流れゆく星のもとに −邂逅−







 ひどい土砂降りだった。
 春の終わり、嵐になりやすいこの時期とはいえ、さすがにこうも突然に激しく降り始められては、旅烏としてはどうする術もない。
 付近に雨宿りできるような場所もないまま、大して意味はなさないマントのフードを深くかぶり、まだ空に明るさのあるうちにと、深い森の中、刻一刻と状態の悪くなる足元に注意しながら道を見失わぬよう先を急いで、約半刻も歩き続けたところ。
 木立と激しい雨の帳(とばり)の向こうに、ようやく人家の明かりが見えてきた。
 この雨の中では地図を確認することは無理だが、おそらく予定通りに、森の向こう側にある村に着くことができたのだろうと、自分の方向感覚の正しさに安堵して、足を速める。
 まばらになりつつあった木立が尽きた先、素朴な造りの民家が立ち並ぶ村に足を踏み入れて、今度は歩く速度を落とし、雨の向こうに宿屋を探す。
 そして数えること五軒目に、それらしき看板を見つけて、ほっと息をついた。
 扉に手をかける前に、ひとまず軒下でマントを脱ぎ、両手で絞り上げる。と、まるで洗濯直後のように大量の雨水が布地からしたたり落ち、思わず、うわ、と声が零れる。
「こんな濡れ鼠じゃなあ……。宿を断られないといいけれど」
 身体は丈夫な方だが、さすがに冷え切っている。
 部屋に泊めてもらうのが無理だとしても、せめて温かい風呂と食事にはありつきたい、と呟きながら、広げたマントを畳んで小脇に抱え、服の裾をも軽く絞ってから、濡れた前髪をかき上げて、扉に手をかけた。
「あら、いらっしゃいませ」
 扉を開き、一歩踏み込んだ途端、かけられたのは明るい中年の女性の声だった。
 同時に、五感を優しく包み込んだ室内の明るさと、暖炉の焚かれている温かさに、ほっと無意識の溜息をつきながら、
「すみません、こんななりで申し訳ないんですけど、宿をお願いできますか?」
「あらまあ、こちらも随分とひどく降られて……」
 とりあえずタオルを、と親切そうな声に、宿はどうにかなりそうかな、と濡れてうっとうしい髪を再度かき上げ、声のした方を見やる。
 この宿の女将なのだろう、大判のタオルを手にカウンターから出てくる中年の、そこそこ綺麗な女性と、それからカウンターのこちら側、自分と同じように一夜の宿を求めたのだろう客の姿が目に入って。
「え……」
 思わず、目を大きく見開いた。
「ヘルムート?」
 反射的に名を口にした相手もまた、こちらを驚いたように凝視していて。
「……シュリ……?」
「うん……久しぶり……」
 らしくもなく、呆(ほう)けた返事をするしかなかった。





 カウンターの前と、ドアの前で、一体どれほど互いの顔を凝視し合っていたのか。
 我に返ったのは、
「お客さんたち、お知り合いなんですか?」
 という女将の声だった。
「あ、はい。一応……」
 差し出されたタオルを受け取りながら、シュリが応じると、女将は、それなら、と首をかしげるようにシュリを見上げる。
「でしたら、お二人で相部屋でも構いませんかしら。ほら、こんなお天気でしょう? もう部屋がいっぱいで、お客さんたちには皆、相部屋でお願いしてるんです」
「それは……僕は全然構いませんけど」
 もっともだろうとうなずき、シュリはカウンター前の青年を見やる。たとえば、今日のように天候が崩れた時、あるいは祭りや何か特別な出来事がある時、旅の宿が見知らぬもの同士で相部屋になることは決して珍しくない。
 と、彼の方もうなずいてみせた。
「俺も構わない」
「ありがとうございます。でしたら、すぐにお部屋に案内しますわね」
 にこりと女将は笑顔を見せて、こちらです、と先に立って歩き始める。
 ヘルムートもそれについて歩き出し、シェンも髪を拭いていたタオルを肩にかけたまま、続いて。
 追いついた所で、二人はちらりと瞳を、久しぶりだ、というように見交わす。
「とりあえずお荷物だけ置いて、お湯を使って下さいな。宿帳はその後で構いませんから」
「あ、助かります」
 狭い階段を昇り、二階の一番奥の部屋の鍵を、手馴れた仕草で女将は開け、二人を招きいれた。
