半月 - HALF MOON -






「釣れる?」
「まぁそれなりに……って、やあ、久しぶりですね」
「うん。君も相変わらずみたいだ」
 無造作に伸びた長い前髪に隠れて、表情の上半分は見えない。だが、明らかに懐かしさを込めて笑んだ相手にティルも笑って返し、彼の隣りを指差した。
「座っていいかな?」
「そんなこと、わざわざ断らなくったっていいですよ」
「じゃ、お邪魔するよ」
 屈託ないヤム・クーの応えに遠慮なく腰を下ろせば、デュナン湖上に伸びた桟橋の上は、程よく風が通り抜けてゆき、実に心地がいい。
 日差しを乱反射して輝く水面に目を細めながら、ティルはヤム・クーが手にしている釣竿の先を見やった。
「せっかくだからと思って、城内にいる昔馴染みに挨拶して回ってたんだけどね。まさか君たちまでここに居るとは思わなかったよ」
「でも、そんな意外じゃなかったでしょう?」
 ティルさんは兄貴の性格を知ってるから、と言われて、ティルは苦笑する。
「何でも、また船を出すか出さないかでセイと賭けたんだって?」
「ええ。兄貴のあれは病気ですからね」
 そう言う割には苦にしてる様子もなく、さらりと流すヤム・クーの横顔に、ティルはやわらかなまなざしを向けた。
 船乗り兼漁師というどちらかといえば荒っぽい仕事を生業としており、腕も相当立つのに、この男は物言いも穏やかで、飄々とした春風を思わせる生き方を崩さない。
 伊達と酔狂をモットーに、面白そうだと思えば何でも首を突っ込む対照的な性格の彼の義兄弟と合わせて、義侠心の厚い彼らがとても好きだったことを、ティルは思い出す。
「僕の時も、君たちは本当によく助けてくれたもんな……」
「俺は兄貴に付き合っただけですよ。といっても、税金ばっかり搾り取って、平民のことなんざ虫けら以下にしか思ってなかった帝国を引っくり返すのに協力できたのは、俺個人としても嬉しかったですけどね」
「……そう」
 ヤム・クーの口調のせいだろうか、それとも彼の持つ雰囲気のせいだろうか。
 過去を振り返る言葉に、ティルも淡く笑んでうなずくことができた。
「でも、今は君は戦闘には出てないんだって? セイが言ってたけど」
「ええ。俺が釣りの方が好きだって言ったら、だったらそれでいいです、僕にも魚釣り教えて下さいって。面白いですよね、あの子は」
「……確かにリーダーとしては変り種かもね」
 何だかその光景が目に浮かんで、小さく笑いながらティルは、いかにもセイらしい、と妙に納得する。
「で? 本当に釣りを教えてるんだ?」
「そうですよ。結構まめに来てくれますし、格別に上達が速いわけじゃないですけど、素直で一生懸命だから、教え甲斐はありますね」
「そうなんだ」
「ちょっと前には初めてサーモンを釣って、すごく喜んでましたよ。ハイ・ヨーさんに御馳走作ってもらうって、まだビチビチ跳ねてるのをナナミさんと一緒に担いで、すごい勢いで走っていきました」
「あの子らしい……!」
 たまりかねてティルは笑い出す。
 あの姉弟ならば当然の行動なのだろうが、どうにもおかしくて、しばらく笑いが止まらない。それがこのクォン城の城主で、ハイランドに楯突いている同盟軍のリーダーだというのだから尚更だ。
 おそらくその時、この城に集った人々は微笑ましく姉弟を見送り、ただ一人、あの融通の利かなそうな若い軍師だけが苦虫を噛み潰したような顔をしていたのに違いない。
「いいなあ、何かさ」
「そうですね」
 声を殺して笑い転げるティルを、穏やかに見守っていたヤム・クーは、静かな声で同意を返す。
「ティルさん」
「ん?」
「笑えるようになったんですね」
 その言葉に。
 ティルは目をみはり、そして。
「──うん」
 少しだけ、どんな表情をするべきか迷ってから、凪いだ微笑でうなずいた。
「ようやくね……」
 ティルがタイ・ホーとヤム・クーの義兄弟に出会ったのは、今から五年近くも前、トラン解放軍の初代リーダー、オデッサ・シルバーバーグが非業の死を遂げた直後のことだった。
 テッドとの別離から始まった、急旋回する己の運命に心がついてゆけず、それでも始めてしまった戦いを止めることはできないまま、必至に足を前へ踏み出そうとしていたあの頃。
 かろうじて微笑むことくらいはできていたかもしれない。けれど、その後も辛い戦いばかりが続き、失うばかりの日々に、到底声をあげて笑うことなどできなかった。
