Summertime Memory
夏祭り。
その何でもない単語には、人の心を騒がせる何かがあるらしい。
「セレスト、明後日の祭りだが……」
「駄目です」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「お聞きしなくても分かります。駄目ですよ、カナン様。祭りならバルコニーから御覧になれるじゃないですか」
素っ気なく言いながらもセレストは、こんな台詞では、絶対に目の前の相手は納得しないと確信していた。
こんな物言いで引いてくれる相手なら、十五年以上に及ぶ自分の気苦労の履歴は、二十分の一以下の分量ですんでいるに違いないのである。
が、それでも言わないわけにはいかない。
誰かが止めなければ──あるいは止めても、という辺りが救いがたいのだが──どこまででも、この年若い主君は暴走していってしまう。
その困ったじゃじゃ馬の手綱を、少しでも引き締めるのが自分の役割だと、第二王子の従者兼護衛セレスト・アーヴィングは信じて疑っていなかった。
「お城からなら町の様子も、花火だってよくお見えになりますよ」
諭すように言いながら、セレストは時間を確かめてティーポットを取り上げる。
窓から差し込む午後の日差しが眩しい今は、おやつ時。
本日のおやつ・リナリア王女お手製の焼きたてクッキー各種を前にして、主君を諭しながらも茶を入れる手は止めない。それが有能な従者というものだ。
だが、
「い・や・だ」
カップに注がれる深い綺麗な色の茶を眺めながら、丁寧に一音ずつ区切って、カナンは反論する。
「高みから祭りを見て何が楽しい。浮かれ騒ぐ群衆の中に混じってこそ、祭りの意義があるというものだろうが」
「無茶をおっしゃらないで下さい」
ティーポットをテーブルに置いて、セレストはいつもの溜息をついた。
カナンが言う『夏祭り』というのは、今年から始まった王家主催の行事である。
ルーキウス王国は夏涼しくて冬暖かい、常春に近いような気候のため、夏は暑いといっても限度がある。
そのため、これまで他国で催されるような納涼夏祭りはなかったのだが、それでも夏の間中、農作業を頑張っている国民の一服の清涼剤になれば、と企画されたのだ。
そして現在、初の納涼夏祭りの発案企画及び実行は、第一王子リグナムの指揮の下、順調に進んでいる。
が、しかしセレストは、夏祭りなどという催しを、そもそも国王と第一王子に進言したのは、目の前の人物なのではないかと密かに疑っていた。
というのも、納涼夏祭りなどというシロモノは、実に第二王子好みの催し事なのである。
新しいこと、珍しいものに目のないカナンの性格は、探究心が旺盛といえば聞こえが良かったが、従者にとっては気苦労の種以外の何物でもなかった。
「昼間ならまだしも、夏祭りは宵からです。そうでなくとも大勢の市民が参加するでしょうし、他の都市からの参加者もあるでしょう。そんな場所においでになるなど、危険すぎます」
「心配だと言うのなら、お前もついてくればいいだろう。いつもみたいに黙って城を抜け出すのではなく、わざわざこうやって事前に宣言してやっているのだし」
「そういうわけには参りません」
「どうしてだ」
「カナン様が、陛下やリグナム様に無断のお忍びでお出かけになるのはもちろん論外ですが、それ以上に祭りの日は近衛隊は忙しいんです」
ルーキウス王国騎士団のうち、国王直属の近衛隊は、もちろん腕の立つ騎士を集めた花形の部隊なのだが、いかんせん、大陸で最も昼寝に適した国と異名を取るのんびりしたお国柄である。
王国騎士団近衛隊と名前こそ華々しくとも、やっていることは町のおまわりさんに等しい。迷子の親を探したり、お年寄りの重そうな荷物を持ってあげたり、というのが日々の任務の実体なのだ。
そして、そんな国民の味方の近衛隊が、大勢の人で賑わう祭りの夜に忙しくないわけがない。
連れとはぐれてしまったとか、財布を落としたとか、そんな途方に暮れて半泣きになった市民が、見るからにエリートっぽい青緑の制服に群がってくるのは、絵に描いたように確かな未来予想図だった。
かといって、この主君が簡単に欲求を諦めるとも思えないのが、頭の痛いところである。
