぱり分からない。
人を見る目に自信があるわけではないが、楽しんでいるような表情とは裏腹にどこか冷めた気配を彼の言動に感じるのは、決して自分の気のせいではないだろう。
その後ろには、何が隠されているのか、気にはなるが、知ること自体が空恐ろしいような気がする。
けれど。
「シェンさん、ありがとうございます」
一つ深呼吸してから、そう告げると。
彼はこちらを見て、やはり面白げに笑んだ。
「どういたしまして。君に御礼を言われるのは、なかなかいい気分だね」
「勝手に言ってて下さい」
それきり、彼のことは無視することにして、ユイファは険しい足元と、周囲への警戒に神経を集中させる。
が、何とも形容しがたい彼の圧倒的な存在感は、どれほど無視しようとユイファの傍らに在って。
歯を食いしばったまま、ユイファは山道を一気に駆け上った。
結果として、そこから先の事は全て上手く運んだ。
トラン国境までは特にモンスターにもてこずることもなく、ルックの移動魔法は一行を速やかにグレッグミンスターに運び、ちょうど往診から戻ってきていたリュウカンも、即座に解毒を処方してくれて、コウは一命を取り留めた。
少年に万が一のことがあったら、彼の家族に申し開きができないところであったし、ユイファ個人としても、自分の迂闊な行動が少年の危機を招いた以上、自分で自分を許せなくなっていたに違いない。
命が助かったのだから良いというものではなかったが、それでも人心地ついて、多少なりとも心に落ち着きを取り戻したユイファは、改めてリュウカンにコウのことを頼み、仲間たちと共に診療所を出た。
途中の大騒ぎで忘れかけていたが、そもそもユイファがバナー峠を越えたのは、トラン大統領レパントを訪ねるためだったのである。
軍主としての役目を果たさなければ、戻るに戻れない。
それを思い出して、ユイファはグレッグミンスターの大統領府へと向かった。
赤月帝国の帝城だったというグレッグミンスター城は、ユイファの貧弱な語彙ではどう表現すれば良いのか分からないほど、豪壮で贅を尽くした広大な城だった。
数年前の戦乱により、一旦は荒れ果てたというが、トラン共和国の大統領府となった今は、本来の衆目を圧倒する威を取り戻し、燦然ときらめいて黄金の都グレッグミンスターに鎮座している。
そこの柱の前にある置物一つで、同盟軍の武器や兵糧がどれほど賄えるだろう、といじましい計算をしながら、ユイファは警護兵の案内に従って、きらびやかなグレッグミンスター城内を歩いていた。
この城一つをとっても、トランの……引いては旧赤月帝国の国力が推測できる。
かつて、ジョウストン都市同盟は何度も赤月帝国に兵を向けたが、結局、国境線を変更することは叶わなかったという。
しかし、この城とグレッグミンスターの街、更には街の外に広がる豊かな田園地帯を見れば、それも納得ができた。
豊かさでは都市同盟も決して負けてはいなかっただろうが、強力な指導者を欠いた同盟に対し、赤月帝国は皇帝という絶対的な君主を戴いていた。それは、攻めるにしても守るにしても、戦時には絶大な力を発揮したに違いない。
この数ヶ月の間に、まとまりを欠いた都市同盟が砂の城のようにもろく崩れてゆく様を目の当たりにしたユイファには、それが痛いほどに実感できる。
───目をみはるほどの豊かさに加え、安定した政治。
今のトランには不足しているものが何もない。
おそらく今現在、この大陸上で最も人生を謳歌しているのは、トランの国民に違いなかった。
ほんの数年前までは、大陸で最も疲弊し、圧制に喘いでいるのは、同じ土地に住んでいた人々であったというのに。
これが政治の力というものなのだ、とユイファは思う。
為政者次第で、国はこんなにも変わる。
その生きた証が、この国にはあった。
(この国を、あの人が作ったのか)
建国の英雄と讃えられる青年は、今、ユイファの傍には居なかった。
突然の帰郷に驚くリュウカンと再会の挨拶を交わし、コウの治療が終わるところまでは付き合ってくれていたが、ユイファが大統領府に行くと言った途端、彼は別行動を宣言したのである。
といっても、「じゃあ僕は屋敷に戻るとするかな。大統領府には用はないし」と言っただけで、あとは独り言のように、ああしまった荷物をバナーの宿屋に置いてきたから土産がない、まぁ後日取りに行けばいいか、ユイファたちもどうせなら宿代を節約してうちに泊まればいい、とこちらが口を挟む間もなく言葉を羅列すると、笑顔で片手を振って、さっさと姿を消してしまったのだ。
彼が何を考えているのかは、やはりさっぱり分からなかったものの、ひとまず彼が同行者から外れてくれて、出会って以来翻弄されっぱなしだったユイファは、ようやくほっと一息をつくことができたのである。
───好き嫌いを判断するには早すぎるんだけど……。
苦手だ、と思わざるを得ない。
出会ってからまだ半日だが、彼の何が悪いというわけではない、とユイファは思う。彼が善人か悪人かと問われたら、おそらくそのどちらでもないような気がする。
ただ、彼の圧倒的な存在感とどこまで本気だか知れない言動は、否応なしにこちらの神経を逆撫でし、かき乱す。
それがどうにも耐え難いのだ。
そんな彼が姿を消してくれて、気が楽になったのもつかの間、こうして大統領府内を歩いていると、どうしても彼のことが思い浮かび、ユイファは憂鬱な気分で壮麗な廊下の装飾へとまなざしを向けた。
───こんな宮殿に暮らしていた強大な皇帝を、どうやって倒したのか。
───彼が、どんな軍主だったのか。
考えてもさっぱり見当がつかず、ユイファは小さくかぶりを振る。
