この青い空の真下で -5-







 無言で唇を噛み締め、一歩、二歩と踏み出し、眠りこけた兵士たちの目の前を震える足を叱咤しながら通り抜ける。
 時間にすれば五秒か十秒か。市門をくぐる僅かな間が永遠にも思えた。
 市門を出て大きく湾曲している山道を曲がってしまうと、市街の町明かりは殆ど届かなくなる。月の光すら梢に遮られて、足元は定かではなかったが、それでもここまでの道程で昏さに慣れ始めていた目には、足元を見失うほどの闇の濃さではなかった。
 もう交わす言葉もないまま、カザミ、ナナミ、ラシスタ、ルックという順で、慎重に九十九折(つづらおり)の山道を下ってゆく。
 隣りを歩くナナミを気遣いながら、しかし、カザミの脳裏を占めているのは、何故、という問いだった。
 ───途中までは送ろう、と。
 彼はそう言った。
 二人きりでは危険すぎるから、と。
 無論、優しい口調ではなかった。いつもと同じ、感情というものの一切窺えない冷めた声であり、口調だった。
 けれど、その言葉そのものは。
 間違いなく、こちらの身を案じてくれるものではなかったか。
 たとえば大人が、幼い姉弟を二人だけで夜道を歩かせるわけにはいかない、と気を回すような。そんな優しさが、感じられはしないだろうか。
 しかし、だとすれば、何故。
 カザミは無責任に逃げ出そうとしているのに、それを咎め立てもせず、逃亡を手助けするような真似をしてくれるのか。
 彼自身は──噂話で聞いたトランの英雄は、逃げ出したことなど一度もなかったはずだろうに。
 逃げようとしたカザミを見て、腹を立てなかったのか?
 ルックのように、失望しなかったのか?
 そうすることこそが、正しい反応であるはずなのに。
 ───どうして?
 背後に続く、乱れのない微かな靴音が、否が応でもカザミの疑念を膨らませる。
 ───どうして?
 ───どうして?
 ───どうして?
「───っ…」
 感情の圧力にたまりかねて、カザミはぴたりと足を止めた。
「カザミ?」
 何事かと名前を呼んだナナミを無視して、背後を仰ぐように振り返る。
 その瞳に映ったのは。