「……申し訳ないと、思っていたんだ」
「ティルさん?」
 名を呼ばれてティルは淡く微笑み、まなざしを透明に沈んでゆく水面へと向ける。
「僕は君たちに満足に感謝の言葉も言えないまま、グレッグミンスターを発っただろう? あの時は本当に心に余裕がなかったし、大統領の地位に関しては、今でも受けなくて正解だったと思っている。多分、あの時はああする以外、僕にはどうにもできなかった」
「──それは皆、分かってましたよ」
「うん。そうだったらしいね」
 祝賀会の夜が明けて、リーダーが姿が消していることに気付いた時、責める言葉を口にする者は少なく、口にした者もリーダーの気持ちは十分に分かっており、ただ、何も言わずに出て行ってしまったことに対する哀惜の裏返しに過ぎなかったと、かつての仲間たちから教えられたのは、先月、グレッグミンスターに帰ってきてすぐの頃だった。
「言い訳はしないし、たとえ今、あの時に戻ったとしても僕はやっぱり同じ選択をする。……でも、謝りたいとは……思ったんだよ」
 許してもらうとかもらえないとかではなく、既に自己満足の領域でしかないけれど。
 それでも。
 共に戦ってくれた、かつての仲間たちに。
「きちんと御礼を言って、あの時、何一つ口では説明できなかったことを謝りたかった」
「……はい」
 慰めるでも否定するでもなく。
 ヤム・クーはうなずく。
 そのことをたまらなくありがたいとティルは思った。
「ありがとう。そして……すまなかった」
「はい」
 前髪に殆ど隠れたヤム・クーの瞳を真っ直ぐに見上げ、そしてティルは静かに目線を湖へと向けた。
「……これで、この話はおしまいにしてもいいかな」
「いいですよ」
「ありがとう」
 いつまでも負い目を抱え続けることは、己にとっても相手にとっても重い枷となる。
 決して忘れてはならないことは幾つもあるし、言葉や態度に出すことを止めたところで、胸の奥に抱えたものが消えてなくなるわけではない。
 けれど、どこかで区切りをつけなければならないことも世の中にはあるのだ。
 だから、ティルは、はっきりと己の胸に楔を打ち込んで、気持ちを切り替えた。
「今日はこれからセイとの約束があるから駄目だけど、そのうち僕にも釣りを教えてくれるかい? 子供の頃に手ほどきしてもらって多少はやるんだけど、これが全然上達しなくてさ」
 声の調子を元に戻したティルの言葉に、ヤム・クーもまた、いつもと同じ態度で面白がるような表情を向ける。
「そうなんですか」
「そうなんだ。餌をかすめとられるばかりで、ちっとも針に懸かってくれない」
「分かりました。いつでも来て下さい。俺は嵐にでもならない限り、毎日ここに居ますから」
「うん、頼むよ」
 笑って、さて、とティルは立ち上がった。
「じゃあ僕は行くから。またね、ヤム・クー」
「はい」
 最初から最後まで、湖に糸を垂らした釣竿を手放そうとしなかった男に見送られて、ティルは桟橋を陸(おか)の方へと戻る。
 そして船着場の前から城内に入り、壁に所々蝋燭の灯りが灯されているだけの薄暗い地下を抜け、階段を上がろうとした時。
「……ルック?」
 ティルは踊り場の影にたたずむ人影に気付いた。
「どうしたんだ、こんな所で」
 ルックが普段居るのは、かつてと同じ約束の石版の前か、自分の部屋に決まっている。出歩くことも、他人と馴れ合うことも嫌う彼が、少ないとはいえ人通りのある場所に、こんな風に居るのは珍しかった。
「……何でって聞くより、自分で考えてみたらどう? なぜ何ばかりじゃ、そのうち脳味噌が退化するよ」
 その声は、いつもよりも不機嫌の度合いが濃いような気がして。
 ティルは短く考え、答えを出す。
「僕に用があるわけか。珍しいな」
「僕だって好きでやってるわけじゃないよ。ただ、放っておくのもね」
 いかにも鬱陶しそうに一つ息をつき、ルックはティルの顔に視線を据えなおした。
「煩わしいことはさっさと済ませたいから、単刀直入に聞くよ。君はどういうつもりで、ここに居る?」
「……どう、っていうのは?」
「そのまんまの意味さ。どういうつもりでセイを構ってるんだい?」
 質問を重ねてくる相手の真意が分かるようで、今一つ図り切れず、ティルはルックの冷えた色の瞳を見つめる。
 ルックは目を逸らすことなく、真っ向からティルのまなざしを受け止め、結局、先に諦めたような溜息をついて目を伏せたのはティルの方だった。
