天の滸(ほとり) −第1話−
深い木立の中、少年が静かに立っていた。
絶えず吹き続けている爽やかな風が木漏れ日をざわめかせるたびに、艶のある黒髪もまた、さや、とほのかに揺れる。
葉の擦れ合う涼やかな音と鳴き交わす小鳥の声以外、何も聞こえない静寂がどれほど続いただろうか。しんと立っていた少年の腕が、全身が、ゆっくりと動き始める。
指が長く形の美しい、けれど、なよやかさには程遠いしっかりした手に握られているのは、長物の武器──長棍。
しかも、只の長棍ではない。陽光を受けて黒光りするそれは通常の木製ではなく、驚くべきことに黒金で造られているようだった。
少年が扱えるものであるのだから、芯を抜いて軽量化してあるのには違いないだろうが、それでも最低四六〇貫(宋代の1貫=37.3g)はあるはずの得物である。
だが、それを軽々とまではいかないが、しかし慎重な動きで淀みなく操る。
誰に相対するでもなく、きらめく木漏れ日の中、彼が一人、なぞっているのは棍術の型だった。
基本中の基本である歩法から始まり、中段から正面を突く持棍、敵の胴を払う欄腰棍、上段から断ち割る劈棍、下段から払い上げる撩棍、棍を一回転させて円を描く点棍と一つ一つを精確に、確実にこなし、更にはその複数を組み合わせた型へと移行する。
全ての動きは見事なまでに抑制の効いた緩急に彩られ、典雅な舞を見ているのかと思わせるほどに流麗でありながら、猛禽あるいは猛獣が得物を狩る様にも似た迅雷の鋭さを兼ね備えている。
まだ若い、十代半ばを過ぎたばかりであろう少年が、並々ならぬ技量の持ち主であることは、これを見ただけでも瞭然としていた。
時間をかけて一通りの型をなぞり終えると、一旦姿勢を改めてから黒金造りの長棍を傍らの樹木に立てかけて、かすかに上がった呼吸を整える。
そして今度は、同じくその幹に立てかけてあった極普通の白蛆杆造りの長棍を取り上げ、彼は再び型をなぞり始めた。
おそらく今度のは鍛錬というよりも、重い黒金の長棍を操って疲労した筋肉をほぐすのが目的なのだろう。使い込まれて艶のある木製の長棍が軽やかに空を舞い、風を薙ぐ。
今度は先程よりも長く、十分すぎるほどの時間を使って基本の型から複雑な型へ、更に速度を増し、やがては目にも止まらぬとの形容が似合うほどの、まるで飛燕の如き素早さで根が翻(ひるがえ)る。
そして、極みに達したそれは、鼓膜をつんざく鋭い風鳴りと共に激しく大気を切り裂いて。
息も詰まるようだった動きが不意に、ぴたりと静止した。
五秒、十秒と静かな時間が過ぎて、ゆっくりと少年は踏み込んだ足を戻し、長棍を体の脇に寄せて、地面に棍底をとんと衝く。
これで一連の鍛錬は終了したということなのだろう。緊張を解くように一つ息を吐き出し、少年は邪魔にならないように髪をまとめていた深翠の布を解いて、軽く頭を振った。
それだけの動きにも、艶のある漆黒の髪が木漏れ日を受けてきらめく。
そして、頬を伝う汗を布で拭い、上げた顔は稀に見るほどに整っていた。
──すっと通った鼻梁、細く形の良い頤(おとがい)、描いたような弧を描く柳眉、切れ長の瞳は深く、鋭く、それでいてえもいわれぬ艶のある藍青。
決して派手な顔立ちではない。だが、誰もが振り返り、目を瞠らずにはいられないだろう、圧倒的な存在感を伴った秀麗な容貌だった。今はまだ若いが、あと数年も経れば女性なら年齢身分を問わず誰しもが、あるいは男性までもが魅了されてやまなくなる青年となることは間違いない。
改めて見てみれば、体つきもすらりとして均整は取れているものの、筋骨逞しいと称するには程遠いしなやかさで、その麗姿に大人でも持て余すような鉄棍を操る力が秘められているとは到底思えなかった。
だが、少年は自分の外見になど何の頓着をする様子もなく、無造作に手にしていた布を右肩にかけると、黒金と白蛆杆、二本の長棍をまとめて手に持ち、歩き出す。
