天の滸(ほとり) −第7話−
「そろそろか」
侍従によって案内された、まもなく呼び出されるだろう控えの間でテオがふと呟く。
その言葉にシェイランが身の内にじわりと重苦しいものが広がった。
それを武人の鋭さで感じ取ったのだろう。向けられた父のまなざしに、シェイランは小さくうなずいた。
「城内に入ったのが初めてのせいだと思うのですが……このきらびやかさには圧倒されます。いずれ慣れるのでしょうが……」
シェイランの正直な心情の吐露に、しかし、テオは息子を批判するような目は見せなかった。代わりに二人きりの室内へとさりげなく視線を向ける。
「そうでもない。私でも未だに登城するときは緊張する。皇帝陛下の御目にかかれるのは嬉しいことだが、ここは人目が多過ぎるからな。戦場で将兵たちに注目されるのとは訳が違う」
「父上でも、ですか」
「誰にとっても楽な場所ではあるまいよ、ここはな」
「……そういうものですか」
テオの言葉にシェイランは改めて深く呼吸し、背筋を伸ばした。
楽な場所ではない、つまり、ここは決して隙を見せてはならない場所ということだ。
迂闊な挙措一つで何もかもが覆ってしまうかもしれない。あるいは、胆力を示すまなざし一つで敵に手出しを思いとどまらせるかもしれない。そう考えれば、単に主君が居る場所という以上に気配りを要する難所であることは明らかである。
しかし、そう考えて精神を緊張させたシェイランの鼓膜を、父の重くも穏やかな声が打った。
「だがな、シェイラン。今からお前がお目にかかるのは皇帝陛下だ。陛下には作り事は一切通じない。お前はいつも通りにしていればいい。陛下は厳しいお方だが、決して恐れる必要はない」
「──はい」
「そして、陛下の周囲の人々のことは今日は気にするな。彼らには次から注意深く接すればいい。今日は陛下のみに集中せねばならん。何といっても、お前が成人してから初の御目通りなのだからな」
「はい」
父の言葉の意味を考えながら、シェイランはうなずく。
つまり、皇帝の傍にも容易ならざる人物たちがいるということだろう。そして、武人として普段は宮廷を離れているテオよりも、彼らの皇帝に対する影響力は強い。
テオに対する皇帝の信頼は厚いと言われるが、それでも用心に如くことはないのだとシェイランは理解した。
そうして待つうちに控えの間の扉が開かれ、侍従が謁見の準備が整ったことを知らせる。
いよいよかと思えば、一層、胃の腑に氷を抱えたような緊張感が全身を痺れさせる。だが、シェイランはそれを強引に抑え込み、父と共に控えの間を出た。
一際豪奢な造りの大廊下を通り抜け、やがて二人は玉座の間の入り口一歩手前に立った。
「帝国代将軍リースランド候テオドリック・グリエンデス・マクドール、並びに、その嫡子シェイラン・エセルディ・マクドール。皇帝陛下との謁見のため参内された由にございます」
玉座の間の入り口で、内務卿の配下であるはずの呼び出し係が、いかにも権高な口調と表情でマクドール父子の名を朗々と呼び上げる。
皇帝陛下の御前なれば、いかなる者であろうと敬称をつけることは許されない。そうとは分かっていても、シェイランは内心、呼び出し係の権高さに眉をひそめずにはいられなかった。
彼が、皇帝の臣下の前で権高になるのは止むを得ないことであろう。どんな大貴族の名でも呼び捨てることが許される快感は、決して想像できないことではない。だが、それを表に現すことは、褒められたことではなかった。
何しろ、この大国には世界各国からの使者も常に滞在しているのだ。呼び出し係風情が狎(な)れていると見られるのは、上下の別が乱れていると思われるということである。
上司たる内務卿はそういった問題に敏でなければならないし、さもなければ、至高の存在が不快感を示して宮廷内の紀律を正さなければならない。
にもかかわらず、野放しになっているとすれば、それは望ましいことではない、とシェイランには感じられた。
だが、今はそれに気を取られている余裕はなかった。
躊躇いなく前に進む父に従い、シェイランは玉座へと一歩ずつ近付いてゆく。
そして、階(きざはし)の下の父親より一歩下がった位置で、父と同じく大理石の床に片膝を付いて平伏した。
「よく来てくれた、テオ」
龍が吠えたか、と感じた。
シェイランの全身の毛が、有無を言わさず逆立つ。