記憶に間違いがなければ、大統領の執務室はもう目の前であり、もう余計なことを考えている暇はない。
同盟国の元首に伝えなければならないことは何だったか、慌しくユイファは脳裏で復唱し始める。が、心の片隅に彼の面影がかすかにちらつくのを完全に消し去ることは、結局できなかった。
トラン大統領レパントは、今回も隣国の同盟者を快く迎えてくれた。
身軽に執務卓から立ち上がった大統領に応接セットに案内され、再会の挨拶と共に、道中恙(つつが)なかったかと問われて、バナー峠のワームのことをユイファが告げたのは、これは隣国にも知らせておくべき情報だと思ったからだった。
都市同盟とトラン共和国を繋ぐ、ほぼ唯一の交易ルートであるバナー街道の安全は、両国の今後にとって重大な意味を持っている。
だからこそ、街道のトラン寄りにワームの巣があること、そのうちの一匹は退治したものの、これからも注意すべき地点であることを告げたまでは良かったのだが。
「それで、そのワームを退治する際に、こちらにも御縁の深いマクドール殿にも御尽力をいただきまして……」
いささか複雑な気分で、控えめにそう言った時。
レパントの顔色が変わった。
「今、マクドール殿と申されたかっ!?」
「は、はい」
激的なまでに顔を紅潮させ、応接卓に身を乗り出したトラン大統領の剣幕に驚き、気圧されながらもユイファはうなずく。
「僕は初対面でしたけど……御本人だよね?」
台詞の後半は、同行者に混じっているビクトールやフリックに向けて発せられたものだった。
が、彼らはユイファの視線に答えようとはせず、明後日の方角に目線を向けて素知らぬ顔をしようとしていて。
その意味をユイファが考えるよりも早く、レパントが声を荒げた。
「ビクトール、フリック! 真実、シェイラン様だったのか!? どうなのだ!?」
「あー…。まぁ、本物、だったけどな」
「ちょっと落ち着けよ、レパント……」
「落ち着いていられるものか!」
額に汗をにじませながら口々に宥めるように言う傭兵たちの言葉を振り切って、レパントは立ち上がり、
「こうしては居られぬ!!」
雄々しく宣言すると、マントをひるがえして大股に歩き出す。近習たちが慌てて後を追い、後には客人たちだけが残されて。
「ああ、やっぱりこうなっちまったか……」
「ユイファ、俺たちも行くぞ。行きたくないが、行かないともっとまずいことになる」
「最初に口止めしておかないからだよ」
渋い表情で、ビクトール、フリック、ルックの三人が立ち上がった。
つられて立ち上がりながらも、ユイファは事態が把握できず、戸惑いつつ彼らの顔を見回す。
「……もしかしなくても……シェンさんのこと、言ったらまずかった?」
その問いかけに、しばし沈黙が落ち、やがてビクトールが諦め気味に首を横に振った。
「いいや。どうせ遠からず、こういうことになってたはずだ。むしろ、後から、どうしてあの時に教えてくれなかったかってレパントに詰め寄られる方が、返事に困っただろうからな。これはこれで良かったんだろうさ」
それに、ルックが肩をすくめるようにして続けた。
「とにかく僕は知らないからね。君たちが何とかしなよ」
「ルック……。お前、ちょっとは協力しようって気はないのか?」
「ないよ」
うんざりと脱力したような会話を交わす元トラン解放軍メンバーが先に立って、一向は大統領執務室を出る。
そして、だだっ広い城内をそれでも早足で抜けて、城門の門番にビクトールが、大統領がどちらへ向かったのかを確認してから、大噴水広場へと続く大通りへ出た。
「レパントは馬を引き出す時間も惜しいと言って、自分の足で走って行ったそうだ。俺たちも走るしかなさそうだぞ」
「確かに、この距離だとなぁ。馬を出す間に辿り着けるな」
「ったく、大統領が目抜き通りを全力疾走だなんて、住人に気付かれたらいい見世物だぜ」
ぶつぶつ言いながらも、ビクトールとフリックは駆け足になる。
訳が分からないながらも、ユイファたちもそれに従った。
ただ一人、ルックだけがその気はないらしく、悠々と歩き続けて、他の五人との間にはたちまちに距離が開いたが、それに構う間もなく、左手前方に現れた壮大な屋敷に向けて、ビクトールが顎をしゃくる。
「あれがマクドール邸。あいつん家だ」
「……ええ!?」
延々と続く塀を目測して、思わずユイファは驚きの声を上げた。
瀟洒な錬鉄製の上部飾りを備えた高さ二メートル以上ある石塀は、少なめに見積もっても長さ二百メートルは下らない。それが四方に広がっているとしたら、総面積はどれほどになるのか。
「これが個人のお宅なの!?」
「個人は個人でも、元赤月帝国の大貴族だ。ああ見えても、シェンは生粋の大金持ちのお坊ちゃまなんだよ」
「だからって、限度があるでしょう……!」
ユイファがこれまで知っていた貴族の邸宅というと、キャロの街にあったジョウイの実家と、王家の別荘くらいなものである。
しかし、このマクドール邸は桁違いの広さだった。グレッグミンスター城には当然劣るものの、面積だけで言えば、グリンヒル学院にも匹敵しそうに見える。
「でも、本宅の城に比べれば、これでもかなり小さいんだぜ。ここは帝都での本拠、タウンハウスだからな」
「ええええっ!?」
「マクドール家の本拠は、このアールス地方の最北にあるグリュイエール城ってとこでな。今まで一度も敵の攻略を許したことがない難攻不落の名城なんだ。俺も遠くからしか見たことはないが、攻めることを考えると気が遠くなりそうなくらいでかくて、頑丈そうな城だ。シェンに言わせると、城郭の内側にある領主館や中庭は、このグレッグミンスターの屋敷より遥かにでかくて綺麗だって話だけどな」
