もともと長時間の眠りを必要とする方ではないが、ゼーランディア軍に降伏した直後は、そんな体質が顕著になり、浅い眠りをさまよった後、夜明け前に目が覚める日々が続いて、結果的に、少数の見張り以外には未だ誰も居ない明け方の甲板へと上がり、一人、海を眺めるという日課ができた。
 そこにシュリが居合わせたのは、仲間となって一ヶ月も過ぎた頃だっただろうか。
 人の気配に気付いて振り返ると、他者が居たことに驚いたように青い瞳をまばたかせながら、シュリは「おはよう、早いね」と笑ったのだ。




「少しは慣れてきた? ここでの生活」
「……それなりにな」
「そう。なら、いいけど」
 こちらの返答に微笑して、シュリは人一人分くらいの間隔をあけて、船べりに海の方を向いて寄りかかる。
 その横顔を見やり、いつもなら口にしない思いを言葉に乗せたのは、いつも賑やかなこの船で、珍しく静かに、誰かと向き合っているという現状のせいだっただろうか。
「……本当に変わっているな。この船の連中も、お前も」
「そう?」
「ああ。昨日も、シグルドとハーヴェイに、海賊にならないかとまた誘われた」
「あの二人、君のこと気に入ったみたいだからねえ。言い続けるんじゃない?」
 あはは、とシュリは笑ったが、実のところ、原因はこの少年にある、と内心思う。
 直接攻撃と魔法攻撃のバランスを考慮すると、この編成が一番いいから、と海賊コンビと組ませて、この半月ほど立て続けに偵察や探索に連れ回してくれたお陰で、彼らは自分のどこを気に入ったのか、事あるごとに、国に帰れないのならうちに来い、と言うようになったのだ。
「ヘルムートの剣は、真っ直ぐだから」
 組んだ両腕を船べりの上に置き、未だ暗い海面を眺めながら、シュリが言う。
「前に、二人が僕に言ったんだけど。海賊の仲間で一番大事なのは、背中を預けられる、っていう信頼感なんだって。こいつなら大丈夫、と思えないと、同じ船に乗って戦うことはできないって。その時、僕がちょっとへこんでたせいだと思うんだけど、僕のこと、キカに通じるものがあるとまで言ってくれたんだよ」
 小さく笑い。
「だから、ヘルムートなら背中を預けられる、って思ったんじゃないのかな、あの二人は。僕だって、たとえば今、こうして二人でいても、君が僕に向かって剣を抜くとは思わないから」
 向けられた笑顔は、少しだけ自分の気に障った。
 だが、表情に出した覚えはないが、敏感にそれを察したのだろう。シュリは静かな瞳で、こちらを見上げて。
「君を侮(あなど)って言っているんじゃないよ。君の剣には、君はそんな真似はしないと信頼させるものがある。あの二人が感じているものを、僕も感じているだけ。それが見込み違いなら、僕が迂闊だっただけの話だから」
「───…」
 淡々と告げてくるシュリの言葉に。
 鋭い、と改めて思った。
 鋭く、深いのに、言葉は驚くほどに率直で飾らない。
 そして、その言葉をもって相手に踏み込こんでくるのは、決して無神経なのではなく、承知の上で敢えてそうしているのだ。
 ギリギリの線を越えて一歩踏み込むことで、得られるものがあるのなら、と断崖の際を歩くような、抜き身の刃を抱くような覚悟を腹に据えて。
 だからこそ、この少年に反感を持つ者もいれば、心の底から信奉する者も数多くいるだろう、と彼が軍主であることを、改めて呑み込む。
「それで、さ。ヘルムート」
 ふと、シュリの声の調子が変わる。
「少しだけ、聞いてもいいかな。こんな時間帯にここで会ったのも、何かの縁だと思うし」
 初めて聞く、かすかな躊躇を含んだ声に、何だろう、と思った。
 少しうつむいた彼の横顔は、さらりと流れた髪に隠されて、はっきりとは見えず。
「何だ?」
「嫌なら答えなくていいんだけど。……ヘルムートって、結構いい家の出、だよね? 姓は教えてもらってないけど、貴族の家柄?」
「……ああ」
 何故、そんなことを問うのか今一つ理解できないまま、うなずく。
「やっぱり。身のこなしとか見ていてね、そんな気がしたから。でも、その割には身の回りのことをするのに不自由なさそうだけど……」
「それは俺が士官学校の出だからだろう」
「士官学校?」
