Chanson de l'adieu 1
−1938年5月 Deutsche Reich−
面会を希望する者がいる、と聞いて3階の執務室から階下へと降りたセレストは、詰め所の玄関前に立っていた小柄な人物を見て、目を見開いた。
「カ・・・!」
思わず名を呼びかけて、自分がいる場所を思い出して、はっと口を閉ざし、足早に近寄る。
そして、他の者には聞こえない声量で、面会人に鋭く囁いた。
「何故、こんなところにいらっしゃるんですか!?」
「敬語なんか使うな。その制服で敬語を使うと、かえって僕の素性が詮索されるぞ」
そう言って振り返った相手の瞳は、鮮やかな青。
その澄んだ色に、セレストは一瞬息を呑み、そして相手の言い分が正しいことを認めて、小さく息をついた。
「──分かりました。が、何をしにいらっしゃったんです、こんな所へ」
「仕方ないじゃないか。お前の職場はここなんだから、ここに来なきゃ会えない」
「ですから・・・・!」
「大丈夫だ。身分証明書を提示しない限り、僕は生粋のゲルマン人にしか見えない。そうだろう?」
「───・・・」
再びセレストは押し黙る。
眉間のしわが深くなったが、しかし、ここで押し問答をしているよりは相手の話を聞いて、さっさとこの場から立ち去らせた方が安全なのには間違いない。
そう判断して、溜息まじりに相手を促した。
「とにかく、こちらへ。ここでは人目につきすぎます」
「うむ」
その辺りのことは相手も分かっているのだろう。素直に頷いて、連隊の詰め所として使われている建物の脇にある路地へと誘導された。
狭い、人気のない空間で、セレストは改めて相手に向き合う。
「──それで? 一体何の御用事です?」
「だから敬語なんか使うなというのに。お前の方がずっと年上なんだし、そんな髑髏マークのついた黒シャツを着て、お屋敷の坊ちゃんも何もないだろう? 第一、もう僕は『お屋敷の坊ちゃん』じゃなくなるんだからな」
「カナン様・・・・」
あっさりと少年が付け加えた最後の一言に、セレストは目をみはる。
その翠緑の瞳を見つめて、カナンと呼ばれた少年は頷いた。
「アメリカに亡命する」
「──いつです?」
「五日後。ようやく準備が整ったんだ」
「・・・・そうですか、良かった。この国を出るのは、一日でも早い方がいい」
ほぅっと息をついたセレストを、カナンは真っ直ぐに見つめた。
「ずっと準備はしてあったんだがな。何しろ一族まとめての移住だ。向こうでの受け入れ態勢が整わないことには動けなかったんだが、先週、ようやく兄上から連絡が届いたんだ。
大西洋を渡って移民局に申請すれば、即アメリカ国籍を取得できるし、住居や大人たちの職も確保できている。そのために、この五年間、兄上は随分ご苦労なさったようだし、合衆国政府高官に、かなりの金もバラ撒かれたようだ」
「生命の安全を買うためなら、安いものですよ。金があるのなら使うべきです」
「ああ。僕もそう思う」
悪びれることなく応じて、カナンは見上げた瞳を逸らさないまま、告げる。
「だから、今日はお別れを言いに来たんだ」
「・・・・カナン様」
「本当は、そんな制服を着てないお前に会いたかったんだけどな。お前に黒は似合わない」
そう言って。
カナンは、痛みを堪えるような表情で小さく微笑んだ。
──髑髏マークの付いた、黒いシャツ。
それは、NSDAP親衛隊の象徴だった。
セレストが、それを身につけるようになったのは、3年前からである。
亡き父親が前の世界大戦で軍功を上げた大佐であった縁もあって、親衛隊に引き抜かれたのだ。
だが、瞳が珍しいほどに鮮やかな翠緑でなければ、推薦の話はなかっただろう。
エリート中のエリートである分、親衛隊の採用条件は異様に厳しい。容姿、頭脳、血筋、運動能力、それらのすべてが世界に冠たるゲルマン人らしく秀でているものしか選ばれないのだ。
そして。
今、セレストの目の前にいる少年は金の光を紡いだような髪と、深く澄み切った青い瞳を持ち、どこから見ても生粋のゲルマン人にしか見えない。
だが、その内側にはNSDAPが憎んでやまない血が流れている。
3年前に施行されたニュルンベルク法は、8分の1混血までをユダヤ人として規定し、その枠内の人々を公職から追放し、企業経営を禁止し、市民としての生活権を否定した。
カナンは、その8分の1混血だった。母方の曾祖母が、ユダヤの血を引いていたのだ。
だが、ルター派の洗礼を受けている彼はユダヤ教徒でさえなく、NSDAPの台頭までは、ごく普通の少年として家族とともに幸せに暮らしてきたのである。
カナンの生家は古い歴史を持つ由緒ある家柄であり、富裕な実業家でもあった。
が、5年前の選挙でNSDAPが政府の第一党となるのと同時に、次期当主であるカナンの兄が事業の基盤をアメリカへと移転させ、一族を亡命させる準備を進めており、それがようやく実ったのだ。