 ───傾きかけた月に白々と光る、ティントの市門。


 振り返る角度を間違えたのだろう。端整な青年の顔ではなく、白い花崗岩を削りだしただけの、質実剛健な工夫と職人の町らしい門が木々の隙間から、くっきりと見えた。
「カザミ? どうしたの?」
 ナナミの手が、カザミの肩に触れる。
 だが、カザミは身動きできなかった。ざわざわと風に揺れる梢の向こう、夜空に浮かび上がる市門から目を離せない。
 ───あそこには。
 あそこには、自分と共にここまで来てくれた仲間がいる。
 ビクトール、故郷を突然失い、呆然としていた自分を拾ってくれた人。
 リドリー、極限の状況下で自分を信用してくれた人。
 クラウス、故国を捨て、自分が率いた同盟を新たな故国として選んでくれた人。
 そして、カザミの名で掲げた同盟軍の旗の下に集った、名前も知らない兵士たち。
「……駄目だよ……」
 ぽつりと呟きが零れた。
「カザミ?」
 遠く市門を見上げたままのカザミの瞳から、ほろほろと涙が零れ落ちる。月の光を受けた水滴のきらめきに、ナナミが目をみはった。
「駄目だよ、ナナミ……。やっぱり駄目だよ……」
「カザミ……?」
「僕は……行けない……」
 ゆるゆると上空を仰いでいたカザミの顔がうつむき、隣りにいたナナミを見やる。
「逃げちゃ駄目なんだよ、やっぱり……。僕は軍主なんだから……。じいちゃんの子なんだから……」
「カザミ!?」
「ごめん。ごめんね、ナナミ。でも僕は、戻らなきゃ……」
「駄目よ、カザミ! 戻ったりなんかしたら! 戻ってどうするの!? ジョウイは!? 私は!?」
「ごめん。……ごめん、ナナミ」
「嫌だよ! 私、嫌だよ……!!」
 くしゃりと歪んだナナミの瞳からも、また大粒の涙が零れ落ちる。それを、どうにもならない思いでカザミは見つめた。
 と、前触れなく冷えた声が姉弟の間に割り込んでくる。
「今更、どういうつもりで言ってるわけ? 一旦は逃げる気になったくせに」
 カザミがそちらへと顔を振り向けると、風使いの少年は両腕を組み、苛立たしげな瞳で二人を見つめていた。むしろ、睨みつけているといった方が正しいかもしれない。それほどに表情は険しかった。
「さっきからここまで来るのに半時間だ。たった半時間で覚悟が決まったとでもいうわけかい?」
「──そんなこと、分からないよ」
 浴びせられる冷ややかさに、しかし怯むことなくカザミは、涙が零れ落ち続ける瞳でルックを見つめ返す。
「分からないよ、どうすればいいのかなんて。僕は軍主なんかになりたかったわけじゃない。僕はナナミとジョウイと、三人で一緒に暮らせたらそれで良かったんだ。今だってそうだよ。他に何にも要らない」
「だったら逃げ出せばいいじゃないか。お望み通りに」
「でも、嫌なんだよ……!」
 悲鳴のように、カザミの声は夜の山々に響いた。
「ジョウイと戦いたくなんかないよ! 戦争なんて嫌だよ! でも、僕は僕に優しくしてくれた人を裏切るのも嫌だ! ビクトールさんやリドリー将軍やクラウスさんがあそこに居るのに、自分だけ逃げるのは嫌だよ!!」
 溢れるままにカザミは叫ぶ。
「何が正しいのかなんて、僕は知らない! 僕には分からない! でも、逃げるのなら皆も一緒じゃないと嫌だ! 自分だけじゃ嫌なんだよ……っ!!」
 ──幼い頃、嬉しいことは家族三人で分け合うのが当たり前だった。
 美味しいものをもらったら、三等分に分ける。
 綺麗な花を摘んできたら、皆が見られる所に飾る。
 雨上がりに虹が見えたら、皆を呼ぶ。
 ジョウイがそこに加わってからも、三等分から四等分になっただけで、楽しいこと嬉しいことを独り占めすることなど、考えたこともなかった。
 一度だけ、小間物屋のおばさんにもらった飴玉を、ナナミとジョウイに隠れて一人で舐めたことがあったけれど、後ろめたさばかりで胸がドキドキしてたまらず、ちっとも美味しく感じられなかった。
 今も、その時と同じだった。
 後ろめたさばかりで、恐ろしいばかりで、何もいい事などない。
 戻ったところで、勿論、軍主であることは辛いことばかりだ。
 けれど、自分がそこに居るだけでいいのだと言ってくれる人たちの為にはなれる。何を求められているのかは知らないけれど、自分に期待し、信頼してくれる人たちを裏切らずに済む。
「ナナミ、ごめんね。僕は戻るよ。ナナミは行きたかったら、行っていいから……。ジョウイのところに行けばピリカちゃんも居るし……」
「カザミ……」
 絶望的なまでにすがる瞳で見上げたナナミに、言い聞かせるようにカザミは告げる。
 そんなカザミを呆然と見つめ、やがてナナミは力なく首を横に振った。
「──私も、私一人じゃ嫌だよ。カザミも一緒じゃなきゃ……」
「ナナミ……」
 肩に置かれたままだったナナミの手をぎゅっと握り締め、カザミはもう片方の手で涙を拭う。
 そして、ジョウイとルックへと顔を向けた。
「勝手ばかり言ってごめんなさい。僕たち、戻ります」
 ざわ…と夜風が啼く中、カザミの内面を図るような沈黙が落ち、
「──分かった」
 低いラシスタの声が応じた。
「今なら見張りの兵が目覚める前には戻れるだろう」
「はい……すみません、ラスさん」
 重ねて詫びたカザミに、ちらりと目を向けた彼は、しかし、何も言わずに再び山道を今度は登り始める。
 おそらく、謝られる覚えはない、と言いたかったのだろうと、その後ろに続きながらカザミは察した。
 彼は多分、自分の意志でなければ決して行動しないのだ。
 誰に何を言われようと、何を頼まれようと、彼自身がそうすると心に定めない限りは動かない。そして一度、動くと決めたのならば、それは誰かのためではなく彼自身がそうと決めたからだけのことでしかない。
 万事がそうであるからこそ、自分の行動に対して礼を言われることも謝られることも、彼にしてみれば道理に合わないことと感じられるのだろう。
 ───この人は強い。
 千年の巨木を見上げるような心地で、カザミはラシスタの背中を見つめる。
 そして、彼をリーダーと仰いで集った人々は幸せだっただろう、と思った。
 彼ならば、決して途中で投げ出すことはしない。越え難い壁に突き当たっても、嘆くより最善の方策を考えることができる。人々は彼を絶対と信じ、ついてゆけば良かっただろう。
 事実、人々が信じた通りに、彼の導いた先には自由と栄光があったのだから。
 そんな隣国の人々を少しばかり羨ましい、と思う。
 自分もトランの……赤月帝国の地に生まれていれば、何の躊躇いもなく彼の下で腐敗しきった専制政治と戦ったに違いない。
 ───僕には、できない。
 同じ軍主と呼ばれる立場にあっても、ラシスタのようには到底馴れない。足元にも及ばない。
 となれば、軍主として自分にできることは。
 逃げ出さないことと、軍師や将軍たちの邪魔をしないこと。それくらいしかない。
 そしてまた、彼らもそれを望んでいるのだろう、と思った。
 一番最初にシュウが言ったではないか。カザミにではなく、亡きゲンカクの名にこそ価値があるのだと。人々を結集させる力になるのだと。
 英雄の養い子、という肩書きが人々を集め、そして、その小さな存在がうなずくことによって、滞りなく政治軍事が行われてゆくのであれば、そこに自分の存在意義がないわけではない。
 そして。
 それ以上に、あそこには自分が笑うと笑ってくれる人々が居る。
 軍主に対して向けられる尊望や期待のまなざしは辛い。けれど、ビクトールやフリック、アイリ、リィナ、彼らがくれるものは、家族しか与えてくれなかった温かなものだ。彼らは軍主としてのカザミだけを求めているだけでは、きっとない。
 ───ごめんね、ナナミ。
 たった一人の家族。
 ナナミが望むのであれば、どんな願いでも叶えてあげたかった。彼女が笑ってくれるなら、どんなことでもしたかった。
 けれど、今だけはそれができない。
 そのことを、ひっそりと心の中でカザミは詫びた。