「浴室は、一階の階段側の扉ですから。今は、他のお客さんはいらっしゃらないはずですから、今のうちに、お二人で順番にどうぞ。すぐに火もお持ちしますね」
「お気遣いに感謝する」
「ありがとうございます」
「いいえ。では、ごゆっくり」
 少年と青年、二人のそれぞれに見目の良い容姿も影響しているのかもしれない。愛想のいい笑顔を向けると、女将は部屋を出て行き、残された二人は、改めて顔を見合わせる。
 さて何から話せば、という雰囲気の満ちた微妙な静けさの中、機先を制したのは、シュリだった。
「ええと……積もる話もあるような気もするんだけど。ヘルムート、とりあえずお風呂、先にどうぞ?」
「俺は後でいい」
「遠慮しなくていいよ、ヘルムートの方が先にここに着いてたんだし。もう僕も、リーダーでも何でもないんだしさ」
「だが……」
「長幼の序とか言うでしょ。ここで譲り合ってるより、さっさと順番に温まった方が建設的だと思わない?」
「───…」
 押し黙ったヘルムートに、シュリは内心、勝った、と思う。
 別段、自分が弁舌に長けているわけではないが、この生真面目な元士官殿に口先で負けると思ったことは、かつて一度もないのである。
「だから、先に行ってきて。僕はその間に、この濡れた荷物を何とかしてるから」
「……分かった」
 仕方ない、という思いが多分に含まれているのがよく分かる声でうなずき、ヘルムートは床の上に置いた自分の荷物から、どうやら濡れずに済んだらしい着替えを取り出し、それから身に着けていた防具を外して、上着を壁にかけた。
「すぐに戻ってくる」
「別にいいってば。ゆっくり温まってきて」
「そういうわけにもいかないだろう」
 濡れ鼠は同じなのだから、と、それ以上のシュリの反論は聞くまいとするかのように、さっさとドアを開けて出て行った青年に、行ってらっしゃい、と左手を振って。
 やれやれ、とシュリは息をつく。
「戦争が終わったのが五月だったから……一年弱? 人間って簡単には変わらないものだねえ」
 外見は勿論、中身すらも、共に肩を並べて戦っていた頃と変わりないらしい、と苦笑まじりに呟いた時、やわらかなノックの音が響いた。
「火をお持ちしました」
「あ、はい」
 すぐにドアを開けると、火桶を下げた女将がにこりと笑んでいて。
「失礼しますね」
「はい。……あ、そうだ」
 暖炉の前で手早く、運んできた火を移し始めた女将に、シュリは髪を拭きながら声をかけた。
「あとでモップをお借りできますか? 濡れた床を拭かないと」
「あら、お客さんはそんなこと気になさらなくても……」
「いえいえ。実を言うと、僕は以前、大きなお屋敷で働いていたことがあるんですよ。だから、どうしてもこういうのが気になってしまうんです。大丈夫、掃除には自信がありますから。モップも床も、ちゃんと綺麗にしてお返しします」
 にっこりと愛想よく、けれど絶対に譲る気はない笑顔で告げると。
 女将は風変わりな客だと思ったのだろう、苦笑しながらもうなずいた。
「でしたら、すぐに持ってきますね。ついでに熱いお茶も。身体を温めて下さいな」
「ありがとうございます」
 火かき棒で掻き立てられ、大きく燃え上がった暖炉の前から立ち上がると、少しお待ち下さい、と言い置いて女将は出てゆく。
 そして、彼女が戻ってくるのを待つ間に、シュリは濡れて重くなった革製のザックを、よいしょ、と開けた。
 幾つか上の方にあった荷物を引っ張り出してみたが、革にしっかりと防水加工がしてあるため、これだけ雨に降られても裏側までは染み透ってはいないようで、やれやれと安堵の息をつきながら、ひとまず濡れた衣服をどうにかしようと着替えを取り出す。
 と、部屋のドアが、再び、こんこんとやわらかな音で軽くノックされた。
「はい、今開けます」
 モップとお茶の両方を持ってきたのなら、おそらく両手がふさがっているだろう。
 急いで立ち上がり、ドアを開けると、案の定、女将はトレイを片手に持ち、モップの柄を小脇に挟んでドアを開けようとしたところだった。
「あら、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
 言いながら、まずモップを受け取ってドア際の壁に立てかけ、ついでティーセットの載ったトレイも受け取る。
