花韻
「……こんな時間に、二胡を弾いたら近所迷惑かしら」
ふと秀麗が呟いたのは、黄昏時を過ぎて、辺りが宵の薄闇に包まれた頃だった。
初夏に入ったとはっきり肌で感じられる大気は、室内に居ると日が落ちてもまだ幾分生ぬるく感じられるが、開け放った窓からは、そよかに涼風が流れ込んでくる。
こんな状況下でさえなければ、洒落た花灯篭の下で一杯酌み交わしたいような心地の良い宵だった。
(──なのに、なんでこんなトコで書類に埋もれてんだろーなー)
椅子の背に体重を預けるようにして、凝った肩を少しでもほぐそうとコキコキ首を回しながら、蘇芳はぞんざいに、いーんじゃないの、と相槌を打つ。
「下手くそだったら近所迷惑だろーけど、あんたのは上手いし。むしろ、喜ばれるんじゃね?」
「そうねえ」
宮廷勤めの官吏たちの退出時間は、とうに過ぎている。今現在、外朝内外に残っている者があるとしたら、それは宿直か、自分たちと同じ残業仲間だけだ。
そんな殺伐とした空間に美しい二胡の音色が流れてきたら、それは近所迷惑どころか、むしろ一服の清涼剤となるのではないかと蘇芳は思う。
「じゃあ、ちょっとだけいいかしら」
彼女も、同じような結論に達したのだろう。
手にしていた茶器を卓に戻し、秀麗は、続き部屋の仮眠室においてある二胡を取りに行くべく立ち上がる。
「でもさー、疲れてんなら帰って寝た方がよくねー?」
その細い背中に向かって、皮肉るでもなく蘇芳は声をかけた。
今、二人に与えられている仕事は、ちょっとした調査なのだが、資料の件数が膨大な上に期日が短く、残業なしにはこなせない内容であるため、ここしばらく二人共に残業をする日が続いている。
蘇芳自身は、体を動かすことは好きではなくとも一応男であり、体力にはまだ多少の余裕があるが、秀麗は華奢な少女である。
根性が人一倍どころか人十倍くらいあるから、何とか普通に仕事はできているものの、かなり疲れが溜まっているに違いなかった。
少なくとも、休憩に茶を飲むだけでは足らず、二胡を弾きたがるあたりからして、そろそろ末期だろうと蘇芳は思う。
(まー、二胡を弾く元気もなくなる前に、引きずってでも帰らせるしかねーか)
正直、蘇芳は、彼女を世間一般でいう『女の子』の範疇に入れることについては大いに疑問視しているのだが、それでも、その程度の気遣いをできるくらいの常識は持っているつもりでいる。
しかし、二胡を取って引き返してきた秀麗は、いささかうんざりしたように首を横に振った。
「私だって帰りたいけど、駄目よ。もう少し今日中にまとめておかないと、期日に間に合わないわ」
「そりゃそーかもだけどさ」
「とにかく。一曲だけ弾いたら、また仕事するわ。タンタン、疲れてるなら先に帰ってもいいわよ」
「──そーいうわけにもいかんでしょ」
帰れるものなら帰りたい、と思うが、しかし、自分が帰ってしまったら、彼女は夜更けの役所の小部屋に一人きりということになってしまう。
無論、内鍵はかけられるが、それでもそんなことをしたら、後からタケノコ家人の報復が怖い。
諦めの溜息をついて、蘇芳は立ち上がった。
「じゃ、行こっか」
「うん」
うなずき、二胡を手にした秀麗は先に立って小さな執務室を出た。
人気のない回廊を幾つも渡り、二人がやってきたのは、ここ最近の休憩室と化している冗官室だった。
わざわざここまで足を伸ばしたのは、秀麗と蘇芳が御史台に配属されていることが極秘事項の一つだからである。
御史台内で二胡を奏でるのは、秀麗が御史官であることを大声で触れ回るのに等しい行為であるために、休憩時間にどうしても二胡を弾きたくなった時は、人目をはばからずにすむここに来ることにしていた。
「さて、と。タンタン、何か御希望はある?」
「うんにゃ。あんたの好きなのでいーよ」
「そう?」
じゃあ何にしようかしら、と小首をかしげて呟き、やがて秀麗はおもむろに弓を構える。
──そして、流れ出した渾身の音色は、韻韻と宵の宮に響き渡ってゆき。
* *
「……二胡?」
上司に渡す書類を束ねる手をふと止めて、碧珀明は耳を澄ませる。
空耳ではなく、開け放ったままの窓から遠く聞こえてくる音色は、間違いなく二胡の音色だった。
「……牡丹亭か」
碧家の直系としては芸無しであり、自らが楽を奏でることは滅多にないものの、極上の音曲には生まれた時から慣れ親しんでいる。その耳で聞いても、素晴らしいと手放しで褒めるに値するその音色が誰の手によるものなのか、珀明は知っていた。
上官も当然気づいているだろう、とこっそり目を向けると、上官も同じことを思ったらしい。ばっちりとまなざしが合って、内心、珀明はうろたえる。
が、残業中の部下の気散じを、若い上官はとがめなかった。
「どうやら、あっちも残業らしいな」
「ええ、そのようですね」
笑って言った上官に、ほっと安堵した珀明も、笑みを返す。
「よりによって、あんな部署に拾われるんですから。最後までまともに就職活動しなかったあいつの自業自得ですけど」
「まぁな。……一応、秀麗には秀麗なりの勝算があったんだろうが」