皇帝の声は低く重く、決して大きくはなかった。むしろ、穏やかな響きである。
だが、恐ろしいほどに朗々と玉座の間の高い天井に響き渡った。
「どうだ、変わりはないか」
「は。陛下と共に戦ったあの頃と同じく」
「ふむ、頼もしい言葉だな」
テオの言葉に皇帝はゆるく含み笑う。だが、すぐに笑いは消え、重みもある声に戻った。
「今日、お前を呼びだしたのは他でもない。北方の守りのことだ。お前からの報告書を読んだが、容易ならぬ状況のようだな」
「ジョウストン都市同盟の動きが活発化しております。ここ半年ほどは帝国領内に侵入を繰り返すなどの挑発行為も増えておりますゆえ、これ以上の放置はならぬかと……」
「うむ、私もそう思う。元より北方は、お前の本拠でもある。私としてはお前を遠方にやりたくはないが、そうも言ってはいられぬようだ。どうだ、出向いてくれるか」
「はい。帝国を守ることこそ我が務め。喜んで赴きましょう」
「そうか」
早々に用件を切り出した皇帝は、テオの従順な答えに深くうなずく。
その様は、テオの従順さを喜んでいるというよりは、頼もしい臣下が信頼に応えてくれることを純粋に喜んでいるようにシェイランには感じられた。
「ならば、これを与えよう。我が愛剣プラックは幾度となく私を守った幸運を呼ぶ剣だ。これを持って北に行くがよい」
用意してあったのだろう。侍従から長剣を受け取った皇帝は、それをテオに向かって差し出す。
黄金皇帝の愛剣は吟遊詩人たちも繰り返しその英雄譚の中で歌ってきた、半ば伝説の存在である。
それの下賜とは、さすがのテオも驚いたのだろう。一瞬躊躇いの色を浮かべたが、皇帝の好意を受けるべきと判断したらしく、立ち上がり、その長剣を恭しく受けた。
「ありがとうございます。このテオ、必ずや陛下のご期待に応えてみせましょう」
「頼んだぞ、テオ。都市同盟はしたたかな連中だ。戦いは一筋縄ではゆくまい。ゆえに速やかにとは言わん。だが、無事に戻れよ」
「勿体なきお言葉にございます」
「うむ。そして、二つ目の本題だが……」
皇帝と父親の会話に膝座したまま耳を傾けていたシェイランの頭上に、皇帝のまなざしが据えられる。その気配を──視線の重みをシェイランははっきりと感じた。
「お前の息子であれば構わぬから、さっさと参内させよとあれほど私が言っておったのに……。成人を過ぎても一年も出仕させぬとは、お前の頑固振りには呆れたぞ」
仄かな笑いすら潜ませた皇帝の声に、シェイランはただ聞き入る。否、聞き入ることしかできなかった。
そのシェイランの耳を、落ち着き払った父の声が打つ。
「不肖の息子にございますれば。若輩者がゆめゆめと陛下の御側に侍るような甘い思いを、これにさせるわけには参りませぬゆえ」
テオの答えに、皇帝は微かに笑ったようだった。
「テオよ、私の側仕えが、それほど安気と思っておるか?」
「いえ。なれど、日毎、陛下に御言葉をかけていただけるような安楽な立場は、これの性根を鍛えることにはなりますまい」
「ふむ、確かにな。お前の息子は、ゆくゆくは我が帝国の将となる身。戦場の将が傍仕えになれるはずもないし、なってもらっては私も困るぞ」
満足げに応じた皇帝は、声の向きを変え、無造作に告げた。
「面を上げよ」
「は……」
主君の求めに応じて、シェイランはゆっくりと顔を上げる。
真っ直ぐに、非礼にならぬ程度の力をまなざしに込めて、赤月帝国皇帝を見つめた。
「ほう……」
初めてシェイランの容貌を目にした皇帝は、感心したように小さく声を上げる。
「テオよ、お前の亡き奥方に良く似ておるな。彼女の若い頃に生き写しではないか」
「恐れ入りまする」
「テオの息子よ。名は」
「シェイラン・エセルディ・マクドールにございます。陛下」
「ふむ、声も良い。声は、お前の若い頃に似ておるな、テオ。戦場でどこまでも朗々と響く、良い声だ。将たるもの、そうでなければ。そう思わぬか、ウィンディ」
「仰せの通りにございますわ、陛下」
皇帝が同意を求めた相手は、テオではなかった。
玉座に寄り添っていた美しい、華やかな装いの女性。絶世の美女と言っても良いだろう。すらりと背が高く、白金の髪は豊かに流れ、肉体は成熟した曲線を描いている。
その女性があでやかな笑みを浮かべて、皇帝にうなずいてみせた。
「本当に可愛らしい坊ちゃんですこと」
すい、と流されたまなざしは、シェイランの心の水面にさざなみを立てる。
