桜の花の咲く頃に
「あんた、卒業するんだ？」
「するよ。もちろん」
いつもと同じ笑みで、少し可笑しそうに不二は答える。
その頭上には、まだ固さを残した桜の蕾が揺れている。
静かに通り過ぎてゆく風も、まだコートを手放したくない気分になるくらいには、冷たい。
「僕が居なくなると寂しい？」
「別に」
いまだ咲かない桜並木の下で立ち止まったまま、散発的な会話を交わす。
卒業を控え、週に一度しか学校に来なくなった３年生が、正門へと続く道のど真ん中で、桜の枝を見上げているのを見つけたのは、リョーマだった。
なんでこんな時間にこんな所に居るんだと思いながら、リョーマが近付くと、彼は振り返って笑みを見せた。
久しぶり、と何でもないことのように。
学年最後の期末試験を明後日に控えた今日は、部活もテスト休暇に入っている。
それでも一応、放課後には部室を訪れて、先輩や同級生とテストに関する情報交換と愚痴の言い合いをしてから帰宅するのが、中等部でも高等部でも変わらない青学のテニス部のやり方だった。
引退してから半年近く経つとはいえ、そんなことを忘れる相手ではない。
加えて、適当に時間を潰してからリョーマが帰るのが何時頃か、そして部室から校門まで、どんなルートを通っていくのか、推測の付かないような人間でもない。
それくらいには……相手の行動をある程度、見透かせるほどには、もう付き合いも長くなっている。
でも、とリョーマは思う。
残り少ない登校日だからと他の３年生達──菊丸や河村たちは顔を見せたのに、自分ひとりは部室に来ず、こんなところで待ち伏せをしているという根性が、どうも理解しがたい。
けれど、訊けば彼がこう答えることも分かっていた。
曰く、「僕が引退して居なくなった部室で、越前が前と同じ顔をしているのを見るのは嫌だから」と。
引退してすぐの秋頃、たまにしか顔を見せなくなった上、来てもすぐに帰ってゆく態度を不審に思い、尋ねたらそう返された時の気分は説明しがたいものだった。
もう呆れるしかなかった、というのが正直なところである。
執着されているのは分かっているし、独占欲の強さももう把握している。
しかし、だからといって、そういう相手の根性をありがたいとは思わない。
もちろん、ありがた迷惑というわけでもないのだが。
けれど。
本当は少しだけ、不二の気持ちが分からないでもないのだ。
卒業という名の別離なら、３年前に一度、経験したことがある。
だが、あの時は、２学年上の先輩たちは隣りの高等部の敷地に移っただけだった。
会おうと思えばいつでも会える。校内ですれ違うこともある。
確かに制服は学生服からブレザーへと変わったけれど、だからといって別れというのもおこがましい距離で。
そして２年後には、リョーマもまた、同じ所へたどり着いたのだ。
でも、今度の別れは。
「もっとここに居たかったけど……。仕方ないね」
「じゃ、青学大学に行けばよかったじゃないすか。先輩の成績なら余裕で推薦取れたでしょ
？」
「それも考えたよ。でも、プロとしてテニスをやっていくことは考えてないから。国内なら勝てるだろうけど、僕のパワーじゃ世界レベルではどこまで通用するか……。テニスは好きだし、本当に楽しいけど、他にやりたいことがないわけじゃないんだ」
「…………」
「青学大学なら近所だし、部活も高等部とは交流があるから、また越前に会えるな、とは思ったんだけど」
少しだけ揺れた。
けれど、結局、流されること無く自分の道を選んだ相手の横顔をリョーマは見上げる。
出会ってから四年。
その間にリョーマの身長は、約１５cm伸びた。
けれど、不二の身長も５cm近く伸びたから、身長差は縮まったものの相変わらず相手の目を見ようと思ったら、リョーマが見上げるしかない。
身長ばかりでなく、何もかも全て。
まだ、傍らに立つ姿を見上げるしかない。
「結局、越前とは４年間、決着がつかなかったね」
「……つかなかった、じゃなくて、つけなかったんじゃないっすか。あんたは」
中学高校を通して、不二と対戦するのは、部活の練習中以外にはなかった。
