修羅 風塵の章

-黎明-












 ぽつり、と何かが顔に当たる感触で、意識が淡く戻る。
(雨……?)
 ぼんやりと目を開くと、視界に霞がかかっているように辺りは薄明るい。
 単に目が霞んでいるのか、それとも明け方なのか薄暮なのか。判別することができないまま、シェンは小さく身じろぎする。
 どれほど意識を失っていたのか、起き上がろうと四肢に力を込めただけで、身体中のあちこちが鈍く軋んだ。
 その億劫さに、すぐさま移動することは諦めて、シェンは顔の前に右手をかざす。
 雨は降り始めらしく、ぽつりぽつりとほんの小降りで、しばらくこうしていてもずぶ濡れとはなりそうもない。
(夕暮れ、じゃなくて夜明けかな。というより、今どっちを向いてるんだ)
 見上げた上空も、いかにも厚みのない雲に覆われているだけで、雨脚が今より強くなりそうな予兆は何もなかった。
 そして、その明るい灰色を背景に、何重にも巻き付けた細幅の晒し布が解けかけた右手もまた、今は何も感じられない。
(そりゃあ、あれだけまとめてデカブツを喰らえばなー……)
 のどかな丘陵地に見えるのに、本街道から少し外れただけなのにもかかわらず細い道には草が生え、すれ違う人影もないことに心底嫌な予感を覚えた時には、既に遅かった。
 これまでにも生命の危機に直面したことは多々あるが、今回は特別も特別、真っ昼間からモンスター化した凶悪な灰色狼の群れに囲まれるなどという事態は、さすがに経験がない。
 とはいえ一応、遠巻きにつけてくる獣の殺気には最初から気付いていたのだ。だから、さっさと紋章の力を解放していればよかったのに。
(まさか獣に遅れをとるなんて思わないし……)
 つくづく己を過信するものではない。
 餓えに狂った二十頭近い灰色狼は、群れの数頭を打ち倒してもひるむことすらなく想像を超えて執拗で、ソウルイーターの力を解放するための間を生み出すだけのことに随分と手間を食い、挙句がこのざまだ。
 狂獣どもの魂を喰らった後、やれやれと腰を下ろした途端に意識を失うように眠りに落ちたのは、この数日というもの街道を離れて旅を続けており、僅かな携帯食を口にする以外、ろくに食事をしていない状態で、久々に強力な紋章魔法を行使したという悪条件が重なったからではあるが、しかし、明らかな失態には違いなかった。
(兎すらロクにいないのは、灰色狼のせいだったってことか。もう少し情報を集めてから道を選べばよかった)
 今でこそ、そう殊勝に思ってはみるものの、かといって、事前に灰色狼の群れが棲みついていると聞いたところで、素直に進路を変えたかどうか。
 その辺り、腕に覚えのある者は、実にタチが悪かった。
 おまけに、この右手は。
(どこをどうやっても最強だしな……)
 二十頭近い灰色狼を瞬時に呑み込んだなどと、真実を知らない者がもし聞いたとしても、どうして信じられるだろう。
 それだけ桁外れ、常識外れの能力をこの紋章は有しているのだ。
 おかげで、こんなきな臭い時代に辺境を一人旅していても、本気で生命の危険を感じることなど、滅多にありはしない。
 しかし、故郷を捨てて一人旅をする羽目になったのもこれのせいだと思えば、ありがたがるべきか、迷惑がるべきか。普通に考えれば大赤字、不幸の方が遥かに大きい。
 だからといって別段、シェン自身としては、己の現状に何の不満があるわけでもなく、ソウルイーターを道連れに気の向くまま足の向くまま、こうして大陸中を放浪しているわけではあるが。
(紋章の事なんて考えても、馬鹿馬鹿しいだけだな、まったく)
 思考の流れるままにぼんやりと思いをめぐらしている間にも、雨はぽつりぽつりと、しかし絶え間なく降り注いでくる。
 いい加減、木の下にでも移動するかと、シェンはいかにも億劫そうな仕草で身を起こした。
「あー、あちこち痛い……」
 俊敏さにおいても頑強さにおいても人間より遥かに勝る狂獣の群れに囲まれはしたが、幸いにして深手は一つもない。
 獣の鋭い牙と爪で何箇所も服を切り裂かれはしたが、薄手の革を芯にした頑丈な生地のおかげで、肉にまで達している傷は数えるほどだ。
 真の紋章を宿している影響もあるのだろう、早くもそれらの傷口は肉が盛り上がり始めており、一応、感染症等の可能性があるから消毒程度の応急処置はしておいたほうがいいに決まっているものの、このまま歩きつづけたとしても行き倒れになる可能性はまずない。
 が、傷は傷、痛むものは痛む。
「どうして治癒機能がないんだかなぁ、一応、『生』も司ってるくせに」
 小さくぼやきながら、シェンは己の右手に視線を落とす。
 解けかけた布の隙間からのぞく、暗朱色の、まるで南方で罪人に施す刺青のような紋様。
 ひどい皮肉ではあるが、今の自分にとっては唯一の財産とも言えるそれを、何ともいえない思いの浮かんだ瞳で眺める。