「あとはこちらでやりますから。お世話をおかけしました」
「落ち着かれましたら、下に来て下さいね。宿帳と、お夕飯もいつでも用意できますから」
「分かりました」
 にこりと笑んだ女将に負けず劣らず愛想の良い笑顔を返して、ドアを閉め、受け取ったトレイを部屋の丸テーブルに置いて。
 シュリは早速、ティーコジーを取り除けてポットの茶をカップに注いだ。
「あ、ちゃんとミルクと砂糖もある。嬉しいなぁ」
 遠慮も何もなく、美味しそうなキツネ色になるまでミルクを注ぎ、角砂糖を入れてかき混ぜると、実に幸せそうな表情で熱いカップを両手で包み込むように持ち、甘いミルクティーをそっとすする。
「あー美味しい。これであと、饅頭があったら言うことないんだけどなぁ」
 なんで北の人たちはケーキばかりで饅頭を食べないんだろうね、と生まれ故郷との食文化の差を、ちょっぴり嘆きながらも、一口飲んだところでカップをテーブルに置き、さて、とずぶ濡れの服に手をかけた。
「あーもう。べしょべしょだ」
 十分過ぎるほどに雨水を含んで重くなった布地に閉口しながら、どうにか全て脱ぎ終え、ざっと全身の水滴を拭ってから、手早く着替えを身につけて、濡れた服を手に窓際へと寄る。
 そして、風向きがこちら向きではないことを確かめてから窓を開け、濡れた服を思い切り絞った。
「それから、うーんと……」
 十分に脱水してから窓を閉め、シュリは室内をぐるりと見回して。
「うん、大丈夫そう」
 いそいそと荷物のところに戻り、ザックの中に手を突っ込んで束ねた細いロープを取り出すと、にっこりと笑顔になった。





「……最後に話したのは、いつだっけな……」
 綺麗にモップもかけ終え、一仕事片付いた気分で椅子に落ち着いたシュリは、ゆっくりと甘いミルクティーをすする。
「出航当日は挨拶程度だったから、その前の日の夜、かな……」
 エルイール要塞を陥とし、クールーク皇国の艦隊を撤退させて黄金の暁号が凱旋した後、オベル王国をはじめとする群島諸国は当然の如く、お祭り騒ぎに包まれた。
 そして、これも当たり前の話だが、リーダーとしてその中心にいたシュリは立場上、仲間の一人ひとりと個人的に話をする時間は、なかなか作れずにいて。
 ヘルムートが、父や部下たちと共にクールークに戻りたい旨を申し出てきた時には、確か、凱旋から既に十日以上が過ぎていたように思う。
 もともと、戦争に決着が付いたら、彼らには自由にしてもらうつもりだったから、否やはなく、シュリもエレノアも、すぐに了承して。
 そしてその後も、今度は彼らの方が帰郷の準備のために忙しそうで、なかなか声を掛けられず、ようやく船内のヘルムートの部屋をノックできたのは、彼らの出立の前夜のことだった。
「──僕が謝ったんだよね。コルトン殿がお父さんだって気付かなかったこと……」
 思えば、外見はともかくも、中身は良く似た父子だったのだろう。
 息子は捕虜となった父のことを仲間に打ち明けず、父は敵に降伏した息子のことを無視し続けて。
 最終決戦の前夜に、船内をうろついていた最中、偶然に彼が「父上」と呼びかける声を聞かなければ、おそらくシュリも気付かずに過ぎてしまったに違いない。
「そうしたら、気付かれないようにしていたんだから当たり前だって、珍しく笑ったんだっけ……」
 元敵国の将校であったという立場が、もともと生真面目で、祖国に忠実な軍人であった彼の心情を難しくしていたのだろう。ゆえに、彼が仲間になってから紛争が終結するまでの一年近い間、船中で彼の笑顔を見ることは、滅多になかった。
 ただ、それでも話しかければ答える彼の誠実さに付けこむようにして、繰り返し話しかけているうちに、少しずつ返される言葉数も増え、表情も穏やかになっていったようにも思う。
 寄り合い所帯だった仲間の内に、そういう難しいものを持った人間は決して少なくなかったが、ヘルムートはその中でもとりわけ特異な立場にある一人だったからこそ、少しずつ彼の態度がやわらかくなってゆくのが無性に嬉しかったことを覚えている。
「……うん。結構好きだったんだよね、僕。生真面目で、なんか不器用そうで、誠実で……。何だか人生大変そうだなーって。でも、そういうの嫌いじゃないなーって……」