迷いのない足取りで明るい日差しの零れる木立の中を進んでゆくと、ほどなく視界を遮る木々がまばらとなり、代わりに整えられた美しい庭園が目の前に開けた。
円形の池を中心として季節の色とりどりの花が競うように咲き誇るその向こうに、瀟洒な館がそびえている。
二階建ての館は、決して華美に走ることなくどっしりとした落ち着きを見せながらも、細心の注意を払って設計されたのだろう美しい装飾が至る所に控えめに施されている。窓の数からしても、部屋数は二十を下らないだろう。決して庶民の持ち物ではありえない、堂々たる邸宅だった。
その前面に広がる天上の楽園を思わせるような庭園を、しかし真っ直ぐに横切って、少年は館の正面玄関へと向かう。
そして大理石で作られた階段を上がり、大扉に手をかけようとした時。
内側からそれが開かれた。
「お帰りなさいませ、坊ちゃん」
「ああ」
扉を開き、温かな笑顔と共に少年を迎え入れたのは、ゆるく一つに束ね金の長い髪によく似合う、春の空のような優しい蒼い瞳をした二十代半ばの青年だった。
通常、こうして館の主人を迎え入れるのは執事の役目のはずだが、そうと見るには若すぎるし、こざっぱりした服装もまた、質は悪くはないものの、執事が身につけるお仕着せの上下ではなく極普通のものである。
だが、少年もまた、青年の対応を当然として受け止める。
なんのことはない、この館には貴族の邸宅としては珍しいことではあるが、執事と呼ばれる存在は居ないのだ。正確には、数年前まで居たことは居たのだが、彼が老年を理由に引退して後、新たに役職に就く者を選んでいないのである。
そして、正式な執事見習いではなかったが、老執事に孫のように目をかけられ、仕事の補佐をしていたのがこの青年であったため、彼が現在は実質的に、この館の内向きの一切を切り盛りしている存在だった。
「グレミオ。先程、表通りの方が騒いでいるのが聞こえたが、北方軍が凱旋したのか?」
「はい。テオ様も無事にお戻りとのことです」
グレミオと呼ばれた青年は、外見のままに穏やかな口調と声で少年の問いに答える。
それを聞いて、少年はわずかに首をかしげた。
「となると、今頃は陛下に凱旋の御報告を申し上げて……一通りのことが済んで父上が戻られるのは多分、夕刻以降だな」
「はい」
「それなら、茶は書斎に運んでくれ。夕飯は父上が戻られたら一緒に。多少、時刻が遅くなっても構わないから」
「分かりました」
指示を受けて主の少年から二本の長棍を受け取り、去ってゆく青年を見送るでもなく、少年は湯殿へと向かう。
そして、主の日課を心得て用意されていた湯を使い、袖や裾が少しばかりゆったりとした部屋着を身にまとって、二階の書斎へと向かった。
主人の居間をも兼ねた広い書斎は、ふんだんに日差しの入る設計となっており、窓硝子を通した午後の陽光は、きらきらと細かく砕かれた水晶のように輝いて室内に落ちかかっている。
その中で、壁際の書架から一冊の本を抜き出すと、シェイランは室内を見渡し、直射日光の当たらない、だが十分に明るい位置にある一人掛けのソファーを選んで歩み寄り、腰を下ろした。
木版による印刷技術は百年以上前に開発されてはいるが、それでも書物はまだまだ高価なものである。表紙に薄くなめした革を貼り、金泥で表題と装飾を刻み込まれた本は、見た目だけでも十分に美しく、貴族や富裕な市民の中には調度品として本をコレクションしている者も珍しくないし、時には、外見ばかり本物らしく作って中身は空洞という贋物の本をずらりと書架に並べる者すらいる。
だが、この書斎の壁一面を占めている膨大な数の書籍は、全て本物だった。そればかりか、どの本も読み込まれているようで表紙の革が擦れ、金文字が薄れているものも少なくない。
シェイランが今、膝の上で広げているものもそうだった。
