この青い空の真下で -7-







 雨上がりのバナー街道は、陽光が梢に残る雫をきらめかせ、まばゆいほどだった。
 昨日まで上空に厚く垂れ込めていた雲も一掃され、木々の隙間から覗く真っ青な空に浮かんだ白い千切れ雲が、上空の強い風に吹かれて一瞬ごとに形を変えてゆく。
 だが、強い風も地表付近ではやわらぎ、峠道で薄く汗ばんだ体に、絶え間なく、そして時折強く吹き抜けてゆく風が心地好い。
 気候の良さに加えて、先日、ネクロードという強敵を打ち倒したという高揚感、開放感も手伝っているのか、カザミの隣りを歩くナナミは元気いっぱい、上機嫌で絶え間なくおしゃべりを続けていた。
 城の放牧地で新しく生まれた鶏のヒヨコのこと、踊り子のカレンにステップを教えてもらったこと、トモ、ミリー、メグといった同年代の少女たちとのお茶会のこと、コボルトたちの毛皮を撫で比べさせてもらったこと、レストランでカミューとすれ違う際に「失礼、お嬢さん」とレディ扱いされたこと……。
 よくもまあ、これだけの話題があるものだと呆れるほどにナナミはしゃべり続けていたが、しかし、当のカザミはそれを殆ど聞いていなかった。
 ───夕映えの中、ティントの山々は、空恐ろしくなるほどに朱く染まっていた。
 ネクロードを討ち果たし、礼拝堂を出たカザミたちを出迎えたのは、山の端に沈んでゆこうとする太陽と、西日を受けて燃え上がるように輝く山並と町だった。
 その光景を、ビクトールとラシスタは断崖の際から無言で見つめ、ルックは顔を背けて、一人でさっさとギルドハウスの方へと戻ってゆき。
 壮大な夕焼けに染まった空を見つめているビクトールとラシスタは、彼らにしか分からない、言葉にしかならない思いに身を馳せているようで、カザミは声をかけることをができず、やがて夕日が完全に稜線に消え、彼らが物思いに切りをつけて振り返るまで、ナナミと共にその場で所在無くたたずんでいた。
 だが結局、二人が振り返っても、その場では何も聞けず、彼らも何も言いはせず。
 二人が何を見、何を思っていたのかは分からずじまいだった。
 ただ、その後、ティントからデュナン城に戻る道行きで、ラシスタは常以上に言葉数が少なくなり、必要最低限のこと以外は自分から口を利こうとはしなかった。
 さりげなく一行から距離を取り、誰かに話しかけられることも拒んでいるようなラシスタの姿に、カザミも心中平静ではいられず、思い余って一夜、ビクトールに問いかけたのである。
 ネクロード討伐に、ラシスタを頼んだのは彼にとって迷惑なことだったのだろうか、と。
 要請に応じたことを、彼は悔いているのだろうか、と。
 そう口に出した時、おそらくカザミは、いささか思いつめた表情をしていたのだろう。
 ビクトールは温かな焦げ茶色の瞳で、カザミをつくづくと見つめてから、そうじゃない、と首を横に振った。
 『人間にはな、思い出したくないが忘れられない、忘れたくない、もしくは忘れちゃならない記憶って奴もあるのさ。俺もだが、ラスもそういう記憶の一つが、あのクソ野郎に直結してる。……気にするなつっても無理かもしれないが、ラスのことは放っておけばいい。次に会う時には、いつものあいつに戻ってるはずだ』
 そして、ネクロードを討ち果たすことは、自分たちにとって迷惑どころか、絶対に必要なことだったのだ、と諭すように言われて。
 カザミはそれ以上、追求する言葉を見つけることはできなかった。
 そして、挨拶すらろくに交わさないままデュナン城へ帰り着くと、ラシスタは休憩もせずにビッキーの元へ行き、そのままトランの彼の屋敷へと帰っていった。
 以来、一月ほどの間、次の方策をシュウが定めて軍を整えるまでカザミも動きようが無く、当然、ラシスタとも連絡を取ることはなかったのだが、一昨日、シュウがいつでも出撃ができると伝えてきたのを受けて、こうしてまたラシスタに応援を頼むため、峠越えの道を歩いている。
