花影遥かに
うららかな春の昼下がり。
思わず陽だまりで午睡を楽しみたくなるような、のどかな日差しの中。
「はあ…」
実に、まったくもって周囲に似つかわしくない溜息が、居心地よく整えられた瀟洒な応接間の中に響いた。
何度来ても慣れない、とセイは、ちんまりと腰掛けた豪華な布張りのソファーの上で身じろぎする。
おそらく名のある職人、あるいは有名な工房による作なのだろうと自分にも見当のつくソファーは、枠木の彫刻もさることながら、落ち着いたグリーンを基調とする色合いの織り模様がとても綺麗で、座るだけで無く思わず寝転んでしまいたくなるような心地よいふかふか加減である。
つまりは素晴らしいことこの上ないのだが、いかんせん、こんなふかふかにはセイは慣れていない。生まれは知らないが育ちは勿論、一応城主となった今でも財政的な理由から私室のベッドは、セイとナナミにとっては十分気持ちよくても、こんな芸術的なふかふかは望むべくも無かった。
(すっごく気持ちいいけど……なぁ)
自分の姿を見下ろすと、更にその思いは強まる。
なにせ、朝一番でクォン城を出て、はるばるバナー峠を越えてきたのだ。この屋敷の門を叩く前に一応、全身を払ったけれど、やはりどことなく服も靴も埃っぽい。
(おまけにマクドールさんいないし)
応対に出てくれたグレミオの言によれば、この屋敷の主人はすぐ近所まで出かけているらしい。
そのうち戻られるでしょうから、とにこやかな笑顔のお誘いに辞退させてもらうこともできず、応接間に通されたのだが、しかし。
(待つのは全然構わないんだけど、それならそれで、道具屋で掘り出し物でも探したのになー。というか、その方が気楽なんだけど……)
人の親切を無碍にしてはいけない。
物心のついた頃からそりゃもうしつこいくらいにゲンカクじいちゃんとナナミに叩き込まれた、謙虚かつ、お人好しな精神は、今日もセイの中で健在だった。
(お茶、まだかなぁ)
決してセイが意地汚いわけではない。ただ、居心地の悪さをもてあまして、グレミオが運んできてくれるはずのお茶とお菓子にセイは思いを馳せる。
そのまま何となく目線を上げて、手持ち無沙汰に室内をくるりと見回してみると。
「……あれ?」
ソファーから見て向かい側の壁に、見たことのない絵がかかっているのに気付いた。
確か、前に見た時は、どこかの山脈を描いた風景画がそこにはあったはずなのに、今日は違っている。
美しい装飾彫りの施された額縁の中、やわらかな微笑をたたえてこちらを見つめている深い青の瞳。
「綺麗なひと、だなぁ」
思わず溜息混じりの賞賛がセイの口からこぼれた。
しとやかに結い上げられた髪は、艶やかな漆黒。
肌は白く、画面からも見て取れるほどになめらかで、瞳の色と同じ深い青のドレスが良く映えている。
年の頃は、二十代半ばから後半、といったところだろうか。
これまでに見たこともない美しい貴婦人の肖像だった。
思わず見惚れて、それからセイは小さく首をかしげる。
一体誰の絵だろうと思うのが半分、もう半分は、美しい貴婦人の姿に何かが引っかかるのを覚えたせいで。
「あ……。もしかしたら」
絵を見上げたまま、ふと思いついた時。
こんこん、とノックが響いた。
「お待たせしてすみません」
「いいえ、お構いなく」
銀のトレイに白磁のティーセットと、お手製の焼き菓子を持った菓子盆を乗せたグレミオが入ってくる。
それが自分の目の前に並べられるのを待つのもそこそこに、セイは今、思いついたことを口にした。
「グレミオさん、あの、向こうの壁にかかっている絵なんですけど」
「ああ、」