「詰めが甘いんですよ、いつもいつも」
貧乏くじばかりを引くどころか、蟻地獄に頭から突撃して行くのだから、と同期の桜に難癖をつけながら、珀明は手にしていた書類を、きちんと揃えて吏部侍郎の机卓に置き、茶を入れようと移動する。
───紅秀麗が御史台に配属されたことは当然、極秘事項であり、本人からも報告を受けてはいないが、吏部に所属している珀明とその上官にとっては、隠し事でも何でもないことだった。
御史長官によって選抜された他の御史官たちについては、吏部も関知していないが、少なくとも一月前の冗官クビ騒ぎの渦中にあった彼女の動向は、本人が語らなくとも、覆面で調査に当たっていた楊修からの報告が上がってきている。
それを聞いた時には、珀明は上官共々呆れ果て、彼女の要領の悪さに歯噛みをしたものだが、だからといって何がどうなるものでもない。
ひとまずのところは、彼女が、針の筵(むしろ)であるはずの御史台でもまったくめげることなく、元気に駆け回っているらしいことで、いささか筋違いの憤懣(ふんまん)を宥めるしかなかった。
ゆっくりと手をかけて一煎の茶を入れ、珀明は青磁の茶器を上官の机卓に置く。
そして、一歩下がったところで、小さく呼吸を整えた。
「絳攸様」
「何だ」
「仕事とは全く関係のないことなのですが……少しよろしいでしょうか?」
そう伺いを立てると、絳攸は先を促すように切れ長の目を向けてくる。
その間にも、遠い二胡の音は嫋々と窓から流れ続け、やましい所など微塵もないはずなのに、珀明は自分が少しばかり緊張しているのを感じた。
「実は……少し前に、家の者から縁談を持ちかけられまして」
「──ほう」
絳攸が応えるまでに、一瞬の間があった。
その間に彼の鋭い瞳に走ったのは、僅かな驚愕と、それに続く納得であり、それだけで珀明は上官が自分の言いたい事を正確に汲み取ったことを察する。
「はい。──紅秀麗との縁談です」
「それで?」
先を促す絳攸の声は常と同じく落ち着きはらい、珀明の下した決断を聞く前から承知しているようで。
それならそれで気が楽だ、と珀明は短く結論を告げた。
「勿論、断りました」
「何故だ?」
「彼女に私は必要ありませんし、私にも彼女は必要ないからです」
そう言うと。
それまで殆ど無表情で聞いていた絳攸が、ふっと笑んだ。
「なるほど。お前らしい結論だ」
「いえ、当然のことですから」
上官の賛辞に、しかし珀明は首を横に振る。
───家族から、彼女との縁談を考えるように水を向けられた時。
珀明の心中に浮かんだのは、何を馬鹿なことを、という呆れだった。
自分にとっては、彼女は紅家の長姫であるよりも先に、共に厳しい国試を戦い抜き、これからもそれぞれの場所で戦い続ける戦友であり、そこに男女の情愛は欠片ほどもない。
知り合ってから二年、彼女の女性としての魅力が少しずつ増していることは認めているが、だからといって、それが色恋沙汰につながるかというと、話はまた別なのである。
とはいえ、自分もいずれは妻を娶らなければならないのであり、一応考えるだけは考えてみたのだが。
「紅家に家名で勝るのは藍家と王家のみで、彼女が他家に嫁ぐことが益になることはありません。官位については、まだ彼女は下っ端ですが、だからといって夫の官位に頼って昇進することを彼女が望むとも思えません。そして私も、紅家の家名も彼女も、必要とはしていません」
紅家の名や、初の女性官吏である彼女の名にすがらなくとも。
自分には碧家と、この頭脳がある。
「私も彼女も、政略結婚なんかしなくても出世くらい自力でできます」
きっぱり言い切ると。
やはり面白げに絳攸は口元に笑みを浮かべた。
「確かにな。秀麗は誰に嫁いでもそれなりに上手くやるだろうが、おそらく、あれに一番似合うのは、誰かの妻の座ではないだろう」
「はい」
二年前の国試の折に、秀麗とは数日、起居を共にしたことがあるから、珀明も彼女の主婦としての技量は十分に知っている。
彼女なら、どんな大貴族に嫁いでも内向きのことを完璧に取り仕切り、夫の良い輔(たすけ)となるだろう。
だが、彼女の持つ才は、そんなことに費やすにはあまりに惜しいものがある。
そして、ひとたびどこかへ嫁いだら──既婚の貴婦人が朝廷に参内するなど貞節を欠くにも程がある、と騒ぐ声が上がるのは間違いなく。
そんな危険を、聡明な彼女が冒すはずはなかった。
(僕としても、妻にする女性はもう少し普通の方がいいしな)
才色兼備などと贅沢を望む気はないし、碧家直系として生を受けた以上、恋愛結婚にも興味はない。
とにかく気立てが良く、家の中のことに気を配り、激務に疲れ果てて帰る自分を温かく迎えてくれれば、それでいい、と思う。
夢がないと言われるかも知れないが、碧家という芸術肌の気性の激しい者が多い家に育った珀明にしてみれば、穏やかで優しい女性というだけで、既に憧れや夢の存在だった。
「それで結局、碧家は紅家に何の申し入れもしていないのか」
「はい。私が止めさせました」
「そうだな。……少なくとも今は無駄だろう」