 だが、正直な所、今回の出陣に際し、ラシスタに帯同を頼むべきかどうか、カザミはひどく迷った。
 戦力としては無論、欲しい。
 将として部隊を率いることは最初から拒絶されているが、個人として見てもラシスタの戦闘力は、直接攻撃も魔法攻撃も群を抜いており、彼がカザミの傍らに居れば、軍主の護衛につく部隊を大幅に減らすことが可能になる。
 もとより兵員に乏しい都市同盟軍としては、あらゆる意味でラシスタは喉から手が出るほどに欲しい人材だった。
 だが、それを理解していても、カザミは迷う気持ちを抑えられないでいた。
 一番最初に協力を要請した時からラシスタを頼ることに躊躇いがなかったわけではないが、ネクロード戦以来、助力を頼むことは、彼にとってひどく残酷なことを強いているのではないかという気持ちが大きくなっている。
 立場を変えて考えた時、自分ならば、誰に頼まれようと、戦争に……しかも他国の争い事に巻き込まれるなど、絶対に嫌だと思う。
 今はどうしようもなくとも、戦場に立ち、自分が名前も顔も知らない誰かを手にかけるのも、人々が傷付けあうのを見るのも、本当は心底嫌だった。
 けれど、カザミは軍主であり、勝利のために可能な限りの手を打たねばならないのであり。
 勝利の確立を上げるためには是非とも必要といわれたら、拒める立場には居なかった。
 ───ビクトールさんは、大丈夫だって言ってくれたけどな……。
 シュウにラシスタに助力を求めるよう言われて憂い顔になったカザミの心中を、あっさり見透かしたのだろう。ビクトールは、あいつは大丈夫だ、と笑って大きな手でカザミの肩を軽く叩いた。
 本当に嫌だと思ったら、梃子(てこ)でも動かない奴だから、と言われてナナミと共に、出撃準備に沸いているデュナン城を出てきたのだが。
 それでもやはり、カザミの気持ちは晴れなかった。
 このまま道中何もなければ、明日の午後にはグレッグミンスターに到着する予定だが、ラシスタはどんな顔でこちらを出迎えてくれるのか。
 いつもと同じ感情の読めない無表情ならいいが、その隙間に僅かでも嫌悪や侮蔑が透けて見えたら、自分はもう二度と、あの屋敷へは足を踏み入れられない、と思う。
 どうしてと言われても分からないが、彼に厭われることを考えただけで、足がすくむような気がして、このままデュナン城へ逃げ帰りたくなる。
 会いたくないわけではないし、彼が隣りにいる時の戦いやすさは他者の比ではなく、本当の事を言えば、視界に彼の姿が在るだけで心強く、安心できる。
 けれど、完璧な英雄だった彼に比べて、至らない所の多すぎる自分の不甲斐なさに対する歯痒さが、この一月の間、いつになく強く感じられて、カザミの気分は沈んだままだった。
「ねぇカザミ、聞いてる?」
「……あ、ごめん」
 突然、耳に飛び込んできたナナミの声に、はっと我に変える。
「あんまりよく聞いてなかった。何?」
「もう!」
 朝から何を言っても曖昧に相槌を打つばかりだった弟の様子に憤慨した顔をしながらも、ナナミは道の先を指差す。
「この先に、ちょっと道が広くなってる所があるでしょ。そこでお弁当を食べようって言ったの!」
 ナナミが言うのは、渓流沿いに道が緩くカーブしている箇所のことだった。そこを過ぎると、下り坂は少しずつ緩やかになり、ニ刻ほどでトランの国境警備隊が駐留する関所へと至る。
 そして、そこで一泊させてもらい、明日、トラン共和国の北の天険、虎狼山の峠道を越えれば、いよいよグレッグミンスターの威容が遠く認められるはずだった。
「そうだね。ついでに少し休んでから行くと、ちょうどいいくらいに関所に着けるよ」
「でしょう? じゃあ、あともうちょっと、頑張って歩こう」