この屋敷の有能な家政夫をも勤める青年は、心得たようにうなずく。
「さすがですね。気付かれましたか」
「はい。あの絵の女の人って……」
「ええ。先代の奥方様、坊ちゃんの母君ですよ」
「やっぱり!」
目を輝かせて、セイは声をあげた。
「最初は分からなかったんです。目の色が違うから……。でも誰かに似ているなと思って」
「坊ちゃんの瞳はテオ様譲りの漆黒ですからね。けれど、それを除いたらよく似ておいででしょう」
「はい!」
大きくうなずいて、セイは肖像画に視線を戻す。
もちろん、母子とはいっても男女差があるから、よく似ているのは面差しだけといってもいいかもしれない。
息子の持つ青年独特の艶や、誰もが目を惹かれずにはいられない風格を持たない代わりに、絵の中の貴婦人は、えもいわれぬしとやかな優しさをたたえている。
しかし、優しさの向こう側に凛とした気品を感じさせるのは、どちらにも通じていた。
「セレンディア様とおっしゃって、伯爵家からテオ様に嫁いでこられたそうです。この絵の通り、とてもお美しい方でしたから、一時は先の皇帝のお妃候補にも挙がったことがあったそうですよ」
「そうなんですか」
古い言葉で、月の娘を意味する名は、確かに絵の中の貴婦人にふさわしく美しい響きで。
グレミオも、しみじみとしたものをたたえて絵を見上げた。
「私がテオ様に拾われてこの屋敷に来た時は、既に病気がちになられて臥せっていらっしゃることの方が多かったんですが、とても優しい方でしたよ。亡くなられるまでの一年余りの間、本当によくしていただきました……」
彼女以上の貴婦人を、未だに見たことがありません、と呟くグレミオの口調は穏やかで、遠い敬慕にただ満ちている。
その響きを、少しばかりの戸惑いにも似た淡い驚きと共にセイは聞いた。
「臥せってばかりの月日は辛いことも多かったはずなのですが、そういったことは一度もおっしゃりませんでした。本当に芯のお強い方で、いつも優しく微笑まれて、やんちゃざかりの坊ちゃんを上手にたしなめられながら、何度も繰り返し、わたくしが居なくなった後のこの子をお願いね、と……。ですから、一時は本当にその言葉が私の全てでしたよ」
遺された子供が日々、成長してゆくのが分かっていても、なかなか距離感を持って接することができなかった、と苦笑してグレミオはセイへとまなざしを向ける。
その明るい青の瞳を見て。
セイはもう一つ、気付く。
──英雄戦争。
虚実の入り混じった話でしか知らない隣国の革命。
その長く苦しい戦いを経て、彼の主人が今の彼の人になったように、おそらくグレミオも何かが変わったのに違いない。否、変わらざるを得なかったのだ。
自分が……自分たちが、それまでの己から変わることを人々に求められ、変わらざるを得なくなっているのと同じように。
それが良いことだったのか悪いことだったのか、そんなことは他人が測る術はない。
近くに居る人、遠くに居る人、あらゆる人々が彼らの名を口にし、あらゆることを口にしているだろう。けれど、それが何だというのか。
きっと、そんなところには彼らの真実の心はない。
ただ、自分が、そして他の人々がそれぞれに変わったことを、たとえ葛藤交じりだったとしても、彼らは受け入れている。あるいは受け入れようと努力している。彼らの瞳がそう語っている。
その事実が全てだ、とセイは感じた。
「この絵は普段、奥様のお部屋に飾られているんですが……今も、お部屋は奥様がいらっしゃった頃のままにしてありますので……。今月の七日がセレンディア様の命日なので、こちらにお移ししたんですよ」
「そうだったんですか」
うなずきながら、セイはもう一度絵を眺める。