話の桁があまりにも違う。
信じられない、と思いながらもユイファは先導の傭兵たちに続いて、大噴水広場の角を曲がる。
と、その向こうに、何とも形容しがたい複雑かつ美しい花唐草文様を描く錬鉄製の門扉が見え、その門に対し、壮年の人物が大声で開門を求めているのが聞こえてきた。
「開門! シェイラン様にお目通りを願いたい! 即刻開門を願う!!」
「レパントの奴、あんな大声で叫びやがって……」
ぼやきつつもビクトールは最後の一息を足を速める。
その甲斐あってか、門が開かれる寸前に五人はレパントの背後に並ぶことができたが、
「おい、レパント……」
呼びかけるよりも早く、主人から開門の許可を得た門番が門扉を開き始め、ビクトールの声は無視されたまま、一向はレパントの背を追ってマクドール邸内になだれ込むことになった。
門扉から続く深い木立によって彩られた小道を抜けると、楽園のように美しい花々の咲き乱れる前庭の向こうに堂々たる邸宅がそびえ立っている。
全体としては武門の屋敷らしく重厚でありながら、窓枠や柱頭を飾る瀟洒な意匠は洗練された美しさを加えており、まるで武具甲冑に花茨を絡ませたような絶妙のバランスは、見るものを圧倒する壮麗さだった。
そして、周囲の風景に目を奪われつつもレパントを追ってポーチの階段を上がり、中から開かれた大扉をくぐると、そこには屋敷の主が待ち受けていた。
階段室を兼ねた広大な玄関ホールで、まだ先ほど別れた時と同じ旅装姿のまま、シェンは呆れたような顔で、なだれ込んできた客人たちの顔ぶれを見回す。
「何だか一人、入れ替わっているようだけど……ルックは?」
「あいつは後から歩いてくるだろうよ」
「そう。まぁ、彼が居ようと居まいと変わりはないんだけど」
気のない素振りでうなずき、それからシェンは、一行の最前列に立つレパントへと視線を向けた。
ユイファも彼へと視線を向けると、トラン大統領の広い肩がぷるぷると小刻みに震えている。
そして、
「シェイラン様……!!」
感極まったように、レパントは床に膝を着いた。
「お帰りをお待ち申し上げておりました……!!」
体ばかりでなく、声まで震えている。
大げさすぎるほどの態度に驚きながらシェンを見ると、彼はレパントの感激とは対照的に、冷めて、やれやれと言いたげな顔でかつての仲間を見ており、溜息と共に彼の名を呼んだ。
「レパント、落胆させてすまないが、僕は大統領になるために帰ってきたわけじゃない。グレッグミンスターに立ち寄ったのは、旅の途中の成り行きだ」
「!?」
その言葉に、レパントがはじけるように垂れていた頭を上げた。
「今、何と……!?」
「だから、その気はないと言ったんだ」
シェンは、素っ気無く続ける。
「トランは君の国だ。僕の国じゃない」
「いいえ、あなたの国です! そう思えばこそ私は非才の限りを尽くして、この三年をどうにかやってきたのですぞ」
「謙遜しなくていい。非才どころか見事な手腕だよ。あれだけ荒れ果てた国土を、よくここまで見事に立て直したと思う。だが、それは君と君の部下たちの功績だ。僕は何も関与してない」
「いいえ、そんなことはありません! あなたの存在が、どれほど我々の心の支えになったか……あなたという光明を無くしては、この国は立ち行きなりませんでした……!」
「それは妄想だよ、レパント」
熱のこもった言葉を一言で切り捨てて、シェンは右手の甲をかざして見せた。
そこには暗朱色の輝きが、死神を思わせる禍々しい形をかたどっており、ユイファは思わず息を呑む。
「この紋章が何だったか覚えているだろう? 僕は乱を起こし、終わらせた。その間にそれなりの軍才は示せたかもしれないが、それだけの存在だ。この紋章も僕と同じで、乱世には絶大な力を発揮するが、統治には向かない。国を治めることに興味がない上に、お気に入りの側近を次々に喰らう国王なんて、洒落にもなりはしない」
「……シェイラン様」
「トラン共和国を作り上げたのは、君たちの熱意と努力だ。僕の国はもう存在しないし、僕には統治者の資質も無い。君があの頃、僕に何かの資質を見たとしたら、それは乱世の梟雄としての資質だよ」
「そんなことはありません。シェイラン様、我々があなたのことをどれほど敬愛し、お慕いしたか……! 皆があなたを呼んだあの大歓呼を、よもやお忘れになってはおりますまい?」
「──忘れてはいない。だが、もう過去のことだ」
はっきりと言い切り、シェンはゆっくりと足を踏み出す。
そしてレパントの前で立ち止まり、膝まづいたままの彼の肩に手を置いた。
「レパント、平和なこの国の統治者にふさわしいのは君だ。僕のことを真実、思っていてくれるのなら、僕が赤月帝国でできなかったことをトランの国民にしてやってくれ。僕を思う分だけ、この国に尽くして欲しい」
「……シェイラン様」
シェンの顔を見つめていたレパントの肩が震える。
やがて、レパントの頭が力なくうつむいた。
「シェイラン様のお望みとあらば、我が身の全てを賭けてトランのため、尽くしましょう。ですが、ですがシェイラン様……いつの日か、この国にお戻り下さい。何度国の名が変わろうと、アールスの大地はあなたのことを決して忘れはいたしませぬ。あなたが流された血も涙も、すべてを覚えておりますぞ……!」
濡れて光るレパントの瞳が、シェンを見上げた。
「我らは未来永劫、真実の王の御帰還をお待ち申し上げております……!」
「レパント……」
苦渋の涙を浮かべたかつての仲間の言葉に、シェンは少しばかり言葉を迷ったようだった。
