花守








 門下侍郎が一言紡ぐたびに、彼女の顔が蒼褪めてゆく理由が分からなかった。
 自分の頭で考えて分からないことは、直接訊くのが一番早い。それが自分の主義だったから──生まれてからニ十数年、考え無しの発言で失敗しまくりだったがそれはそれ──、どこか得体の知れない笑みを残して門下侍郎が立ち去った後、蘇芳は率直に訪ねてみた。
「なーお嬢」
「何よ」
 二人きりの、昼にはまだ少し早い冗官室の中、何でもなかったようなふりで、秀麗は重箱に詰めてある料理を手際よく、自分用と蘇芳用に取り分けている。
 だが、その顔色はまだ青いままだった。頬から血の気が引き、目元も口元も硬くこわばっている。
 その原因が、先程の門下侍郎の言葉であることは、蘇芳にも分かっていた。
 ───ここ最近、『花』の姿が王の傍にない。
 要約すれば、そんな内容のやり取りだった。
 国王の『花』といえば、国王の絶対の信頼を受ける寵臣のことであり、今現在、その『花』を下賜された二人の高官が玉座の傍を離れているということは、下級官吏の間でも噂にはなっている。
 しかし、それで何故、彼女が蒼褪めるのかが分からない。
 ただ、そんな顔色をした彼女に対し、直球で質問を投げつけるのはマズイと、蘇芳は半ば無意識に迂回路を選んで問いかけた。
「今の王様って、どんなヒト」
 その問いかけに。
 手際よく動いていた秀麗の手が、ぴたりと止まる。
 そして、もう一度素知らぬ素振りで動き出そうとして──彼女は不意に小さな溜息と共に両肩の力を抜いた。
 それから、ちらりと蘇芳に目線を投げかける。
(……あ、お嬢のやつ、今何か量ったな)
 言わんとした事を、本当に口にしても良いものかどうか。それを確認されたような気がした。
 あながち、それは間違いでなかったらしく。
「──いい人よ」
 秀麗は重箱にまなざしを戻して、静かに答えた。
「そりゃあ即位してからしばらくは、確かにやる気さっぱりなしの昏君だったけど、今は一生懸命、この国のことを考えてるわ。どうしたら皆が毎日まっとうに暮らしてゆけるのか……自分のことは全部後回しにして、本当に一生懸命……」
 秀麗はただ手元を見つめたまま、淡々と言葉を綴る。
「馬鹿みたいに真っ直ぐで、優しい人なの。本当にどうしようもないくらい。……だから」
 だから。
 そこで言葉は切れて。
(──だから、ナニ?)
 蘇芳は考える。
 先程、王の傍に人はいるのかというような意味合いの秀麗の問いかけに対し、門下侍郎が返した歯に衣着せぬ言葉の数々。
 一つ一つを思い出し、繋げてゆく。
 と、するりと答えが出た。
「……怒らなきゃいけないトコで、怒れなかった、とか?」
 さぐるように問うてみると、秀麗はこちらへとまなざしを向ける。
 その瞳は、何ともいえない色をしていた。
 切ないような、苦しいような、哀しいような。
 そして、憐れむような、自嘲するような。
 角度によってどうとでも見える瞳を、秀麗はゆっくりとまばたかせた。
「──そうよ」
 ささやくような声で言い、秀麗はほんのかすかに、あるかなしかの微笑を浮かべた。
「怒るだなんて、思いつかなかったと思うわ。そんな自分を見て、周りの人たちがどう思うかなんて、これっぽっちも──…」
「……そっか」
 短く言って、蘇芳はそれ以上の言葉を遮った。
 それ以上を、この少女に言わせてはいけない、と思った。
 何故かと言われても困る。ただ、そんな気がした。それだけのことで。
 ───どうして彼女が、国王のことをとても親しい人のように語るのか、ということについては興味が沸かなかった。
 家庭の事情で周囲が呆れるような貧乏暮らしをしていても、彼女は名門中の名門・紅家の直系長姫なのである。国王の人となりを知る機会くらいあるのだろうと思うだけだ。
 それよりも、下級貴族出身の下級官吏である身としては、一度だけ自家で起きた騒動の際にすれ違っただけの、いまだ顔さえ良くは知らない国王を評した言葉の方が遥かに引っかかった。
(いいひと、ねぇ)
 良い人、と聞いて蘇芳が真っ先に思い浮かべるのは、目の前の少女だ。
 呆れるほどのお人好し。
 他人を疑うことを知らず、正義を信じて、誰にでも親切にして、自分みたいな赤の他人に課せられた賠償金まで立て替えてしまうような、とんでもない甘っちょろいお嬢様。
 そんな彼女をして、『良い人』と言わしめるのである。
 国王が陸清雅並みの猫かぶりで、彼女がそれに騙されているのでなければ、正真正銘、掛け値なしに『良い人』なのだろう。
(あー。何か分かったかも)
 この少女が脇目も振らず、我が身をも省みずに突っ走る理由。
 勿論、彼女自身が言ったように彼女自身の夢や目標もあるのだろう。
 だが、それに加えてもう一つ。
(『良い人』の王様の役に立ちたいんじゃねーの?)