 先程と同じ姿勢で眠りこけていた見張りたちの間を抜け、階段ばかりの街路を市庁舎が見えるところまで登ったところで、カザミはぎくりと足を止めた。
 市庁舎の正面玄関に、大柄な男の姿がある。その背格好は見間違えようもない。
「───…」
 だが、立ち止まったカザミとナナミには構わず、ラシスタとルックは、すたすたと月明かりに照らされた道を歩いてゆく。途方に暮れた表情でカザミは彼らの背中を見つめ、仕方なく二人について再び歩き出す。
 そして、仁王立ちに立って腕を組んだビクトールの前で。
 ラシスタとルックは当然のような身のこなしで脇へと退き、後からついてくる姉弟を振り返った。
 二人が適当に言い繕ってくれるのかと、一瞬期待していたカザミは、彼らの行動に内心ひどく動揺する。が、逃げ出そうとした事実は事実である。激しく咎められるのは仕方がない、と震えそうな膝を叱咤しながらビクトールの前へと歩んだ。
「────」
 普段は口数が多く飄々としているようであっても、一旦沈黙すると、この歴戦の傭兵は恐ろしいほどの威圧感を発する。
 身を竦ませながら、ごめんなさい、と言おうとしたその時。
「──夜の見回り、ご苦労だったな」
 肉厚で大きな手のひらが、ぽん、とカザミの頭に置かれた。
「今夜はもう遅い。明日の朝まで、しっかり休んでおけよ」
 そして、中に入れ、と市庁舎の玄関口へと頭を押しやられる。
 慌てて、カザミは傭兵の名を呼んだ。
「ビクトールさん!」
「ん?」
 首をひねって見上げた傭兵の瞳は、いつもと同じく温かかった。まるで年の離れた弟を見るような、そんな優しい優しい色に喉元まで出かかった言葉が堰き止められる。
 ───ごめんなさいでもありがとうでも足りない。
 彼に対して口にしていいのは、そんな言葉ではない。
 だとすれば。
「……おやすみなさい、ビクトールさん」
 いつものように笑って、告げるしかない。
「おう。腹出して風邪引くなよ」
「はい」
 にやりと笑ってくれた傭兵に笑みを返して、カザミはナナミを促し、市庁舎に入る。
 玄関ホールを横切り、客室のある二階へと階段を上りながら、そっとナナミへと話しかけた。
「ナナミ、ごめんね。分かってくれとは言わないけど、僕はビクトールさんたちを裏切れないんだ」
「……うん」
 小さく小さく、ナナミはうなずく。
 そして、明らかに無理をしていると分かる笑顔を浮かべ、カザミへと目を向けた。
「そうだよね。ちょっと考えれば分かったことなのに……ごめんね、私、お姉ちゃんなのに我侭言って」
「ううん。ナナミは僕のこと、考えてくれたんだもん」
 階段を登りきり、廊下の真ん中で立ち止まる。
「じゃあね、おやすみナナミ」
「うん、おやすみ」
 バイバイと手を振って、右と左に分かれて。
 カザミは自分用の客室のドアを開ける。
 そして後ろ手にドアを閉め、その場にずるずると座り込んだ。
「──これで、良かったんだよね……」
 何が正しいのか、一番いいのかなんて分からない。
 けれど、今夜は。
 疲れ果てた両足を投げ出し、カザミは目を閉じる。
 途端、急速に睡魔が襲い掛かってきて。
 それからしばらく経った後、様子を伺いに来た人影が床の上で眠り込んでいる軍主を見つけて寝台に運んでくれた時も、カザミは深い眠りの淵を彷徨っており、前髪を払ってくれた指の意外な優しさに気付くことはなかった。

...to be continued.

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