それまでどこか演技じみていた荘重な表情に、ほのかな揺らぎが生まれる。
やがて一瞬だけ目を伏せ、静かにシェンは言った。
「レパント、僕はとうの昔にソウルイーターの主であることを選んだ。赤月帝国が倒れるよりもずっと前に。それと一国の統治者であることは決して相容れない。そして、僕が自らソウルイーターを手放すことは決して有り得ない」
静かで淡々としているのは変わらないのに、何故かその声だけは不思議な力で脇に居るユイファの胸にまで届いて。
ユイファが何故、と思う間にも、だから、とシェンはその声のままで続けた。
「いつの日か、僕が大地に眠るということがあれば……それは、このアールスの地であるかもしれない。……そうとしか僕には言えない。分かってくれ、レパント」
「……シェイラン様……」
───まるで、英雄譚の一幕を見ているようだった。
そのままレパントは、しばらくの間、男泣きをこらえてうつむき、肩を震わせており、シェンはその肩に手を置いたまま、身動きしなかった。
シェンは埃っぽい旅装を身に纏ったままであるにもかかわらず、玄関ホールの上部から差し込むステンド硝子越しの光に照らされたその秀麗な姿は、若き帝王以外の何者でもない輝きを帯びており、対するレパントは、主君に全身全霊で忠誠を尽くす、股肱の臣そのものだった。
ここまでの経過を思えば、滑稽劇であってもおかしくないはずなのに、レパントの真摯さをシェンが逸らさなかったことで、思いがけない荘重さがその場には生まれ、誰一人として声を発するものは無かった。
否、シェンは当初は逸らそうとしたのだろう。会話の最初の方は、明らかにレパントの勢いをいなすものだったし、後半も途中まではレパントを説得するための言葉であって、表情も台詞も、端から見ていて演技じみていた。
だが、最後の最後に、レパントの熱意と真情がそれを打ち破ってしまったのだ。
シェンが最後の一言を言う時に一瞬見せた表情は、決して作ったものではないとユイファには見えた。
忍び泣きと、それに続く沈黙がどれほど続いたのか。
やがてレパントは顔を拭って立ち上がり、威儀を正してからシェンに向けて一礼した。
「つい取り乱してしまい、お見苦しい所をお見せしました。ユイファ殿も申し訳なかった。都合がつくようであれば今日のところはこれで失礼して、明日の朝、もう一度、大統領府まで御足労願いたいのだが」
「あ、はい。それは構いません。もともと明日の午後、こちらを立つ予定でしたから」
「そうですか。では、また明日に。シェイラン様も、よろしければグレッグミンスターを発たれる前に、大統領府にお立ち寄り下さい」
ユイファたちにも丁重に一礼して、レパントはマクドール邸を立ち去ってゆく。
その後姿を見送って、ユイファたちはシェンを振り返る。
と、シェンは、先程一瞬見せた真摯な表情が幻であったかのように、また何を考えているのか知れない、面白がっているようなのに冷めているような表情に戻っていた。
「……悪かったな、シェン」
「まぁ仕方ないね。僕も口止めしなかったし」
ビクトールの謝罪を肩をすくめて受け入れ、シェンは一同を見回す。
「さてと。久しぶりのお客だから、料理長も喜ぶだろう。エスティーナ、彼らを部屋に案内してやってくれ」
良く透る声で呼ぶと、広間の片隅に控えていた侍女が一人、なめらかな足取りでやってきて、ユイファたちに丁寧に一礼した。
「どうぞ、こちらへ」
「え? あ?」
「屋敷の中では好きに過ごしてもらって構わないよ。鍵のかかってない部屋は出入り自由だし、備え付けてある道具類も、自由に使ってもらってかまわない」
「って、シェンさん!」
「お客は大事にするのがマクドール家の伝統なんだ。僕が留守の間、使用人たちも暇にしてたようだからね。皆、張り切って世話してくれると思うよ。飛んで火に入る何とやら、ってとこかな」
にっこりと楽しげな笑みを浮かべて、シェンは、じゃあまた後でね、とさっさと階段を上がっていってしまう。
そして、おそるおそるエスティーナと呼ばれた侍女の方を振り返れば、年の頃は三十前後と見える彼女は、主人にも勝るとも劣らぬ断固たる微笑を浮かべていて。
彼が絶対君主として君臨する屋敷の中で、主従の意向に逆らう方法はユイファたちには残されていなかった。
夕食後、ユイファはあてがわれた客室をそっと抜け出した。
マクドール邸には一体幾つ客間があるのか、あの後、追いついてきたルックを含めて一行には一人一部屋ずつが提供されたのだが、その客室がまた、ティエルラーン城の軍主の間に匹敵するほど広く、そして比べ物にならないほどに豪奢な部屋で、ユイファはどうにも落ち着けなかったのである。
とはいえ、マクドール邸内は、きらびやか、という形容とは少し違っていた。
無論、どこを見ても美しいのだが、たとえばグレッグミンスター城のような絢爛豪華な装飾は無く、落ち着いた重厚な色合いですべてがまとめられ、いかにも武門らしい剛健さがかもし出されている。
だが、いかに落ち着いた雰囲気の装飾であろうと、美しい模様織りの分厚い絨毯に、精緻(せいち)な寄木細工の家具、初夏らしい紗の天蓋で覆われた寝台ときては、庶民育ちのユイファは恐れ入るしかないのである。
どうせビクトールたちも同じだろうと、少々失礼な想像と共に隣りの部屋をノックすると、すぐに中から返事があった。
「ビクトール? 僕だけど」
「ユイファ?」
さほど意外でもなさそうな声がして、ほどなくドアが開けられる。
「どうした? とりあえず入れよ」
中に入ると、当然のようにフリックも居り、彼の前にはワインの瓶が2本、並んでいる。二人が何をしていたか、一目瞭然だった。