引き込まれそうな美しい青の瞳に浮かんでいるのは、深い深い慈愛の微笑。
それは、もしかしたら妻として夫を見つめる瞳なのかもしれない。
けれど。
(お母さん、なんだ)
きっと絵の中の貴婦人が、彼女の小さな息子を見つめる時もこんな瞳をしていたのに違いない、とセイは思う。
(いいな……、って思ったらいけないのかな。マクドールさんのお母さんも亡くなってるんだし……。でも……)
母の顔も父の顔も、抱きしめられた腕の温かささえ思い出せないセイの胸に、貴婦人の優しい微笑は遠い憧憬が具現化したように、深く染み透る。
目が離せなくなったように絵に見入るセイに、その横顔を見つめていたグレミオは何かを……あるいはかつての自分の心情と通じるものを感じ取ったのだろう。穏やかに微笑して、セイのティーカップに新しいお茶を注ぎなおした。
「セイくん」
「あ、はい!」
「坊ちゃんはまだ戻られないようですから、良ければ迎えにいって差し上げてくれませんか。あまり遅くなると、バナー峠を越えるのも大変になるでしょうし」
「そうですね……」
言われてセイは考える。
正直なところ、今日もちゃんと装備は身につけているし、別に夜の山道を歩くことくらいどうということもない。ましてやティルが一緒なら、文字通り百人力だ。が、確かにあまり遅くなると、城においてきたナナミが心配するだろうし、シュウに眉をしかめられるかもしれない。
(お説教されるのは嫌だもんな)
「はい。じゃあ、このお茶をいただいたら行きます」
「ええ」
グレミオの笑顔に、にっこり笑顔で答えて、セイは優しい香りを湯気と共に立ち上らせるティーカップを手に取った。
「ええと、さっき左に曲がったから……今度は突き当たりを……右っと」
教えられたとおりに道順を呟きながら、セイは足早に小道を通り抜ける。
グレッグミンスターにはもう何度も来ているが、こんな街の外れに足を踏み入れるのは初めてのことだった。
今は大統領府となっている旧赤月帝国の城の横を抜けると、町並みは閑静な下町となり、ここに住まう人々が行き交う細い小路には穏やかな春の日差しが落ちている。
その細道を一番端まで通り抜け、角を曲がると。
突如として視界が開けた。
「うわぁ」
春の日差しに、やわらかく萌え出た一面の若緑が輝いている。
その眩しさに、思わずセイは目を細めた。
「──と。いけないいけない、こんなところで道草してちゃ」
街の外に出たら、今度は道なりに丘を登って……と今立っている石畳の途切れた先から続いている踏み分け道をセイは辿る。
数日前に雨が降ったのだろう、ほどよく湿った土はやわらかくセイの足を受け止め、道は左右にゆるやかに曲がりながら丘の上へと登ってゆく。
そして、その道の先。
丘の一番上に。
「マクドールさん!」
木陰にたたずむ、見覚えのある後姿にセイは声をあげ、坂道を一息に駆け上がった。
「セイ、来てたんだ」
呼吸を乱すほどではない、が、ダッシュする間、詰めていた息を吐き出したセイを振り返って、ティルはやわらかな笑みを瞳に浮かべる。
その瞳を見上げ、セイは満面の笑顔で答えた。
「はい。グレミオさんが、マクドールさんがここに居るって教えてくれたんです」
「うん」
「僕は待ってるつもりだったんですけど、日が暮れると峠越えが大変だろうからって……。僕は別に平気なんですけど、でもあんまり遅くなるとナナミが心配するかもと思って」
「そうなんだ」
優しい表情で彼が自分の言葉を聞いてくれることが嬉しくて、セイは一生懸命に言葉を綴る。
そんなセイを見やって、ティルはくすりと小さく笑った。