「──意外」
「何が」
「ルックが、そんなにあの子のことを気にかけてるとは思わなかった」
 そう言った途端、ルックの細い眉がきつくつり上がる。
 だが、ティルは構わずに続けた。
「あいにく、どういうつもりもこういうつもりもないよ。頼まれて断る理由がなかったし、セイもナナミもいい子だから、手伝えることがあれば手伝ってやりたいと思うし、それだけだ」
 とんと、ひんやりした石壁に軽く背を預けながら、ティルは答える。
「君は自分の右手にあるものが何なのか、まだ分かってないわけ?」
「……そういう言い方されると、僕としても気分は良くないんだけどね、ルック」
「先に気分を悪くさせるような言い方をしたのは、そっちだろ」
 しばらくの間、二人の間には冷ややかな沈黙が流れる。
 が、今回も根負けしたのはティルの方が先だった。
 このまま、たとえ一日中睨み合っていたとしても、自分相手にはルックは絶対に折れない。
 五年近く前から続く付き合いでそう悟っているティルは、吐息と共に肩の力を抜き、口を開いた。
「自分がどういう存在なのか、何をしてるのかは分かってる。自分のことだからね」
「その結果が現状?」
「……そう言われても仕方がないかな」
 背を壁に預けたまま、ティルは軽く目を閉じる。
 言葉が途切れて沈黙が場を支配した途端、階上の喧騒が、二人の居る踊り場まで遠く響いてくる。
 人々が歩く足音、誰かを呼ぶ声、笑い声、怒鳴り声。
 生きている人間特有のざわめき。
 それらに耳を傾けながら、ティルは胸の中で一人ごちる。
 ──人々が集い、生きている場所。
 ──人間の、居る場所。
 このクォン城にはハイランドの侵攻に抵抗する人々、あるいは戦乱から逃れてきた人々など一万人を超える様々な種族が集い、それぞれの思いを抱えながらも日々を明るく、たくましく生活している。
 そんな様子は、かつて自分が城主だったセイラン城にどこか雰囲気が似ていて。
 戦うことに必死で周りを見る余裕などなかったあの頃と違い、今の自分は、素直にそんな人々の活気を好ましいと感じ、受け入れることができる。
 そして、そんな人々の中心に居る少年。
 公的な地位がないとはいえ、トラン共和国の重要人物であることには違いない自分がここに居るには、細心の注意とけじめが必要だということは重々に承知しているし、ソウルイーターのことを考えれば、他者からは最大限に距離を確保する必要があることも分かっている。
 けれど。
 セイが迎えにきて、自分をこの大勢の人々が集う城へといざなってくれるのは嬉しいと感じるし、彼らと共に戦うことを拒絶したくないとも思うのだ。
「一応気をつけているつもりでは、あるんだよ」
「到底、そうは見えないんだけど」
「そう?」
 応じながら、ティルはルックの声の不機嫌さが普段のレベルにまで戻っていることに気付く。
 ティルが肩の力を抜いた時、同時に緩めるのは、おそらく彼の矜持が許さなかったのだろう。
 そんな相変わらずの意固地さに、ティルは呆れつつも少しだけおかしくなる。
「まぁ、ルックがそういうのなら、これからはもう少し気をつけるよ。どれだけ用心しても、用心のしすぎということにはならないからね、こいつは」
 皮手袋に覆われた自分の右手の甲を見下ろしながら答えると、ルックが小さく呆れたような溜息をついた。
「……三年間で少しは制御できるようになったんじゃなかったのかい?」
「うん、そうなんだけどね。でも僕がそう思っているだけで、こいつが気まぐれに大人しくしているだけなのかもしれないし。実際、気を緩めると暴走しそうになるから、油断はできないよ」
「……バナーの村でも危ない感じだったしね」
「ああ」
 やはり気付いていたのかとうなずいて、先月、三年ぶりにルックと再会した時のことを思い返す。
 たまたま遭遇した事件で、たった一匹のモンスターを飲み込ませるだけのつもりだったのに、しばらく餌を食わせていなかったせいか、ソウルイーターはこちらの意思を越えて無限に力を解放し、貪欲に周囲の魂をむさぼろうとしたのだ。
 だが、暴走しかけたソウルイーターの隣りで、セイが彼の右手に宿った紋章を発動させた途端、嘘のようにソウルイーターは鎮まった。
 ──というより、あれはもしかしたら暴走ではなく、真の紋章同士が共鳴しただけだったのか……?