著名な軍師の手による分厚い兵略論は、随分と前の著作ではあるが、武器や城塞建築がどれほど進歩したところで、兵站や兵の運用における効率の良さを求められる戦争の本質は変わるものではなく、その内容は現代でも十分に通用する。
故に、おそらくはシェイランの祖父の代から書棚の一角に寓しているその兵略書は、ページの角は丸く擦り切れ、インクも幾らか薄くなっており、この部屋の主たちがいかに座右の書として愛読してきたかを、その姿で物語っていた。
そして、既に内容の大半を暗誦できるほどに繰り返し読んだ本のページを、改めて繰りながら、シェイランは目的の項目を探す。
「──ああ、これだ」
ほどなく指先は止まり、少年は肘掛に軽く頬杖を付いた姿勢で、ゆっくりと文字を目で追い始める。
そのまま幾らかページを先へと進んだところで、一旦、本を寄木細工の美しいサイドテーブルへと置いて立ち上がった。
今度は書架ではなく、別の側の壁際に置かれている、書架と対になる瀟洒な造りの飾り箪笥へと歩み寄り、上着の裾に隠すようにして腰帯に下げていた鍵束を取り上げて、幾つもある横長の引き出しの一つの鍵を開け、中に収められていた大判の羊皮紙を一枚、取り出す。
小さめのテーブルほどの大きさがあるそれは、色鮮やかに彩色された詳細な地図──厳重に引き出しに鍵が掛けられているのも道理と思わずにはいられないほど見事なものだった。
シェイランが腰に下げている鍵束は、本来、この館の主人が管理するべきものであり、主人の留守中である今は、代理人である彼に預けられているものである。当然、その鍵によって封じられている部屋、あるいは戸棚、あるいは櫃(ひつ)に収められている物品は、いずれも重要かつ貴重なものばかりであり、この測量技術の粋を結集したような地図もまた、この国における極一握りの人間の目にしか触れることを許されないものだ。
だが、シェイランはそれを躊躇いもなく部屋の中央にある大卓の上へと広げ、その細かな彩色や書き込まれた文字、記号に視線を向けつつ、傍らの椅子を引き寄せて腰を下ろす。
地図には表題などついてはいないが、幾つか大きく記載されている地名を見れば、それがどこの地域を描いたものであるかは判別できる。
彼が深い藍の瞳で見つめるそれは、アールス地方北部、つまりは赤月帝国の北辺であり、また帝国の重鎮マクドール家の封地でもある地域の詳細図だった。
そこに記された微細な色彩の陰影までをも読み取ろうとするかのように、シェイラン・エセルディ・マクドールは、大卓の上に広げた羊皮紙にまなざしを落としたまま、沈思する。
──赤月帝国筆頭将軍の地位を預かるマクドール家は、古くはアールス地方北部に本拠を置く大豪族だった。
それが、赤月帝国がハルモニア神聖国から独立する際に、初代皇帝クラナッハ・ルーグナーに尽力し、目覚しい功績を挙げたことで帝国貴族の地位を与えられ、マクドール家の支配下にあった帝国北方の広大な領域を、従来のままに治めることを認められた。
帝国の北辺地方は、建国以来の宿敵ジョウストン都市同盟と境界を接し、また広大な森林や肥沃な農地に加えて、その内には皇帝直轄領であるバナー金銀鉱山すらを含む、帝国にとって最重要の地であり、それゆえに治めるのにも様々な困難がつきまとう地である。
だが、歴代のマクドール家当主は武勇に優れ、政事面でも際立った手腕を発揮して、これまで北方統治において破綻を見せたことは一度もない。
現在の当主であるテオ・マクドールことテオドリック・グリエンデス・マクドールも、常勝将軍の名を欲しいままにする帝国に並びなき武勇の持ち主であり、また高潔かつ沈着な人格をもって、磐石ともいえる地位を宮廷内外に築き上げている。
そしてまた、その嫡男にして唯一子であるシェイラン・エセルディも、父祖が築いてきたものをそのままに受け継ぎ、更に高みへと導くことを、生まれながらに課せられていた。
