Chanson de l'adieu 4
日々の生活に変わりはなかった。
約束通りエリックの教会に届けた食材のお礼にと、菓子を配ってもらった町の子供たちからのカードが大量に届き、代わりに今度は、教会学校で不足していると聞いた筆記用具やノートを人数分送ったら、子供たちの代表から、今、クリスマスキャロルを一生懸命練習しているので、良かったらクリスマスに聞きに来て下さいというメッセージが返ってきた。
メッセージは、手作りの押し花のカードに書かれていて、その素朴な美しさは、どれほど眺めても見飽きず、カナンは自分の執務卓にそれを飾った。
どれもこれも、他愛ないやりとりだった。
が、それらは自分のしていることは只の自己満足ではないのか、という思いに、ともすれば捕らわれがちなの心を慰め、確かに癒してくれるようで。
子供たちの歌うキャロルを聞きに行けたらいい、聞きに行きたい、とびっしり埋まったスケジュール表を、ちらりと眺めながらカナンは考えた。
* *
「旦那様、お客様がお見えになっておられます」
「客? 今日は予定はなかったが」
「はい。ですが、昔のお知り合いだと旦那様にお伝えしてくれと・・・・」
「昔の知り合い?」
カナンは眉をしかめる。
経営状況がまだまだ苦しいとはいえ、ルーキウス財閥は大富豪であり、合衆国を中心とした各国の政府にも強力なパイプを持っているため、友人知人を名乗って来る輩や、利権を求めて近付きになりたいと願う輩は枚挙に暇がない。
「──誰だ? 名前は名乗ったんだろう?」
溜息まじりに手元の書類にサインをしながら、カナンは問いかけた。
すると、実直な執事は、落ち着いた声で答えた。
「アーヴィング様とおっしゃいました。旦那様がお小さかった頃に、同じ町に住んでいた者だと・・・」
「!?」
その返答に。
一瞬耳を疑い、我を忘れて立ち上がる。
その勢いで手を離れた万年筆が大きな執務卓の上を転がり、絨緞を敷き詰めた床に落ちたが、それにも気付かない素振りで、カナンは血相を変えて叫んだ。
「アーヴィング? 本当にアーヴィングと名乗ったのか!?」
「は、はい。確かに」
普段から感情豊かではあるものの、立ち振る舞いは洗練されている主人の、思いがけない剣幕に驚愕の表情を浮かべながらも、執事は頷いた。
「それで、今はどこに!? 応接室か!?」
「お通り下さいと申し上げたのですが、旦那様が目通りを許されるかどうか分からないからとおっしゃられまして、まだ門の所に・・・・」
聞き終えるのももどかしく、カナンは、ばっと窓を振り返る。
壁の大部分を占める大きなガラス窓の向こうには、美しく紅葉が色づき始めた庭園が広がり、更にその向こうに鉄製の瀟洒な門が見えて。
──そこに確かに人影があった。
数秒、窓越しに門を凝視していたカナンは、次の瞬間、身を翻して大きな執務卓と執事の脇をすり抜け、部屋の外へと駆け出す。
旦那様、と驚き叫ぶ執事の声も耳に入らないまま階段を駆け下り、玄関ホールを抜けて、庭園へと飛び出して。
紅と黄に染まりかけている、手入れの行き届いた広い庭園の向こう。
薄手のコートを脱いで手に持ち、静かに舞い散るポプラを見上げている青年。
そのまなざしが、駆け寄る足音に気付いて、こちらに向けられる。
「───!」
呼んだ名前は声になったかどうか。
駆け寄った勢いのまま、カナンは青年に抱きついた。
言葉も何もない。
ただ、しがみつくように全身の力で抱きしめて。
「カナン様・・・・」
少し困ったような、けれど優しい声が名前を呼ぶ。
その響きにカナンは唇を噛み締める。
と、背に回された腕に、優しく抱きしめられて。
きつく閉じた目の奥が、どうしようもなく熱くなる。
いっそ、声を上げて泣きたかった。
「セレスト・・・・」
かすれた声で、名前を呼んで。
顔を上げる。
すぐ傍に、優しく笑んだ鮮やかな翠緑の瞳があった。
「よく・・・無事で・・・・」
「はい」
答える表情は穏やかで、まっすぐにカナンを見つめている。
その瞳の色に。
───本当の意味でセレストが帰ってきたことを、カナンは感じた。
四年前、捕虜収容所で会った時の彼ではなく、もっと昔の・・・・カナンが良く知っていたセレストが、今、ここに居て、自分を見つめていてくれる。
そう感じた時、またもや目の奥が熱くなるのを感じ、カナンは零れそうになる涙を散らすために忙しなくまばたきをして、もう一度セレストを見つめた。
だが、言葉が見つからず、そっと右手を上げて青年の頬に触れる。
手のひらに伝わる温もりに、どうしようもないほどの切なさが込み上げてくる。