「ああ。学校とはいっても軍の組織だからな。上下関係は厳しいし、下級生は上級生の身の回りの世話をすることが義務付けられる。その中で自然に覚えただけだ」
「……僕のいた海上騎士団の訓練生と似たような感じかな。あそこは規律はともかく、日常生活面では、そんなに厳しくなかったけど。──そっか、だから君は、日常のことは何でもできるんだ」
 考えるように、船べりに寄りかかったまま仄かに白く明るくなってきた水平線を見つめて。
 シュリは少しの間、沈黙する。
「──もう一つ、質問いい? 変なこと聞いたついでに」
「ああ」
 うなずくと、こちらを見ないまま、静かに彼は口を開いた。
「ヘルムートは、勝ってはいけない、と思う相手っている?」
「……どういう意味だ?」
「間違いなく自分の方が力は上なんだけど、そのことを気付かれてはいけない、剣を交えても、絶対に自分が勝ってはいけない。無意識にそう動いてしまう相手。いない?」
 ひどくおかしなことを言う、と思った。
 だが、短い期間とはいえ、この少年に因縁のあるラズリルに駐屯していたからこそ、想像が及ぶ部分もあって。
 少しだけ真剣に、己の心に訊いてみる。
「……いないな。どれほど努力したところで及ばないだろう、と思う相手はいるが、無意識のうちに自分を下に持っていくような相手はいない」
「だよね。……それが普通だよね」
 そう言い、こちらを見て笑んだ顔は、これまでに見たことのない表情を滲ませていた。
「僕だっておかしいと思うんだよ。──気付いたのはいつだったかな。訓練生として騎士団に入団して、まだそんなに経ってない頃だったと思うけど。
 僕ね、今は双剣を使ってるけど、本当は左利きなんだよ。でも、それだと日常の道具を使う時、上手くいかないことが多いから、子供の頃から右手を使うようにしてて、自然、剣も最初は右で持ったんだけど。……それなのにさ、何の苦もなかったんだよね、訓練で彼の相手をする時」
 本来の利き手ではない側の手で、剣を使っていたのに、とシュリは淡く苦笑する。
「でも僕は、気付かないようにしてたんだ。彼の方が上なのは、子供の頃からずっと当たり前のことだったから。年齢も向こうの方が上だったし、そもそも出会った時から御主人様と使用人だったし。
 ……だから、僕は気付きたくなかった。団長や誰に言われても、彼より僕が期待されるのは嫌だったし、自分の可能性なんて考える気もなかったんだよ」
 それで良かったのだと。
 一生、主人の傍らで使用人としてあれば、それで充分に足りたのだと、過ぎ去った日々を惜しむように、わずかに目を細めて。
「……でも、気付いちゃったんだ。彼は」
 薄明るくなった空を見つめ、静かにシュリは言葉を紡ぐ。
 決して隣りにいる自分の存在を忘れているわけではないだろう。だが、誰かに聞かせるというより、己の中にあるものを確かめているようだ、とその横顔に思った。
 「気づかれてしまったら、もうどうしようもない。……多分、僕はずっとそれを知っていた。知っていたから、無意識に退いていたんだ。ずっと」
 夜明けの潮風に、静かに流れる声に、一ヶ月ほど前の光景を思い返す。
 この船の、この甲板の上で。
 君のそういう部分が嫌いだった、と。
 情の欠片もない、きついまなざしで言い放った彼の言葉を、シュリは身じろぎ一つせずに受け止め、そして僅かに憂いを含んだ表情を変えないまま、彼をボートに乗せて流すことを命じた。
 後にも先にも、それきり。
 シュリは、自分が知る限り、彼のことを決して自分からは話題に出すことはなくて。
 ──ラズリルに着任し、あのガイエン騎士団の館で、未だ二十歳にもならないだろう若い団長と初めて顔を合わせた時。
 特に悪意あるタイプではなく、むしろ真面目な、ただ育ちから来る誇り高さと脆弱さのアンバランスが、時として浅薄な行動として現れる、典型的な貴族の子弟だ、と思った。
 彼のような若者を、士官学校でも軍部でも、嫌というほど見てきたから、よく分かったのだ。
 そして、話題に上るたびに彼がひどく忌避するようだった存在……シュリを、この目で直接に見た時、ゼーランディア軍の軍主を語る彼の言葉の端々に隠れていた意味が知れた。
 だから、その直後に目にした光景も。