シェイランが見つめているのは、本日、帝都に凱旋した父テオが数日前まで滞在していた、帝国最北辺の地図だった。
恒例行事のように侵攻してきたジョウストン都市同盟軍と、彼らによって煽動された、山賊と大差ない流れ者の傭兵隊との小競り合いは、いつもと同じく、短期間に収束するはずだった。しかし、今回は当初の帝国側の見込みは外れ、豊かな森林と山岳を巧みに利用した撹乱作戦を続ける敵を北方警備隊は中々撃退することができずに、結局、帝国筆頭将軍の出陣を見ることとなったのである。
もともと北方はマクドール家の治める土地であり、当然、テオ・マクドールの率いる北方軍も、一兵卒に至るまで帝国北辺の地理は熟知している。
その北方軍に出陣の勅命が下った時点で、勝敗の帰趨は定められたようなものだったが、実際、マクドール将軍に指揮された帝国軍は、帝都を出立してから半月も経ないうちに大勝して、都市同盟軍を国境の遥か向こうに退かせた。
勝報は勿論、早馬によって皇帝の元に届けられ、一般市民も自国の勝利を知ったが、しかし、実際の戦闘がどのように行われたのかは、凱旋した将兵の報告を聞かなければ、宮廷に参内できない身分の者たちは知ることができない。
ゆえに、シェイランも父の帰還を待ちつつ、その一方でこうして地図を広げ、兵法書のページを繰っている。
──未だ若い少年の脳裏でめまぐるしく巡っているのは、詳細図に描かれた地形において考え得る、あらゆる戦闘のパターンだった。
敵の将兵が、味方の将兵の倍数である場合、少し多い場合、互角である場合、少ない場合。
援軍が期待できる場合、できない場合、敵の援軍や伏兵の恐れがある場合、ない場合。
糧食がふんだんにある場合、不足しがちな場合、水の確保ができている場合、できていない場合、武器が豊富な場合、手持ちが心細い場合。
好天候の場合、悪天候の場合、突然の風雨の襲来があった場合、春夏秋冬のそれぞれの季節の場合。
敵将が好戦的であった場合、慎重であった場合、厭戦的であった場合、あるいは兵士との信頼関係が良好である場合、険悪である場合……。
一つ一つを検討し、脳内でチェスの駒を動かすように彼我の将兵を動かし、勝利する道を探る。
初陣そのものは二年前に済ませていたが、皇帝に仕える武官としては未だ正式に出仕していない立場上、シェイランが父に帯同して戦場へと赴いたことは、これまでに片手で数えられるほどしかない。
それゆえに、今している作業も机上の空論といわれてしまえばそれまでのことだったが、これが必要な作業であるということは、シェイランは十分過ぎるほどに理解していた。
いずれ将として戦場に立った時、兵士の命運を背負うのは自分一人でしかありえない。軍師などという便利なものが傍に居ればいいが、最後のところ、全てを定めるのは将帥の責任なのである。
人間である以上、無謬(むびゅう)ではいられない。だが、将たる者は限りなく無謬であることを、戦場では求められる。
無責任ではあるが当然でもあるその期待に応えるには、ひたすらに武技を磨き、兵略を学ぶしかない。
マクドール家の嫡子である以上、求められるのは、凱旋する父を迎えるために心を砕く優柔さ、あるいは小賢しさではなく、寸暇を惜しんで己を鍛える知性と忍耐なのであり、そのことを誰に言われずともシェイランは深く理解していた。
帝都に凱旋したテオ・マクドールが、グレッグミンスターの帝城から程近い一角にある自邸に一ヶ月ぶりに戻ったのは、既に夜も更けようという時刻だった。
日が落ちた後も、シャンデリアと卓上のランプに火を入れて書斎にこもっていたシェイランは、忠実な執事代理の青年によって、父の帰宅を知らされた。
