三日月 - CRESCENT MOON -
木々の梢がやわらく陰影をつけた日差しが、本館と別棟を結ぶ回廊に差し込んでいる。
その明るい回廊の中程に、談笑している三人の青年の姿を見つけて、セイは足を止めた。
同盟軍の本拠地となっているクォン城には今や多くの仲間が起居しており、彼らが城内のそこかしこでくつろ寛ぎ、たむろっているのは珍しくも何ともない。
いま談笑している三人のうち、特に二人は居るのが当たり前の存在であるし、あとの一人も最近はすっかり城内に姿があることに馴染んできている。
なのに、目の前のそれはひどく見慣れない……珍しいといってもいい風景であるようにセイには思えた。
年長の二人の青年──ビクトールもフリックは普段と変わらない闊達さで、見ようによっては少しだけ懐かしさや気遣いも混じっているかもしれない色合いをそれぞれの瞳に浮かべている。
そして、回廊の柱に軽く背を預けるようにして二人に向かい合っている青年──というよりも、まだ少年という形容の方が似合うかもしれない──の表情は、おそらくこれまでセイが目にした表情の中で一番やわらかなもので。
波立つことのない湖のような深遠を思わせる彼が、今は屈託のない楽しげな光を漆黒の瞳に浮かべている。
その深いきらめきに知らず目線を奪われた時、
「! セイ、どうした?」
彼らがこちらに気付いた。
建物から回廊へと足を踏み入れるか入れないかの所に立ち止まっているセイから彼らまでは、それなりの距離がある。が、百戦錬磨の戦士にとっては、一瞬で詰められる……つまりは無意識に警戒すべき間合いになるのだろう。三人がほぼ同時にこちらへ視線を向けたことに少しだけ驚きながら、ビクトールの呼びかけに応じて、セイはそちらへと歩み寄った。
と、目ざとくビクトールが、手にしていた天牙双へとまなざしを向ける。
「昼に帰ってきたばかりなのに、またどっかに出かけるのか?」
「いいえ、今日はもう予定ないんです。ナナミも街に買い物に行っちゃったし」
セイ自身は、帰城してから今まで、シュウやアップルと共にこれからのことを相談していたのだが、それも一段落して、日の当たる場所へ出てきたところだった。
「それで、ちょっと時間が空いたから、鍛錬でもしようかと思って……」
「真面目だなぁ、お前は」
「もう少し気楽にやっても大丈夫だぜ? 俺たちもいるんだし」
感心半分、気遣い半分の口ぶりでそれぞれに言われて、セイは笑顔を少し困ったような笑みに変える。
「そんなんじゃないですよ……」
自分が鍛錬に励むのは、もちろん強くなりたいという思いが一番ではあるが、それ以上に気が紛れるからだ。
思い切り身体を動かして、鍛錬に没頭している最中は他のことはすべて忘れられる。
それは気持ちを切り替えるため、あるいは迷いを吹っ切るための行動ではあったが、見ようによっては逃避とも取れるものであり、ゆえに、セイは鍛錬に熱心だと感心されることが少し後ろめたく、苦手だった。
どう答えようか、と思った時、
「もしよければ、僕が鍛錬に付き合おうか?」
よく透る声がセイの耳を打った。
「えっ!?」
「君が出かけないのなら、僕も暇だしね。ただ飯食いとルックに嫌味を言われるのも癪(しゃく)だし、セイさえ良ければ相手をするよ」
「いいんですか!?」
驚きと喜びが等分に混じったセイの視線の先で、ティルは軽く笑んでうなずく。
「いいよ」
「すっごく嬉しいです!! すぐに練兵場に行きましょう!!」
自分の立場も忘れて思わず飛び跳ねそうになるのをかろうじてこらえたセイは、それでも十分すぎるほどにはずんだ声でティルに呼びかける。
と、
「お前たちが手合わせするのか? そりゃ見物(みもの)だな」
「俺たちも見に行っていいか?」
いかにも興味津々といった面持ちで年長者たちに言われて、セイは小首をかしげた。