それは、妙齢の美女に微笑まれたからでは決してなかった。むしろ、不快感をシェイランは己の内に感じ取る。
何故、と問うて気付いた。
彼女の目が原因だ。
美しく目を細めて笑んでいる。だが、その瞳に浮かぶ光は氷のように冷たい。情のかけらも感じさせない目を彼女はしている。
「わたくしはウィンディ。魔術師として陛下にお仕えしている者よ。よろしくね、シェイラン」
ふふ、と低めた含み笑いは、誰の耳にも魅惑的と響くものだっただろう。だが、やはり、シェイランには胸をざわつかせるものにしか聞こえなかった。
何なのだ、この女は、と押し殺した表情の下で考えるうちにも、皇帝と父親の遣り取りは進んでゆく。
「テオよ、シェイランをお前の直属にせずとも良い、むしろ、他の将の下につけて欲しいという言葉に変わりはないか」
「はい、陛下」
「それほどまでに息子に他人に仕える苦労を味あわせたいとは、呆れた頑固者よ。お前も苦労しておろう、シェイラン」
「いえ。不肖の子として、父の深い配慮には常々、感謝の念を覚えるばかりにございます」
「なるほど、親が親なら子も子か。良き子を持ったな、テオ」
「恐れ入ります」
低く笑った皇帝は、声を改め、告げた。
「ならば、シェイランよ。そなたに問おう。テオが北の守りに就いておる間、父の代わりにこの帝国に力を貸してはくれぬか」
皇帝の言葉は率直だった。だが、力を貸せ、という至高の存在には似つかわしくない表現にシェイランは内心驚く。
しかし、皇帝の鄭重な物言いは、実のところはシェイラン自身ではなく、父テオに向けられたものであることをシェイランは正しく理解していた。
先程からの皇帝と父親のやりとりは、主君と臣下の垣根を超えないとはいえ親密なものであり、皇帝の信頼がいかに厚いかを良く示している。その信頼があるからこそ、皇帝は若輩のシェイランに対しても尊重した物言いをするのだ。
その尊重をシェイラン個人に対する信頼に変えることができるかどうか。それは偏(ひとえ)にシェイラン自身の肩にかかっていた。
「身に余るお言葉です。若輩の身ではありますが、私の持てる全てを賭して帝国と陛下の御為に尽くさせていただくことを誓います」
誠心誠意紡いだ言葉が届いたのかどうか。
満足げに皇帝が微笑む。
「父に似て立派なものだ。よく鍛錬もしておるようだし、幾年もしないうちに一廉(ひとかど)の将となろう。私の楽しみが一つ増えたな。このような息子を持てるとは羨ましいぞ、テオ」
「勿体ないお言葉にございます」
皇帝の賛辞にも、テオは決して浮(うわ)つかない。そこがまた皇帝に厚い信頼を受ける理由の一端でもあるのだろうとシェイランは思う。
だが、想いを馳せていられたのは、そこまでだった。
「シェイラン・マクドール。お前は近衛隊長の下につくが良い。そこで存分に力を発揮せよ」
「はい。謹んで拝命致します」
「うむ。テオ以上の働きを期待しているぞ」
「肝に銘じます」
深く深くシェイランは頭を下げる。皇帝の傍らにある女性のことは気にかかる。だが、この人物を主君として仰ぎ、忠誠を誓うことには何のためらいも覚えない。
それほどの覇気が目の前の人物にはあった。
十分な間をおいて、テオが立ち上がる。シェイランも父親に倣い、まっすぐに顔を上げて玉座を見上げた。
改めて見ても、皇帝は堂々たる容姿の持ち主だった。玉座に坐していても分かる。逞しい肩と胸の厚み。既に壮年ではあっても、雄偉な体格に衰えはさして見受けられない。
並びなき勇将である父テオが忠誠を捧げるのも納得できると思いながら、龍のような皇帝のまなざしを受け止め、それから慎ましく目を伏せた。
「頼んだぞ、テオ」
「はっ」
一礼し、父子共々その場を退出する。
そして玉座の間を出たところで、シェイランは微かに息をついた。傍目に分かるほど大きく嘆息はしない。だが、皇帝の視界から外れた途端、不意に体が軽くなったような感覚に、ひどく戸惑った。
「緊張したか」
「はい」
前を見て足を進めながら、不意にテオが問う。それにシェイランは素直にうなずいた。
「これほど緊張したのは初めてです」
「だろうな。だが、正しい。陛下の御前において骨の髄まで引き締まらぬ者は愚鈍だ。お前はそうではない。正しく感じたはずだ、あの方の大きさを」
「──はい」