立ち上がった彼は、慌てる素振りもなく落ち着いた動作で、卓上に広げた地図を鍵付きの引き出しに戻し、数冊の本を書架の元あった場所に返してから、書斎を後にする。そして、壁にしつらえられた燭火が等間隔でまばゆく周囲を照らしている階段を下り、玄関ホールへと向かった。
広く、天井の高いホールには既に大勢の人間の気配が明るくざわめき、主人が既にそこに戻ってきていること、そして、それを出迎えるためにこの邸宅に仕える者達が集っていることを、主人の息子に教える。
「父上」
凛と落ち着いた音で、さほど大きくもないのにホール全体に響き透る声が、そう一声かけた途端、扉が開くようにして人々は左右に退き、シェイランと父を隔てるものは綺麗に失せた。
「お帰りなさいませ。ご無事に戻られて何よりです」
「シェイラン」
未だ軍装を解かないまま、両脇に近侍を従えた将軍は、出迎えた息子の姿に沈着な相好をわずかに崩す。
帝国将軍テオ・マクドールはぬきんでた長身というわけではないが、壮年期の均整の取れた厚みのある体格に重厚な甲冑がよく映え、そこに立っているだけで歴戦の勇将であることを誰もが納得するような、決して猛々しくはないのに周囲を圧倒する風格をたたえている。
一瞥しただけで敵軍を駆逐するとまで謳われる漆黒の深く鋭い瞳が、それと分かるほどに柔らかさを帯びて、目の前に立った息子へと向けられた。
「今戻った。留守中、何事も無かったようだな」
「はい。皆もよく務めてくれましたので、こうして大過なく父上をお迎えすることができました」
「そうか」
交わす言葉は決まり文句のようでもあり、また父子の会話としては一般家庭に比べると随分堅苦しいように聞こえるものだったが、双方の目元口元に浮かぶ淡い微笑が、彼らの真情を何よりも端的に示している。
そして父親は、風格ある端整な容貌に穏やかな表情を滲ませたまま、肩越しに背後を振り返った。
「先に紹介しておこう。──こちらへ来なさい」
何か、とシェイランを始めとした人々の視線が集まる中、立ち位置を譲った近侍たちの間をすり抜けるようにして、小柄な人影が滑り出てくる。
テオの傍らに立った姿は、背丈はシェイランと変わらぬくらい、そして年齢もほぼ同じくらいと思われる少年だった。
「テッドという。テッド、これが私の息子だ」
「──どうも」
至極簡単に紹介されて、少年はぺこりと小さく頭を下げる。二十人を越える人々の注視を受けて緊張しているのか、無愛想な表情で短い一言を口にしたきり、青みを帯びた薄茶の瞳で、測るように目の前に立つシェイランを見つめる。
その視線から一旦目を逸らして、シェイランは父親を仰いだ。
「彼は今日からこの屋敷に?」
「しばらくの間だけだ。仕事は自分で探したいということなのでな」
「分かりました。──僕はシェイラン・マクドール。よろしく、テッド」
小さな笑みと共に差し出した右手を少年は見つめ、それからシェイランの顔を見上げて、わずかに躊躇いを滲ませながらも己の右手を上げる。
その茶色の革手袋をはめたままの右手をシェイランは軽く握って、どちらからともなく手を引き。
その様を見届けたテオが、場を締めくくるように少年と息子の肩をそれぞれ軽く叩いた。
「堅苦しい挨拶はこれくらいにして、食事にするとしよう。リアナ、テッドを部屋に案内してやってくれ。その後は食堂にな」
「はい、旦那様」
名を呼ばれた侍女が、すぐに前に進み出る。それを機として人の輪が崩れ、近侍たちは主君に一礼してから彼らの起居する東翼の別棟へ、使用人たちはそれぞれの持ち場へと戻ってゆく。
そして、シェイランは侍女に案内されてゆく少年の後姿にちらりと目を向けてから、私室へと歩む父の後に従った。
「──彼とは北方で出会われたのですか?」