 にこりと夏の盛りに咲く花のように笑って、ナナミは再び前を見つめ、疲れ知らずの足取りで硬く踏み固められた山道を進んでゆく。
 そんな姉の姿を、僅かに目を細めてカザミは見つめ、そして自分もまなざしを前方へと据えた。


 一月ぶりのグレッグミンスターは、相変わらずの賑わいだった。
 都市同盟にも大きな街は幾つもあるが、広大なトラン共和国の首都であるグレッグミンスターの壮麗さ、豊かさは比較にもならない。
 一体どこから沸いて出るのだろうと不思議になるほどの人が町にはあふれ、どこまでも整然と美しい街並みが続いている。
 毎度のことながら圧倒される思いで、カザミは南の正市門から続く目抜き通りを、天性の敏捷さでどうにか人とぶつかることなく、グレッグミンスター城へと向かって進んだ。
 そうして、ようやく辿り着いたマクドール邸の門前には、珍しいことに馬車が一台、停まっていた。
 車体の要所要所に施された装飾は華美ではないものの美しく、そして側面上方には、交差する槍を背景に、翼を閉じて振り返った隼を描いた紋章が輝いている。
 繋いである二頭の葦毛の馬も逞しく、毛並みが輝いており、一目で身分ある人物の持ち物だと知れた。
「お客さん……だよね」
「だと思う。少なくとも、マクドール家の馬車じゃないよ」
 カザミは、玄関ホールを兼ねた大広間の暖炉の上に飾られている盾に刻まれたマクドール家の家紋を覚えていた。
 交差する剣に、コンバッタントと呼ばれる向き合って後ろ足立ちをした二頭の獅子。そしてその上に、古語で「義こそ我が命、我が誇り也」と刻まれている。見る者に強い印象を残す、美しくも力強い紋章だった。
「どうしよう?」
「うん……」
 カザミとナナミにも、時間的な余裕は無い。が、来客中、それも身分ある人の訪問中とあれば、どうにも訪ねてゆく気が引ける。
 マリーの宿屋か、道具屋あたりで少し時間を潰そうかと姉弟が相談している時、門内からの人声が、彼らを振り返らせた。
 ───ラスさん。
 瀟洒な鉄格子の門扉越しにまずカザミの目を惹いたのは、美しく手入れされた庭園を歩んでくる屋敷の主である青年の姿だった。が、すぐに傍らの人物に目を奪われる。
 この馬車の持ち主だろう、その人物は──うら若い女性だった。
 深い苔緑色の絹地に純白のレースをあしらったドレスが午後の陽射しに美しい輝きを見せ、艶のある薄茶色の長い髪がよく映えている。年の頃は、十七、八、といったところだろうか。
 衣装といい身のこなしといい、見るからに貴族の令嬢といった雰囲気を漂わせた少女で、少々きつい顔立ちではあるものの十分に美しいといえる容姿をしている。
 彼女とラシスタが並び立った姿は一幅の絵のようで、カザミは思わずその場に立ち尽くした。
 瀟洒な細工の門扉が門番の手によって開かれ、馬車の手前で二人は立ち止まる。
 少女がしきりにラシスタに何かを話しかけ、ラシスタはいつもの無表情のまま短い答えを返し、その後ろでは少しばかり困り顔のグレミオが控えている。
 と、姉弟の不躾(ぶしつけ)な視線を感じたのだろう、少女がこちらを振り返った。
「何ですの、あなた方は」
「カザミ……」
 眉をしかめた少女の言葉と、ラスの呟きは、ほぼ同時だった。
 どうしていいのか分からずも、カザミは慌ててぺこりと会釈する。
 だが、ラシスタの呟きを聞き取った少女は、更に眉をきつくしかめ、険しい表情で瞳を光らせた。
「カザミ……カザミですって? あなたが?」
 そして、
「そう……。あなたなのね。あなたのせいで……」
「クラリス!」
 咄嗟にラシスタが呼び止める間もなく、少女はつかつかと馬車の横を通りすぎてカザミとナナミの前に歩み寄る。
 踵の高い靴を履いているせいだろう、正面に立った少女の目線はカザミとほぼ同じだった。