「この国は、どんどん悪くなる。まだ子供の僕でも分かるんだ。大人たちには、まさか殺されやしないだろうと楽観している連中も多いが、僕にはそうは思えない。
現に僕たちを取り囲む法律は月毎に厳しくなるし、差別を不合理だと主張している知識人階級が、次々に逮捕されてるんだ。近いうち、ゲルマン人の中に僕たちを庇う声は全く無くなるだろう」
「・・・・反対するだろう者を真っ先に排除するのが、政策としては最も効果的なんです。ですから・・・・」
「そうだ。ゲルマン人のくせにゲルマン人の優越性を否定する。政府にとっては、そんな裏切り者は地獄に落ちて当然なんだからな」
そう言い、カナンはセレストを見つめた。
「そんな顔をしなくてもいい。お前を責めているわけじゃないんだ。お前だって、この国で生きて、家族を守っていかなきゃいけないんだからな。そんなことは分かってるから、いいんだ」
カナンは小さく笑顔を浮かべる。
「どうしようもないんだ、僕にもお前にも。だから、僕は家族と共にこの国を出て、兄上を助けてアメリカ政府や他のヨーロッパ諸国に働きかける。この国の国籍を持ったままでは生きられないから、国籍も捨てる」
そして、わずかに言葉を切ってから続けた。
「全部、生きるためだ。お前がその制服を着ているのも、僕がこの国を捨てるのも」
きっぱりした言葉に、セレストは内面の苦悩を押し隠せない表情で眉をひそめる。
「カナン様・・・・」
「湿っぽい挨拶はいい。それよりも・・・・エリックとシェリルのことなんだが」
「え?」
「もし必要なら、あの2人を僕たちと一緒に亡命させることくらい、わけはない。どうする?」
「どうすると・・・・言われましても」
思いがけない言葉に、セレストは返答に詰まる。
セレストの妹シェリルの夫であるエリックは、ルター派の牧師であり、また慈善活動家でもあった。
もともと社会的弱者の保護と救済のため、日々懸命に走り回っていたのだが、NSDAPの台頭後は、それに加えてユダヤ人の排斥禁止を訴え始めて、決して過激ではないものの、懸命に支援活動を続けている。
温和で目立つ真似をするような青年ではないのだが、それでも、ユダヤ人に対する支援活動そのものが政府や軍部に目を付けられる素となり、半年ほど前には逮捕され、投獄さえされたのである。
だが、何の政治的後ろ盾もない彼が十日程で無事に釈放されたのは、ひそかにカナンの父が、有力なドイツ人を介して警察に金を都合したからであり、それはセレストもうすうす気付いていた。
「ありがたいお申し出ですが・・・・」
しばしの間、悩んだ後、セレストは重い声で少年に告げた。
「おそらくエリック君は亡命を望まないでしょう。シェリルも・・・・」
「──そうだろうな」
「私にしてみればシェリルは可愛い妹ですし、エリック君も大切な家族です。ですから、本心としては安全な場所へ逃げ延びて欲しいと思いますが・・・・」
「納得しないだろうな、彼は」
おっとりと温和なのに粘り強く、諦めるということを知らない若い牧師の顔を思い浮かべたのだろう。カナンも重い溜息をつく。
「すまない。詮のないことを言った。分かってはいたんだが・・・・」
「いいえ。お気遣いいただいて嬉しいと思います。カナン様のおうちは、それどころではないはずですのに・・・・」
「でも、お前もシェリルも、僕たち兄弟にとっては大切な幼馴染だ。だから手を貸せるものなら貸したい。それだけのことだ」
「カナン様・・・・」
「とにかく、エリックには無理をするなと言ってくれ。僕たちのために活動をしてくれるは嬉しいが、すべては命があってこそだ。死んだら何にもならない。シェリルのためにも命を惜しめと、そう伝えてくれないか」
「はい、必ず」
「うん」
そこまで言ったところで、言葉が途切れる。
二人は互いを見つめた。
見る者がいれば、ひどく奇妙な光景に映っただろう。
この国の誰もが恐れるNSDAP親衛隊の制服を着た青年将校と、ごく普通の、どこにでもいるような十代半ばの小柄な少年。
だが、路地の付近を通りかかる者はなく、二人は言葉を探すように、あるいは相手の言葉を求めるように互いの瞳を見つめる。
その沈黙を破ったのは、セレストだった。
「カナン様」
静かな声で名を呼びながら、左手の白手袋を外す。
そして、セレストは小指に嵌めていた銀の指輪を外し、差し出した。
「これを」
「・・・・・でも、それは」
「いいんです。価値のあるものではありませんが、良ければお持ち下さい」
「・・・・・・」
穏やかに言われ、カナンは右手を上げ、手のひらにその指輪を受ける。
鈍い輝きを放つ幅広の銀の指輪には何の装飾もなく、ただ内側に、”Kyrie eleison”と祈りの言葉が刻み込まれている。