ユイファの視線に気づいたのだろう、フリックがワイン瓶を取り上げて、にっと笑った。
「436年物のカナカン産だ。そっちは442年。まず滅多にお目にかかれない、収集家垂涎の極上品だぞ」
「シェンに酒はないかって聞いたら、ワイン貯蔵庫から好きなのを持っていけって言われたんでな。遠慮なく頂戴してきたわけだ」
「ちょうどいいから、お前も飲め。美味い酒も、人生には必要なものの一つだ」
酒豪というわけではないが、それなりに酒をたしなむフリックは、いそいそとサイドボードからもう一つ、グラスを取り出してきてユイファの前に置く。
そして、深い色の液体を少しだけ注いだ。
「最初は香りからだ。安物のワインは酔っ払うためにあるが、こういう極上品は楽しむためにあるんだぜ」
楽しげに言うフリックは、どうやら早くも酔っているらしい、とユイファは見当をつける。
さほど注意してみなくとも、彼もビクトールも武器防具は全て外して、チュニックとズボンだけの軽装である。
歴戦の傭兵である二人のことだ。ここは安全地帯だと判断した瞬間に素早く戦いのことは忘れて、今夜一晩、ゆったりと寛ぐことにしたのに違いない。
ユイファ自身の心理としては、あいにく寛げるような状態にはなかったのだが、しかし、勧めを断る理由はなく、そっと繊細な硝子を取り上げて鼻先に持ってゆく。
と、これまでに口にした事のあるワインとは別次元の、果実とも花ともつかない華やかな、そしてそれに歳月を加えた豊かで深みのある香りが、ふわりと漂ってきて、思わず目を見開いた。
「な? いい香りだろ?」
自分の手柄のように、フリックが笑顔で尋ねてくる。
その屈託のなさに苦笑しながら、ユイファはうなずいた。
「じゃあ次は味だ。一気飲みすんなよ。一口ずつ味わいながら、が良いワインを飲む時の楽しみ方だ」
フリックの向かい側に腰を下ろしているビクトールが、すまないが付き合ってやってくれと苦笑まじりに目配せしてくるのに、同じく目配せで応えながら、言われるままにユイファはゆっくりとグラスを傾けて、一口口に含む。
途端に、鼻で感じたのよりも一際深く華やかな香りが口腔を満たし、普通のワインとは似ても似つかないまろやかで豊潤な液体が、なめらかに喉を滑り落ちていった。
「すごい……」
思わず零れた感嘆の声に、フリックはもとよりビクトールまでも楽しげに笑む。
「いいだろ? せっかくだ、お前も二日酔いにならない程度に目一杯飲むといい」
「うん!」
とてもではないが、これを一口味わった後では断れない。
即答したユイファにビクトールもフリックも笑って、ユイファのグラスを満たした。
「ねえ、ビクトール」
ユイファがそれを切り出したのは、幾杯かグラスを重ねて、心地好く脳裏に霞がかり始めた頃合だった。
酒豪のビクトールは顔色に変化はないが、フリックの頬はほんのりワイン色に染まっている。
自分の顔も赤いのだろうと、頬のあたりに火照りを感じながら、ユイファは続けた。
「レパント大統領は、どうしてあの人のことをあんなにも……」
何かいい言葉はないか、とユイファは探す。
慕うとか敬愛とか、そんな言葉では生ぬるい。あの姿は、そんなものではなかった。
「あんなにも、崇拝してるの?」
絶対忠誠を誓った主君に対するように、あるいは彼が神であるかのように、足元にひれ伏し、帰還を希(こいねが)っていた。
あの剛健で誇り高い、名君の誉れ高き大統領が。
ユイファから見れば、彼自身こそが臣下や民衆の尊崇を一身に集めている君主であるのに、レパント自身はそうではないと言う。
あくまでも、自分は代理であり、間繋ぎでしかないのだと。
その私心の無さ、進退の潔さは、一国の元首として望ましいものである。だが、それとは次元が違う。
息子ほどにも年齢の違う相手にひれ伏すその様は、永世に渡る忠誠を誓った主君を迎える臣下そのものだった。
何故、と思う。
ユイファの知る限り、レパントは、シェンが起こした反乱の初期から彼に従った解放軍幹部の一人だったはずだが、臣従の誓いを交わしたわけでもなく、また交流そのものも、乱の続いた四年近い歳月の間に限られていたはずだ。
乱の終結直後に、シェンは故国を離れ、最も信望の高かったレパントがトラン共和国の初代大統領となった。
そして、今では誰もが認める大国の名君となっているのに。
彼は、ああまでもシェンを……いわば自分たちを捨てていった軍主を、今なお真実の王と呼び、その帰還を求めてやまない。
その理由がユイファは、どうしても知りたかった。
「崇拝、か。上手いこと言うな」
ビクトールの声には、苦笑とも溜息ともつかないものが混じっており、ユイファが目を向けると、傭兵はほろ苦い笑みを浮かべて見せた。
「ユイファ、お前は驚くかもしれんが、レパントだけが特別じゃない。解放軍に参加した奴のほとんどが、あんな感じだったんだぜ。まぁ、俺やフリックみたいに一歩退いて見ていた奴もいないわけじゃなかったが、五万人近い解放軍の九割は、熱狂的にあいつを崇拝してた」
フリックもまた、ほろ苦い声で言い添える。
「確かにすごかったよ、シェンは。あいつに反感を……というより、憎んでたって方が正確か。そんな俺でさえ、すごいと認めるしかなかった」
「今のあいつを見てる限り、信じられねえだろう。だが、今のあいつは本性を隠してる。っていうより、本気を出す必要を感じてねえんだな。……まぁ、あいつが本気を出すことなんざ、もう滅多にないんだろうが……」
「……英雄、軍神、覇王、真王、他に何があったっけな、あいつの呼び名」