周囲がどう思うと──それが理想的な政略結婚であろうと、彼女自身がうなずかない。そして、彼女の家族も、彼女の望まないことを無理強いすることは有り得ない。
だが、それは彼女を直接知る者でなければ分からないことだから、珀明は、ただ今急いで縁組を定めなくとも、彩七家にはまだ幾らでも令嬢がいる、とそれだけを家族に説いた。それこそ、藍家にも姫はいるのだ、と。
もっとも、今回はひとまず引き下がった家族も、一通り各家の令嬢を品定めした後で、やはり紅家長姫を、と言ってくるかもしれない。
その時、どう話を持ってゆくかを考えると頭が痛かったが、今から思い悩んでも仕方がない。それについては、先の事は先の事、と割り切ることにしていた。
「しかし、何故その話を俺にした?」
問いを載せて絳攸の鋭い瞳が、珀明を見つめる。
咎め立てをされている訳でないことは、その瞳に浮かぶ光の加減から分かったが、しかし、自家の内情を明かすことなど滅多にない大貴族の直系である珀明が、何故それを口にしたのか、純粋な疑問を彼が抱いていることは明らかだった。
だが、気負うことなく珀明は上官に対し、小さく笑んで見せる。
「誤解をされたくありませんでしたので」
「誤解?」
「はい」
この話を切り出すときにはさすがに緊張したものの、もとより心中にやましい所など、何一つない。
だから、珀明は落ち着いて答える。
「私は紅官吏を……秀麗を、共に上を目指す仲間だと思っています。彼女を利用することなど考えたことは一度もありません。今までも、この先も」
秀麗だけではない。
今は茶州に居る杜影月も、あの訳の分からない天才児・藍龍蓮も。
かけがえのない仲間だと思っているからこそ、彼らの苦境に手を差し伸べることはあっても、決して利用したりはしない。
それは、珀明自身の誇りにかけた誓いだった。
「今年の初め頃から、少々名のある家はこぞって紅家に縁組を申し入れていると聞きます。貴族ならそれは当然のことでしょう。ただ、私はそうではないと知っておいていただきたかったので、お話しました」
「──そうか」
一つうなずき。
絳攸はものを思う表情で、椅子の背に軽く体重を預ける。
「確かにな。俺も、碧家も縁談を申し入れたのだろうと思っていた。具体的なことは知らないが、それこそありとあらゆる家が、輿入れの名乗りを上げているそうだからな。それに……」
言葉を切って、絳攸は珀明を見る。
「実を言うと、俺にもある人から打診があった。無論、丁重に断ったがな」
その意味を理解するのに、珀明の頭脳をもってしても一瞬の間が必要だった。
「……えええぇっ!?」
「馬鹿、大声を出すな。極秘事項なんだからな」
「あ、はい。すみません」
慌てて謝りながらも、珀明は、まさかと思う一方で、それも有りかと納得する。
絳攸は確かに、紅家当主・紅黎深の養子ではあるが血縁関係はなく、また紅姓も持っていない。彼女を妻とするのに何の不都合もない青年貴族、それも、最も望ましい条件を備えた一人であるには違いなかった。
「……さすがに驚きました。最近は滅多なことじゃ驚かなくなっていたんですけども」
「まぁな。俺も我が事ながら、聞かされた時には耳を疑った」
「でも、お断りになったんですよね」
「ああ。秀麗に俺は必要ないし、俺にも彼女を必要とする理由がない」
一見、華奢な少女に見えても。
彼女は誰よりも強く、たくましい。
それはまるで、どんなに強い風に吹かれても折れない野の花のように、どんな逆風も跳ね返し、自分の糧とする強さを持っている。
「お前が断った理由と同じだ。俺にできるのは、せいぜいがあいつの遥か先を行って、あいつが追いつくのを待っていてやることくらいだからな」
「そうですね。僕も……いえ、私もそう思います」
彼女が、不器用に一番下から這い上がってくるというのなら。
いつか彼女がこの高みにたどり着くその日まで、自分たちはそこに留まり続ける努力をしていればいいのであり、それ以外の何をもする必要はない。
そして、いつか彼女がたどり着いたとしたら。
その日こそが、この国が、彼女を含めた自分たちの手によって、最良の治世を得る最初の日に成り得るかもしれない可能性もあるのであって。
もしその未来図が実現したら、それこそ彼女とのかかわりは、世間一般の男女の関係、夫婦という枠組みにはまるよりも、余程面白く、心躍る関係だと言えるのではないか。
そして、そう思うのは、きっと自分だけではなく。
「まぁ、いずれにせよ秀麗と結婚するには、相当の根性が必要だろう。あいつ自身も難物だが、周囲にも何かとうるさい小姑が多いしな」
「……確かに」
そう言われてみれば、自分からして、彼女がつまらない相手を選んだら、反対はしないまでも面と向かって文句をつけるような気がする。
かく言う絳攸も、いざ彼女が結婚するとなったら、相手の男のことをつい検証せずにはいられないだろう。
そして、そんな輩は宮廷内外に山ほどいるに違いない。
(あいつは街でも人気があるしな)
何にしても彼女に求婚するのは難儀なことだ、と思いながら珀明は、長くなった閑話を切り上げる。
「すみません。無駄話が長くなりました」