 嫌悪をあらわにした榛(はしばみ)色の美しい瞳に睨みつけられて、カザミは思わず身をすくませる。
 幼い頃から町の人々に冷たいまなざしを向けられてきたためか、カザミは嫌悪や憎悪のまなざしを向けられることが何よりも苦手で、恐ろしかった。
 相手が、この少女のように肉体的には遥かに弱い相手であっても、それは変わらず、
「遥々とバナーの峠を越えて……一体、何をしにいらっしゃったの!? またラシスタ様を巻き込むおつもり!?」
 少女の声高な糾弾に、カザミは反射的に耳を塞ぎそうになる。
「ラシスタ様は、ようやくこの国にお戻りになったのよ。なのに、あなたがラシスタ様を他国の争いごとに巻き込んでいるんだわ。ラシスタ様はこの国の大切な方なのに……よりによって、都市同盟などに助力なさるなんて……! あなたのような人間を恥知らずと言うのよ!」
「な、何を言うのよ、いきなり……!」
そして、そんな弟を庇おうと前に出たナナミを、しかし、鋭いが冷静な声が止めた。
「クラリス、止めろ!」
「ラシスタ様」
 クラリスと呼ばれた少女の背後に立ち、ラシスタは感情を読ませない漆黒の瞳で少女を見つめた。
「ラシスタ様、でも……!」
「カザミは関係ない」
 低いが、はっきりした声に言われて、少女は無意識に体を震わせる。だが、ラシスタはそれで言葉を止めることはなかった。
「むしろ、逆だ。カザミに協力を求められたから、僕はまだこの国に居る。そうでなければ、とうにこの国を発って、また旅に出ていた」
「そんな……」
 少女の顔が見る見るうちに血の気を失い、紙のように白くなる。
「そんな……、では、本当にわたくしのことは……」
 その言葉に、ラシスタは小さく溜息をついたようだった。
「もともと正式な約束は何もなかった。君も君の父君も、マクドール家は既に断絶したのだと、そろそろ理解してもいい頃合だ。呪われた紋章を持つ僕を選ばなくとも、君の容姿と家柄をもってすれば、どこにでも嫁ぐことはできるだろう」
「そ……」
 ラシスタが本気で言っているという事を悟ったのか、クラリスは真っ青な顔色のまま、肩を震わせてうなだれ、足元を見つめる。
 何をも映していない、暗く翳った榛色の瞳の痛ましさに、思わず声をかけようとして、けれどカザミは自分は彼女にとって忌むべき存在であることを思い出し、小さく唇を噛む。
 その間にラシスタは、馬車についていた従者を呼び、彼女の身柄を任せた。
 そして、従者に、もう訪ねて来ないように主人に伝えるよう言い含めてから、カザミの方を振り返った。
「すまなかった」
 短い、けれど、口先だけではないことが伝わってくる実のこもった謝罪に、何故か胸の奥が震えるような感覚を覚えて、カザミは自分がひどく狼狽していることに気付いた。
「いいえ。僕は大丈夫です」
 何に対してうろたえているのか自分でも分からないまま、どうにかそう答えると、ラシスタはカザミに対してはそれ以上何も言わず、ずっと控えていたグレミオに、二人を案内するように告げて、自分は先に邸内へと戻ってゆく。
 そんな主人の後姿を溜息をついて見送ったグレミオは、いつもの穏やかな笑顔でカザミとナナミを振り返った。
「見苦しい所をお見せしてしまいましたね。どうぞ入って下さい」
 その呼びかけに、姉弟は顔を見合わせて。
 もともと自分たちはラシスタに用があるのだからとうなずき合い、ためらいながらも青年のいざないに従った。


「先程の御令嬢はペレグリン伯の二番目のお嬢様で、テオ様が御存命の頃に、坊ちゃまに対して縁談の打診があったことがあるんです」
 広大な庭園を通り抜け、同じくらいに広い邸内を応接室へと案内する間に、グレミオはそう説明してくれた。
「当時、坊ちゃんはまだ十四歳になられたばかりでしたし、クラリス様もまだ八つか九つか……。ですからお話が実現するにしても、まだかなり先の話でしたし、テオ様も慎重な御方でしたから、即答は避けられたんです。