もちろん実力のある者同士、互いにそれなりに本気にはなったけれど、リョーマの性格上、本当に本気になるのは余程限られた状況だけで、結局、不二とそういう状態になることは４年間、一度も無く。
そして、いつまでも決着のつかないシーソーゲームに、これは公式試合ではなく練習なんだから、と仲間やコーチに苦笑まじりに水をさされて終わるのが常だったのだ。
けれど、決着がつかなかったのは、そんな理由ばかりではなかった。
リョーマは、まっすぐに目の前の相手を見つめる。
「一度も本気にはならなかったでしょ、俺とやる時」
不二はいつもと同じ笑みで、少しだけ面白そうにその視線を受け止めた。
「あんたはいつも遊んでた。だから、俺は部長や他の連中とやった時みたいに本気にはなれなかったんだ」
「僕は、越前とやる時にはいつでも本気だったけど？ 君をそんなに甘い相手だと思ったことは一度もないよ」
「それは知ってる。でも、本気で『遊んで』たんだ、あんたは」
戦ってはいなかった、とリョーマは滅多に見せない悔しさを滲ませて吐き捨てる。
最後まで本気にはなってくれなかったことも。
その本気ではない相手に、自分も本当の本気にはなれず、最後まで決着をつけることが……勝つことができなかったことも。
すべて悔しい。
「────」
と、軽く顔をそむけてうつむいたリョーマを見つめていた不二が、淡い笑みを口元に滲ませた。
「そうだね。越前の言う通りだよ。僕はいつも楽しんでいた。真剣だったけれど、君を叩き潰そうと思ったことは無い」
「……どうして」
自分が本気で対戦するのに足りない相手だと思われていたとは、リョーマは思わない。
確かに不二は天才的なプレイヤーだが、互角以上に戦える力が自分にはあり、それは不二も正当に評価してくれていたはずだ。
だからこそ、分からなかった。
何故、最後の最後まで、不二が本気になってくれなかったのか。
自分より強い相手が本気で叩き潰しにきてこそ、初めて本気になれるこちらの性分など分かっていたくせに。
不二がゆっくりとリョーマから視線を外し、いまだ固い桜の蕾を見上げる。
そして、静かに口を開いた
「……手塚は、君を本気にさせるために、君をこてんぱんに叩きのめした。そして、手塚は君の中で一生、忘れられない存在になった。じゃあ、僕は？」
「………え？」
顔を上げたリョーマの目の前で、不二が振り返る。
淡く笑んではいるが、その目は笑っていない。
鋭くさえ見える、不二の本当の瞳がリョーマを見据える。
「君は、自分が負かした相手のことは即座に忘れるけど、勝てなかった相手のことは絶対に忘れない。だったら、僕は手塚とはまた違った意味で、君が絶対に勝てない存在になろうと思った。幸い、僕たちはチームメイトで、本気にならなくてもいい理由を考える必要はなかったしね」
「……俺に本気を出させたら勝てないと思ったんっすか？」
「いや、僕が勝つよ。出逢ったばかりの頃はもちろんだし、今でも」
無表情の下に怒りを隠したリョーマの声に、不二は微笑む。
「でも、全力で君を叩き潰すのは、手塚がもうやったことだから。僕は、手塚と同じ枠組みの中には入れられたくないんだ」
「……本気で言ってるんすか」
「それに本気で戦って、今はまだ無理でも、いつか君が勝つことになったら、その瞬間、君は僕に興味を失うだろう？」
その言葉に。
思わずリョーマは左手を振り上げた。
パシ、と音がして、その手首は手のひらが届く前に不二に捉えられる。
あくまでも静かな不二の瞳と。
憤りを滲ませてきらめいているリョーマの大きな瞳が。
至近距離で絡み合う。
「……あんた、そんなこと本気で思ってんの？」
「じゃあ、違うって言える？」
「言えるに決まってる！」
利き腕の手首を捉えられたまま、リョーマは目の前の相手を睨むように見つめた。
「あんたみたいな嫌なヤツ、忘れるわけないし、他の奴と一緒にするわけがないって何でわかんないんだよ」
いつも余裕そうで。
何にも興味も執着もなさそうな顔をしているくせに、独占欲は強くて。
手の内をさらすことはないくせに、こちらのことは知りたがって。
いつでも。
強引に。
触れてきて、かき乱すくせに。
───そんな嫌な奴を、どうして忘れられるなんて。
と、不二が微笑って。
リョーマはその胸に抱きしめられる。