「いや、この話に関しては俺も同罪だ」
絳攸は小さく笑って、ゆったりと余韻を残して消えてゆく二胡の音に耳を傾ける。
珀明もそれにならい、耳を澄ませていると、やがて、最後の響きが宵の風に消えて。
「よし、休憩は終わりだ。やるぞ」
「はい」
仕事の再開を宣言した上官に、丁寧に一礼して、珀明は吏部侍郎室を後にした。
* *
「……秀麗」
遠く、二胡の音が聞こえた途端。
彼女だと分かった。
劉輝は思わず立ち上がり、扉を開けて回廊に出る。そうしたところで、どれほど音量が変わるわけでもないが、そうせずにはいられなかった。
「牡丹亭、か」
別名・還魂記とも呼ばれるその曲は、遠く想い合っていた恋人たちが長い苦難の時を経て、ついには結ばれるあでやかな恋の詩だった。
一面に牡丹の花が咲き乱れる花園で芽生えた恋を歌う甘い旋律、そこから一転して悲痛な響きとなる調べに耳を傾けながら、何を想って彼女はこの曲を選んだのだろう、と思う。
単に、牡丹が盛りのこの季節に似合いだと思って選んだだけかもしれない。
だが、そこにもう一つ、彼女がこの曲を選んだ無意識のうちに何かの意味を見出したいと思うのは自分の我儘だろうか。
(ああ、でも穿(うが)ちすぎるのも切ないな)
歌の中で、美しい娘は一旦は恋の切なさゆえに息絶える。その後、奇跡的に蘇るからこそ、還魂記とも題されているのだが、現実としてはそんな場面など想像したくもない。
たとえ死に至らなくとも、それに等しいほどの苦難を経なければ、自分たちが結ばれないという暗示だと解釈しても、やはり切ないことに変わりはなく。
深くは考えるまい、と自制して、切々と流れる音色に耳を集中させる。
「秀麗……」
遠く、幾つもの宮棟や庭園を隔てていても、彼女の二胡の音は、真珠が零れ落ちるように艶やかでありながら、まろい響きで劉輝の胸に染みる。
初めて聞いた時と何一つ変わらない、音の一粒一粒が優しく煌いているような音色に、そっと目を閉じると、瞼の裏に一心に二胡を奏でている秀麗の姿が浮かぶ。
───己の奏でる二胡の音色以外、何一つ聞こえないかのようにまなざしを半ば伏せ、朱唇は曲に合わせて時には引き結ばれ、時には優しく淡くほころんで。
毎晩、その姿を眺めているだけでも飽きなかった。
「秀麗」
その名を呼ばずにはいられずに、溜息と共にそっと呟く。
今、この時も。
彼女が自分の目の前で、この曲を弾いていてくれたら、と願わずにはいられない。
手を伸ばせば届くところでくつろぎ、時折、彼女を見つめている自分に気づいて、まなざしだけで笑み返して。
そうして自分のためだけに二胡を弾いてくれたなら、それ以上望むことは何もない、とすら思える。
けれど。
(それは私の望みであって、秀麗の望みではない……)
彼女が自分の妻となることを望んでくれるのなら、即日にでも正妃として迎え入れる用意はある。
だが、肝心の彼女の望みはそこにはなく。
そして、彼女の意に沿わないことを強いるには、劉輝は彼女を愛しすぎていた。
何一つ欠けることなく。
有りのままの彼女に、有りのままの自分を愛して欲しい───。
ただそれだけの願いであるのに、それを叶えることがどれほど難しいことか。
至尊の身であっても、叶わぬことなど幾つもあるということは、長くもない生の間に知り尽くしていたが、それでも、こればかりはどうしても諦められないから、この二年、足掻き続けている。
そんな自分の往生際の悪さが、優しい彼女を少しばかり困らせていると分かっていても、たった一つの望みを持ち続けることを、無駄な行為だとは思いたくなかった。
もとより何の希望ももたずに生きられるほど、自分は強い人間ではない。
こうして一人きりで過ごす夜も、いつか得られる幸せな未来へと続く一歩だと信じなければ、とてもではないがこの先、まともに呼吸して生きてゆく自信はなかった。
(今の自分を不幸だと言ったら、天罰が当たるだろうが……)
心から信頼できる腹心の臣下もいる。
表立って兄弟とは呼び合えなくとも、最愛の兄も傍にいてくれる。
他にも心を寄せてくれる人は、何人もいる。
かつての誰からも関心を寄せられず、幽鬼のように宮中をさまよっていた孤独な子供は、もうどこにもいない。
けれど。
(秀麗が居てくれなければ、私は本当の意味では幸せになれない……)
王の結婚が、政略と無意味では有り得ないことは分かっている。
そして、王家の血が次代に継がれることの重大さも。
誰に説かれるまでもなく、知っている。
それでも、隣に在るひとが彼女でなければ、自分は笑うことを忘れてしまう。自分が、ここに居るかどうかの認識すら危うくなる。
現に、秀麗がここにいた一時を除いては、執務を終えて内朝に戻ってきた後、自分が笑う時といえば、珠翠と語らったり刺繍したりしている時間くらいしか思い当たらない。
秀麗を知らない頃は、それでもどうにか日々を生きていたが、彼女を知ってしまった今は渇きを自覚した砂漠の旅人と同じで、彼女を手に入れない限り、魂の飢(かつ)えは収まりようがないのだ。
