宵月 - DUSK MOON -
「参ったなー…」
デュナン湖から吹き寄せてくる夕風を受け止めながら、ティルは一人ごちる。
かつてのトラン解放軍本拠地だったセイラン城と同様、広大な湖の懐に抱かれたクォン城は、城内のどこにいても水気を含んだ優しい風を感じることができた。
もちろん湿気が多い以上、十分な換気や排水の設備を整えなければ、たちまちのうちに一面じめじめとした黴に覆われてしまうのだが、ネクロードが巣食っていた頃はいざ知らず、今は集った多くの職人たちがそれぞれに工夫を凝らして、素晴らしく住み心地のいい環境が出来上がっている。
今、目の前に広がっている庭園にも心を寄せる人々がいるのだろう。よく手入れされた草木の葉上には、少し前に撒かれたらしい水の滴(しずく)が残照を浴びてきらきらと輝いている。
自分の傍らで、細かい葉を茂らせた花木が濃桃色の花を夕風に揺らしている様を眺め、珍しくもティルは小さな溜息を零した。
「──居心地が良すぎるんだよね、ここは」
あくまでも個人的な厚意で助力する以上、形の上でも深入りすることは避けるため、一つの用事が終わればグレッグミンスターの屋敷に帰る、と一番最初に決めたにもかかわらず、今日もまたずるずると時刻が過ぎ、「夜の峠越えは大変ですから!」とセイに引き止められて、一晩の宿を借りることになってしまった。
本音を言えば、夕暮れだろうが真夜中だろうが、ティルにとってはバナー峠は危険でも何でもない単なる山道である。夜目は利く方だし、今日のように月の明るい夜なら、それこそ何の問題もない。
だから、帰ってしまっても良かった……というより、むしろ、そうするべきだったのだが。
「……弱い、よなぁ」
呆れるくらいに真っ直ぐな、茶水晶の瞳。
あれを目の当たりにすると、どうも拒絶の言葉が口にできないのだ。
駄目だと言えないというよりも、その気になれば幾らでも言えるのだけれど言いたくない、のである。
(……重症だ)
ふぅ、と嘆息して露台の手すりに頬杖をつく。
──確かに、初対面の時からいい子だなとは思ったし、人懐っこい子犬みたいで可愛いなとも思った。
自分は決してお人好しではないし、むしろ薄情な、あまりよろしくない性格だと思うのだが、それでも嬉しげに懐いてきた子犬がしょんぼり耳と尻尾を垂れてしまうのは、あまり見たくない光景であって。
「だからといって、ねぇ……」
最近の様(ざま)はどうだ、とティルは溜息と共に我が身を振り返る。
このクォン城の城主は、生まれ持った性格か育った環境のせいか、どちらかというと遠慮がちというか人に気を遣う方らしく、あまり積極的に頼み事をするタイプではない。相手の様子や状況をあれこれ考え、その上で相手がいつでも断れるような物言いで、お願いを口にする。
しかし、もとが素直で隠し事ができない性格をしているものだから、端から見ていると結構、考えていることが読めてしまうのだ。
だからティルも、最初の頃こそは微笑ましく、相手が「鍛錬に付き合ってもらえませんか」だの「帰る前に城で一緒に御飯食べていきませんか」だの、ささやかなお願いを言い出すのを黙って見守っていたのである。
が、近頃は可愛いと思う反面、そんなことでそこまで一生懸命悩まなくても、という気分が先に立つようになってきて、つい。
(先回りしてしまうんだよな……)
もちろん毎度のことではなく、せいぜいが五割くらいの頻度ではあるのだが、セイが物言いたげな素振りを見せた時点でさりげなく、自分から誘いを向けることが増えてきている。
そしてまた、その度ごとにセイがひどく嬉しそうな顔をするものだから、悪い気もしなくて、結果的に更に深みにはまるという悪循環が成立しかかっているのだ。
「──なんで、こんなに懐かれたかなぁ」
自分だけではなく周囲の人々にも、ぶんぶんと高速で振られる尻尾が絶対見えていると確信できるくらいの勢いで慕ってくれるのは、正直に言えば嬉しいと思う。
だが、それと同時に、何故、という疑問も否めない。
そもそもティルは小動物に懐かれるようなタイプではないのだ。少なくともこれまで女子供に、リーダーという立場や色事めいた意味を抜きにして慕われた経験はない。