「僕はいいですけど……マクドールさんは?」
「セイがいいのなら僕も構わないよ。そんな見て面白いものでもないと思うけど」
「謙遜するなよ。十分に目の保養だぜ」
「……目の保養ってのは違うんじゃないのか、ビクトール」
「あ、でも分かります。マクドールさんの動きって本当に綺麗ですから。普通に戦闘してる時でも、まるで演舞見てるみたいな気がしますもん」
「ちゃんと師匠について習ったっていうのもあるだろうけど、半分は天性のセンスだろうなぁ、これは」
「ですよねー。僕だってじいちゃんに子供の頃から武術を教わってましたけど、マクドールさんみたいな武器の捌(さば)き方はできませんし」
「でも、お前だって大したものだぜ。ティルとはまたタイプが違うけどな」
「そんなことないですよ。僕も強くなりたいから頑張ってますけど、マクドールさんには絶対に勝てません」
「……あのさ、本人の目の前でベタ誉めされても、反応に困るんだけど」
珍しくも本気の困惑を淡く滲ませて、ティルはぼやくように呟く。
その声に、
「えっ、あっ、でもマクドールさんが綺麗なのは本当ですし……!」
気分を悪くさせてしまったのかと慌てながらも、セイは何とか他意がないことを説明しようと、自分よりも頭半分ほど背の高いティルを見上げてこぶしを握り締める。が、もともと口達者な方ではないのだから、咄嗟に気の利いた言葉が出てくるはずもない。
しかし、熱意だけは伝わったのかどうか。
「……うん、ありがとう」
ほんのり紅潮した、セイの必死と形容するのがぴったりの表情に、呆気に取られたような色をかすかに滲ませていたティルの深い漆黒の瞳が、ふと穏やかに笑み崩れた。
「おー、さすがセイ。ティルですら篭絡するってか」
「セイにかかっちゃトランの英雄も形無しだなー」
「うるさいな」
肩に圧し掛かるビクトールの太い腕を少々邪険に払い落としながらティルは、きょとんとしてやりとりを見ていたセイに笑みを向ける。
「じゃあ行こうか、セイ」
「はい!」
大きくうなずいて、セイは二人の観客希望者を引き連れたまま、ティルに並んで歩き出した。
困ったな、と目の前に立つ相手を見つめながら、セイは内心、少々焦っていた。
練兵場で向かい合い、軽く長棍を構えているだけのティルは、まったく力みがなく自然体だ。それこそ、ただ無造作に立っているだけにも見える。
まるでじいちゃんみたいだ、とこめかみを伝う汗を感じながら、じっと目を凝らし、呼吸を整えながら相手の隙を探る。
しかし、何も見えない。どうしても相手の間合いまで足を踏み込むきっかけが掴めない。
向かい合ったまま、じりじりと時間だけが過ぎてゆく。
と、
「こないのなら、今度はこちらから行くよ?」
よく透る涼しい声が聞こえたと思った次の瞬間、セイは両腕に重い衝撃を感じた。
「──っ!!」
相手の攻撃が、はっきり見えていたわけではなかった。
咄嗟に両腕を身体の前で交差させ、受け止めることができたのは本能で体が動いた結果であり、上段から天牙棍が叩き付けられたのだと理解したのは、その後のことで。
「へえ、よく止めたね。……でも」
まだまだ、という声とともに、そのまま退くことなく更に懐まで踏み込んできたティルに、セイは防御もろくにできないまま跳ね飛ばされた。
その激しい一瞬の攻防に、手合わせを見守っていた野次馬たちがどよめく。おそらく彼らの大半は、二人の動きを目で追うこともできなかったのに違いない。
「った……!」
かろうじて受身は取ったものの、それでもかなりの勢いで地に落ちた衝撃に、セイは顔をしかめる。
「大丈夫?」
「はい、これくらい全然……」
「そう? あんまり手加減しなかったんだけどな」
微笑しながら差し伸べてくれた手につかまって、セイは立ち上がる。
そして、ふうと大きく息をついた。
「疲れた?」
「だってマクドールさん、全然隙がないんですもん。おまけにスピードもすごいし力も強いし……」