 自分には、手に取るように彼の心理が読めたのだ。
 ──幼い頃から下に見ていた相手が、実は自分より格上だった。
 ただ、それだけのことだ。
 だが、それだけのことを許せず、認めることもできず、向こうが自分の信頼を裏切ったのだと、彼は相手を憎むしかできなかった。
 稚(おさな)いと……器が小さいといってしまえば、それまでのことだろう。
 しかし、彼にとってはそれはとてつもなく大きな問題であり、それまではさしたる影の射したこともなかった心を歪ませる原因にまでなったのであって。
 そして、そんな現実を、あの時あの場で再確認したのであろうシュリは。
「──シュリ」
 名を呼ぶと、辺りが未だ薄暗いせいか、いつもよりも暗い色に見える瞳がこちらを振り向いた。
「何?」
「そろそろ俺は部屋に戻る。完全に夜が明けるまで、ここには誰も来ないだろうから、お前はゆっくりすればいい」
 そう告げると、彼は瞳を軽く見開き、こちらを見つめて。
 それから、小さく笑んだ。
「ありがとう。──ヘルムート」
「何だ」
「後で朝食に誘っていい? 皆が起きてきて、食堂が開く時間になったら」
「……ああ。だが、あまり遅いなら先に行くぞ」
「うん」
 うなずいて、後でね、と軽く片手を振ったシュリを甲板に残し、船室へと続く階段を下り、ドアに手をかける。
 そしてドアを開きながら、ちらりと振り返ると、シュリは再び船べりに寄りかかるようにして遠い水平線を見つめていて。
 その向こう、随分と白んできた空の色を見やり、それきり自分は振り向くことなくドアをくぐった。








 何があった、というわけではなかった。
 出来事として言うなら、それまで限られたことしか会話した事のなかった相手と、少しだけ深く話をした、それだけのことだった。
 けれど、その日以来。
 誰ともなく、リーダーが変わった、と囁き出した。
 それ以前を殆ど知らない自分には、違いを感じ取ることなど不可能に近かったが、その頃、人々が言った言葉を要約するのなら、開き直ったようだ、あるいは一段と肝が据わったようだ、そんなところだっただろうか。
 無論、シュリは自分の心境の変化を口にするような性格ではなく、実際のところは、どうだったのかは分からない。
 ただ、憶測をするのなら、あの朝、自分を相手に仄かに内心を吐露することで、シュリは何か一つ、己の心と過去に区切りをつけたのではなかっただろうか。
 それは、長年共にいた相手への決別であり、自らが立つ覚悟であり──。
 そして、それを目の当たりにした自分もまた、あの時から、自分なりに思うところを進んでみようと腹を決めたような気がする。
 全てを背負うつもりで敵軍に降伏はしたものの、本音を探れば、迷いも後悔もあった。
 自分の事はともかくも、部下たちまで形としてはゼーランディア軍に協力させることになり、たとえ全員が無事に故国に戻れたとしても、そのことが彼らにどんな意味をもたらすか、考えるだけで歯噛みしたいほどの焦燥を覚えた。
 けれど。
 比べれば僅か数十人の運命を担っているだけの自分の前には、数万人の人々の希望と運命を背負った存在が在って。
 一度歩み出してしまった道は、もう突き進むしかないのだと、あの時、遠く水平線を見つめていた背に教えられたような気がした。
 無論、おそらくは様々な思いが彼の胸中にもまた、渦巻いていただろう。
 だが、シュリは最後まで、明るい笑顔を絶やすことなく、ユーモアを交えて仲間たちを鼓舞しながら陣頭に立ち続けて。
 負の力の強すぎる紋章に命を削られ、何度も倒れながらも、それでも決して何一つ諦めるようなことはせず、そして最後に。
 自らの力で、勝利を勝ち取ったのだ。
「──思えば、随分と強情な奴だったな……」
 弱音を吐くことは嫌がり、一旦決めたことは絶対に退かず、どんな無茶でも「やるしかないでしょ」の一言で仲間たちを黙らせて。
 けれど、そんな彼についてゆくことを、誰も嫌がりはしなかった。
 むしろ、劣勢が明らかな過酷な戦いばかりが続いていた上、それぞれに重い事情を背負った者も多かったのにも関わらず、皆、まるでお祭り騒ぎでもするかのように嬉々としてついていった、という方が正しい。