逆に、小動物は嫌いではないが、無闇に手を伸ばして撫で可愛がるタイプでもなかった。
セイに対しては、確かに他者に対するより親切というか態度が甘いとは思うが、かといって猫可愛がりしているというほどではない以上、むしろ原因はセイの性格の方にあると考えるべきかもしれない。
あるいは、『トランの英雄』という肩書きに対する幻想とでもいうべきだろうか。
見たところ、どうもセイは、自分を過小評価すると同時に、ティルを完璧視している節がある。
ティルにしてみれば、自分に対する英雄という呼称そのものがお笑い種でしかないし、リーダーとしての素質もタイプが違うとはいえ、セイの方が上ではないかと感じている。事実、かつての自分には、ここまで人々が本拠地でくつろぎ、自由に能力を発揮できるだけの雰囲気を作ることはできなかったのだ。
だから、セイが尊敬のまなざしを向けてくるたびに心の中では、そうでもないよ、と呟いてはいたのだが、そんな声に出さない呟きが通じているはずもなく。
そしてまた、自分の存在があることで、将としての教育を受けていないセイが精神的な支えなり励みなりを得られるのであれば、とあえて錯覚を黙認している部分もあって、結果的にはそれも悪循環の一因になっている。
(まぁ、慕われるのは別にいいんだけどな……)
問題は、とティルは自分の右手をちらりと見る。
よく使い込まれ、馴染んだ革手袋の下にあるもの。
魂食いの別名を持つそれは、とりあえずのところ、大人しくしている。だが、いつ、どんな状況で発動するかは、かれこれ五年ばかり付き合っているティルにも今ひとつ判断がつかない。
ただ、何となく最近は、伝え聞いた紋章の特性と、自分が感じているものとは多少のずれがあるような気がしてきていた。
確かに、生と死を司る紋章は魂を食らうが、しかし紋章の力は宿主の意思がなければ基本的に発動しないものである。
そして、魂食いが力を発揮するのは、戦闘時に宿主が敵の命を屠(ほふ)るよう命じた時と。
(僕が……誰かの死を受け入れることを強く拒んだ時)
喪われるのは嫌だと……こんなことは絶対に認めたくないと、心の底から強く思った時、生と死を司る紋章は肉体から離れようとする魂を食らい──捕らえた。
それは、つまり。
(僕が願ったから、ソウルイーターは忠実にその力を発揮した……?)
実際、戦闘で屠ったモンスターや敵の魂は、そのまま紋章に飲み込まれ、跡形もなく消滅してしまうのに、『彼ら』の魂は今もソウルイーターの下(もと)に存在を感じるのだ。
「テッドは、ソウルイーターは宿主に近しい人間の魂を奪うと言ったけど……」
生と死を司る紋章が人を殺すのではなく、宿主が、その命が失われることを拒んだからこそ、去りゆこうとする存在を現世にとどめるために魂を食らうのではないのか。
逆に、どんなに大切な相手でも、その死が宿主にとって納得できる形のものであれば、魂食いは沈黙しているのではないのか。
そんな考えが、最近のティルの中にはある。
無論、確信はない。
真の紋章は宿しているだけで何らかの運命を宿主に引き寄せ、深刻な影響をもたらすのは他の紋章を見ても明らかだし、生と死を司る紋章が、宿主に近しい人間の死の確率を上げている可能性も少なくはない。
あるいは紋章が己の能力を発揮するために、宿主に戦乱に身を投じる運命を背負った人間を選んでいる可能性もある。
(実際、乱のある所には紋章も集まるしな……)
いずれにせよ、紋章については詳しいことが殆ど分からないのだ。唯一、情報を握っていると思われる予言師もその弟子も、沈黙して何も語らない。
ただの人間が人知を超えた真の紋章のことを知っても益はないと判断しているのか、それとも真実必要なことであれば自ずから判明すると踏んでいるのか。
「何にしても厄介な話だ……」
「何がですか?」
「!?」
独り言のはずの呟きに返事が返って、ティルはかなり驚く。
慌てて振り返ると、残照が造る黄昏色の光の中、きょとんとした表情で近寄ってくるセイが居た。
「部屋に居なかったから探しに来たんですけど……邪魔しちゃいましたか?」
「──いや、そんなことはないよ」
小首をかしげて問いかける少年に、ティルは微笑んで見せる。
「何か用事だった?」