「力はそう変わらないと思うよ。君と僕の差は攻撃の速度かな。力が同じでも速さが増せば、その分、攻撃の威力も倍加する」
単に打撃の威力だけを考えると、体重が軽いということは間違いなく不利である。だが、そこに速度と勢いを加算できれば、敵が重量級であっても十分なダメージを与えることができる。それこそ棍のような刃のない獲物であっても、フルアーマーを叩き割ることすら可能になるのだ。
もちろんそこまでのことができるのは、よほど修練を積んだ達人クラスの技量と、それに耐えうる武器があってのことではあるが。
「今でも十分にセイの動きは速いけどね。でも、もう少しスピードアップできたら、それこそ誰も適わなくなるよ」
「……でも」
「うん?」
何でもないことのように言葉を紡ぐ相手を、セイは少々上目遣いで見上げた。
「それでも、マクドールさんの方がずっと強いじゃないですか……」
言いながら、自分はひどく子供っぽい表情をしているだろうと思った。
彼には勝てなくて当然という思いは、出会ってすぐの頃からずっとある。
自分より幾つか年上なだけとはいえ、かつてのトラン解放軍のリーダーとして、今から数えれば五年も前から戦場に身を置いていた人なのである。
ビクトールやフリック、ハンフリーといった十分に剣豪で通じる歴戦の戦士でさえ、あいつには適わないとあっさり白旗を揚げる相手に、自分がたやすく勝てるなどとはとても思わない。
けれど、だからといって、簡単にあしらわれてしまうことは、ひどく悔しいのだ。
「僕に勝ちたいんだ?」
「いえ、勝ちたいとか、そういうわけじゃないんですけど……」
せめて。
せめて肩を並べられるくらいに。
彼が安心して背中を任せてくれるくらいに強くなれたら。
「──…」
しかしそんなことを思うのは、妙に気恥ずかしいようなおこがましいような気がして、口には出せず視線をうつむかせてしまったセイに、ふっとティルが笑んだ。
「大丈夫、君は強くなれるよ」
ぽんぽんと軽く頭を撫でられて、セイはますます複雑な顔になる。
「……マクドールさんって、なんか僕のこと子ども扱いしてませんか?」
「してないよ」
「嘘」
「してないって、本当に」
子ども扱いしてるんだったら、手加減無しで手合わせするわけがないでしょ、と飄々としたいつもの口調で言われて、セイは本気にするべきかどうか、反応に困った。
「ほら、そんな顔してると本当にお子様扱いするよ?」
そう言って、ティルは手にしていた天牙棍を軽く一振りする。
「まだ続けるだろう?」
「あ、はい! お願いします!」
慌ててセイは数歩分の距離を離れ、天牙双を構えなおした。
せっかく彼から手合わせを申し出てくれたのである。数少ない機会を、おしゃべりで潰してしまってはもったいなさすぎるというものだ。
「行きます!」
自然体でありながら隙のない相手の姿を正面から捉えれば、自然にセイの精神もそこへと集中する。
集ったギャラリーのざわめきも、頬を撫でる風の感触も忘れ、セイは力強く地面を蹴った。
「!!」
渾身の一撃は、彼が手にした天牙棍によって阻まれる。だが、受け流されたのではなく受け止められた反動を利用して、セイは微妙にスピードの緩急をつけながら立て続けに打ち込んだ。
そして、その勢いを殺すためにティルがわずかに足を引いた隙を見逃さず、一瞬で身を沈めて足払いを仕掛ける。
「っ!」
が、ティルは軽く跳躍してそれを避け、逆にその勢いのまま真上から天牙棍を突き下ろした。
ひゅん、と風鳴りを響かせた神速の突きを、反射神経だけで地面を転がるようにしてかわしたセイは、素早く距離を取って立ち上がり、天牙双を構える。
時間にすれば一分にも満たない短い攻防だったが、セイの呼吸は乱れて額には汗が伝っている。だが、それを拭う間もなく、再びセイの足は地を蹴っていた。