「うむ。彼は弓が巧みでな、取り押さえた最初は敵の傭兵かと思ったのだ。だが、傭兵としてはあまりにも若過ぎたから、事情を聞いてみたら早くに戦争で親を亡くして、今は行く当てのない身の上だと言う。とりあえず南に向かう途中で、運悪く我々の軍の前を横切る形となったらしい。職を探したいというから、それなら都会の方がいいだろうと思ったのでな、連れて来た」
「なるほど」
よどみなく語る父親に、シェイランは小さく嘆息する。
「周囲の者は何も申し上げませんでしたか?」
「言った。パーンやクレオはさすがに黙っていたがな。だが、彼は敵の間諜などではない。目を見れば分かる」
「はい。父上がおっしゃるのなら、そうなのでしょうね」
「皮肉か、シェイラン?」
「いえ、少なくとも父上は今まで一度も、人相見を違えられたことはありませんから。父上のなさる事を息子として信じているだけですよ」
「やはり皮肉としか聞こえんな」
誰に似たものやら、と、しかし陰りのない闊達な笑い声を低く響かせ、テオは二階の奥にある私室へと足を踏み入れる。続いたシェイランは、扉を閉め、父と二人きりになったところで威儀を正した。
そして、腰帯から外した鍵束を、父が立つ傍らにある、飾り彫りの美しい卓の上へと丁重に置き、右手を左胸の上に当てて一礼する。
「改めて、この度の御戦勝並びに、無事に御帰還なされましたことへのお祝いを申し上げます」
「うむ。お前もよく留守を守ってくれた」
「幸いにして、何事も起きることなく過ぎただけのことです。お褒めの言葉は、若輩の私を守り立ててくれた家内の者たちにお与え下さい」
「お前がそう言うのであれば、そうしよう」
誰の目もない二人きりの場であるからこそ、最大の敬意を示す息子を穏やかな瞳で見つめ、テオは返された鍵束を手に取る。
「……陛下のお許しがいただけたのであれば、お前も共に連れて行きたかった」
紡がれる言葉は、淡々した響きでシェイランの耳へと届いた。
「他愛のない戦ではあったが、共に出陣していれば、お前にとっては有益だっただろう。見る者が見れば、敵軍の動きも我が軍の動きも、学ぶ所が多かったはずだ」
ゆっくりとテオは、一旦手にした鍵束をテーブルの上へと戻す。
「お前のことだ、私の留守中もぬかりなく書斎にこもって、国境付近の地形を頭に叩き込んでいたのだろう。今日はもう無理だが、明日、今回の戦いで在ったことの全てを教える。その上で考え、学べ、シェイラン。その積み重ねが、いずれはお前の身を助けることになる」
「はい、父上」
深くうなずいた息子を見つめ、テオは、さて、とマントを留める肩飾りへと手をやった。
「手伝ってくれ、シェイラン。今頃、グレミオが食堂で手ぐすね引いて、我々を待ち構えているだろう」
「手ぐすねとはお酷い。グレミオが聞いたら泣きますよ」
「なに、褒め言葉だ」
息子とよく似た口ぶりで笑って。
テオドリック・グリエンデス・マクドールはようやく、一月の間まとい続けた重い軍装から我が身を解き放った。
凱旋した主を迎えての晩餐は、豪勢なものだった。
万事において華美は好まない武門の家柄であるから、無論、食べきれないほどの美味珍味が食卓にあふれるということはないが、家人ばかりでなく使用人にまで行き渡るに十分な質と量の料理が厨房で用意され、次から次へと絶妙のタイミングで運ばれてきた。
家宰としての職務のみならず料理にも堪能な青年が腕をふるった御馳走に舌鼓を打ちつつ、一ヶ月ぶりに顔を揃えた面々が楽しげに言葉を交わす合間に、新たに食卓に加わった少年へ料理を奨める声が重なり、至極賑やかなうちに幸いのひと時は過ぎた。
グレミオに頼んで作らせた夜食代わりの軽食を厨房で少しばかりつまみ、そろそろ休もうかと私室に帰りかけた廊下の途中、シェイランは見覚えのある後姿に、おや、とまばたきした。
歩いてきた方向といい、肩にかけた白いタオルといい、間違いなく湯殿から部屋に戻るところなのだろう。
何の気はなしに、シェイランは彼の名を口にしていた。
「テッド」