これは祖父、父、そしてセレストへと、代々軍人だったアーヴィング家の当主へと受け継がれてきたものだということをカナンはよく知っていた。
「・・・・・こんな大切なものをもらっても、僕は何も返せないぞ。手ぶらで来てしまったからな」
「構いませんよ。私は軍人ですから、四六時中あちらこちらへ移動している間に、形あるものは失くしてしまうでしょうし」
セレストの言葉を聞きながら、カナンは銀の指輪を自分の指に嵌めてみる。
が、優秀な軍人である青年の指と異なり、まだ成長半ばの細い指には、指輪は大きすぎて人差し指でさえも、くるくると回ってしまう。
「・・・・僕だって、失くしてしまうかもしれないぞ。こんなにサイズの合わない指輪なんて」
「それでもいいんです。私がお渡しして、あなたが受け取って下さったことさえ覚えていて下されば」
「・・・・・・そうだな。それは絶対に失くさない」
うなずいて。
カナンは顔を上げた。
「セレスト、ちょっと屈め」
「はい?」
手招きされるままに、セレストが上体をかがめると。
カナンの細い腕が首筋に回され、頬にやわらかな感触が触れた。
「お返しだ。形あるものなら失くしても、これなら失くさないだろう?」
「カナン様・・・・」
「様は要らない。子供の頃から何度言わせる?」
そう言い、カナンはセレストから離れた。
そして、まっすぐに翠緑の瞳を見上げる。
「さよならは言わないからな」
「カナン様」
「カナン、だ。この国がどうなろうと、世界がどう変わろうと、必ずどこかでまた僕たちは再会する。いいな?」
「カナン様・・・・」
名を呼んだセレストに、カナンは明るい笑みを向けた。
「じゃあな、セレスト。元気で。指輪は大事にする。絶対に失くしたりなどしないから」
「カナン様も・・・・どうぞ、お元気で」
「うん」
うなずいて、カナンはくるりと向きを変え、細い路地を出てゆく。
そして、表通りの眩しい光の中で一度振り返り、軽く右手を振って見えなくなった。
「───・・・」
誰もいなくなった路地で、セレストは左手の手袋を外したまま、しばしの間たたずむ。
怒濤の勢いで流れてゆくこの国の歴史の中で、自分はあまりにも無力だった。
「どうか・・・・無事で・・・・」
呟いた声は、どこにも届かずに消える。
武力によるユダヤ人強制排斥と生物的絶滅を目指すの嚆矢(こうし)──叩き割られ、街路に散ったガラスの破片がきらきらと輝いていたことから名付けられた、Kristall Nacht−水晶の夜−が起きたのは、カナンとその家族がこの国を出てから半年後、1938年11月9日のことだった。
to be continued...
貢ぎ物その1は、素敵セレストさんのイラストを下さった、まつのすけ様への捧げ物でございます。
実を言うと、イラストを強奪した当初は何かを書くつもりはなかったんですけど、まつのすけ様が、カナン様がユダヤ人か、上官かでセレストの表情が変わるから悩んだ、というような事をおっしゃっていたのを思い出しまして。
つらつらと考えているうちにネタができて、こんなことになりました。
が、ネタを思いついたものの、私がこの時代を嫌いなために、我が家の本棚にはこの時代に関する資料が殆どなくて、とりあえず受験生必携の吉川弘文館の『世界史年表・地図』と、山川出版社の『世界史用語集』、そして学生時代のドイツ語辞書、おまけの大江一道・山崎利夫著『世界史への旅』(山川出版社)を片手に頑張ってしまいました。
それで本当は、もう少し早い時期に亡命させたかったんですけど、(アインシュタインなんかはナチスが政権を獲った1933年にアメリカへ亡命)、終戦時のカナン様の年齢から逆算すると、ギリギリの1938年から物語はスタートします。
翌1939年からはユダヤ人は住居と財産を奪われ、強制居住区へと追いやられて、更には1940年に完成したアウシュビッツを始めとする強制収容所へと送られ、数百万人が虐殺されてゆくことになるのですが、まぁそのあたりは私自身がキツイので、詳しくは作品内でも書きません。
歴史物を書く時は、もっと史実を消化してから取り掛かるべきなんでしょうが、この時代のドキュメンタリーは読むには怖すぎるので、かなり内容はすっ飛ばします。
なので、史実に関しては大雑把ではありますが、多分、間違ったことは書いてないと思うので、適当に読み流して下さい。
ストーリーそのものは短くて、前・中・後か、前後編になるので、よろしくです。
あ、あと書き忘れましたが、タイトルはショパンの練習曲 ホ長調 op10-5 の愛称、『別れの曲』のことです。
ショパンは好きじゃないのですが、ベートーヴェンもシューベルトも似合わないので、これを借りました〜。・・・しかし、ショパンって本当に製作BGMには合わにゃいね・・・・。
NEXT >>
BACK >>