「迎えに来てくれてありがとう、セイ。僕もそろそろ屋敷に戻ろうかと思ってたんだ」
言いながら、ティルは丘の風景へとまなざしを向ける。
そのすっきりとした顎から首筋へと続く線を見上げ、セイは、そういえば、と思い至る。
グレミオに彼がここに居ることは教えてもらったが、この場所に何があるのかは聞いていない。
そう気付いて自分もまた、彼と同じ方向に視線を向けた時。
──一陣の風が吹き抜けた。
「う…わぁ……」
ちょうど背後、街の方から吹いてきた風と共に、視界が一面の薄紅に埋め尽くされる。
雨でも雪でもなく。
もっとひらひらと軽やかに、華やかに、けれどどこか無常をまとって舞い落ちるもの。
自分たちが花樹の真下に立っていることに、セイはようやく気付いた。
見上げた木は、おそらく数百年の歳月を経た古木なのだろう。春の空が見えないほどに大きく枝を張りめぐらせ、萌え出たばかりの赤みを帯びた若葉、そして今を盛りとばかりに咲き誇る淡い紅の花をいささか重たげに風に揺らしている。
花はちょうど、満開を過ぎたところであるようだった。
風が吹くたびに、ひらひら、はらはらと無数の花びらを辺り一面に降らせる。
気付けば、この木だけではない。もしかしたらこの古木の子孫になるのだろうか、丘の上には何本もの花樹が同じように花びらを春風に舞わせていた。
「──なかなか絶景だと思わないかい」
「はい……!」
かけられた声に反射的に答え、セイは我に返る。
「すごいです! ナナミも連れてきてあげれば良かったなあ」
「そうだね。女の子は喜ぶかもね」
「はい」
言いながら、セイは丘の風景へと視線をめぐらせて。
「マクドールさん、ここって……、!」
はしゃいで呼びかけた声が、不意に途切れた。
──淡紅の花びらに埋め尽くされたような大地に、規則正しく並ぶ白い石。
「……あ…」
「うん。あんまり縁起のいい場所じゃないんだけどね。毎年、この季節は本当に綺麗だから」
かすかに苦笑するような響きを声に滲ませながら、ティルは右手を伸ばして、足元から緩やかに下り、また次の丘へと続く地面の一点を指し示す。
「分かるかな。あの周囲よりも一回り大きくて白い墓標。あそこに僕の父と母が眠ってる」
「───…」
言われるままに、セイは目をこらした。
確かに丘の中腹に、他のものよりも一際立派な墓標が二つ、花びらに埋もれるように並んで立っている。
「到底、孝行息子とはいえないんだけどね。せっかくグレッグミンスターにいるんだから、花見にかこつけて墓参でもしようかと」
ここに通うのが、この数日の日課になっている、と穏やかに言う青年の笑顔に、しかしセイは胸を突かれる。
あまりに透明で。
あまりに静かで。
そして。
───あまりにも、毅くて。
「マクドール、さん……」
「うん?」
一体どれほどのことを乗り越えてきたのだろう。
今、自分の目の前に居る彼は。
どれほど傷ついて、絶望して。
そして、そこからどうやって立ち上がったのだろう。
自分よりも遥かに過酷な道を歩みながら、どうして。
───こんなにも毅くいられるのだろう。
「……セイ」
言うべき言葉を見つけられずにいるセイの様子を見て取ったのだろう。穏やかにティルが名を呼ぶ。
「どんな時でも、たとえ世界中の人が間違っていると非難するような時でも、もし一人でも信じてくれる人がいたら……間違っていないと言ってくれる人がいたら、人間はそれだけで生きていけるんだよ」
「マクドールさん……?」
「間違えなければいい。軍主としての君ではなくて、本当の君の事を大切に思っていてくれる人たちが、君に対して本当に望んでいるのは何なのか。それさえ忘れなければ、君は今の君のまま、もっと強くなれるよ」