王としての自覚がなかったら、とうに恋焦がれて気がおかしくなっていただろうと思えるほど、一人の人間としての自分にとっては、彼女がすべてだった。
(けれど、余はこの彩雲国の王なのだ)
考えてみれば、皮肉なものだった。
これほど恋焦がれているのに、彼女こそが芽生えさせた王としての自覚が、自分を縛っている。
王である限り……そして代わりとなる近い血縁が存在しない限り、自分が玉座を放棄することは許されない。
何の身分もない、ただの男であれば、どれほど疎まれようと彼女の傍に飛んでいって、決して離れはしないのに、至尊の身であるがゆえに、それが叶わない。
そう思うと、今は市井に身を置いている兄が少しばかり羨ましかった。
兄もまた、自分など足元にも及ばない苦難を経て、ようやく安息を勝ち得たのだということは分かっているが、それでも彼女の信頼を一身に受け、傍で過ごせる幸福を、ほんのわずかな気持ちとはいえ羨望せずにはいられない。
それでも。
(秀麗が今、頑張っているのは余のためだから……)
あの、今は遠い春の日。
満開の花の下で、彼女は、私はあなたを支えるために来たのよ、とまっすぐに自分を見つめて告げた。
あの頃と変わらぬ迷いのない彼女の瞳が常に見つめているのは、この国の現在と未来、そして──彩雲国国王。
自分が王である限り、彼女は全身全霊をもって自分に尽くしてくれる。
それは決して男女の情愛ではないが、同時に、彼女は、国王が紫劉輝という一人の男であることも決して忘れはしない。
公私を問わず、いつでも国王としての仮面の下を見てくれる、たった一人の少女。
(だからこそ、私は諦めない)
彼女がいつか、国王を愛するのと、あるいは一人の人間としての紫劉輝を愛するのと同等の比重で、自分という一人の男を愛してくれるまで。
一度諦めてしまえば、すべて終わると分かっているから、決して諦めない。
いつかきっと、皆で幸せになる日まで。
「早くその日が来るといい……」
呟いたその先で、遠く秀麗の二胡が、苦難を経て結ばれた恋人たちの愛を高らかに歌い上げる。
その最後の音が長く余韻を引いて夜風に消えても、劉輝はしばらくの間、その場所を動かなかった。
* *
ふと龍蓮は、夜空を見上げた。
初夏の夜空は綺麗に晴れ渡り、月のない漆黒に近い深く澄んだ藍色に数え切れぬほどの星がまたたいている。
そのきらびやかさは冬空にこそ劣るものの、十分過ぎるほどにまばゆかった。
「────」
その夜空をしばし見つめ、龍蓮は少し考えてから一旦は腰の龍笛にやった手を戻し、すっと息を吸い込む。
次いで、その端整な唇から紡ぎ出されたのは。
「あでやかに紅紫咲き揃いしも 寄り添うは壊れし井戸に崩れし垣
良き辰(とき)のうるわしの景(ながめ) 見る人も無きままに
曇りなく愛で楽しむに叶うは いずくの庭ぞ こぞには無かりき
朝に飛び暮れに巻き起こる 翠緑の雲霞は軒を成し
さやけき雨は糸の如(ごと) 風はそよぎ 煙波(もや)に浮かびぬ飾り舟
されど富貴人は この春光を賤(いや)しと見ゆ
青山にあまねく咲(ひら)きたり 深紅なる杜鵑(つつじ)に茶靡(ばら)
春風に なよやかなる柳絮揺らぎしや
牡丹こそ優(すぐ)るに いかで春花の魁(さきがけ)ならんや」
名高い恋の舞台となる花苑を描いた詞が、朗々と夜の中に響き渡ってゆく。
何故、今宵に限っては龍笛を選ばなかったのか、と問われても、龍蓮は応える言葉を持たない。
ただ、不意に今夜、胸のうちに沸き起こった楽に合わせるべきは龍笛ではないと感じた。それだけである。在りのまま、自然のままをよしとする龍蓮は、そういった衝動を深く考え、分析することを好まなかった。
ひとしきり一節を歌い終え、夜風に余韻を溶け込ませるように静かに声を収める。
と、夜の静寂(しじま)に思いがけない拍手が響いた。
はっと龍蓮が振り返ったその先、
「お見事。このような場所で、素晴らしい技量の牡丹亭を聞けるとはね」
声と共に、ゆらり、と木立の影が揺れて、一人の男が姿を現す。
背が高く、長い髪は結われもせずに背を覆っており、星影に照らされたその顔容は、龍蓮よりも一回りほど年上だろう。龍蓮の端整さとはまた性質の異なる、どこか頽廃的な匂いのする美貌だった。
「────」
武器ともなる鉄製の龍笛に手をかけこそしなかったが、龍蓮は黙ってその男を凝視する。
この距離まで彼が接近するのを、龍蓮が気付かなかったのではない。
男には、生物としての気配がなかった。
だが、気配はなくとも実体はある。
その不可思議な存在を龍蓮は見つめ、そして、どれほどの時間が過ぎただろうか。
「そなたも行くのだな」
その一言に、それまで龍蓮のまなざしを泰然と受け流していた男が、面白げに笑んだ。
「さすが、藍龍蓮の名を継ぐだけあるね。君に分からないことが、この世にあるのかい?」
「数え切れないほどに」
短く答えて、龍蓮は空を見上げ、そしてもう一度、男へとまなざしを戻す。
「そなたが行けば、我が心の友其の一は怒り、泣きながらも、喜ぶだろう。その確率は以下略」
「おや。十割とは言ってくれないのかな」
託宣のような龍蓮の言葉に、しかし、男は不満げに訴える。