「あ、そういうのじゃなくて、単にそろそろ御飯の時間かなーと思って。僕の方も今日の打合せは、さっき終わりましたから」
そう言いながら、一緒に食堂に行きたいな、行けたらいいな、と小さくパタパタしている尻尾が、セイの笑顔の後ろに見え隠れしているのに気付いて、今度こそティルは本気で笑んだ。
「そうだね、そろそろおなかが空いたかな」
さりげなくそう水を向けると、ぱっとセイの表情が明るくなる。
「じゃあ、僕も一緒していいですか?」
「もちろん」
本当に分かりやすい、と込み上げる笑いを穏やかな微笑に変換しながらうなずけば、見えざる尻尾の勢いが更に激しさを増して、更にティルは爆笑を抑えるために要らぬ努力を自分に課す羽目になった。
一方、セイの方は、ささやかな期待が叶えられたことで高揚していた気分が幾分落ち着いたのだろう。そういえば、とティルを見上げる。
「あ、と……でも、邪魔じゃないですか? マクドールさん、何か考え事してたでしょう?」
「ああ、確かに考えてたけど、別に構わないよ。というより、むしろ考えたところで、あまり意味のないことだったし」
「でも、厄介だって……」
ぶんぶんと風車(かざぐるま)のような勢いで振られていた尻尾が、ぱたりと大人しくなり、ぴんと立っていた三角耳もいささか元気なくしおれる。
まさに散歩をキャンセルされそうなのに気付いてしょんぼりした子犬そのもののセイに、ティルは小さく苦笑しながら、
「厄介は厄介だよ。なにせ、これのことだから」
自分の右手へと視線を向けた。
「これ、って……紋章、ですか?」
「そう」
この場で下手にごまかすと、返っておかしな誤解を生みかねない。だから、ティルはあえてあっさりとうなずいて見せる。
セイは、まじまじと革手袋に包まれたティルの右手を見つめ、そして顔を上げてティルの顔を見つめた。
その何か言いたいのだけど言葉が見つからない、と言いたげなまなざしに淡い微笑を返して。
ティルはゆっくりと革手袋を外した。
「見せるのは初めてだね」
残照にわずかに湖面をきらめかせながら黄昏の薄闇に姿を浸しつつあるデュナン湖を背景にして、常よりもなお暗い朱赤に見える真の紋章が、ほのかに光っているかのようにくっきりと肌の上に浮かんでいる。
自身が持つ紋章とはあまりにも違うその気配に驚いたのか、セイは大きく目をみはって、その文様を見つめた。
「これが……」
「生と死を司る紋章。通称、ソウルイーター。真の紋章の中でも、最もタチの悪い紋章の一つだ」
淡々とティルは言い、そしてまた元通りに手袋をはめる。
革製の装備一枚で何が変わるわけでもないが、これを外気に晒したままにすることには、やはり抵抗があった。
「真の紋章なんて、どれも厄介なものだから、自分一人が不幸だなんて思わないけどね。それでも時々、ろくでもないものを背負ってしまったなーとは思うものだから」
「マクドールさん……」
気遣わしげなセイの声に、ティルは微笑んで見せる。
こんな声も顔も、セイには似合わなかった。
「大丈夫だよ。確かにろくでもない代物だけど、これに出会わなかったら知らずにいた大事なことも沢山あるから」
感謝できるようなものではない。
ないけれど。
「僕がこれを受け継いだ経緯(いきさつ)は聞いている?」
「……はい……」
本人に聞く以前に知っていることを申し訳ないと思うのか、答えるセイの声は小さかった。
だが、ティルとしては、そうむきになって隠すほどの事でもない、と思っている。吹聴して回るような話でもないが、ビクトールやフリックといった面々が、相手を選んで聞かせるくらいのことは構わなかった。
「それなら細かい話は省略するけど、何度やり直したって僕は結局、ソウルイーターを受け取るだろうし、その後もまた同じ選択を繰り返す。そういう意味では、選択の余地なんて、最初からあってなかったようなものなんだよ」
逃げようと思えば、逃げられたかもしれない。
テッドに懇願された時も、オデッサに解放軍を託された時も。
けれど。
他人にはどう見えていようと、自分にとっての選択肢は、いつでも一つしかなかったのだ。
「運命だなんて言い方は気に食わないけど、結局、これとは出会うべくして出会ってしまったんだと思っている。実際、これと僕とは相性がいいらしいしね」