「さぁな。俺も覚えきれてねえよ」
指折り数えるフリックに肩をすくめて、ビクトールはユイファを見た。
「ユイファ、今からお前があいつのことを理解しようとしても無駄だ。それはお前に人を見る目がないって意味じゃない。あいつが本性を見せないからだ」
静かに語るビクトールの顔は、深い思いが滲んでいるように見える。
だが、それがどういう意味のものなのか、ユイファには読み取れなかった。
「俺は四年間、あいつと肩を並べて剣を振るっていたから少しだけ分かるんだが、あいつが本気の顔を見せるのは、決して負けられない戦場に立った時だけだ。そして、あいつが戦場に立つのは、あいつにとって大事なものが懸かっている時だけに限られる。つまり、そんな機会は、この先殆どありえねえってことなんだよ」
「……あの人の大事なものは、もう無いってこと?」
シェンが家族を全て喪ったことは、ユイファも知っている。
これまで、彼が乱の終結直後に故国を出たのは、家族を喪い、主君を討った心の痛みに耐えられなかったからだと思っていた。
けれど、今日初めて直接会うことのできた彼は、そんな悲劇の英雄の印象を根底から覆す、途方も無い人物だったのだ。
だが、それもまた違うのだとビクトールは言う。
ならば、その理由を聞かなければならなかった。
……何故、聞かなければならないと思うのか、その理由は心の隅に追いやって、ユイファはビクトールの温かみのある焦げ茶色の瞳を見つめる。
「全部無くしたってわけじゃねえだろうと思う。だが、シェンは、家族と友達と祖国を何よりも大事にしてたし、主君のバルバロッサ皇帝を敬愛していた。そうじゃなけりゃ、あんな反乱なんざ起こす理由はなかっただろう」
その妙な修辞に、ユイファは眉をしかめる。
「……それって矛盾してない? どうして大切なものを滅茶苦茶にするようなことをしなきゃいけないの?」
そう言ったユイファの脳裏に、ふっと幼馴染の面影が浮かんだ。
───アナベルを暗殺し、その手柄と引き換えに、自分たちを使い捨ての道具にしたハイランドの将官となったジョウイ。
もしかしたら、彼とシェンには何かの共通点があるのだろうか。
それを感じ取ったから、こんなにもシェンのことが気になるのかと思いながら、ユイファは注意をビクトールへと戻す。
「さて、何でだろうなあ」
だが、分かっているのだが口に出すわけにはいかないとでもいうように、ビクトールは淡くほろ苦い笑みと浮かべて答えた。
「とにかく、シェンのことは気にするな。お前と同じように軍主で天魁星を背負ってたといっても、お前とは違いすぎる。生まれ育ちじゃなくて、性格がな。まず相容れないだろうから、あいつが何をしようが受け流しておけ。あいつに対する他人の反応も、そういうもんなんだと思っておけばいい」
深く考えるな、と言われてユイファは返答に困る。
別に彼という存在にこだわるつもりはなかった。
ただ、ここは彼の屋敷であるし、彼の方はこちらに興味を覚えているように見える。
そして、レパントの反応があまりにも強烈だったため、何となく気になったのだ。
それだけのことであって、別段、深い意味は無い。
「別に気にしてないよ。どうせ、明日にはさよならする人だし」
そう答えると、ビクトールばかりでなくフリックも微妙な表情になった。
「何? 二人とも変な顔をして」
「いや……」
「さよならか……。できりゃいいがな……」
「……それ、どういう意味?」
何だか不穏なものを感じて、ユイファは眉をしかめる。
だが、傭兵二人は首を横に振って、それ以上は答えなかった。
「まぁ、そろそろお前も部屋に戻って寝ろや。寝不足での峠越えはきついぞ」
「そうそう。俺たちも、もう寝むしな」
「───…」
二人の態度はユイファの不審をあおるに十分すぎるものだったが、それ以上問い詰める間もなく、二人がかりで腕を取って立ち上がらせられ、丁重に部屋の外に押し出される。
「じゃあな、ユイファ。お休み」
「いい夢見ろよ」
「ちょっと、二人とも!」
叫んでももう遅く、ばたんと樫材に美しい浮き彫りを施した扉が閉められて、ユイファは一人、廊下に取り残された。
夜更けではあるが、長い廊下には惜しげもなく柱ごとに燭台の火が灯されて、室内と殆ど明るさは変わらない。
床に敷き詰められた絨毯に伸びる自分の影を見下ろして、溜息を一つつき、自分の部屋に戻ろうと向きを変えた時。
「ユイファ?」
背後から声がかけられて、思わずユイファは飛び上がった。
「シ、シェンさん?」
いつの間に近づいてきたのか、まったく気配が無かった。足音がしないのは絨毯のせいだとしても、剣で切り込める間合いになるまで自分が気付かないなど、普通では有り得ない。
「君もビクトールたちと飲んでたんだ?」
「え、ええ」
反射的に武器を探した両手をどうにか下ろし、ばくばくと鳴る鼓動を沈める努力をしながら、ユイファはうなずいた。
「436年物と442年物の極上品だって、二人ともご機嫌でしたよ」
「436年と442年か。どっちも伝説級の当たり年だな。さすがビクトールだね、目ざとい」
ふっと楽しげにシェンが笑む。
「良かったんですか、そんな貴重なワイン」
「構わないよ。どうせ飲む人間なんか、この屋敷にはいない。君も、グレッグミンスター土産に何本か持って帰るかい?」
「……僕よりビクトールとフリックに言ったらどうです?」
「おや。ヴィンテージワインじゃ賄賂にならないんだ? 君には何が効くのかな?」
「何にも効きません」
つんとそっぽを向いてから、改めてユイファは、屋敷の主の姿を眺めた。