 ペレグリン伯家は勇猛で知られる武門ですから、悪いお話ではないとお考えのようでしたが、肝心のクラリス様がマクドール将軍の奥方としてふさわしい御気質かどうかは、十歳にもならない子供ではまだ判断のしようがないと、私におっしゃられました。
 そうこうするように数年が過ぎて、あの内乱が起きて……結局、話は立ち消えになったんです。少なくとも、坊ちゃんも私もそう思っていたのですが……」
 マクドール候家の家名と財に容姿、武人としての天性の才、おまけに建国の英雄譚までくっついてしまった今、うら若い令嬢が、坊ちゃんに何らかの憧れを募らせるのも無理はない、とグレミオはほろ苦く笑って、カザミとナナミを応接室へと導いた。
「すぐに坊ちゃんもおいでになるはずですから、少し待っていて下さい。私はお茶をお持ちしますから」
 そう言い置いて、有能な青年は応接室を出て行き、姉弟二人だけが後に取り残された。
「びっくりしたねえ」
 ふかふかのソファに、少しばかり居心地悪そうにしながらも身を沈めて、ナナミが呟く。
「……少し、あのお嬢様、可哀想だったね」
「……そうだね」
 きっぱりとクラリスを突き放したのは、ラシスタなりの考えがあってのことだろう。
 彼自身はこの国に留まる気はなく、彼女を妻に迎える気もない。それなのに余計な期待を持たせるのは、単に残酷でしかない。
 そういう理屈は理解できる。できるが、しかし、実際にその場面を目の当たりにすると、重苦しいものが胸に残った。
「ラスさんは結婚、しないのかな」
「どうかな……」
「やっぱり難しい、のかな」
 今現在のラシスタは、外見年齢と実年齢がさほど乖離していない。だからこそ、クラリスも彼を慕い、ああして屋敷にまでやって来たのだろうが、これが二十年後、三十年後であればどうだろうか。
 何十年経っても姿の変わらないラシスタの前に、彼女は今と同じように立てるだろうか。
 たとえ、それだけの愛情をラシスタに持っていたとしても、ラシスタの方はどうだろうか。当たり前のように老いてゆく彼女に、正面から向き合えるだろうか。
 いや、それ以前に、彼の右手に宿る紋章は、彼が誰かを愛することを……愛する所まで及ばなくとも、慰めを見出すことを許すのだろうか。
「でもね、カザミ。私はずっとカザミと一緒だからね。おばあちゃんになっても、ずっとずっとカザミとジョウイと一緒に居るからね」
 暗い物思いに沈みかけたのを振り払うように、ナナミは不自然なほど明るく言った。
 その明るい花の咲くような笑顔の影に、しかし彼女の怯えがひそんでいるのを感じ取って、カザミはそっと姉の手に自分の手を重ねる。
 そして、ゆっくりとした口調で姉に言い聞かせた。
「大丈夫だよ、ナナミ。そのうちこの戦いは終わるから。終わったら、ジョウイと一緒に、トトの村の祠にこの紋章を返しに行くから。だから大丈夫。何にも心配しないで」
「……うん」
 弟の手をぎゅっと握り締めて、ナナミはうなずく。
「うん、大丈夫だよね。私たちはずっと一緒だもんね」
「そうだよ、ナナミ」
 ……カザミ自身、自分の言葉の全てを信じているわけではなかった。
 だが、そう思わなければ……何か一つ、明確な希望を持っていなければ、自分が壊れてしまいそうだった。
 そして、自分に何かあれば、ナナミは壊れてしまう。ナナミばかりでなく、今は遠く離れてしまったジョウイも、おそらくはきっと。
 だから、大切な二人のために、カザミは強く在らなければならなかった。
 どれほど戦場に……自分の運命に怯えていても。
 狂いそうなほどに怖くても。
 大切な姉にそれを見せることはできなかった。
 そうして幼い子供のように手を繋いだまま、二人はしばらく無言で互いの手の温もりを感じあう。