 切々と国王を語った言葉が、どんな感情から出てきたものかは知らない。
 だが、玉座周辺の現況を聞いて蒼褪めたことといい、言葉の端々ににじみ出る親愛の情から、彼女が国王をかけがえのない存在だと思っていることは十分に感じ取れた。
 そして、絵に書いたようなお人好しの彼女なら、誰かが頑張っていれば、手助けをせずにいられるはずがないのであって。
 その相手が、親しい人間であれば尚更に。
(谷谷谷の連続、崖っぷち人生でも構わずに突っ込んでいくのもトーゼン、か)
 何だか少女の無茶の原因の一つが分かったような気がして、蘇芳はこめかみに落ちかかる髪をかき上げる。
「……あのさー、お嬢」
「何?」
「俺はさ、やっぱりよく分かんねーの。こーやって官吏になって王様の臣下ってことになってっけど、俺なんて、王様を間近で見る機会すら普通は一生ナイわけじゃん? だから、はっきり言って、あんたの気持ちも全然分かんない。まー、セーガに目をつけられるくらいお人よしのあんたなら、『良い人』の王様のために一生懸命になるのもトーゼンだって気はするけど」
「────」
 秀麗は何も言わなかった。
 ただ、蘇芳が何を言おうとしているのか量ろうとしているかのように、じっと聞いている。
 そんな彼女の瞳を見つめながら、蘇芳は続けた。
「俺みたいな下級貴族にとっちゃ、王様なんて雲の上の人すぎて、全然実感が沸かねーの。なんていうか、頭の上に空があるのが当たり前、って感じ? でもそーゆーのは俺だけじゃなくって、彩七家とか門八家とかの名門以外は皆……貴族ですらない庶民なら尚更、そう感じてると思うよ。遠すぎる場所にいる人を敬えとか、その人のために一生懸命になれって言われても、絶対無理。──だからさ」
 蘇芳は、まっすぐに秀麗を見つめた。
「あんたは絶対、これ以上突っ走ったらダメ」
「……え」
 不意打ちの駄目出しに、秀麗の瞳が大きく見開かれる。
 その瞳に自分の姿が小さく映りこんでいるのを、蘇芳は少しばかり不思議な気持ちで認めた。
「あんたはさ、俺とは違って、王様を知ってる。あんたにとっては、王様は頭の上の空じゃないんだよな。だから、王様のことを気にして心配するし、一生懸命にもなれる。だったら、もう少し考えなきゃダメだろ」
「な、にを……?」
 少しばかりかすれた声に問われて。
 ああもう、と蘇芳は髪をかき上げる。
 苛立ちはしなかったが、この少女とまともに話そうとすると、いつも少しばかりの疲れともいえない疲れを覚える。
「あんたは王様の役に立ちたいんだろ? 昇進できるだけ昇進して、『良い人』の王様を手伝って、『良い国』を造りたいんだろ? そんくらい、頭の悪い俺にも分かるよ。だったら、突っ走って、誰かに足を引っ掛けられて頭からすっ転ぶような真似してたらダメじゃん。確実にいかねーと」
「タンタン……」
「何だか知んねーけど、あんたは急ぎ過ぎで頑張り過ぎ。最近、ちょっとマシになってきたけどさー。ここじゃないもっと上の方でやりたいことがあるんなら、もーちょっと足場を固めることに注意を払ったらどうって気がする。正直、今のあんたは王様のコト、心配してられる情況じゃないっしょ」
「────」
 率直に過ぎる蘇芳の言葉に、秀麗はうつむく。
 その姿を見つめながら、蘇芳は小さく溜息をついた。
(なんで、この俺がこんなコトを言わなきゃならんのかね)
 自分は下級貴族出身で官位に就いても左遷されまくり、身内から犯罪者まで出した貴族社会の落ちこぼれで、目の前の少女は、今は下級官吏として苦労しているものの、名門中の名門の直系お姫様で、国試に探花及第した秀才。