「───…」
不思議な言葉……声だった。
いつもと変わらない彼の声なのに、どこか深く、心の芯にまで染み透ってくる。
何故なのかは分からない。だが、不意にセイは泣きたいような気持ちになった。
「マクドールさん……」
何をどう言えばいいのかも分からず、名を呼んだセイに、ティルは静かに微笑む。
そして、ゆっくりと身体の向きを変えた。
「帰ろうか。グレミオも待ってる」
「はい……あ、あのっ」
「ん?」
「あの、もし良ければ……迷惑でなければですけど、僕もお墓参り、させてもらっていいですか……?」
勢い込んで言いかけたものの、やはり筋違いのように思えて、おずおずと最後の方は消え入るように声が細くなる。
そのままうつむいたセイの耳に、しかし、やわらかく笑んだティルの声が聞こえた。
「それは嬉しいな」
「え……」
「両親も喜ぶと思う。僕からもお願いしていいかい?」
「え、あ、お願いなんてそんな……!」
とんでもない、と慌てて胸の前で両手のひらを振る。
そんなセイの様子を見て、更にティルは笑んだ。
「こっちだよ。滑るから足元に気をつけて」
「あ、はい!」
誘(いざな)う声に、セイは丘を巡る石畳の道へと足を踏み出す。
やや灰色がかかった石で端整に整えられた道の様子からすると、ここは旧王都の中でも貴族階級の人々が眠る場所なのかもしれない。そう思ってみると、墓標そのものも、白い大理石に美しい装飾彫りを施したものが多いように感じられる。
遠い故郷、キャロの道場の敷地の片隅にある、ゲンカクの墓標を思い出して脳裏で比較しかけ、セイは、でもあれはあれで味があるし、と頭をぶんぶんと振る。
特別上等でもない荒い石の表面は、数年を経ただけで角の方から風化の様相を帯び初めていた。
でも、その辺りで摘んだ野の花を欠かすことなく、朝晩ナナミやジョウイと共に祈りを捧げ、命日や誕生日にはゲンカクの好物だった饅頭を供えた大事なお墓だ。
(第一、じいちゃんに大きくて真っ白な石のお墓って、ちょっと似合わないような気がするし)
ゲンカクがかつて名を知られた剣士であったことは少し前に知らされたが、セイが覚えている養父は、いつでもいかめしい顔をして厳しく、けれど、不思議になくらいに温かい、大きな手を持っている人だった。
不器用に、しかし武人らしく最後まで真っ直ぐに生きた養父には、あの自分たちが朝晩お参りすることのできた小さなお墓が似合う、とセイは素直に思う。
(……あ。マクドールさんがさっき言ったことって、こういうことなのかな)
おそらく、昔のゲンカクの名を知っている人々は、あの小さな墓標を知れば、あのゲンカク殿が……と大いに嘆くだろう。
けれど、セイは、恥ずかしいとも哀れだとも思わないのだ。
ゲンカクは、きっと最後まで彼らしく生きた。あの墓はその証であり、自分にとってもナナミにとっても、ジョウイにとってもかけがえのない世界で一つきりの宝物だ。
そして、ゲンカクもきっと、見上げるような壮麗な墓標に葬られることを望んだことはないだろう。
(……うん。僕は僕と、僕の大切な人を信じる)
微妙に違っているかもしれないが、ティルの言おうとしたことが少し分かったような気がして、セイはひそかに拳を握り締め、うなずく。
と、ちょうど足を止めたティルの背中に気付かず、セイはまともに彼の背中に顔をぶつけることになった。
「──セイ?」
「あっ、すみませんっ! よそ見してました!」
何してるの、と驚くとも呆れるともつかない声で名を呼ばれて、慌ててセイは言い訳する。
「いや、いいけど。鼻は大丈夫?」
「はい」