シェンは晩餐の時と同じ、深みのある苔緑色をした薄い夏物の上衣姿だった。
どちらかというと、彼には明るい色よりも深い色合いの方が似合うのだろう。漆黒の髪や、深藍色の目と映り合って、何ともいえない艶を生んでいる。
「……こんな時間に何をしてたんです?」
田舎者とはいえ、目に美しいものを称賛する心がないわけではない。
心の底で相手の姿に感嘆しつつも、口では素っ気無くそう問いかけると、シェンはくすりと小さく笑った。
「この屋敷に戻ってきたのは三年ぶりだからね。あちこち見て回ってたんだ」
「────」
「正直、この屋敷ももう無いと思ってたんだけどね。取り壊すのは大変だから、何かの施設にでも転用されてるだろうと思ったんだけど、昼間リュウカンに、まだここがマクドール邸のままだと聞いて、ちょっと驚いたよ」
「……ここはあなたの家でしょう」
そう言った声には、少しばかり非難も含まれていたかもしれない。
故郷を追われたユイファにしてみれば、自分から家を捨てるなど、考えられないことである。
だが、シェンは動じなかった。
「まだ、ね。でも、マクドール家の本家は僕の父の代をもって断絶したし、僕の父もそのつもりで、遺言書にはこの屋敷を含めた一切合財を国に返上すると書いてあった。それなのに、クレオとパーンに確かめたら、処分済みの幾つかの別邸を除いて、ここも本領の城も、まだマクドール家の名義のままらしい。
貴族制が廃止されたこの国で、個人でそれだけの財産を所有しているのは、今や僕だけだ。知らなかったこととはいえ、これはとてつもなく体裁の悪いことなんだよ」
「……でも、それはレパント大統領や、この国の人たちの気持ちでしょう?」
「その通り。だから困ってる」
到底本気で困っているとは思えない表情と口調で、シェンは言った。
「クレオもパーンも、口には出さないけど、この屋敷をマクドール邸のままにしておきたいみたいだし、当分はこのままにするしかないだろうね」
少なくとも世代が変わる頃までは、と何でもないことのように言うシェンを、ユイファは見つめる。
彼の本意がどこにあるのかは、まったく分からなかった。
常夜灯に照らされた秀麗な顔は深い陰影を作っていて、そこに浮かぶ表情は掴みどころが無い。
憂いも悲哀も、困惑すらなく、言葉とは裏腹に、何一つ感じてはいないように見えた。
けれど、とユイファは考える。
ビクトールがつい先程、言っていたではないか。彼は、家族をとても大切に思っていたと。
そして、自分に対しては、決して本性を見せないと。
ならば、この無表情の下には必ず、何かが在るはずだとそう信じて、ユイファは静かに言った。
「誰かがそれを望むのなら、そして、それが特に難しいことでないのなら、叶えてあげればいいでしょう」
口にした途端、シェンがふと感情の見えない藍色の瞳を向けてくる。
その視線を正面から受け止めて、ユイファは続けた。
「この屋敷があなたの名義のままでも、あなたの何かが変わるとは思えません。知らないまま旅をしていた頃と同じように、ここがマクドール邸であることを望む人たちに、管理を任せておけばいい。それで皆の気が済むのなら、安い犠牲でしょう」
「……父親の遺言を無視した僕のなけなしの孝行心が痛むという代価を、どこから取り立てるかは問題だけどね」
皮肉とも何ともつかない口調で言い、シェンはほのかに笑った。
「やっぱり君は面白いね、ユイファ」
「どこがですか」
「どこもかしこも。これから先が益々楽しみになったな」
「……どういう意味です?」
「さてね」
笑って、シェンはユイファにあてがわれた客室のドアを指差す。
「そろそろ寝た方がいいよ。明日は早いうちにレパントに会いに行くんだろう?」
「───…」
公務のことを出されると、逆らいようがない。
内心で歯噛みしながらも、ユイファは渋々従った。
「そうします。──でも、シェンさん」
「何?」
「僕はあなたとこれ以上、お近付きになりたいとは思ってませんから。今日、色々と親切にしてくれたことには感謝してますけど、それだけです。そのこと、覚えておいて下さいね」
言いながら、この程度の言葉は彼には堪えないだろう、ともユイファは思っていた。
だが、相手の性格が読めていない今、これ以上相手の胸をえぐるような言葉を、たとえ思いついたとしても、口にすることはできない。
そんな虎の尾を踏むような真似をしてもいいのは、相手と金輪際、会うことがないと分かっている場合だけだ。
そして案の定、シェンは面白げな笑みを深めただけだった。
「心しておくよ。それじゃおやすみ、ユイファ」
「……おやすみなさい」
「良い夢を」
軽く右手を上げて、シェンは歩き去ってゆく。
その方向は、教えてもらった彼の私室の位置とは逆方向であるように思えて、ユイファは小さく首をかしげる。
だが、ここは彼の屋敷なのだ。
自宅で迷子も無いだろうと、さっさと考えるのをやめて、自分の部屋のドアを開けた。
* *
ゆっくりと廊下を歩きながら、シェンは口元に微笑が浮かぶのを自覚する。
予想以上に、同盟軍の軍主は興味深い人間だった。
可愛らしいと形容するのが似合う外見とは裏腹に、中身はずいぶんと逞しく、物怖じしない肝の太さを備えている。
加えて、頭脳も明晰なようで、あれならビクトールたちのサポートがあれば、いい軍主になるだろうと思われた。
「まぁ、あの怖いもの知らずの性格は、ちょっと直した方がいいだろうけどね……」
自分に対して、あれだけずけずけと物を言う人間は久しぶりだった。
ビクトールやルックといった昔の仲間は確かに遠慮が無いが、そういう連中とは話が違う。ユイファが対しているのは、近年最も吟遊詩人に好まれてその叙事詩を謳われている、『トランの英雄』なのだ。