「それで? そこまで分かっていて、どうしようっていうんだい?」
 ふと沈みこみかけた思考を冷ややかな声で引き戻されて、ティルは自分の右手を見つめ直す。
「確かに不安はあるけどね。それでも制御しきれないことはないと思う。この紋章は思った以上に宿主の感情に忠実らしいから」
「………」
 天魁星のもとに集う数多の宿星の中で最も……というより唯一、真の紋章のことに関する知識を持っているのが、この目の前にいる予言者レックナートの弟子だ。
 沈黙で返って来る返答に、彼はとうに知っていることなのだろうと思いながら、ティルは続けた。
「ソウルイーターが食らうのは、宿主が心を寄せた相手だけ。宿主が嫌う相手を、自ら食らおうとすることはない。宿主が望むからソウルイーターも、その魂が己と共に永遠に在ることを望むんだ」
「……恐ろしく傍迷惑な独占欲だね」
「そう。恐ろしく身勝手で我儘だよ。そして、とてつもなく忠実で、時には主以上に主の心理を把握している。それを理解していれば付き合えないものでもない」
「どうやってさ。君みたいなタイプが人間嫌いになれるとは到底思えないんだけど? 現に、こんな所にまで来ていて何言ってるのさ」
 容赦なく切り捨てる相手の言葉に微苦笑して、ティルはうなずく。
「確かに君の言う通りだよ、ルック」
 そして、踊り場の石組みの壁を見るともなしに見上げた。
「この三年間、大陸中を放浪して随分とあちこちへ行ったし、色んな人にも会った。もちろん極力、人とは関わるまいと思っていたけど、結局無理なんだよ。数日同じ街に滞在していれば、どうしても親切にしてくれた人に感謝したり、好感を抱いたりしてしまう。──こんなものを宿していてもね、やっぱり人恋しいんだよ、僕は」
「………本当に馬鹿だね」
「うん」
 ルックの言う通りだった。
 本来、ソウルイーターは人知れず封印されるべきものであって、宿主が人里をうろうろしていていいはずがない。
 けれど、どうしても自分は、他人を切り捨てては生きてゆけないのだ。
 そういう甘さを見越したからこそ、ソウルイーターも己を宿主に選んだのかもしれないとも思う。
 だが、それでも紋章を失うまで永遠に続く日々を、孤独に干からびたまま生きていくことを決意できない。
 人外の存在になってしまったのだとしても、人として生きたいと願わずにいられないのだ。
「自分でも愚かだとは思うし、ソウルイーターが魂を食らう感触なんて金輪際、味わいたくないとも思う。でも、紋章に振り回されて何もできないまま、何十年も何百年も生きたくない。そのためなら、命を賭けてでもソウルイーターの貪欲さを制御して、誰かのためにこの力を使う努力をしてみせるさ」
「……真の紋章は、そんな甘いものじゃないけどね」
 それに群がる人間たちも、とルックは呟くように言い、そして疲れたように前髪をかきあげた。
「少なくとも君に何を言っても無駄だということは、よく分かったよ。そういうつもりなら勝手にすればいい。僕は言うだけのことは言ったから」
「うん。……ありがとう、ルック」
「例を言われる筋合いのことなんか、何もしてないよ」
 素っ気無く言い捨て、ルックは踊り場を離れ、早足で階段を上がってゆく。
 一人取り残されたティルは、唇に淡い微笑未満の表情を滲ませた。
 ……つまるところ、ルックは心配してくれているのだ。
 ティルと、そしてこの城の人々のことを。
 万が一のことが起きた時、傷つくのはティル自身と、被害者の周囲にいる人々に他ならない。
 だから。
 彼の信条には反するだろうに、防げるものなら災いを未然に防げるよう、わざわざ諫言をしにきてくれた。
「何のかんの言っても結構優しいよね、ルックはさ……」
 口では何と言おうと、あの毒舌家の少年は誰かが嘆き悲しむ光景など見たくないのだろう。
 それが見知った人々ならば尚更に。
 けれど。
「馬鹿で悪いね……」
 それでも自分は賢い生き方を選べない。
 不器用すぎる、愚か過ぎると言われても反論はできない。
 テッドもそうだったのだろうか、とティルは一人、今は亡き親友の面影を胸に思い浮かべる。
 ──人間として、人間の中で生きたい。
 そんな原始的な欲求は、一体どこから生まれてくるのか。
 人は何故、他者の温もりを求めてしまうのか。
「──なんて悩んでいても仕方ないしね」
 この三年という間に、そんなことは散々に考えた。
 そして理解したのだ。
 自分も結局、ただの人間でしかないと。
 それならば一人の人間として、やれることをやろう、とティルは石壁から背を離す。
 そしてゆっくりと階段を上り始めた。

...to be continued.

ヤム・クーを出したのは単に趣味。タイ・ホーと合わせて大好きなキャラ(二人ともすごくカッコいい漢だと思う)で、幻水1の中盤ではひたすら漁師コンビを連れ回してました。幻水2ではタイ・ホーしか連れ出せないのを補うように、ひたすら釣りにチャレンジ。それでもやっぱりサーモン釣りは難しい……。
でも旧知の人物の中では、ヤム・クーが一番余計なことを言わずに、黙って話を聞いてくれるような気がしたのです。




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