それに対して龍蓮は、ふいと顔を背けた。
その『藍龍蓮』にしてはどこか人間くさい仕草に、男が興味深げな光を瞳に浮かべる。と、龍蓮は、いつになく不機嫌を滲ませた声で言った。
「そなたは我が心の友其の一を心底悲しませ、心の友其の二も心底怒らせた。常々、友たちを見習って心を広く保とうとしてはいるが、そなたに対してはどうしても心が狭くなる」
「なるほど」
人間くさいことこの上ない龍蓮の言い訳に、男は笑む。
その笑みには陰りがなく、年若の青年を微笑ましく見る光がやわらかく宿っていて。
「だが、行くなとは言わないのだね。そんなにも気に食わないというのに」
「行くのはそなたの意思だ。私が口出しをすべきことではない。それに、秀麗は遠からずそなたの助けを必要とする」
「ああ、それは分かっているよ。だから、行くのだから」
うなずき、それにしても、と男は小さく首を傾けた。
「秀麗と呼んでいるのだね、彼女のことを」
「そなたの行いが悪いからであろう。そういうのを自業自得というのだ」
「それは全くもって、その通りだけれども」
目の前で、他の男に呼ばれると妙に口惜しい、と男は呟く。
そして、改めて龍蓮にまなざしを向けた。
「ついでに、もう一つ訪ねたいのだけれど、いいかな」
「────」
その問いかけに龍蓮は、うんともすんとも言わなかったが、沈黙を了承と解したのだろう。
ゆったりと腕組みを説いて、男は尋ねた。
「彼女は、私に甘露茶を入れてくれると思うかい」
「……そなたの心がけ次第だ。相手が誰であれ、誠心を示した時に応えぬ我が心の友ではない」
いささか不機嫌な面持ちのまま、龍蓮が答えると。
「ああ、その通りだね」
ほのかに笑んで、男はまなざしを伏せた。
「そのことに気付くのが、私は少しばかり遅かったんだ。もっと早く気付いていれば、こんな風に今、地上をふらふらしていなくても済んだだろうに」
「まだ取り戻せるではないか」
ふっと割り込んだ龍蓮の声は、月光のように冴えて響き。
男は顔を上げる。
男の視線の先で、星明りに照らされた龍蓮の姿は、まるで月神が地上に降り立ったようにも見えて。
「常人ならば在り得ぬ二度目を、そなたは得た。ならば、それを生かせば良い。今度こそ間違えぬと決めたのであろう?」
その声に……姿に、男はゆっくり笑む。
「ああ。その通りだ」
男の微笑もまた、長い間蕾のままだった大輪の牡丹の花が開くようだった。
「私はもう間違わない」
そう言い、夜の向こうへとまなざしを向ける。
そのまま、しばしの沈黙が落ちて。
やがて、男は龍蓮を振り返った。
「次に都で会う時は、彩宮秋を是非とも聞かせて欲しいね。彼女の伴奏付きで」
姿を現した時と同様、人を煙に巻くような笑みをたたえ、とても好きな曲なんだ、と笑って男は夜の帳の中へと歩き去る。
程なくその姿は闇の中に消え、龍蓮はその場に一人取り残された。
「────」
満天の星を見上げ、秀麗、と友の名を口中で呟く。
運命の時は迫っている。それは既に、龍蓮には分かっていた。
だが、まだ『藍龍蓮』の動くべき時ではない。
それでも。
かけがえのない友が呼べば、『龍蓮』はいつでも駆けつける。それがたとえ、運命の流れに逆らうことであっても。
自分を利用したくないと頑なに拒む、心優しき友たちの意に反することであっても。
彼らを失うかもしれないと感じた時の奈落の底に落ちるような恐怖に比べれば、何ほどのこともない。
だから、と龍蓮は天を仰いだまま、目を閉じる。
───何一つ、喪われることのないように。
心の底から願い、祈る。
その耳に、遠く、切ないほどの二胡の旋律が響いた気がした。
* *
最後の余韻を長く弾いて、秀麗が手にしていた弓をニ胡の弦から離すと、それまでじっと耳を傾けていた蘇芳は、彼にしてはかなり本気で拍手を贈った。
「ホント、上手いね。聞き手が俺一人なのが惜しいくらい」
「そう?」
上手い褒め言葉ではないが、蘇芳が本気で言っていることは秀麗にも伝わって、秀麗は小さく笑んだ。
「まー、窓から聞こえてるだろうけどな。このくらいの時間なら、まだどこも窓を開けたままだろーし」
「そうよね。迷惑になってなけりゃいいけれど」
「大丈夫っしょ。うるさいって怒鳴り込まれてねーんだし」
「それはそうだけど……、あら?」
二胡を抱えて立ち上がろうとした秀麗が、ふと半端な姿勢のまま戸口の方へとまなざしをやった。
「何?」
「今、誰かが居なかった?」
「……さあ? 俺は気付かなかったけど」
「そう? じゃあ私の気のせいかしらね」
「もしかしたら、あんたのニ胡の信奉者とかじゃねー? 近くで聞きたいんだけど、姿を現すのは恥ずかしいとか」
「そんな人いるかしら」
「いるだろ。元冗官仲間にも大人気だったじゃん」
言いながら、二人は窓の戸締りを確認して明かりを消し、冗官室を後にする。
そしてまた、常夜灯に明るく照らし出された回廊を渡って、御史台の小さな執務室へと戻った。
「それじゃー俺は、この資料を書庫に戻してくっから。ちゃんと内鍵かけて、俺が戻ってくるまで他の奴に戸口開けちゃダメだぜ。昼間じゃねーんだから」