「陛下は御自身の御力で、あの過酷な継承戦争を制された。我らは五将軍などと持て囃されているが、事実は僅かに陛下をお補けしただけだ。決して楽な戦いではなかったが、戦場で陛下が「行け」と私に仰せになる御声を聞く度に、あの方の下で戦う歓びに全身が震えた。あの方にお仕えできるのは、私にとって最高の栄誉だ」
「はい」
テオの言葉はよく理解できた。
父親が皇帝に比類なき忠誠を捧げていることはシェイランも良く知っている。そして現実にバルバロッサ帝に接した今、テオの言葉はこの上ない実感と共にシェイランの内に染みた。
「今後、陛下が戦場にお出ましになられることはあるまい。そのような事態が決して起こらぬよう努めるのが我ら五将軍の使命だ。故に、お前は、おそらく陛下の本当の御器量を目の当たりにする機会を得られないだろう。だから、私のようにとは言わん。しかし、お前自身の陛下への忠誠を決して曇らせるな。我がマクドール家は四百年、ルーグナー皇家と共にあったのだ」
「はい」
重い戒めの言葉にシェイランはうなずく。
今から十年も前、当時の武術の師に説かれてマクドール家という存在を理解したときから、ただひたすらにそうあるべく鍛錬を重ねてきたのだ。
身も心も強くあるように。
テオのように帝国のため、皇帝のため、我が身を賭すことができる己であれるように。
皇帝に謁見し、正式に帝国に仕える身となったことで新たに加わった実感という重みはあったが、しかし、躊躇う理由などどこにも見当たらなかった。
そんなシェイランをわずかに見やり、テオはうなずく。
その父の口元に小さな笑みがあったことをシェイランは見逃さなかった。
それきり二人は広い廊下を歩み、一階へと大階段を進む。
政務の場となっている一階には大小の部屋が幾つも扉を連ねている。そのうちの一つの前で、テオは足を止めた。
「ここが近衛隊長グレイズ卿の執務室だ。明日からお前の上官になる。挨拶をしてこい」
そう言い、まなざしを向けてくるテオの黒い瞳を見つめ、シェイランはそこに子に対する信頼と期待以外のものを見つけて、はたと理解する。
肝を据えよ、と父の目は言っていた。
皇帝に謁見する前には無かったそのまなざしに、シェイランは近衛隊長が容易ならざる人物であることを理解する。
おそらく何かがあるのだろう。あらかじめ何らかの心構えをしておいた方が良いと、テオに思わせるだけの何かが。
理解し、シェイランは一つうなずく。テオもまた、一つうなずいて扉に向き直り、扉前にいる衛兵に声をかけた。
「隊長殿に目通りを願いたい。新たに近衛兵となる者を連れてきたと伝えてくれ」
「はっ。しばしお待ちを」
城内でテオの顔を知らぬ衛兵など居ないだろう。居住まいを正した衛兵は速やかに室内に入ってゆく。そして、幾らも待つことなく戻ってきた。
「どうぞお入り下さい」
扉を大きく開け、直立で待つ衛兵にうなずき、テオは目でシェイランを促す。シェイランもまた目で応じ、室内へと足を踏み入れた。。
近衛隊長の執務室とはいえ、室内は質実剛健には遠い、というのが第一印象だった。グレッグミンスター城の印象のままに豪壮で、豪奢な燭台が室内を照らし、床には虎の毛皮が敷かれている他にも幾つもの調度品が飾られている。
そして、その中央に居る男も、服装こそは黒っぽく色味を抑えているが、丁寧に整えられた髪といい髯といい、随分と伊達男を気取っているように見えた。
その前に立ち、シェイランは鄭重な仕草で敬礼した。
「初にお目にかかります、グレイズ卿。明日から近衛隊に配属されることになりましたシェイラン・マクドールです」
「お前がテオの息子か」
テオ、と父を呼び捨てにされたことにシェイランは一瞬、こわばった。
近衛隊は皇帝直属であり、階級でいえば将軍と同格になる。だが、同格ならば敬意を払わなくてもよいということにはならない。
城の内を守る近衛と、国境を守る軍。職務の違いゆえに派閥争いは避けがたいものだと教えられたことはあるが、グレイズの陰険さを隠そうともしないまなざしと声は、そういうものとは更に一線を画しているようにシェイランには受け取れた。
「シェイラン、か。父親にはあまり似ておらんな。テオの亡き奥方はよほどの美女だったとみえる。今のソニア・シューレンもあの美貌であるしな。成程」
テオ・マクドールは美女好みか、と暗に揶揄されて、シェイランは身の内に湧き上がる憤りを全身全霊で抑え込んだ。