と、セレストが微笑んで、自分に触れているカナンの右手を取り、そっと押し頂くように薬指の銀の指輪に口接けた。
「ただいま戻りました、カナン様」
「──うん」
思いがけない仕草に少し驚いたように見開いた目を笑ませて、カナンは頷く。
「おかえり、セレスト」
そして、ようやくずっと抱きついたままだった青年から離れた。
「こんな所で立ち話も何もない。中に行こう」
「はい」
促し、二人は庭園の中を抜けて、屋敷の玄関へと向かう。
その間、どちらも何も言わなかった。
そうして屋敷の中に入ると、迎え出た執事が丁寧に頭を下げた。
「コンラード、彼はセレスト・アーヴィングだ。僕にとっては家族同然の大事な人だから、覚えておいてくれ。
それから、セレスト。彼はコンラードといって見ての通り、この屋敷の執事で、日常のことなら何でも知っているから、何か分からないことがあったら彼に聞くのが一番早い」
「ようこそいらっしゃいませ、アーヴィング様」
「様を付けていただくような身分ではありませんが・・・・セレスト・アーヴィングです。よろしくお見知りおき下さい」
二人が挨拶をかわすのを笑顔で見届けて、カナンは執事にまなざしを向ける。
「そうだな、応接室・・・・じゃなくて、僕の部屋でいい。お茶を持ってこさせてくれ」
「承知いたしました」
「うん。行こう、セレスト。こっちだ」
「はい」
半歩先に行くカナンについて、セレストも歩き出した。
カナンが主人となっているこの屋敷は、相当に立派な造りだったが、決して派手ではなく洗練されていて、全体的にとても品のいい印象を与える。
あちらこちらに明かり取りの窓があり、光がふんだんに入る邸内を歩くカナンの髪が眩しい金色に輝いて、セレストは目を細めてそれを見つめた。
階段を上がって二階の右手、一番奥にある部屋をカナンは開ける。
「執務室は、さっきの階段の正面にある部屋なんだけどな。今日はもう、仕事なんかしていられるものか」
「それは・・・・・困りましたね。悪いタイミングで来てしまいましたか」
「そんなわけがあるか、馬鹿者」
苦笑するセレストを軽く睨んでから、カナンは布張りの瀟洒な応接セットを示した。
「とにかく座れ。すぐにお茶も来るだろうから」
「はい。失礼します」
軍隊生活の長かったセレストの身のこなしは、無駄がない。
上流階級における洗練とはまた違った美しさを持つそれを、カナンはひどく懐かしいような思いで見つめた。
と、控えめなノックの音が響いて、振り返り、入れと声をかけると、執事自らがワゴンを押して現われる。
「ありがとう。あとは僕がやるから下がっていい」
「はい」
「それから夕食も・・・・。セレスト、まさかすぐ帰るなんて言わないだろうな?」
「言いませんよ。カナン様が滞在をお許し下さるのなら、ですが」
「許さないわけがないだろう。そういうわけだから、コンラード、客室の用意も頼む」
「承知いたしました。旦那様のお隣のお部屋でよろしいでしょうか?」
「ああ」
うやうやしく一礼して執事が出て行くと、セレストは穏やかな瞳をカナンに向けた。
「──旦那様、ですか」
「仕方がないだろう。二十歳を過ぎて、坊ちゃまと呼ばれたくなんかないしな」
かといって、この年で旦那様と呼ばれるのも嬉しくないが、とぼやきながらも、カナンはティーポットを取り上げて紅茶をカップに注ぐ。
その様子を、セレストは静かに見つめた。
「四年前にも思いましたけれど、本当に大人になられましたね、カナン様」
「当たり前だ。僕を幾つだと思ってる?」
言いながら、カナンはティーカップをセレストの前と、対面する位置に置く。
そして、自分は腰を下ろさずに、セレストの傍に歩み寄った。
「あれから十年、経ったんだ」
「・・・・そうですね」
「途中からお前の行方は分からなくなるし」
「すみません」
「お前が謝ることじゃない。・・・・謝ることじゃない、けどな」
ぐっと右手を握り締めたカナンの青い瞳が揺れる。
秋の午後の光が差し込む明るい部屋の中で、その瞳は稀有な宝石のように透きとおっていて。
「カナン様」
困ったように微笑して、セレストはカナンの目元にそっと手を伸ばす。
優しく触れた温もりに、カナンは一瞬切なげに顔をしかめ、そしてセレストの手をそっと取って、手のひらに口接けた。
「・・・・もう会えないのかと思った」
「はい」
「あの時は約束したから、もう一度お前に会えたけれど、収容所では何も約束できなかったから。だから・・・・」
セレストの右手を握り締めたまま、言いつのるカナンの瞳から、涙が一粒、堪えきれずに零れ落ちる。
その涙を、セレストは自由な左手で、そっと拭った。