激しくぶつかりはしたものの、ティルの今日の上着は春らしくやわらかい布地であり、幸いにして鼻を痛めるという惨事にはなっていない。
大丈夫、とうなずいてみせると、ティルは、それなら良かった、と笑った。
「じゃあ、改めて紹介するよ。ここが我が家の墓所」
言われて、見れば。
石畳の通路に面して並ぶ、白い、セイの背丈ほども高さのある墓標。
形は二つとも同じ、角がやや丸みを帯びた四角い碑だったが、よく見ると施されている彫刻が異なっている。
少し白さがくすんでいる、おそらくは古い方の墓標は輪郭に沿って優美な花唐草が刻まれているのに対し、新しいと思われる方の墓標には、力強さを感じさせる蔦唐草が輪郭を描き、更に、名の上に盾と剣の交差する意匠が浮き彫りに刻まれている。
墓碑銘を見るまでもなく、どちらがどちらのものなのかは一目瞭然だった。
「……すごく、綺麗なお墓ですね」
それは褒め言葉としては、少し間違っていたかもしれない。
けれど、雨ざらしであるはずなのに汚れも殆どなく、足元を薄紅の花びらに覆われ、春の眩しい陽光をひそやかに受け止めている。その様は安らぎに満ちているようで、静謐としか形容の仕様がなかった。
「ありがとう」
ティルの声は、やはり静かに笑んだまま人気のない丘に響いて。
「僕とグレミオが留守にしていた間も、クレオやパーンがこまめに来てくれていたようなんだ。それから……」
続けて誰かの名を紡ぎかけて、さりげなくティルの言葉が途切れる。
横顔に浮かぶ表情は変わらない。だが、ここしばらく頻繁にグレッグミンスターに通いつめ、朧気ながらも彼の周囲の人間関係を把握しつつあるセイには、彼が誰の名を口にしようとし、それを止めたのか、分かるような気がした。
「彼女たちには感謝しているよ。僕はこんな、口実がなければ墓参りにも行かないような放蕩息子だからね」
にこりと笑んで、セイを見やる。
そのティルの表情は、やはりいつもと変わらなくて。
またセイは、ひどく胸を衝かれるような、泣きたいような気持ちになる。
「……形、だけじゃないと思います」
「え?」
自分よりも一回り背の高いティルを見上げて、セイは自分もいつもと同じように笑いかける。
上手く笑えたかどうかは分からない。けれど、今、気持ちのままに彼の前で涙を零してはいけない、と何故か強く思った。
「僕も今は、キャロにあるじいちゃんのお墓にお参りには行けませんけど、でも、じいちゃんのことはいつでも、ここにあります」
自分の胸を、右手で示して。
「何かした時、何かあった時、じいちゃんの言葉を思い出すんです。怒られたこととか、褒めてくれたこととか。思い出そうと思って思い出すんじゃなくて、ぱっと頭の中に閃く感じで……。今は、お墓にじいちゃんの好きだった饅頭を供えることも出来ないけど、でも僕はじいちゃんのことを忘れてませんし、忘れません」
だから、とセイは笑んだ。
「形も大切だと思いますけど、もっと大切なのは気持ちだと思います」
こんなことを口にしていいのかどうかは分からなかった。
ティルの場合と、自分の場合では天と地ほどにも状況が異なる。
ゲンカクは老衰で亡くなったが、テオ・マクドールは実の息子の手によって斃れたのだ。
おそらく、ティルはその事実を受け止めてはいても、親殺しの罪は罪として自分自身を許す気はない。己が生きている限り……たとえ、いつの日か右手の紋章を失うことがあったとしても、紋章が人々の命を奪った罪は、そのまま背負い続けるに違いない。
だが、そう直感したからこそ。
セイは言葉を捜した。
──何と言えば。
どんな言葉を紡げば。
──この人に届く?