「……先輩？」
質のいいコートのやわらかな肌触りと、不二の匂いにまばたきしながら、リョーマは相手を呼ぶ。
と、今度は耳元で不二の穏やかな声が聞こえた。
「……本当は、そうだろうと思ったんだよ」
「え？」
「僕と君が出会ってから、もう４年になる。そして、その４年間ずっと、僕は君にとって嫌な奴だった。だから、そろそろ僕の存在を刻み込んでもらえたかなって」
ゆっくりと不二は告げる。
「もう同じ場所に居なくても大丈夫かなって思ったんだ」
「……どういうこと？」
向けられた言葉の真意が分からず、リョーマは顔を上げた。
見上げた先で、やはり不二は微笑んでいる。
そして、少しだけ楽しそうな口調で言った。
「越前は２年後、僕と同じ大学に来る？」
「……絶対、嫌」
「だろうね」
眉をしかめて答えたリョーマに、不二は破顔する。
そして、もう一度強く胸にリョーマを引き寄せた。
「わざわざ外部受験して、僕をまた先輩と呼ぶために君が追いかけてこない限り、２年後のインターカレッジでは、僕と君はチームメイトじゃなくなる。──今度こそ僕を本気にさせてみなよ、越前」
笑みを含んだ静かな声が、リョーマの耳を打つ。
「次に僕たちが対戦する時は、公式試合のコート上だ。いくら真剣でも遊び気分じゃ勝てないと、僕を必死にさせてみるといい」
「……俺に、こてんぱんに叩きのめされてもいいんだ？」
「それは僕の台詞だよ。今の君じゃ、僕には勝てない」
「２年後には、俺はもっと強くなってるよ」
「うん。だから、高校ナンバーワンになっておいで。インカレでは僕が相手をしてあげるから」
「……あんた、絶対後悔するよ。俺と敵同士になって」
「後悔させてごらん」
せっかく制服を脱ぎ捨てるんだから、これまで本気でぶつかり合うことのなかった僕たちの関係も、もう卒業しようと思ったんだよ、と告げた不二の腕の中で、ゆっくりとリョーマが顔を上げる。
その瞳は不敵に──少しだけ、見るものが見れば分かる程度には嬉しげにきらめいていて。
それを見つめて、不二もまた微笑む。
そして、くすくすと笑いながら二人は、こつんと額をぶつけ合った。
既に大半の生徒が下校していて、辺りに人影の無い桜並木の影とはいえ校内だから、唇が触れ合ったのは一瞬だけ。
けれど、感じたぬくもりに二人は笑みを見交わす。
「明後日からだよね、期末テスト」
「……なんで、そんなこと」
「勉強、見てあげるから、これから僕の家においで」
「……先輩が教えてくれるのは、違うものでしょ」
「どうして？ 人生の勉強だよ」
僕の事を知ってもらうための勉強、と微笑む不二に、リョーマは呆れる。
そして、ぐいと不二の胸を押しやり、抱きしめてくる腕から逃れた。
「で？ 俺の成績が落ちたらどーすんの？ 先輩、責任取ってくれんの？」
「もちろん。君の受験が終わるまで２年間、ただで家庭教師してあげるよ」
「……絶対、嫌」
そう言いながらも、校門に向かって歩き出したリョーマは、３歩遅れてついてくる不二を追い払わない。
──出逢ったのは、桜の季節だった。
あれから何度も何度も、季節を重ねて。
そしてまた、もうすぐ５度目の桜が咲いたら、新しい季節が始まる。
これまでと同じで、けれど何かが違う季節が。
待ち遠しい、と弾む胸の中に、一面の花が開く。
ゆっくりと歩いてゆく二人の頭上で、まだ固い桜の蕾が優しく揺れていた。
End．
湊ゆーや嬢の旧サイト・花鳥風月に差し上げたテニプリ作品。
ちょうど春頃で、ゆーやさんからいただいたリクが、『卒業』。それを聞いた私の脳裏に浮かんだのは、『勝ち逃げ』。結果、こんなものができました。
この時の花鳥風月さんのトップイラストが、桜の下の不二とリョマちゃんで（登校途中、という感じ？）すごく素敵だったので、そのままのイメージで書き上げた事を覚えてます。
テニプリはノーマルカプ推奨でもあるのですが、（桜乃ちゃん大好きｖｖ）、不二リョも好きです。不二みたいなタイプがツボなのですよ。リョマちゃん、可愛いしね。
また書きたいけど、これも時間がな･････。
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