 ───淡い憧憬を抱いた女性を喰らい、幼い頃から世話を焼き続けてくれた付き人を喰らい、大きな大きな存在だった父親を喰らい、そして。
「……こんなものを押し付けるのなら、もっと情報を寄越してからにして欲しかったな……テッド」
 脳裏をよぎる面影に恨みはない。恨みたいと思ったことすらない。
 おそらく、この紋章を受け継いだ瞬間に、自分の中にあった、人としての何かが抜け落ちてしまったのだろう。そうとしか思えないほどに、何一つ語らずに逝った親友に対する感情に怒りは含まれていなかった。
 ───ぽつりぽつりと天から落ちる雨。
 たとえそれが土砂降りではなくとも、雨はあの遠い夜を思い起こさせて。
「馬鹿だよな……お前も僕も」
 苦笑交じりというには、少々ほろ苦い声がこぼれ落ちる。
 真の紋章の継承者となったからこそ、今の自分だからこそ分かることもあるのだ。
 あの時、彼がどれほど苦しみ、葛藤したか。
 もし立場が入れ替わっていたとしたら、自分もやはりテッドを選ぶしかなかった、と思う。
 ───親友と呼んだ相手だからこそ、託したくない。
 ───親友と呼べた相手にしか、託せない。
 今なら手にとるようにテッドの心が理解できる。
 テッドは祖父から、そして自分はテッドから。
 極限の場面でかけがえのない相手から受け取ったものを、簡単に他人に渡せるわけがない。苦しみ葛藤して、でもどうしようもないという極限の時に選ぶ相手は、やはり、かけがえのない絶対の存在でしか有り得ないのだ。
 そして、受け取ったそれを忌まわしいものとして捨ててしまうには、あまりにも記憶に残された日々は懐かしく愛おしくて。
「本当に馬鹿みたいだ」
 こんな風に、生きてゆくしかない。
 彼も、自分も。
 こぼれた笑みはほろ苦く、けれど、どこかほのかに甘さも帯びているようなやわらかさを潜めて、聞く者もなく消えてゆく。
 そして、シェンは解けかけていた晒し布を、しゅるりとほどいた。
 暗朱色の刻印──生と死を司る紋章は、今は何の気配もなく静かにそこに在る。
 おそらくもう昨日のことになるのだろうが、まとめて二十近い獣の魂を喰らい、それで多少落ち着いたというところだろう。
 故郷を後にして以来、極力、都市部は避けて辺鄙な地域ばかりを歩いてるせいか、幸いにしてこれが原因で戦乱が起こるというようなことはない。代わりにといっては何だが、こんな風に凶悪なモンスターに出会った時には積極的に魂を喰らわせてやっている効果があるのか、戦争中は頻繁にあったざわつような、肌が粟立つような気配を感じることも少なくなった。
 油断は決してできないが、とりあえず沈黙しているという一点で、少しは扱いやすくなったようにも思う。
「旅の道連れというには、物騒すぎるけど、な……」
 苦笑まじりに呟き、右手を見つめる。
 ───これを受け継いでしまったということは、もういい。
 たとえ何度あの夜をやり直したところで、自分は必ずテッドからこれを受け取る。そして、相手が誰であれ、譲り渡すことも有り得ない。
 唯一つしかない道を選んだのに、それをいつまでも、ぐずぐずと考えていられるほど、自分は暇な人間ではないのだ。
 そしてまた、この紋章を継承することで、もたらされたあれやこれやも、自分の中では、既に考えるべきことではなくなっている。
 グレミオに関しては本当に自分の過失だったが、オデッサの直接の死因は密告による帝国兵の襲撃だったし、父親に至っては紋章の有無にかかわらず、解放軍のリーダーとして倒さないわけにはいかなかった。
 ……もしかしたら本当に、呪いの紋章という呼び名の通り、ソウルイーターが彼らに死に至る運命を導いたのかもしれない。
 だが、はっきり分かっているのは、実際に手を下したのは自分をはじめとする人間であり、ソウルイーターは肉体を離れた魂を喜々として喰らった、という事実だけだ。
 人々が言うように、こんなものさえなければ、彼らの死に目に遭うような事態に陥ることにはならなかったのかもしれないが、たらればで、過ぎたことを論じても意味はない。
 全てが重なり合い、それぞれの選択の結果として、彼らはこの世から去り、自分はここに居るのである。
 そして、彼らの魂がこの右手に囚われていようといまいと、もはや、自分がソウルイーターを手放すことは有り得ない。
 テッドから譲り受けた、あの瞬間から、これは自分のものとなったのだから。
「───…」
 ゆっくりと目を伏せ、シェンは己の右手の甲に口接ける。
「……お前が世界を形作る力を持っているというのであれば、僕はそれに似つかわしい主で在り続けよう。いつか、この世界が終わるその日まで、いと高き天の玉座に……」
 呟く声を聞く者はない。
 が、それで良い、と思う。
 孤独を求めているわけではない。孤高であろうとしているわけでもない。
 ただ、真の紋章と共に生きてゆく。その道を選んだだけのことなのだ。