 どう考えても、普通なら彼女の方が説教をする側の人間だ。
 だが、それではダメだ、と彼女を見ていて思ったのだ。
 上へ行きたいのなら──貴族社会の中で生きてゆこうと思うのなら。
 正義や理想は尊いものかもしれない。だが、それは、それを唱えることができる立場を確保してから語るべきものであって、下の方で足掻いている連中は、それを付け込む隙としか見なさない。
 そんな官吏たちの姿を知っている蘇芳から見れば、秀麗は餓えに餓えた狼の群れに飛び込んできた、真っ白な子羊だった。
 遅かれ早かれどころか、直ちに丸呑みに食われて終わり。
 あっという間に彼女は、叩き潰され、官職を追われる。実際、そうなりかけたのは、つい先日のことだ。
 けれど、それではマズイと思ったから……彼女のような愚かしいほどに『良い人』の官吏も居なければ、切り捨てられて生きてゆけなくなる自分のような人間が多過ぎると思ったから、手助けしようと思ったのである。
 無論、自分の分はわきまえているから、この先ずっと、などという気はさらさらない。
 ただ、彼女が、冷酷かつ狡猾な貴族たちに対抗できるだけの術を身につけるまで。
 それまでのほんの少しの間、傍に居て、注意していてやろうと思ったから。
「ってところで、説教終わり。メシ食おーぜ」
 右手を伸ばして、彼女の前髪をわしわしとかき混ぜてやる。
 過保護なタケノコ家人に目撃されたら半殺しにされそうだが、幸い、彼も今頃は勤務中で、気付かれることはないだろう。万が一、運悪く通りかかって目撃されたとしても、一目散に逃げるだけだ。……逃げ切れるかどうかは別にして。
「……タンタン」
「んー?」
「ありがと。……もうちょっと考えてみるわ」
「建設的な方向に、だぜ。焦っても意味ねーんだから」
「うん」
 うなずく彼女は、素直だった。
 本当に賢い人間というのは、彼女のようなことを言うのだろう。
 人の言葉に耳を傾け、自分の非を認めて、大嫌いな相手の力量をも正当に評価する。それはできそうで、中々できることではない。少なくとも、自分のお節介な忠告にも機嫌を損ねず、まともに受け取ってくれたのは、彼女が初めてだった。
 もしかしたら、その素直さこそが彼女の才能なのかもしれない。そう思いながら、蘇芳は小さく笑みを閃かせた。
「ま、大丈夫っしょ。最近は大分、セーガにも慣れてきたみたいだし?」
「ちょっと、やめてよ!! せっかく真面目な気分だったのに、あんな奴の名前なんて出さないでってば!!」
「うぉ!?」
 重箱の中のしゅうまいに手を伸ばしかけた途端に、重箱をひったくられて指先が空振りする。
「あんな奴の名前を出してごめんなさいは!? 言わなきゃ、もう食べさせてやんないわよ!!」
「……ゴメンナサイ。心からハンセイしております」
「……それでいーのよ」
 何がいいのかと思ったが、秀麗は元通り、卓上に重箱を置く。
 そして途中になっていた料理の取り分けを再開した。
 それを横目で眺めながら、蘇芳も自分の弁当を取り出す。
 竹皮に包まれた不恰好もいいところの大きな握り飯(塩のみ・具なし)は、毎朝、父親が不器用に握ってくれるものだ。
 おそらく……というより間違いなく、父親が投獄されていた間、毎日蘇芳が差し入れた握り飯に対する父親なりの感謝の気持ちの表れなのだろうが、毎朝、それを持って屋敷を出るのは悪い気分ではない。
 父親が死刑の瀬戸際にあったあの一月ほどの間、父親と自分を隔てる格子さえなければ何でも良い、何でもすると思った気持ちは真実だった。そして、それが過去となった今も、その気持ちは変わらない。