「物心つく前に母は亡くなりました故、肖像画でしか顔は存じません。絵画は美化されるのが常でしょうから、私には何とも……」
シェイランは慎ましく目を伏せて応じる。
心の内を見せるな、とはテッドに繰り返し諭されたことだ。目は口ほどにものを言う。お前の目は特に雄弁だから気をつけろ、とあの親友は何度も忠告してくれた。
「ふん。卒のない返事だな。良いだろう。お前が大将軍の息子だからといって、ここでは一隊員に過ぎない。特別扱いなどせんからな。それが分かれば、とっとと退出しろ。私は多忙なのだ」
「は。御手間を取らせ、申し訳ありません」
「まったくだ。明日は朝一番にここへ来い。仕事を用意しておいてやる」
「はい。今後よろしくお願い致します」
最後まで態度を崩すことなく、シェイランは胸に手を当てて敬礼する。
その美しい所作にも、グレイズは何か面白くないものを感じたようだった。その何かの正体が分からないまま、シェイランは近衛隊隊長の執務室を出る。
すると、廊下で待っていたテオがシェイランに気付いて顔を向ける。
その父の真っ直ぐなまなざしに、シェイランはふっと肩のこわばりが解けるのを感じた。
いかにも武人らしい、実直で厳しい光を浮かべた父の黒い瞳。
思慮深いそこには何の嘘も偽りもない。そして、余人には分からないだろうが、子であるからこそはっきりと感じ取れる、悪意に晒されただろう息子に対する心配と情愛。
その父のまなざしに包まれて、自然にシェイランの表情が和らぐ。
「お待たせいたしました、父上」
シェイランの表情に無事を読み取ったのだろう。テオもまた、まなざしをわずかに和らげて息子を見つめる。
「無事済んだか」
「はい」
「そうか。ならば帰ろう」
「はい」
うなずいてシェイランは父について歩き出す。
と、幾らも歩かないうちに一人の武人に呼び止められた。宮廷内のことであるから、甲冑姿ではない。だが、その見事な立ち姿と腰に刷いた長剣が、彼が武勇の士であることを物語っていた。
「テオ、久しいな」
「カシム。お前こそ宮廷にいるとは珍しいな」
「陛下への御挨拶だ。特に何が起こったというわけでもない。ただ、時々は顔を出しておくべきだと最近思うようになってな」
「ふむ」
わずかに眉をひそめるようにして言った武人の言葉に、テオもまた、やや表情を厳しくしてうなずく。
「確かにな。帝国には我らがいるということをもう少し知らしめる必要もあるかもしれんな。これまでは極力、宮廷には近寄らぬようにしていたが……」
「俺もだ。だが、そうも言ってはおれんだろう」
二人ともに思うところがあるらしい。荒事が近付いた時のような鋭さを増した二人の武人の気配に、シェイランはひっそりと思いを巡らせる。
カシム、と呼ばれた武人が誰であるかは分かっていた。カシム・ハジル。帝国五将軍の一人であり、テオの僚友である。継承戦争の頃、何度かマクドール邸に訪れたこともあるから、数年ぶりの再会とはいえシェイランも顔見知りだった。
カシムの性格は、生粋の武人と言ってよいだろう。歴戦の勇将であるだけに思慮深いが、同時に豪放さや闊達さも持ち合わせている。
テオやカシムに限らず、シェイランが知る限り、帝国五将軍は政治的な欲望を持つ人物はいなかった。いずれも剣で帝国と皇帝に仕えることを善しとする人々ばかりだ。
しかし、そんな彼らが今、こうして宮中に注意を払っている。否、払わねばならぬ必要を感じているらしい。
今日、シェイランが宮中で見聞きしたわずかなことを考え合わせても、それは帝国にとって容易ならざる事態であるように思われた。
「今日は息子を連れてきたのか。随分と大きくなったな」
「昨年、成人した。そろそろ出仕させても良いかと思ってな」
「とすると、もう十七か。よくもまあ、出し渋ったものだ。そんなに息子が可愛いか?」
「人前に出しても恥ずかしくないものを身につけるまで待っただけだ」
共に戦場を駆け、気心の知れた仲である。カシムの揶揄にもテオは笑っただけだった。
「この親馬鹿め。しかし、こんな父の下で掌中の珠として育った割には良い面構えになったな、シェイラン。相変わらずアエミュリア殿に生き写しだが、雰囲気は父親にそっくりだぞ。立ち姿が実によく似ている」
「ありがとうございます、カシム将軍。御無沙汰しております」
幼い頃を知る人物に、シェイランは控えめな笑みと共に応じる。と、カシムは笑みを深めた。