 そんな自分を、人は、真の紋章の魔力に魅入られた、と言うかもしれない。
 だが、真の紋章の持つ力など、自分にとってはどうでもいい、それなりに便利という以外に、大した意味は持たないものでしかなく。
 唯一、これに価値を認める理由は。
「……君が、世界に値する唯一だったとは思っていないけれど、ね。それでも託されたものを決して他人には渡せないと思う程度には」
 特別だった、と声には出さず呟いて、天を仰ぐ。
 止みそうで止まない雨は、相変わらずぽつりぽつりと降り注いでいて。
 そろそろ完全に朝になるのだろう、曇り空も随分と明るさを増している。
「よりによって、俺の分まで生きろ、だなんてさ。三百年も生きてたくせに、一体あとどれだけ生きるつもりでいたんだか」
 千年か、万年か。
 だが、今のシェンと同じように、テッドもまた、永遠に等しい時間を歩き続けるつもりだったのだろう。
 ただ、右手に宿した紋章を誰にも渡さない、それだけの理由で。
「その為には、こんなところで転がってるわけにはいかない、か」
 もっとも、狂った灰色狼が出没する寂(さび)れた田舎道には山賊も出ないだろうけれど、と苦笑して、シェンはようやく立ち上がり、傍に転がっていた荷物を拾って、手近な木陰へと移動する。
 そして、今度は木の幹に背を預けて、下草の上に腰を下ろした。
「……六ヶ所、七箇所、かな。この程度ですんで良かったと言うべきなのか、不甲斐ないと言うべきなのか……」
 改めて肉にまで達した傷を数えながら、溜息をつく。
 深手ではないから出血も大したものではなく、とうに血も乾いているが、しかし、傷を負ったこと自体が随分と久しぶりだった。
「今度、紋章師の居る町に着いたら、水の紋章でも宿すかな。でも、それも無駄使いのような気がするし……」
 上着を脱ぎ、荷物から取り出した薬草を傷口に貼って、簡単に包帯を巻きながらも、ただそれだけの手当てをする手間に、ぼやきが零れる。
 別に現在、旅の路銀に困っているわけではないが、金を稼ぐのも面倒といえば面倒であり、どうせなら、と文句は右手に向いた。
「お前に治癒能力があればいいんだよ、それで全部納まるんだから。生と死を司ってるのに、どうして魂を喰らうしか芸当ができないんだか」
 モンスターを瞬殺できるだけでも十分に便利ではあり、重宝はしているのだが、逆に言うと、戦闘以外では何の役にも立たない紋章なのである。
 そういう意味では、旧知の真なる風の紋章の方が、よほど応用は利きそうだ、と思った時。
「──そういえば居たな。紋章に詳しい奴が」
 はたと思い当たったように、シェンは処置に使った残りの包帯を小さく巻く手を止めた。
「……そうだな。生と死を司るというには、ちょっと片手落ちの力しか持っていない理由も、あいつなら、もしかしたら知っているかもしれないか」
 トラン共和国の成立後、レックナートが担(にな)っていた星見の役はヘリオスに代わったとか旅の空で聞いたが、その後、彼女と彼女の弟子が、どこでどうしているのかを知る機会は、これまでなかった。ともあれ、他にあてがあるわけではないから、二人の現在の所在については、とりあえずトラン新政府に訊くのが妥当な方法ということになるのだろう。
 彼女たちのことだから、あの国には何の痕跡も残してはいないかもしれないが、どうせ時間は有り余っているのだ。
 ここから故国までの距離はもちろん、そこから新たに師弟の所在を捜すことすら、自分にとっては何の浪費にもならないのである。
「そろそろ三年が過ぎたし、一時のほとぼりは冷めただろうしな」
 もちろん、人々は自分たちを率いていた、今は伝説となった英雄のことを、まだ忘れてはいないだろう。
 だが、新しい政府、新しい組織は、この三年で既に枠組みが固まっているはずであり、たとえ気まぐれに故国の英雄が帰還したくらいで、一旦成立したそれらは容易に崩せるものではない。ましてやシェンには、国の頂点に立つ意思など微塵もないのだ。
「といっても聞かない連中もいるだろうけれど。長居は無用ということで……」
 行くか、と、あっさり旅の進路を北から南へと一転させて。
 シェンは手早く薬草や包帯をまとめて片付け、上着を羽織って元通りに紐子を止めた。
 そうして荷物を肩に負い、天牙棍を片手に立ち上がってみれば、いつの間にか夜明けの雨は上がり、雲の切れ間から長春花色を帯びた橙色の艶(あで)やかな朝焼けが覗いている。
「うん、いい天気になりそうだ」
 久しぶりに足を踏み入れる故郷には、何か面白いものが待っているかもしれない、と根拠のない予感に淡く笑んで。
 シェンは、草がまばらに生える荒れた道を歩き始めた。

...to be continued.

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