そろそろ日付が変わるのも近い時間帯、壁の燭台の火はまばゆく燃えているものの、人気ない廊下に思いがけないほど、その声はよく響いて、すぐさま驚いたように金茶色の頭が振り返る。
壁際の灯火を映し込んで、髪と同じような金茶色に見える瞳は、まっすぐにシェイランを捕らえたが、どういう態度をするべきか迷ったのだろう。こちらの反応を窺うような、かすかに戸惑った表情を浮かべたのみで、自分から口を開こうとはしない。
「これから休むところ? 無駄に広い屋敷で申し訳ないね。せっかく温まったのに湯冷めしないように気をつけた方がいい」
そんな少年に、シェイランはゆっくりとした足取りで歩み寄った。
「何か足りないものとか、逆に要らなくて困るものはなかったかい。父上はあの通りの御性分だし、うちの使用人も世話焼きが多いから」
「……別に」
もしかしなくても、警戒しているのだろう。
発せられた声は、初対面時と同じく愛想がなく、語数も最低限だった。
だが、構わずにシェイランは続ける。
「そう? でも、この屋敷の内外でもし困ることがあったら、遠慮なく僕に言ってくれればいい。僕から父上に申し上げることもできるし、些細なことなら僕が直接使用人に言えば済む」
「……そういうあんたも、随分とお節介らしいな」
「僕が? とんでもない」
わざとらしく目をみはり、それからシェイランは整った口元に笑みを浮かべた。
「君は父上が連れて来た人間だから、相応のもてなしをしたいと思っているだけだよ。気遣いが迷惑だというのなら、今後は何も言わない」
「────」
「それで? 実際のところ、この屋敷の居心地はどうなのかな?」
「……俺が、」
シェイランの深藍色の瞳を、少しばかり斜に見つめる少年の瞳には、読みがたい光が浮かんでいる。
その色を、シェイランは興味深く見つめた。
「俺が、どこの誰かということは気にしないわけか?」
「君が北から来たという事は父上から伺ったよ。でも、それがどうか?」
「────」
「父上が戦場で人間を拾ってくるのは珍しいことじゃないんだ。グレミオもそうだし、パーンも似たようなものだったし。それで何か間違いが起きたことは、少なくともこれまで一度もないし、第一、君が他国の間者だというのなら、もう少し愛想よく立ち回ってもいいと思うね。何しろここは、赤月帝国の内情を探るのにはもってこいの帝国有数の重鎮の屋敷内なんだから。
それよりも食事の時に聞きそびれたんだけれど、テッドって何歳?」
脈絡のない問いかけに、テッドは一瞬戸惑ったようだった。
軽く眉をしかめてから、相変わらず愛想のない声で答える。
「……十六」
「え? 僕と同じ?」
シェイランが思わず目を見開いたのは、決して演技ではなかった。
だが、テッドはすぐさま反応して、不快げに眉をしかめる。
「俺が十六だと、何か都合が悪いのか?」
「あ、いや。そうじゃなくて、僕より上だと思っていたから」
「───…」
「言葉が足りなくて気を悪くしたのなら、申し訳なかったね。──そうか、でも一緒なのか」
「……あんた、変な奴だな」
「僕が?」
変な奴、と言われてシェイランは、今度も本心から目をみはる。
これまでの人生で、相手が誰であれ、そんな形容詞を向けられたことは一度もない。
マクドール家は大貴族の家柄であり、当主のテオは帝国筆頭将軍である。当然ながら、その嫡子であるシェイランもまた、人々から敬意を払われる存在であったし、加えて生まれ持った容姿も才能も、賞賛の対象にこそなれ、けなされるような類のものではなかった。
だが、この少年から見ればそうではないらしい。
「普通、貴族ってのは、俺みたいな得体の知れない馬の骨には話しかけねぇし、それ以上に謝ったりなんかしねぇ。将軍も大貴族にしちゃ変わってると思ったが、さすがにその跡取り息子だな」