「分かってるってば。ちょっとしつこいわよ、タンタン」
「それくらいで、あんたにはちょうどいーの」
でも他の人が急ぎの仕事で来たらどうするのよ、とぶつぶつ言っている秀麗を無視して、両手に書類の束を抱えた蘇芳は、執務室の戸口を出る。
そして、両手がふさがっているため肩で扉を閉め、その板戸越しに秀麗に声をかけた。
「鍵かけろよー?」
「分かってるわよ。──はい、かけました」
掛け金のかかる金属音に、やれやれと溜息をひとつついて蘇芳は歩き出す。
ささやかな休憩が終了してから、既に一刻。夜も更けてきており、昼間でも人気のない御史台は、更にしんと静まり返っている。
夜の役所ってのは不気味で嫌だな、と心の中でぼやきながら、廊下の突き当たりにある御史台の書庫を目指す。
と、目指す部屋から、細く明かりが零れているのが見えた。
何となく、そこに誰が居るのか見当がついて、蘇芳はまた溜息をつきつつも、ぞんざいに引き戸を開ける。
そうすれば、案の定。
「──コンバンハ。俺は資料、戻しに来ただけだから」
年下の男相手に何を言い訳しているのだろうと思いつつも、調べ物をしていたらしい陸清雅にそう告げると、相手は不機嫌そうに形のいい眉を動かした。
「あの程度の仕事でこんな時間までやってるとは、よっぽどお前たちは要領が悪いらしいな」
「まーね。お嬢はともかく、俺が頭も段取りも悪いのは否定しねーって」
ぞんざいに受け流すと、清雅は、ふんと鼻を鳴らす。
(ホント、セーガもお嬢も元気だよなー。若さ……が問題じゃねーよな。十年若返っても、俺、こんなにやる気のあるガキじゃなかったし)
もしこれが秀麗だったら、こんな時間まで書庫にいるあんたは何なのよ、と食って掛かっているだろうが、蘇芳にとっては、清雅は好かれようが嫌われようが、最終的にはどちらでも全然構わない相手だったから、挑発に乗る気にもならない。
反応を示さずにいれば、すぐに清雅は相手に興味を失い、忘れる。
それが分かっているから、ご苦労様なことだ、と思いながら書架に向かい、資料を元あった棚に片付け始めた。
そして、手を動かしながら、全く違うことを口にする。
「お嬢って意固地だけどさー、セーガが聞き手でもニ胡は弾いてくれると思うぜ。多分、だけど」
「……何の話だ」
すっと清雅の声音が冷える。
が、蘇芳は気にしなかった。
さほど深く考え、分析したわけではなかったが、何となく男の直感で、この件に関しては自分の方に分がある気がしていたから、そのままの調子で続ける。
「だからー。お嬢のニ胡の話。セーガが挑発したら、どんな超絶技巧の難曲でも、お嬢は完璧に弾いてくれるって」
今、清雅はどんな顔をしているのだろう、と思ったが、さすがに振り返る気にはならなかった。
……先刻、秀麗がニ胡を奏でていた最中に、冗官室の戸口付近に人影が近付いたとき、戸口に向かうような体の向きで椅子に腰掛けていた蘇芳は、すぐに気付いた。
無論、人が部屋に近付く気配がしただけで、姿が見えたわけではない。
だが、清雅も別件の仕事で、自分たち同様、居残りをしていたことは知っていたし、他にわざわざ戸口まで寄ってきて、だが声をかけず中にも入らない、なのに最後の一音まで聞いてゆく相手というと、他に候補が思いつかなかった。
そんなわけで、半分当てずっぽうだったのだが、きちんと的を得ていたらしい。
「……あの女のニ胡になんざ、興味はない」
「そう? そんならそれで構わねーけどさ」
セーガが来ると、お嬢はピリピリして休憩どころじゃなくなるし、と言いながら、手にしていた資料を全てを片付け終え、仕方なしに振り返ると、ちょうど清雅が不機嫌そうに眉を吊り上げたところだった。
「前から思っていたが、随分とあの女に肩入れしてるな」
「そりゃー俺と親父の恩人だし。俺も、お嬢のことはけっこー気に入ってるし」
「ふん。お前の女の趣味は最悪だな」
その台詞に蘇芳は心底脱力する。
嫌味なのには違いないが、幾らなんでもこの次元の低さは在り得ない。……自分を高尚だと思ったことはないし、次元が低いのが男同士の会話の常識、と言ってしまえば、それまでではあるのだが、それにしても程があるのではないか。
呆れ半分に、時々セーガははこうなるなー、と蘇芳は思う。
切れ者であることは間違いないのに、呆れるほど子供のような絡み方をすることが、最近ままある。
それもはっきりと、特定の人間を相手にした時にだけ限って。
「お前、俺が年上だってこと忘れてるだろ。──別にそーいうんじゃないって。まぁ、客観的に見れば、お嬢はかなり可愛いとは思うけど。嫁にしたいとか、そーいうのとは全然別」
あんな嫁さんは冗談でも嫌だ、と首をすくめて見せるが、清雅の不機嫌さは変わることはなく。
別に仲良くしたい相手でもなし、と蘇芳は、会話の続行をさっさと諦めた。
「話が終わったんなら、俺は帰るよ? お嬢、一人きりにしてるし」
「……とことん警戒心の足りない二人組だな」
「内鍵はかけさせてるって。ちゃんと約束したことは、お嬢は守るし」