「すみませんでした。でも、私は今、ここに居ますから」
「──探したんだぞ」
「はい」
「毎月、捕虜の死亡者名簿をめくりながら、いつも気が狂いそうだった。もしお前の名前があったらと・・・・」
「はい」
うなずくセレストに、カナンは手を伸ばす。
頬に、髪に、確かめるように触れて。
そして、翠緑の瞳をじっと覗き込んだ。
「──お前だな」
「ええ」
瞳を逸らすことなく、セレストは答える。
と、ようやく安心したのか、カナンはまだ水気の滲んだ瞳で小さく微笑んだ。
「うん。お前だ。──本当によく帰ってきたな」
その笑顔に、セレストも微笑む。
「カナン様のおかげですよ」
「僕の?」
「ええ。四年前、あなたが会いに来て下さったから。あれがなかったら、私は生き抜けなかったでしょう」
「・・・・どういうことだ?」
意味が掴めずに、カナンはまばたきをする。
だが、セレストは曖昧にごまかしたりはしなかった。静かな声で続ける。
「カナン様はお気付きだったのではありませんか。あの時、私が生きる気力を無くしていたことを・・・」
「・・・・ああ、うん。──何となくだが・・・・そんな気はした」
「ええ」
穏やかに肯定するセレストを、カナンは真っ直ぐに見つめた。
「あまりにも沢山の人が死んで、自分も人を殺して・・・・・なのに、どうして自分が生き延びたのか、分からなくなったんです。死にたいとは思いませんでしたけれど、どうして自分が生きているのが分からなかった。
でも、あなたと再会して、突然気付いたんです。あの日、あなたが最後に言った必ず再会するという約束があったから、自分は生きているのだということに・・・・」
「え・・・・」
「必ず再会するという約束が、ずっと私を支えていた、そのことに気付いてから私の中で何かが変わりました。
とにかく生きようと思った。そしていつか収容所を出たら、あなたに会って、約束を果たすために私を探してくれたことへのお礼と、あの時応えられなかったお詫びを言おうと・・・・。この四年、それだけを考えてました」
「セレスト・・・・」
名を呼んだカナンを、セレストはソファーに腰を下ろしたまま、静かに見上げる。
「御存知かもしれませんが、持久戦や収容所のような極限状態では、弱気になった者から死ぬんです。もう駄目かもしれない、死んだら楽になれる・・・・そう思うことが、そのまま命取りになる。
何のために生きているのか分からずにいた私も、あのままあなたに会うことがなかったら、生きて収容所を出ることは出来なかったでしょう。それを食い止めてくれたのが、あの日のあなたの面影でした」
セレストは本来、寡黙でもおしゃべりでもなく、美辞麗句を得意とすることもない、ごく普通の青年である。
だが今は、驚くほどに多弁だった。
それらの言葉を一言も聞き逃すことのないよう、カナンは響きのいいその声に全身全霊を傾ける。
「あなたの心遣いを拒絶した私を、あなたは何も言わずに許して下さった。けれど、あの時、あなたがどんな思いで私を見つめていたのか・・・・思い出して考えれば考えるほど、たまらなくて・・・・。もう一度会うまでは、絶対に死ねないと思い続けてました」
どれほど言葉を尽くしても足りない、と翠緑の瞳がカナンを見つめる。
「あなたの存在が、この十一年間、私を支えてくれた。もしかしたら、それよりずっと昔から・・・・」
深い声で告げるセレストを見つめていたカナンは、少し驚いたようにまばたきをして。
それから、どこか切ない、泣きたいような表情で小さく微笑んだ。
「僕だって同じだ」
「え?」
「祖国を捨てるのも、異郷で暮らすのも決して楽なことじゃなかった。・・・・でも、この指輪を見るたびに、お前と再会するという約束を思い出して、また頑張ろうと思った」
「カナン様・・・・」
「僕だって、お前がいたから・・・・きっとまた会えると思っていたから、ここまで頑張ってこられたんだ。相手がお前だったから・・・・どんなに辛くても、絶対にお前を忘れることは出来ないから、いっそのこと気が狂った方が楽だと思いながらも、信じ続けていられた。
お前が僕の知らない場所で、僕の知らないうちに死ぬわけがない。そう思って・・・・ずっと・・・・」
震えて途切れかけた言葉を、一旦切り。
「セレスト」
澄んだ声で名前を呼んで。
カナンはセレストの額に、そっと口接けを落とした。
続けてこめかみに、頬に、羽根が触れるようなキスを落として──最後に唇に軽く触れる。
そして、改めてセレストの瞳を見つめた。
「──好きだ」
「・・・・はい」
セレストもまた、優しい瞳でカナンを見つめる。