 この屋敷には何人もの使用人が居るはずなのに、あまりに邸内が広いためかしんと静まり返っており、窓の外に広がる庭園から小鳥たちのさえずりだけが賑やかに聞こえてくる。
 と、扉の向こうに人の気配がして、ノックに返事をすると、グレミオとラシスタが連れ立って応接室に入ってきた。
 ラシスタは既に旅装を調(ととの)え、いつでも出立できる姿になっている。
 だが、グレミオの入れた茶を無碍にしないだけの心積もりはあるのだろう。カザミの向かい側になるソファーに隙のない身のこなしで腰を下ろした。
「……僕が来ることを予想されていたんですか?」
 彼の用意の良さに少しばかり驚いて問いかけると、ラシスタはうなずいて答えた。
「バレリアから、同盟軍がグリンヒル解放に動くとレパント宛てに連絡があった。だから、ニ三日中に君が来るだろうとは思っていた」
「──すみません」
「別に構わない。僕が決めたことだ」
 短く言って、ラシスタはティーカップを手に取る。
 その静かな表情に、カザミはマクドール家の家紋に刻まれた言葉を思い出した。
 ───義こそが我が命、我が誇り也。
 『義』というのは、人として行うべき道のことなのだと昔、ゲンカクに教えられた。
 国や主君に忠誠を尽くし、弱きものを助ける。それが人間として最も大切なことであり、それを忘れた時、人は畜生にも劣るものになるのだと師父は言った。
 今から思えば、それはゲンカクの信念であり、生き方そのものであり、またゲンカク自身が己に言い聞かせていたことでもあるのだろう。
 そして今、カザミの目の前にいる青年も、師父と同じだった。
 人々のために力を尽くし、今もまた、本音では色々と思うところもあるのだろうに、何も言わず、カザミの要請に応えて力を貸してくれている。
 それはつまり、ラシスタの義であり、優しさだった。
 ───ああ、そうだ。
 ラシスタは、優しいのだ。
 ゲンカクの厳しさが優しさの裏返しであったように、時には無情に見える彼の言動も、真は優しさに裏打ちされている。
 心の伴わない義は、義とは呼ばない。本当の義とは、本当の優しさのことを言うのだと、カザミは目が覚めるように気付く。
 そして、その義において、ラシスタは同盟軍を認めてくれているのだと思い至った。
 カザミ自身に対しては、どういう評価をしているのかは分からない。ただ、ハイランド軍に抵抗を続けている同盟軍を、彼は否定していない。それだけは確かであって。
「ラスさん」
 伝えておかなければならない、とカザミは不意に思い立つ。
 彼は相手に対して何かを求めるような人間ではない。感謝の言葉も、謝罪の言葉も、彼は望んではいない。
 だが、それでも何の縁(ゆかり)もない自分たちを助けてくれる彼の義に、今のカザミが返せる精一杯の義は言葉しかない。
 だから、精一杯の気持ちを込めて、彼の名を呼んだ。
「もう一度、お礼を言わせて下さい。ティントの時のことを……」
 そう言った途端、ナナミが自分の方を見るのをカザミは感じた。だが、彼女には構わずにカザミは続ける。
「あの時は驚くばかりで、まともにお礼も言えませんでしたけど、僕とナナミを助けようとしてくれたことは絶対に忘れません。僕たちはどんなに非難されても仕方ないことをしたのに」
「──深い考えがあってやったことじゃない。あの時も言ったように、あの状況下で夜道を二人で行くのは危険すぎると思った。それだけのことだ」
「分かってます。でも、それでもあなたは僕とナナミのために動いてくれた」
 軍主の逃亡を手伝えば、彼自身も厳しい糾弾を受けることになるのに、きっとあの時の彼は、そんなことは考えもしなかったのだろう。
 カザミとナナミという二人の人間と、同盟軍と。
 双方を冷静に見つめて、彼は彼自身が最善と判断したことをしたに違いない。