セイもティルも接近戦型の武器を愛用しているが、しかし刃のない打撃用の武器は、距離が近すぎると十分な威力を発揮することができない。その特性は双棍のセイよりも長棍のティルにより顕著であり、ゆえにセイは敢えて先程以上の接近戦を仕掛けるため、相手の懐に飛び込む。
が、当然ティルの方もセイの意図は承知の上であり、先程のような防御一辺倒ではなく天牙棍の長さを生かした鋭い攻めを繰り出し、自分に有利な距離を保とうとする。
その激しい攻防はしばらく続き、観客たちが固唾を飲んで見守る中、
「!」
ティルがセイの打撃を受け止め損ねて、攻守のバランスが一瞬崩れた。
その隙を見逃さずセイは大きく踏み込み、誰もが次に起こる光景を想像した、その刹那。
「え…っ!?」
ふっと笑んだティルの表情が見えたと思った次の瞬間、横なぎに強く足を払われてセイはまともにバランスを崩し、左後方へと倒れこむ。
「っ!!」
受身を取り損ねて、まともに身体を地面にぶつけた衝撃に一瞬顔をしかめ、はっと我に返って見上げた時には。
「……あ…」
喉元に天牙棍が突きつけられていた。
「勝者、ティル・マクドール!!」
しん、と静まり返っていた練兵場に、朗々とビクトールの声が響き、途端にわっと歓声が上がった。
「競技会の試合じゃないんだけどな」
苦笑交じりの声が聞こえたのは、おそらくセイだけだっただろう。
天牙棍を引いたティルは、代わりに左手をセイにさしのべた。
「大丈夫? 一応怪我はさせないようにと思ったんだけど……」
あまり手加減できなかったから、と言われて呆然となっていたセイは、慌ててその手に自分の右手を重ねた。
細身なのに力強い腕に引き起こされて立ち上がり、ほうと一つ息をつく。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。これだけ真剣に手合わせしたのは久しぶりだから、すごく楽しかった」
「あ、はい。僕もすごく楽しかったです!」
「うん」
笑ってうなずいてくれるティルを見て、セイはひどく嬉しくなる。
「あの、また時間ある時に相手してもらえますか?」
「いつでもいいよ。どうせ暇な身だしね」
「ありがとうございます!!」
心の底から御礼を言ったセイに微笑んで、ティルはよく晴れた空へとまなざしを向けた。
「……もうすぐ夏になるんだな」
今年も暑くなりそうだとふと呟いて、眩しげに目を細め、雲ひとつない初夏の青空を見上げる。その何気ない仕草の持つ鮮やかさに、セイは思わず呼吸するのも忘れて見惚れる。
さらさらと風に流れる漆黒の髪も、静寂と鋭さを合わせ秘めた漆黒の瞳も、眩しい空の青によく映えていて。
ただ、綺麗だった。
「君も疲れただろうし、食堂に行ってハイ・ヨーさんに何か甘いものでも……って、どうしたの?」
「い、いいえ!」
こちらを振り返ったティルに、我に返ったセイは慌てて首を横に振る。
「セイ?」
「何でもありませんから! 行きましょう!」
見るからに怪しいのは自分でも分かっていたが、しかし理由を問われても、「見惚れてました」なんて恥ずかしくて答えられない。
くるりと踵(きびす)を返してさっさと歩き出したセイに、ティルは物言いたげなまなざしを送ったが、気付かないふりでセイは、手合わせを最後まで見守っていた面々に手を振った。
「ビクトールさん、フリックさん、今から食堂行きますけど、一緒にどうですか?」
「ああ」
「そういえば腹が減ったなー」
「お前はいつもだろ」
そして和気藹々と騒ぎながら、四人は他のギャラリーたちを残して練兵場を出てゆく。
その後姿を追うように、初夏の日差しが鮮やかなまでに眩しく降り注いでいた。
...to be continued.
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