「私も、あなたが好きです。ずっと前から・・・・」
「──うん。知っていた」
今にも泣き出しそうな笑顔で、うなずいて。
そして二人は、どちらからともなく瞳を閉じる。
触れるだけのキスを数度繰り返して、互いの背に腕を回し、深く口接ける。
触れ合う感覚がどうしようもなく甘く、愛しくて。
どれほど自分が相手を求めていたのか、改めて思い知る。
できることなら、このままもう二度と離れたくない、と止めどもなく生まれる熱の合間に心の底から願った。
「・・・・セリカが嘆くな」
ゆっくりと名残を惜しむように唇が離れた後、ぱふ、とセレストに抱きついて、カナンが溜息まじりに呟く。
その脈絡のなさに、セレストは一つまばたきした。
「せっかく大事な息子が戦争から帰ってきたのに、綺麗なお嫁さんをもらうかと思いきや・・・・」
「それを言うなら、あなたの御家族も一緒でしょう。大事な末っ子が、こんな男に引っかかるなんて・・・・」
「こんな、なんて言うな」
ソファーの肘掛に腰を下ろした形で抱きついたまま、カナンはセレストの後頭部を軽く拳でこづく。
「いいんだ。僕はお前以外の相手とどうにかなる気なんか、全然ないんだからな」
「それも、私も同じですよ」
「うん」
うなずいて、カナンはようやく、くすりと小さな笑いを零した。
「まぁ無理にばらす必要もないしな。結婚する気がないで通せば通せないこともないだろう。第一、うちには兄上と姉上の子供が合計で五人も居るし」
「うちも、フランツとシャルロッテの二人が居ますしね」
「うん。──あ、お前、先に家族の所には行ったんだろうな。三人とも、すごく心配してたんだぞ」
「当たり前ですよ。私としても安心させたかったですし、行かなければ、あなたが怒るだろうと思いましたから」
「当然だ」
「シャルロッテに会うのは初めてでしたし、フランツもとても大きくなっていて・・・・私があなたに会いに行くと言ったら、一緒に行くと聞かなくて大騒ぎでした。二人とも、本当にあなたが大好きなんですね」
そう言い、セレストは微笑んで、カナンの光を紡いだような髪を優しく指で梳く。
「ずっとエリック君の教会に援助を続けて下さっていたそうですね。私があなたと親しいことを聞きつけた町の人たちから、数え切れないくらいにあなたへのお礼の伝言を預かりましたよ。
それらを聞きながら、あなたという方を誇らしく思う一方で、四年前、あなたを傷つけてしまったことが、とてつもなく心苦しくて・・・・。あなたに会えたら、どんな顔をすればいいのかと汽車の中でずっと考えてました」
「そんなこと」
小さく笑って、カナンは腕を緩めてセレストの顔を見つめた。
「どんな顔だっていいんだ。僕はお前に会いたかったんだから。こうして戻ってきてくれただけで十分だと、そう思うと思わなかったのか?」
馬鹿だな、とやわらかな声で呟いて、カナンはまたセレストに抱きつく。
その昔より背丈は伸びたものの、相変わらず細い身体をセレストは優しく受け止め、抱きしめる。
「ええ。自分でも馬鹿だと思いますよ。胃が痛くなるくらいに色々考えていたのに、あなたを見た瞬間、全部忘れてしまったんですから」
「そうなのか?」
「はい。情けない話ですが」
「本当にな」
面白げに笑い、でもそれで良いんだ、と付け加えて。
カナンは顔を上げ、そして、まっすぐにセレストの瞳を見つめて告げた。
「これからは、ずっと僕の傍にいろ。たまに家族に会いに行くのは構わないが、これ以上、お前を失くすのには耐えられない」
「はい」
セレストの答えに躊躇いはなく。
「ずっと傍にいます。──カナン」
その呼びかけに。
カナンは大きく目をみはり、そして花が咲くように微笑んだ。
「初めて呼んだな」
「ええ」
「次は、敬語をどうにかするんだぞ」
「それは・・・・ちょっと難しいかと」
「じゃあ、とりあえず『私』と畏まるのはやめろ」
「・・・・努力します」
「ん」
くすくすと笑い合って。
そして、セレストはカナンの右手を取り、銀の指輪に口接ける。
「この先、永遠に・・・・あなたの傍に」
「魂だけになっても永遠に、お前と共に」
二人だけの誓いの言葉を交わして。
互いを抱きしめる。
いつしか傾いた秋の日差しが、部屋の中に長い影を作っていた。
to be continued...
まだ終わらないのです(笑) 一体どれだけ加筆すれば気が済むんだか。
引き続き、ようやく再会できてラブラブ大爆発の2人をお楽しみ下さい(^^ゞ
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