どんな田舎者であっても、一度や二度はそれを聞いたことがあるだろうし、ましてや、同盟軍の軍主という立場にあれば、存在を比較されたことも枚挙に暇(いとま)が無いはずである。
それで、あの反応をするとは、と面白がらずにはいられない。
ただ、自分は彼の言動など何とも思わないが、相手によっては激昂を誘う可能性もある。ある程度は相手の反応を計算もしているようだが、少々の危うさを覚えないでもなかった。
「その辺りのしつけは、ビクトールが上手くやるだろうけど……。でも、君が生きてたら結構、気に入りそうなタイプではあるよね」
廊下の途中で立ち止まったシェンは、腰に下げた鍵束を使って、その部屋の扉を開ける。
普段は閉ざされていても、清掃は定期的にされているのだろう。屋敷の中では比較的、簡素でこじんまりとした室内には埃はまったく積もっていなかった。
「君は、怖いもの知らずで、口が達者な子供はそんなに嫌いじゃなかっただろう……、テッド」
そこは、テッドと最後に別れた部屋──テッドが、この屋敷に滞在する時、いつも使っていた部屋だった。
この部屋もまた、他の部屋と同じく、呆れるほどにかつてのままだった。
解放戦争の末期には主人不在となり、屋敷の内部も多少は荒れていたのに、その痕跡すらもない。
おそらくはクレオの苦心の成果なのだろうが、その心にあるものを思うと、ほろ苦い微笑を零さずにはいられなかった。
「……少し困るね、こういうのは」
あの夜、全てを切り捨ててこの国を出たことを後悔したことは、一度もない。
同時に、自分の影を請い求める人々が数多くいるだろうという事をも、否定したことは一度もない。
自分の影響力の大きさくらい、自覚している。
ただ、父テオドリック・グリエンデス・マクドールに心酔していたクレオとパーンが、その亡き主人の遺言を執行していなかったことだけは、予想外だった。
おまけに確認した所によれば、アールス北方の本拠地を取り仕切っていた城代までがクレオたちと同様に、今現在でも『お館様の御帰還』を待ちつつ、引き続きグリュイエール城を管理しているというのである。
最終的な責任は、それを積極的に許可したらしいレパントにあるのだが、しかし、レパントも、トラン建国と同時に創設された議会を無視して何かを裁可することはできない。
つまりは、シェンが今現在も、広大な領地と城を所有しているのは、トラン国民の総意、ということになるのだ。
「せっかく貴族制を廃止したのに、消息不明の不在大領主なんか作って、一体どうするつもりなんだか……」
だが、この件についてシェンが打てる手はなかった。
何を言ったところで、レパントは応じないだろうし、彼に賛同する者も、まだ数多くいる。
ここで、シェンが共和国政府に参画する意思を見せれば、これまでの三年間レパントを支持し、従ってきた者たちは動揺し、反対もするだろうが、シェンが国外に居る分には彼らも文句を言いはしない。
結局、ユイファに言った通り、世代が変わって、国内に不在の『建国の英雄』になぜ莫大な財産を与えておくのか、と世間が疑問を持つようになるまでは、現状のままにしておくのが一番の良策だった。
「まぁ、ここに何が残ってるとしても、僕は僕であることに変わりはないしね。むしろ、君が居たら、そういうものは大事にしとけって説教されそうな気がするし」
……テッドとシェンが出会った時、テッドは何一つ持ってはいなかった。
無論、当座の荷物や弓矢一式は所持していたが、個人的な何か、というと皆無だった。
故郷もなく、家族もなく、恋人もなく。
行く先々で多くの人と親しくはなっていたが、今から思うと、いつでも深入りは避けていた。
心に残している人くらいはあっただろうが、それでも彼は一人きりで、孤独だった。
そんなテッドだったからこそ、自分と父親を中心としたマクドール家に何かを感じて、入り浸っていたのだろうということが分かったのは、皮肉にもこの部屋で別れてからしばらくのことだ。
いや、テッドだけではない。クレオにとっても、パーンにとっても、ここは我が家だった。
彼らがこの屋敷に離れがたい何かを感じていることは当然であり、それを他者に引き渡そうとした三年前のテオとシェンの決定は、彼らの意思を無視した主人の暴挙であったことは否めない。
「……でも、少し困るんだよ……」
この屋敷は、あまりにも変わらなさ過ぎた。
自分が良く過ごした図書室も、父親が使っていた当主の居間も、果ては厨房に至るまで、あの頃と何も変わりがない。
こうしていると、父親はまた皇帝の勅命に従って出征しているだけ、グレミオも所用で出かけているだけ、テッドも今夜は遊びに来ていないだけのような錯覚に陥りそうになる。
シェンは自分を感傷的だと思ったことは一度もないが、あの夜以来、この屋敷で長い時間を過ごしたことがないだけに、邸内の一つ一つに触発され、蘇ってくる記憶はあまりにも鮮烈で、あの夜から七年が過ぎていることを、ともすれば忘れてしまいそうだった。
「父上……、グレミオ……、テッド……」
何よりも愛した、もう既にここには居ない人々。
思い出に溺れまいとしても、心の一番深い部分から湧き上がってくる想いは止められない。
薄闇の中でほのかに光る、右手の紋章に指先で触れながら、シェン……シェイラン・エセルディ・マクドールは静かに瞼を伏せた。
...to be continued.
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