──この誰よりも毅くて……辛いものを沢山背負った人に。
「さっき、マクドールさんが言ってくれたでしょう? 僕のことを本当に大切に思っている人が、本当に望んでいることは何か、ちゃんと考えなきゃいけないって……。つまり、そう言ってくれたってことは、マクドールさんもそういう事を忘れないようにしようと、いつも思ってるっていうことでしょう?」
「───…」
「それなら大丈夫だと思います。なかなかお墓参りに来れなくても、きっとマクドールさんのお父さんもお母さんも、マクドールさんのことを、ずっと想っててくれると思いますよ」
一生懸命に言葉を選んで、並べ終えて。
「……セイ」
「は、はいっ!」
名を呼ばれて、思わずセイは跳び上がる。
けれど。
「ありがとう」
おそるおそる見上げたティルの瞳は、ひどく優しく、そして切ない色をしているように見えて、セイはぎゅっと胸を掴まれたような痛みを覚えた。
「そうだね。セイの言ってくれた通りならいいね……」
そう言い、墓標を見上げる横顔はどこまでも静かに端整で。
──泣かないのだ。
この人は、決して。
どれほど……今この瞬間、声をあげて慟哭したくても。
泣くことを許さないのか、それとも、既に涙すら枯れてしまうほどに嘆き尽くしたのか。
分からない。
分からないけれど。
「マクドールさん、僕、お参りさせてもらっていいですか?」
「あ、うん。勿論」
すぐさま立ち居地を譲ってくれたティルに、ありがとうございますと御礼を言いながら、セイはまっすぐに墓標に向かって立ち、両手を合わせた。
(初めまして、僕はセイといいます。マクドールさんには、いつもすごく親切にしてもらってます)
司祭ではないから、祈りの言葉に技巧も何もない。いつもゲンカクの墓に向かってそうしていたように、セイは心の中で思いを言葉にする。
(マクドールさんは本当に優しくて強くてすごい人です。それに、いつもとても大切なことを教えてくれます。マクドールさんが側にいてくれると、すごく嬉しくて安心できて幸せな気分になれるんです。僕だけじゃなくて、皆、マクドールさんのこと好きなんです。
だから、僕の勝手な思い込みかもしれませんけど、こんなマクドールさんが大切に想っているお父さんとお母さんなら、きっとお父さんとお母さんも、マクドールさんのことをすごく大切に想ってると思うんです。もしそれが間違ってなかったら……)
心からの感謝と祈りを込めて。
(マクドールさんが幸せになれるように、祈っていてもらえますか? 僕もマクドールさんが笑っていてくれるように、一生懸命頑張りますから。どうかお願いします)
ゆっくりとセイは目を開け、白い二つの墓標を見上げる。
と、傍らで見守っていたティルが、微妙な響きの声で呼びかけてきた。
「……随分と一生懸命、お参りしてくれるんだね」
「あ、はい。だって、きちんと挨拶しとかなきゃと思って……」
「挨拶?」
「はい。マクドールさんにはすごく良くしてもらってるし、きっとこれからも戦争が終わるまで、色々とお願いしなきゃいけないことがあると思うし……。変ですか?」
「いや」
途中から苦笑するように笑い出したティルに、セイは可笑しなことを言っただろうか、と内心慌てる。
だが、しばらく肩を震わせていたティルは、ほどなく笑いを収めてセイに漆黒の瞳を向けた。
「きっと両親も喜んでると思うよ。ありがとう、セイ」
「いえ……」
「それじゃ、帰ろうか。僕を迎えに行ったはずの君がいつまで経っても戻ってこないと、グレミオがそれこそパニックになるから」
「あ、そうですね」
いかにも有り得る、とまるで心配性の母親のような性分の青年を思い浮かべながら、セイはティルに従い、石畳の道を歩き始める。
思いがけず長い時間を過ごしてしまった為に、日は傾き、淡いオレンジ色を帯び始めた日差しが温かく石畳と立ち並ぶ墓標を照らしている。その中を、風に吹かれて散った花が舞う様は、まるで花びらと光が無邪気に戯れているようだった。
「───…」
丘を登り切り、そして今度は踏み分け道を街へ向けて下ろうとするそのちょうど境目で、セイは後ろを振り返る。
斜面の陰になって、上の方だけ傾いた日差しに照らされた二つの墓標は、やはり白くほのかに光っていて。