 軍主として最後まで務める気力がないのなら、速やかに立ち去るのも一つの方法だと。
 そして、化け物の満ちた夜道を二人きりで行くのは危険すぎると。
 僅かな時間でそう判断して、彼はカザミの行動を咎めもせずに護衛についてくれたのだ。
 あの時は驚くばかりで分からなかった彼の意図が、今、不思議なほどにすとんと腑に落ちる。
「ラスさん、僕はもう、逃げません」
「……覚悟ができたのか」
「いいえ」
 隣りにナナミが居ることを意識しながら、カザミは慎重に言葉を選んだ。
「僕には覚悟とか、そういうことは分かりません。僕はそんな立派な人間じゃないんです。ただ、僕がやらなければいけないことがあるから、もう逃げないと決めました」
 そして、あなたの前にきちんと立ちたいから、とカザミは心の中でこっそり付け加える。
 ラシスタが義に生きる人間であるのなら。
 そんな彼に見放されない自分でありたい。
 義に応えるには、義しか有り得ない。ゲンカクの背を見て育ったカザミは、教えられずともそう悟っていたから、今更何を、と言われることを覚悟の上でラシスタを真っ直ぐに見つめる。
 と、カザミを見つめていたラシスタの漆黒の瞳が、ふと常とは異なる光をよぎらせたような気がして、だが、カザミがそれを確かめるよりも早く、ラシスタは足元に置いた荷物へと手を伸ばしていた。
「君がそういう心積もりならいい。約束通り、僕はこの戦争に決着がつくまでは同盟軍に協力する。だから、君も君が出来ることを精一杯にやればいい」
「はい」
 ようやく、彼と初めてまっすぐに向き合えたような気がして、カザミは強くうなずく。
 そして、隣りのナナミを振り返り、大丈夫だと笑顔を向けた。
 ───誰よりも強く、真っ直ぐな人。
 ラシスタのようになりたかった。
 なれないのなら、せめて、彼の前で恥じない自分でありたかった。
 だから、とカザミはナナミに笑顔を向ける。
 自分が軍主であり続けることで、ナナミはこの先も悩み苦しむだろう。傷付くだろう。
 それは彼女に対する裏切りかもしれない。
 だが、そのことをも含めて、カザミはナナミを守るつもりだった。
 そのためには、強くならなければならない。
 こんな弱い自分ではなく、もっと、ずっと強い自分に。
「今から発てば、夕暮れまでには虎狼山中腹の宿に辿り着ける。明日は、バナー峠で野宿ということになるが、何もなければ明後日の夜までにはデュナン城に着けるだろう」
「はい、大丈夫です。シュウさんにも五日以内に戻ると言ってありますから」
「分かった」
 うなずいて、ラシスタは立ち上がり、カザミとナナミもそれに続く。
 そして、温かなまなざしで彼らを見守っていてくれたグレミオに、カザミはぺこりと頭を下げた。
「お茶をご馳走様でした」
「いえいえ。カザミ君もナナミさんも、坊ちゃんも、気をつけていって来て下さいね」
「はい」
「はい!」
「しばらく留守を頼む」
「はい」
 一通りの挨拶を交わして、一同は応接室を出る。
 そして、マクドール家歴代の当主の気質をうかがわせる、落ち着いた装飾に彩られた屋敷内を抜けて玄関ホールへと向かった。
 二階まで吹き抜けになっている大広間を兼ねた玄関ホールは、武門の邸宅にふさわしく、要所要所に由緒のあるらしい武器や防具が飾ってある。
 そのうちの一つ、誇らかに暖炉の上に飾られた大楯にカザミはちらりと視線を走らせた。
 ───『義こそ我が命、我が誇り也』
 交差する剣と二頭の獅子の頭上で、その文字は力強く輝いているかのようで。
 その言葉を……そして、今目の前に居る人を、生涯自分は忘れない、と思った。

...to be continued.

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