 そして、それは、ひとえにシュリの全てを受け止める強さから生まれたものであって。
 本当に得がたいリーダーだった、と今になっても思う。
「……とても、そうは見えないがな」
 ちらりと窓際から振り返れば、シュリは相変わらず、幸せそうな寝顔でぬくぬくと毛布にくるまっていて。
 思わず、苦笑めいた笑みがこぼれた。
 ──もう随分と夜は更けている。
 激しかった雨も、幾分弱まり、屋根を叩く雨音はわずかながらも穏やかになって、ただ、暖炉で燃える薪のはぜる音が、やわらかく楽しげに響く。
 そんな室内をゆっくりと横切り、暖炉の薪を新たに足して、自分も寝支度を整え。
 そしてもう一度、何事かむにゃむにゃと呟いて寝返りを打った少年へと、ちらりとまなざしを向け、明日は雨が上がるといい、と思った。








「おはよう、ヘルムート」
「ああ」
 どちらも寝起きはいい方であるし、わずかに他者の気配を感じれば意識が覚醒するたちで。
 ゆえに、目が覚めたのは両者、ほぼ同時だった。
「晴れたみたいだね。風はちょっと強そうだけど」
「そうだな」
「干しといた服も……うん、乾いてる。良かった」
 嬉々として洗濯ロープから二人分の服を下ろし、畳み始めるシュリに、もはやヘルムートは溜息をつきつつも、何も言わなかった。
 その間に、さっさと洗顔を済ませて身支度を整える。
 その傍ら、熟練の主婦もかくやという手際のよさで二人分の服を畳み終えたシュリは、はいこれ君の分、とヘルムートの使ったベッドの上にそれらを置くと、自分もまた顔を洗って身支度を整え始めて。
 起き出してから、さほどの時間も過ぎないうちに、軍隊生活に慣れた二人は、出立の用意を整え終わっていた。
「行くか」
「──うん。でも、その前にちょっといい?」
「ああ」
 ベッドの上に置いたザックの革ベルトを手に掴んだまま、小首をかしげるようにして言ったシュリに、ヘルムートは何だと振り返る。
「あのさ、確認しておきたいんだけど。ヘルムートは世界が見たいんだって言ってたよね、昨夜。だったら、行く先は特に決まってないと思ってもいいのかな?」
「ああ。これまで東回りに北上してきたから、そろそろ西の方に行こうかと思っているが、その程度だ」
 その返答に。
 にこりとシュリは笑んだ。
「だったらさ、一緒に行かない?」
 ひらひらと指無しの革手袋をした左手をひらめかせ、
「僕はこんなもの持ってるし、お尋ね者だけど、どうせ世界一周旅行をするのなら、一人より二人の方がきっと楽しいと思うんだ。だから、当てがないもの同士、一緒に行こうよ」
「……お前、言ってることが滅茶苦茶だぞ」
「でも、本当のことだし。君も、嫌だとは思ってないでしょ?」
 笑いながらけろりと言うシュリに、ヘルムートもまた苦笑をこらえることができず。
「──本当に、無茶ばかり言う奴だな、お前は」
「うん」
 小さく肩を震わせて笑いながら言ったヘルムートに、シュリは満面の笑顔を返す。
「ね? 絶対に楽しいから、一緒に行こう?」
「……ああ」
 笑いを収めながら、ヘルムートは深い葡萄酒色の瞳で、かつてのリーダーの青い瞳を見やった。
「お前とここで会ったのも、何かの縁なんだろう。一人が二人になるのに、別に不都合があるわけではないしな」
「うん」
 満面の笑みのまま、うなずいたシュリは、そうと決まったなら、と自分の荷物を肩にかける。
「それじゃ、これからよろしく、ヘルムート」
「ああ。俺の方もな、シュリ」
「うん、任せておいて」
「何をだ」
「そりゃもう色々と。あ、僕、オベルを出る時に、リノから路銀もたんまりせしめてきたんだよ。自分でも旅に出る前に交易でかなり稼いだけど、他にも最上級の真珠をいっぱいもらってねえ。真珠は北の方だとすごく高く売れるんだって」
「……一体何をやってるんだ、お前は」
「えー。生活力逞しいって言ってよ。頼もしい旅の相棒でしょ」
 少々賑やかに言葉を交わしながら、部屋を出て、朝食にありつくべく階下へと下りて。
 ──その日、その場所から。
 二人きりの長い旅が始まった。

End.

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