(さようなら。また来ます)
心の中で小さく手を振って、セイは数歩前を行くティルの背中を追う。
「セイ?」
「あ、大丈夫ですよ」
セイが遅れたことに気付いて、肩越しに振り返ったティルに答えながら、小走りに坂を下りる。
そのまま並んで道を歩く二人の頭上に、名残を惜しむように薄紅の花びらが舞い落ち、そして春風と戯れながら音もなく大地に降り積んでいった。
「やっぱり今からお出かけになるんですか」
「うん。ミューズでの会談が明後日の午前だそうだからね。今からクォン城に行って、ぎりぎりというところだ。このまま出るよ」
一晩泊まられた方が安全なのに、といかにも心配げな溜息をつくグレミオに苦笑しながら、ティルは装備を整える。
といっても、もともと重い装備を好む性分ではない。薄手の革を表地と裏地の間に挟んだ、丈夫な生地で仕立てられた旅装束に着替えて、財布、応急処置用の薬、隠し武器を兼ねた小刀といったものを背嚢に収め、あるいは腰のベルトに外からは見えないように下げてしまえば、それだけで用意は整う。
「まぁ心配する必要はないよ。セイがここへ来ることに関しては、堅物の軍師殿が最大限の情報統制を強いているようだしね。大軍に奇襲されるならともかく、その辺のモンスターや山賊程度なら、僕とセイの二人ならどうとでもなる」
そもそも狭い峠道に大軍を待機させることは無理だし、万が一のことがあっても、二人きりならかえって逃げ切りやすい、と告げると、グレミオの表情は更に渋くなった。
「そう伺うと、かえって心配になります。やっぱり私も一緒に行ってはいけませんか?」
「大丈夫だってば。それに、僕一人で行くのが最初からの約束なんだ。ぞろぞろ付いていくと、個人的な好意で協力してるという言い訳が通用しなくなる」
「それはそうですけど……」
相変わらずだな、と苦笑を深めながらティルは何気なく、全く関係のない事を口にした。
「そういえば、グレミオがセイに、僕があそこにいることを教えたんだろ?」
「あ、はい。……いけませんでしたか?」
「いや、良かったよ」
着替える間、サイドテーブルの上においてあった革手袋を取り上げ、ティルは慣れた手つきで馴染んだそれを両手にはめる。
「実は、セイが父さんたちの墓にお参りしたいと言ってくれてね」
「え……」
「おかげで、やっと今日、あの丘を下りて二人の墓前に行けたよ」
笑って振り返ると、グレミオは空青色の瞳を見開き、ティルを見つめていた。
「ありがたいよね、本当に」
何がとは言わずに、それだけを口にして、ティルは背嚢と愛用の長棍を手に取る。
「さて、行こう。セイが待ちくたびれてる」
「あ、はい……!」
自室を出てゆくティルにグレミオは慌てて従い、傾いた陽光が長く差し込む廊下を主従は階下へと向かった。
一階の応接間で、大きなソファーに所在なげにちんまりと腰を下ろしていたセイは、ドアが開いてティルが姿を見せた途端、満面の喜色を浮かべる。
相変わらず、元気よくしっぽを振りまくっているような少年の様子に、ティルは思わず笑みを誘われた。
「待たせたね。遅くなったけど、行こうか」
「はい!」
元気よく返事して、セイは立ち上がる。
「グレミオさん、お茶とお菓子をありがとうございました」
「いえいえ。またいらして下さいね」
「はい」
ぺこりと頭を下げ、ドアの前に立っているグレミオの前を通り過ぎて、セイはティルに並び、二人は連れ立って玄関へと進んだ。
「それじゃ行ってくるよ。何もなければ三日くらいで戻る」
「はい。どうぞお気をつけて」
「どうもお邪魔しました」
見送りはここまででいい、とグレミオに告げたティルに従い、三人はマクドール邸の門前でそれぞれに出立、あるいは辞去の言葉を交し合う。
そして、旅装束の二人は年かさの青年に軽く手を挙げ、薄暮の迫るグレッグミンスターの街並へと姿を消してゆく。
その背中が角を曲がり、見えなくなるまで見送り、グレミオはゆっくりと屋敷の中に戻る。
穏やかな春の日は何事もなく、静かに暮れていこうとしていた。
end.
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