「成程、声変わり後の声は初めて聞いたが、声質は父譲りか。戦場で良く通りそうだ。これは良いな、テオ」
「まだまだ青二才だ。そう褒めてくれるな。これの性根が柔になる」
「何を言う。率先して溺愛しているのはお前だろうに。息子が可愛くて仕方ないくせに、今更澄ましても取り繕えんぞ」
闊達に笑い、カシムは改めてシェイランに向き直った。
「しかしまあ、正直に羨ましいな。うちは娘ばかりだ。俺もこんな息子が欲しかったぞ」
「やらんぞ。うちも息子はこれ一人しかおらん」
「うちの娘をやるから、孫が生まれたら一人くれるというのはどうだ」
「お前の娘は、まだ一番上が十になるかならないかだろう。早過ぎる。せめてあと五年は成長してから言ってくれ。それにまだ息子が生まれる可能性もあるだろう。奥方殿はまだお若い」
「しかし、三人も娘が続くとな。次もまた女ではないかという気がしてなぁ。それより、お前が再婚してまた息子が生まれたら、二番目の子を養子にもらう方が確実だ」
「どこが確実だ。それにソニアとは一緒になるとは言い切れん。そうしたい気持ちはあるが、彼女もシューレン家の当主だ。容易には許可が下りるまい」
良く響く声をひそめてテオが告げると、カシムも眉を曇らせた。
「確かにな……。ソニアに男の兄弟でもあれば良かったが、マクドール家とシューレン家の当主同士の結婚となると、結びつきが強大すぎるか。アールス地方の豊穣とトラン湖周辺の経済力が合わさったら、他家は太刀打ちできん」
「そういうことだ」
テオ・マクドールとソニア・シューレンという将軍同士の親密な関係は、それぞれが隠していないために周知の事実となっている。というよりも、ソニアは少女の頃からテオに対して強い憧れを抱き、事あるごとに彼に近づこうと懸命だったから、彼女が成人して二人の関係が変わった時も隠しようもなかったのだ。
シェイランもそれらは全てを承知しており、二人の関係に口を挟む気はなかった。
「お前も大変だな。だが、一つ名案があるぞ。お前がとっとと隠居して、当主をシェイランに譲ってしまえばいい。そしてシューレン家に婿入りするのだ」
「シェイランは成人したばかりだと言っただろうが」
「だが、お前より良い当主になるかも知れんぞ。その際には、うちの娘と婚約させて私が後見人になるからな」
「それが狙いか」
父親たちの冗談とも本気ともつかない会話に、シェイランは小さく笑う。
頭上で交わされているのは自分の結婚についてだが、それについては別段気にはならなかった。貴族の結婚は家同士の結び付きである。様々な事情を考慮して、最も適格な組み合わせが選ばれる。
シェイランにしてみれば結婚は当然の義務であり、誰が花嫁に選ばれようとその女性を妻として尊重し、大切にするだけのことである。
父テオのように、妻に深い愛情を持てれば良いと思うが、こればかりは相手のあることだから分からない。夫婦として暮らすうちに、互いに情愛を深めてゆけるような女性であれば幸運だろうというところだった。
「シェイラン、お前はどうだ。うちの娘は要らんか?」
不意に水を向けられて、シェイランは苦笑する。
「大事な御令嬢をそう簡単に差し出されてはいけませんよ、将軍。私はまだ海の物とも山の物ともつかない若輩者です」
「海の物か山の物か判別できる頃には、お前宛に山のように見合い用の絵姿が送り付けられとるだろうよ。あいにくとうちの娘は絶世の美女とはいえんからな、絵姿勝負では分が悪い。先手必勝だ、こういうことは」
「私の結婚については父にお伺いなさって下さい。家のことですから、私は父の決定に従います」
「ということだ。テオ、うんと言え」
「言うか、馬鹿者」
そんな調子で更に幾らかの会話を交わし、テオとシェイランはカシムと別れた。
宮殿の正面玄関へと向かう広い廊下を歩きながら、テオはシェイランに対し、ぼやくように言葉を紡ぐ。
「まったく……。後継ぎをどうするかは重要な話だから、カシムの気持ちも分からんではないがな」
「ハジル家の御令嬢とあれば縁談には事欠かないでしょう。いずれもまだ年若い方達ですし、お急がれる必要はないように思いますが……」
「それは正論だ。だが、カシムも将軍位にある男だからな。若い男を見る目は自然、厳しくなる。婿探しには苦労するだろうよ」
「成程……。確かに、将軍のお眼鏡に叶う若者は帝国広しといえど、多くはないかもしれませんね」