行ってもいー?と許可を求めると、興味を失ったように清雅は視線を手元の資料に戻した。
その仕草をこれ以上口を聞く気はないという意思表示だと解して、蘇芳は肩をすくめ、書庫を出る。
そして、数歩離れた所で立ち止まり、溜息をついた。
(ホント、めんどくさい奴らだなー)
正確なところを言えば、蘇芳は、清雅が秀麗に対して抱いている感情を量りかねていた。
毎日飽きもせずに嫌がらせに来る様子は、小さな少年が好きな女の子をいじめて喜んでいるようにも見えるし、それだけとは思えない執念のようなものをも感じる。
だが、感情の内訳がどうであれ、そこには何らかの情なり執着なりが混じっていることは、確実であるように思われるのだ。
いわゆる、ある種の運命の相手というものなのかもしれない。
しかし、望むと望まぬとにかかわらず出歯亀よろしく彼らを眺めている蘇芳の立場からすれば、彼らの男女としての関係は、つくづく不毛だ、という気がしてならなかった。
(セーガは絶対、お嬢に対するそーいうたぐいの感情なんか認めねーだろーし、激ニブの上に対抗心ごうごう燃やしてるお嬢がそれに気づいたり、受け入れたりすることは、更に天地がさかさまになってもなさそーだし)
とりあえず、今夜の件に関しては言うべきことは言ったし、と蘇芳は割り切って、この件については忘れることにする。
そもそも、他人の感情の問題に首を突っ込んで、何か良いことがあるわけがないのである。馬に蹴られるのだけは御免だった。
そうして蘇芳は、相変わらずしんと静まり返った御史台内の廊下を歩いて、執務室に戻る。
「お嬢ー? 俺ー」
呼びかけながら戸口を拳で叩くと、すぐに応えが返り、中から扉が開かれた。
「おかえりなさい、タンタン。御苦労様」
「タダイマ」
出迎えてくれた笑顔に濃い疲労の影を認めて、蘇芳は内心であーあと溜息をつく。
このところの彼女の経験値は随分と上がってきており、対清雅に対してはもう問題はなくなりつつあるが、他に心配してやるべきことは、まだ山のようにある。
誰かさんの過保護のせいとはいえ、つくづく手のかかるお嬢様だった。
「お嬢、今夜はもう終わりにして帰ろーぜ。あんたのとこも、あのおっかない家人や親父さんが心配してるだろーし」
「遅くなるって連絡はしてあるけど……そうね」
寝不足で疲れた頭で仕事をしてもはかどらない、と秀麗は卓の上に積まれた書類を眺めやって、仕方なしにうなずく。
「いいわ。帰りましょ」
「おー」
それから二人で手分けして重要書類を鍵のかかる引き出しにしまい、戸締りを厳重に確認してから灯火を消して。
御史台の最も下っ端の二人は他愛のないことを喋りながら、夜の闇のどこかからほのかに牡丹の香る宮城を後にした。
End.
何だか長々と書いてしまいました。
今回は、秀麗をめぐる男性陣のあれやこれや、といった感じの話です。
一応、私の中では劉秀前提ですが、物を思う人があちらこちらにいるようで、書いていてなかなか楽しかったです。タンタン以外は全部、初書きキャラでしたしね。
(本当はまだ2組ほど出演候補があったのですが、さすがに力尽きました(-_-;))
作中で秀麗が弾く『牡丹亭』は、実は中国戯曲の演目の一つで、曲名そのものではありません。分類でいうと南方産の昆曲という種類のもので、明代の戯曲になります。
非常に有名な戯曲で、一度見てみたいのですが、55段に上る大作であるため、全編上演すると丸1日かかるとか。日本では到底無理そうなので、どっかの旅行社がツアー組んでくれないかな……。
(と、ここまで書いたところでニュース発見。坂東玉三郎さんが主演で東京&北京公演をされるとか。有名な場面だけの抜粋だそうですが。見に行く機会あるかなー)
あと、龍蓮が歌う歌詞は、牡丹亭還魂記のうち第十段「夢驚」の一部を、既存の邦訳を参考にして適当に意訳してみました。なので、細かい表現が原文とはかなり違っています。
念のため、以下に書き下し分を載せておきますので、お暇な方は解読して下さいまし。(※旧漢字は新字体に改め、表示できない漢字も同義の漢字に置き換えてます。)
恋の歌なのにどこが?、と言われそうな抜粋ですが、この戯曲の恋歌部分の歌詞はかなりなまめかしいため、龍蓮にはそぐわない気がしたので逃げました(-_-;)
原来り婉紫嫣紅開き偏(つく)せり
かくの如きを都(すべ)て断井頽垣に付与す
良辰の美景は奈何天(いかなるそら)
覚心の楽事は誰が家の院(にわ)ぞ
朝(あした)に飛び暮れに巻く雲霞翠軒
雨糸風片 煙波(えんぱ)画船
錦屏の人は甚(はなは)だ這(こ)の韶光を看て賤しむ
青山を偏(つく)して啼紅(ていこう)せり 杜鵑、茶靡の外(ほか)
煙糸酔嫩なり 春香(しゅんこう:侍女の名)呵(よ)
牡丹は好しと雖(いえど)も 他(かれ)は春帰りて怎(いか)で先を占めんや
参考文献
「國譯漢文大成 文學部第十巻」 鶴田久作 東洋文化協会 昭和31年復刻版
「中国古典文学大系 五十三巻」 岩城秀夫 平凡社 昭和46年初版
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