 不器用そうな人間を見かけると、つい気になってしまうのは、生まれ持った性質と育った環境の相乗効果だろうか。
 とにかく船中での彼を見るにつけ、目安箱の投書内容を見るにつけ、何となく気になる存在だったのは事実で。
「だから、どうしてるかな、とは思ってたんだよねぇ」
 彼らがクールークに帰還する時、ヘルムートが祖国に忠実な騎士であり、決して皇国の内情をこちらにもらすことはなかった旨を賞賛の言葉と共に明記した、皇王宛のシュリとエレノアの連名による公式書簡を持たせて、こちら側でできる最大限の形式は整えたが、しかし、どれほど体裁を飾ったところで、彼が敗残国における裏切り者であることには変わりなく。
 何かの助けになればと持たせた公式書簡すら、悪意ある目で見れば、彼がゼーランディア軍に厚遇されていた証拠にしかならないことは分かっていたから、せめて、ある程度平穏に祖国での日々を送っていてくれれば、と思っていたのだが。
「こんな所で再会しちゃうんだもんなー……」
 自分の方は、縁のある相手なのだなと思えば済んでしまうことだが、しかし、彼がここに来るに至った経緯を考えると、決して安楽な気分ではいられなくて。
「僕としては、遇えて嬉しい、んだけどな……」
 大勢の人々に見送られてオベル王国を出立して以来、この半年以上の間、海王シュリの名を聞き知っている人間には数多く出会ったが、自分の正体を知る人間に出会ったことはなかった。
 だからといって、それがどうだというわけではないが、やはり顔見知りに出逢えれば嬉しいし、好感を持っていた相手であるなら尚更であって。
「ヘルムートも嫌がってはないと思うんだけど、顔に出さないからなぁ」
 こればかりは分からない、と溜息をついて、ずずず、といささか行儀悪く茶をすする。
 その中身が殆どなくなった頃、再びノックの音が響いて。
「はい?」
 おそらくは、と思った通りにヘルムートが入ってきた。
「おかえり」
「ああ。先にすまなかった。……が、何なんだ、これは?」
「え? 見ての通り。濡れた物、干してるんだけど?」
 部屋に入るなり、不可解だといわんばかりに、形の整った眉をしかめたヘルムートにシュリは小首をかしげて見せる。
 ──その頭上に広がっているのは、壁のあちらとこちらの上着掛けを利用して張られた洗濯ロープと、先程水気を絞った衣服で。
「ヘルムートのも貸して? 暖炉の火があるし、明日の朝までには多少乾くと思うから」
 にっこりと向けた笑顔にヘルムートが答えに窮する間に、シュリはさっさと彼の手から濡れた衣服を取り上げた。
「あ、おい。シュリ……」
「いいのいいの。あ、そうだ。ヘルムートもお茶飲むでしょ? 女将さんが持ってきてくれたんだよ。少し冷めちゃったけど、なかなか良いお茶だから」
 言いながら一旦、椅子の背に濡れた衣服を掛けたシュリの手は、既に、もう一客のティーカップにポットの茶を注いでいる。
「ミルク入りの砂糖無しだったよね」
「……ああ。よく覚えているな」
「そりゃあね。元小間使いだし。屋敷に来るお客の好みをいちいち忘れてたら、仕事にならないでしょ」
 相手の感心をさらりと笑い飛ばして、シュリはベッドに腰を下ろした相手へとティーカップを渡して。
 手際よくヘルムートの衣服も干し終えて、さて、とヘルムートを振り返った。
「じゃあ僕も、お風呂行って来る。先に御飯、食べに行っていてくれていいから」
「──いや。連れがいるのに一人で先に食事をするのも、おかしいだろう」
 いかにも彼らしい、その返答に。
「……そうだね」
 にこり、と明るく笑んで、シュリは用意しておいた着替えを手に取り、軽やかな足取りで部屋を横切る。
「それじゃ、すぐに戻ってくるから」
「急がなくていい」
「急ぐよ。僕はおなか空いてるんだ」
「───…」
 またもや元皇国士官の青年を沈黙させて。
 南海の英雄は、上機嫌な笑顔だけを残し、ドアの向こうにするりと消えた。

...to be continued.

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