「そういうことだ。その点、お前は知り合いの息子だし、気性もある程度は知っている。白羽の矢を立てたくなるのも無理はないだろうな」
「高く買っていただけるのは光栄ですが……僕にはまだ何の実績もありませんよ」
「だから良いのだ。あいつも言っていただろう、まだ無名だから大勢と婿の争奪戦をする必要がない」
そう言い、テオは穏やかな目で息子を見やった。
「いずれにせよ、お前の結婚についてもそのうち考えねばならん。どこの令嬢を選ぶか想像するだけでも頭が痛いな」
「父上がお選びになったことには文句は言いませんよ」
「お前は従順過ぎだ。妻となる女性くらい、自力で見つけてきても私は怒らんぞ」
「そのような出会いがないことは、父上が一番ご存知でしょう」
無茶を言う父親にシェイランは苦笑する。
これまで宮廷に出仕していなかったシェイランは、つまり社交界にもまだデビューしていないのである。当然、顔は知られていないし、身分と年齢の釣り合うような令嬢や、その父兄にも知己は殆どいない。
そんないわば箱入りの状態で、妻となる女性を見つけて来いと言われても、現状では到底不可能だった。
「出会いなど、これから宮廷に出入りするようになれば幾らでもある。舞踏会や晩餐会を幾度か経験すれば、好ましい女性の一人や二人は見つかるだろう」
「そんな器用さがあれば良いですが」
使用人以外の女性と接する機会が殆どないシェイランにとっては、女性も恋愛もまだまだ未知の世界である。好ましいと思える女性に出会えたところで、上手くアプローチできるかどうかすら、今の段階では分からない。
それよりも、気になるのは先程、テオとカシムの会話の冒頭にもちらりと出ていた宮廷の現状のことだった。
「父上、それよりもグレイズ卿のことを御存知でしたら教えていただきたいのですが」
事前にテオはグレイズについて、何一つ説明はしなかった。ただ、まなざしだけで警戒を促しただけである。
そして、事実、グレイズは好意的には程遠い対応を親子ほどの年齢の開きのあるシェイランに向けてきた。その理由をシェイランは知りたかった。
「グレイズか」
宮殿の正面玄関から外へと足を踏み出しながら、テオが呟く。
石造りの城は、あちらこちらに明かり取りの窓があり、ふんだんに燈火が灯されているが、明るさにはやはり限界がある。
既に時刻は昼に近く、高く上った太陽に照らされて、そのまばゆさにシェイランは目を細めた。
待機していた近習たちによって厩(うまや)から引き出されてきた愛馬にそれぞれ跨り、城門に向かいながら、誰の耳も恐れる必要がなくなった所でテオが口を開いた。
「あれは小者だ」
はっきりとテオは断言した。
「元は大蔵省所属の地方官だったのが、引き立てられて軍務経験もないのに近衛隊長にまでなった。近衛隊はそうそう敵と刃を交えることもない。実戦経験がなくても良いだろうという判断だ」
「何故、そのような者が……?」
当然の問いかけだったが、それにはテオは沈黙で応じた。口には出せない事情がある、ということだろう。少なくとも皇帝の許可した人事のはずである。
疑問を覚えつつもシェイラン沈黙していると、テオはやや苦い口調でゆっくりと語り出した。
「本当は、ジード将軍かロスマン将軍の下でお前には経験を積ませたかったのだがな。二人は守りに定評のある武将だ。私に似て、どちらかといえば攻撃の得意なお前にとって良い師になってくれるだろうと思ったのだが……。そもそも、どこへなりとも配属していただいて構わないと陛下に申し上げたのは私だ。グレイズの下にやるのはお止め下さいと言うわけにもいかなかった。すまんな」
「いえ、グレイズ卿がどういう人物であろうと、己を鍛え上げる鉄鎚とするつもりでいますから、父上がお気に病まれることはありません。それよりも、父上。グレイズ卿は僕にあまりよい印象を持たなかったようです。何故でしょう」
テッドに言われた通り、大きな猫を被っていたつもりだった。だが、それが通じなかったことが少しばかり不思議で、父に問う。
すると、テオはゆったりと街路に馬を進めながら言った。
「あやつは成り上がり者だからな。最初からマクドール家の嫡子という恵まれた環境にあるお前が腹立たしいのだろう」
「……それは理解できます。ですが、宮廷に出仕していればそんな者は幾らでも居るでしょう?」