(つっても、この女がいなかったら、俺があんな根性出せたわけねーしな)
 何の縁も義理もなかったはずなのに奔走しまくって蘇芳自身を牢獄から引きずり出し、更には、何のとりえもない小心者で根性なしの父親をも死罪から救えるよう、徹底的に蘇芳を焚き付けてくれたのは秀麗だった。
 そんな彼女と行動を共にしているうちに、むしろ彼女自身に危うさを感じて、水面下でなけなしの手を打ってしまった自分の行動が、今となっては少し可笑しい。
 だが、かろうじて死刑とクビを免れた後、自分の行動が、自分と他人の双方を本当に救うようなことにもなるんだな、とぼんやりした感慨を覚えたのは事実で。
「ま、悪くはないよな。こーいうのも」
「? 何がよ、タンタン」
「いーや、独り言」
「変なの」
 首をかしげながらも、秀麗は綺麗に料理を盛った取り皿を蘇芳の前に置いてくれる。
 ───あの日、どっかの誰かにカモにされて美味い話を吹き込まれた父親の命令で、彼女に求婚しにいかなければ、今、自分はかなりの高確率でこの世に居なかった。
 もとより自分にとっては、あの日の求婚は何となく察した身の危険を回避するだけの行動であって、彼女を嫁にする気などさらさらなかったし、それは今も微塵ほどもない。
 どちらかというと今現在の秀麗に対する感情は、頭はいいのに世間知らずで暴走しがちな困った妹ができたような気分、というのが一番近いだろう。
 だが、それはそれで悪くない、と素直に思えるのだ。
(これまですっげーくだんなかったけど。今は悪くねーよな、俺の人生も)
 人生の目標なんて、この先、父親と二人して何事もなく生きるくらいのことしかないが、目の前の少女の手助けをできるのなら、ちょっとばかり頑張ってみてもいい、と思う。
 どうせ大したことなどできやしないのだけれども、少なくとも今はまだ、自分の言葉に感じるものが彼女にはあるようではあるし。
 案外、この世には全てが無駄、ということはないのかもしれない、とそんな気がして。
「じゃ、いただきましょ」
「おー」
 二人揃って、手を合わせて。
 御史台で最も下っ端の二人は、いつもの通り、仲良く昼食を食べ始めた。










End.












 初書き彩雲国。
 ラブリー後輩・ぱんだちゃんに貸してもらって最新刊まで読破したのですが、めっちゃハマりました! ストーリーもキャラもすごく好きです。
 一番好きなのは、劉輝×秀麗の王道カップルなのですが、この二人については下手に妄想すると、原作の今後の展開とのすり合わせが難しくなりそうなので、ちょっぴり自制。
 で、登場したのが、最愛キャラのタンタンこと榛蘇芳。
 『紅梅』で初登場の時は、「何よこのタヌキ男は?」という感じでしたけど、ラストでひっくり返されて。次巻の『緑風』の牢獄にいる父親に差し入れする場面で、じんわり泣かされて惚れました。
 いや、本人や周囲がどう評価しようと、今現在の彼はマジでいい男ですよ。旦那にするなら、こういう人がいいです。
 なお、作中にも書きましたが、うちの蘇芳さんは秀麗に対しては恋愛感情持ってません。野生動物並みに危険察知アンテナの性能が良いので、やばい女には絶対に惚れないのです(笑)

 というわけで、彩雲国にはかなりハマったので、気が向いたらまた書こうと思ってます。
 とりあえず、次は清雅かな。蘇芳と並ぶmy双璧は劉蓮なんだけど、彼を描写するのは難しい……。
 感想&リク等ありましたら、掲示板まで是非どうぞです(^_^)




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