紋章にもそれぞれ性向があって、相性が合わなければまず宿すことができないし、宿せたとしても紋章の効力に差が出る。
ティルの場合は先天的に魔力適性が高いようで、どの系統の紋章でも大概、一定レベル以上の効果は引き出せるし、ソウルイーターも例外ではないのだが、どうやらこれは珍しいケースであるらしい。
真の紋章は宿主を選ぶ気難しい性格のものが多く、気に食わない宿主に対しては、うんともすんとも言わないことすらある。
そこまで極端でなくとも、ごく一部の力しか行使できない場合も多く、ティルのように禁呪クラスの魔法まで自在に使えることは、余程の適性がないと無理なのだと以前、魔法使いの少年に皮肉っぽい口調で教えられた。
「いずれにせよ、封印するには危な過ぎるし、他人に渡す気もない以上、どうしたってこれとは付き合っていくしかない。……さっきもね、そういうことをちょっと考えていたんだ」
そこまで話して、少し話しすぎたかな、とティルはセイの様子をうかがう。
セイも真の紋章を持っている以上、他人事としては聞けないだろうし、また紋章を宿して日が浅い分、余計に不安なり心許なさなりを感じたに違いない
案の定、返す言葉が見つからず、戸惑ったような途方に暮れたような瞳で視線をさまよわせているセイに、ティルは内心、苦笑して助け舟を出した。
「怖い?」
「──え…?」
唐突な問いかけに、セイは顔を上げる。
そのまっすぐな瞳に、ティルは静かな微笑を向けた。
「紋章のこととか……魂食いを宿して平然としてる僕とか」
「そんなこと…!」
途端、セイの顔色が変わる。
「確かに真の紋章は大変なものだと思いますけど……。だからといって、そんなマクドールさんが怖いとか、そんなことは全然ありません!」
必死な物言いは、予想していたことではあった。
セイが自分を慕ってくれていることは、十分に分かっている。
だからこその問いかけだったのだが、しかし。
「マクドールさんはすごく優しい人ですし、それに……!」
言いかけて、ふと迷うようにセイが口ごもる。
「それに?」
「……それに……」
その先が気になって促すと、セイは少しうつむき加減のまま、一言一言小さく押し出すように訥々と言葉を紡いだ。
「こんな風に、普通に紋章のことを話せるようになるまで、時間がかかったと思うんです。僕だって……マクドールさんとは全然事情が違うけど、ジョウイのことをジョウイを知らない人に何て話したらいいのか、今も全然分からないんですから……」
「セイ……」
決して大きな声ではない。だが、激しいものを内に押し殺した声だった。
思いがけない反応に少しの驚きと、それを上回る痛ましさを感じて名を呼んだティルを、うつむいていたセイがばっと顔を上げて見つめる。
「僕はマクドールさんのこと、すごい人だと思ってます。勝手な思い込みかもしれませんけれど、マクドールさんはすごく優しいし、本当の意味ですごく強いし……!」
だから、とセイは泣きそうにも見えるほど必死な瞳で、ティルに訴えた。
「だから、怖いか、なんて訊かないで下さい。僕はマクドールさんを怖いなんて一度も思ったことはないですし、これからも絶対に思いませんから」
その言葉に。
その瞳に圧倒されるように、セイの顔を見つめ返して。
「──うん」
ティルはうなずく。
「うん、分かった。……ごめんね」
「いいえ、そんな……。僕こそ勝手なこと……」
「いいんだよ」
静かに応(いら)えを返して、薄闇に沈もうとしている湖へとまなざしを向ける。
そこにはゆるやかに吹き寄せる風と、今、東の地平から昇ろうとしかけている淡い月の光しかなく。
「余計な時間を食ったけど、そろそろ食堂に行こうか」
ティルは、傍らに立つセイに穏やかな微笑を投げかける。
と、セイは一つまばたきした後、小さく笑んで、
「はい」
とうなずいた。
そして二人は連れ立って空中庭園から屋内へと向かう。
磨き抜かれた大きなガラス扉から城の中へと入る、その瞬間。
ありがとう、と小さく呟いたティルの声は、セイの耳には届かず、静かに湖からの風に掻き消えた。
...to be continued.
BACK >>