「距離があれば気にせずに居られるだろうが、お前は配下だ。事によっては、いかにも貴族であり武人である整った所作のお前が毎日、目の前をうろうろする。どちらの素養も持たないグレイズにしてみれば、腹立たしいばかりだろうよ」
「……そんなものですか」
「そんなものだ」
聡明であるとはいえ、シェイランは大切に育てられた大貴族の子息である。これまで宮廷に赴いたこともないために、他人の悪意に接する機会は殆どなかった。
テッドと共に街歩きを頻繁にするようになってからは、様々に見聞を広げはしたものの、所詮は市内ばかりのことで、貴族社会のどろどろには全くと言っていいほど無縁だった。故に、それらの機微がまだ分からないのだ。
だが、宮廷にはグレイズのような人物は、おそらく珍しくはないのだろう。でなければ、テオが宮廷を楽な場所ではないと評するはずがない。
「父上。僅かですが、父上の御苦労の一端が分かったような気がします」
正直にそう言うと、テオは隣りの馬上で笑った。
「まだまだこれからだ。宮廷に比べたら戦場は天国によほど近いぞ」
「肝に銘じます」
シェイランの言葉に快さを感じたのだろう。テオは笑い、手綱をややしっかりと握りなおした。
「今日はまだ時間がある。少しグレッグミンスターの外に出よう」
珍しく遠駆けに誘われて、シェイランは表情を明るくする。
「よろしいのですか」
「屋敷には昼に戻ればよい。あと一刻ほどは時間があるだろう」
「はい」
「シェイランと二人で行く。お前達は私達が出かけたことをグレミオに伝えろ。──行くぞ」
従者達に声をかけて、テオは馬を進める。
無論、市街を疾駆させるようなことはしない。街の正門を出たところから徐々に加速し、馬が心地良く快走できる速度まで上げて途中から街道を逸れ、なだらかな丘陵地を駆け上った。
テオは馬術の達人だが、シェイランも決して劣りはしない。見事な騎乗で父に轡(くつわ)を並べて駆けた。
やがて辿り着いた丘陵地の頂上で、テオは手綱を引いて馬を止める。
振り返れば、鮮やかな緑色に輝く丘が続き、その向こうにグレッグミンスターの街が照り輝いている。反射をしているのは屋根瓦やガラス窓だろう。それだけでも、黄金都市のきらびやかさや豊かさがうかがえた。
そして、街を取り巻く広大かつ肥沃な大地。これが赤月帝国の中枢を支えるアールス地方の恵みだった。
「美しいだろう」
「はい」
父の言葉にシェイランは深くうなずく。
空はよく晴れ、遠方にはジョウストン都市同盟との境界である山脈が青みを帯びて霞んでいる。
まばゆい黄金都市、吹き抜ける風に揺れる草原。
これほど雄大で豊かな風景をシェイランは他に知らなかった。
「この国を守るのが我らの使命だ、シェイラン」
「はい」
「クレイズが性根の卑しい小者であることは事実だが、帝国を守るという大事の前ではささやかなことだ。あやつはこれから悉くお前に嫌がらせを仕掛けてくるだろう。だが、それにかかずらって最も大切なことを見失ってはならん」
「はい」
そして、テオはシェイランを振り返る。
深い輝きをたたえた漆黒の瞳が厳しさを情愛を込めて、真っ直ぐに見つめた。
「気付いただろうが、この国は今、危ういところに差し掛かっている。その原因はおのずとお前にも分かるだろう。だが、シェイラン。剣を持つ者は揺らいではならん。迷った剣は己を傷付けるだけで何者も倒すことはできん。
心の中の剣を磨き鍛えるのだ。もし揺らいだ時は、己の中の剣に問いかけよ。何が一番正しいことなのか、とな。心の中の剣を曇らせぬ限り、正義はお前と共にあるだろう」
「心の中の剣……」
「そうだ」
うなずき、テオは再び風景にまなざしを戻す。
その目は彼方の黄金都市をひたと見据えており、シェイランもまた、同じように遥かな風景をその目で見つめた。
「肝に銘じます」
「うむ。忘れるな」
「はい」
父の言葉をシェイランは深く心に刻み込む。
そして、四百年の長きに渡り、この地の守りを果たしてきた一族の末裔二人は、刻限が来るまで緑のなびく丘の上で轡を並べ、風に吹かれて佇んでいた。
(注)捏造その6
宮殿の中から人物から、全て捏造です。
陛下とテオの会話は、ゲーム中の台詞に大幅に言葉を追加いたしました。
次回より急展開になるわけですが……できる限り早くお目にかけられれば僥倖ですm(_ _)m
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