「……褒められてるのか、けなされてるのか今一つ分からないんだけど。まあ悪い意味ではなさそうだね、君の言う『変な奴』っていうのは」
シェイランは、軽く肩をすくめる。
「他の貴族がどうだかは知らないけれど、父上はあの通りの方だから、礼儀にはかなり厳しいんだ。相手の身分や立場に関係なく、何かをしてもらったら礼を言って、間違えたことをしたら謝るのが、人間としての最低限のマナーだと物心付いた頃に言われたんだよ」
僕はそれを素直に守っているだけ、と答えてシェイランは、再び廊下を私室に向かって歩き出す。
「もう遅いのに、部屋に戻るところを呼び止めて悪かったね。でも、もし差し支えなければ、明日から、僕の知らない土地のことを教えてくれると嬉しいな。僕はこの通り、箱入りでね。まだ、この国の外に出たことがないし、北方とグレッグミンスター周辺以外の地域にもあまり行ったことはないんだ」
それじゃあおやすみ、と追い越しざまに、ぽんと相手の肩を軽く叩いて。
シェイランは廊下の先、二階へと上がる階段を昇る。そうして彼から十分に離れたところで、ぽつりと呟きが唇から零れた。
「……なんか、新鮮だな」
箱入りと自分で口にした通り、シェイランはグレッグミンスター周辺に限っては度々外出するものの、その時に同行するのは年長の家人か、父の部下ばかりで、同年代の少年との付き合いはこれまで殆ど経験したことがない。同じような立場にある貴族の子弟と言葉を交わしたことがないわけではないが、しかし、彼らとの会話を面白いと思ったことは一度もなかった。
だが、テッドは、シェイランがこれまで街ですれ違うばかりだった市井の少年だ。
年齢を聞くまで年上としか思えなかった瞳は、いつか屋敷に迷い込んできた野良猫のように、爪の先ほどの油断をも知らない鋭い光をたたえて、決して媚びることのない強いまなざしを向けてきた。
彼ともっと話をしてみたい、と疼くような好奇心がシェイランの胸に沸き起こる。
「テッド……。テッド、か」
すれ違った時、少年のタオルを持った右手が、湯上りでもあるにかかわらず茶色の革手袋に覆われているのに気付いたが、何故だろうというささやかな疑問は、彼が知っているだろう世界の知識への期待の前に淡く溶け消え、まるで幼子の頃に戻ったかのように明日を心待ちにしている自分に苦笑しながら、シェイランは寝室へと続くドアを開ける。
ほどなく寝支度を終えた部屋の明かりが消され、辺りは穏やかな闇に包まれて、そのまま何事もなくマクドール邸の夜は静かに過ぎていった。
(注)捏造その1
文中では明記しませんでしたが、マクドール家は、おそらく公候伯子男のうち、侯爵の家柄ではないかと考えております。
時代と国によって爵位の意味合いは異なりますが、超大雑把に言うと、公爵=王家の分家、侯爵=豪族、伯爵=王家の遠縁、子爵=伯爵の子、男爵=成り上がり貴族、といった感じで、マクドール家は帝室の血縁ではなさそうですが、帝国の北方を治める有力貴族であるようなので、爵位を持つとしたら侯爵だろうという判断です。(実際に、ミルイヒなんかは帝国西方に彼の本拠らしきスカーレティシア城を構えてますしね。かといって、公爵領のような半独立的な支配体制を築いている様子もないですし、そこから考えると彼の爵位も侯爵か伯爵あたりだろうと思われます。)
皇帝を頂点とした帝国である以上、貴族制度は整っていたはず、という思い込みによる判断なので、幻水世界においては間違っている可能性も大ですが、そこは二次創作のお楽しみということで。実際、厳密に考えると、赤月帝国の支配形態は、むしろ内容的に「王国」という気がしますしね……。
以下、いたるところで設定の捏造を行っていますが、あまり気にせずに読み飛ばして下さいませ〜。
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