しかし、平時の昼間ならまだしも、祭りの夜に城を抜け出されるのは絶対にまずい。日頃のカナンの脱走は、既に黙認されている節があるが、今回に限っては、それこそセレストの責任問題にも発展する。
だが、セレストの身体は分裂不可能であって、第一王子護衛の任務から離れられない隊長に代わって近衛隊を指揮する任務につきつつ、カナンのお忍びに付き合うのは絶対に無理である。
と、
「……セレスト」
内心に葛藤を抱えた従者の顔を真っ直ぐに見つめていたカナンが、ふいに真面目な顔で青年の名前を呼んだ。
「はい」
「お前は、近衛隊副隊長であると同時に、僕の従者兼護衛でもあるんだよな?」
「そうですが……」
真剣に問うてくる主君の意図が分からず、しかしセレストは真面目に答える。
「分かった」
と、カナンは一人、納得したようにうなずいた。
「それなら、僕が仕事熱心なお前が悩まなくてもすむようにしてやろう」
「──何を思いつかれたんです、カナン様」
「心配するな。すぐに分かる」
「カナン様!」
セレストは、少し口調を強めて主君の名を呼ぶ。
だが、カナンは知らん顔でティーカップを取り上げ、品のいい仕草で一口飲んでから、思い出したようにセレストを見やった。
「ああ、そうだ。これを食べ終わったら、姉上のところにクッキーのお礼を申し上げに行くが、今日はその後の予定は何も無いからな、お前も好きにしていいぞ」
実に寛大な言葉である。
が、しかしセレストは、そんな主君の言動に、単純に喜ぶような無能な従者ではなかった。
「そうおっしゃって人を油断させておいて、また城下へ行かれるおつもりなら、ご指示には従いかねますが」
温度の低い従者の返答に、カナンの青い大きな瞳が不機嫌にすがめられる。
「どうしてお前は、やたらと主君を疑うんだ。本当に今日は城の外には出ない。たまには僕を信じろ」
「そういうお言葉は、信頼できる実績をお積みになってからおっしゃって下さい」
「……可愛くないやつだなー」
「可愛くなくて結構です」
カナンの憎まれ口をあっさりと受け流し、しかしセレストは、気分を切り替えたようにうなずいた。
「分かりました。本当に城内で大人しくしていらっしゃるというのであれば、私は近衛の詰め所に戻ります。ですが、何かありましたら、必ずすぐにお呼び下さい」
「何も無いのに呼ぶのは?」
「それでも構いませんよ。ただ、退屈なら退屈だとおっしゃって下さい。私はちゃんと参りますから、お城を抜け出したり、人をたばかって嘘をついたり、騒動を起こしたりするのは絶対にいけません」
「……お前の言葉を聞いていると、僕がとてつもない極悪人のように思えてくるんだが」
「とんでもありません。私はただ、過去の実体験に基づいて、忌憚なき意見を申し上げているだけです」
「………本当に最近のお前は、可愛くないなぁ」
形のいい口をへの字にして、カナンはセレストを見上げる。
が、すぐに飽きたように軽く肩をすくめて、自分の向かい側のチェアに腰を下ろすよう、手振りで示した。
「もういいから、お前も座れ。せっかく姉上からクッキーをいただいたんだ」
「はい。では失礼致します」
礼儀正しく断ってから、セレストはそれに応じる。
由緒正しい血筋の王子と従者兼護衛が一緒にお茶を楽しむ、というのは、一般世間的には奇異な光景だろうが、カナンにはそういった常識が通用しない。というよりも、生まれや身分を楯に尊大ぶることや、逆に周囲から隔てられることを何よりも嫌うのである。
セレストも昔は、王子のおやつのご相伴に預かるなどとんでもない、と断っていたのだが、そのたびにカナンの機嫌が悪くなるため、結局折れて、今に至っている。
とはいえ正直なところ、恐れ多いという気分は変わらないものの、主君とのお茶の時間はセレストにとっても、それなりに楽しいものだった。
カナンの普段の行状が行状なため、時と場合に応じておやつになる菓子は良かったり、それほどでもなかったりするが、くつろいで最近読んだ本のことや、いま考えていることを次から次に語るカナンの澄んだ声に耳を傾けながら、感心したり、たしなめたり、そんな他愛ない時間を過ごすのは、セレストをひどく満ち足りた気分にさせてくれる。
今も風通しの良い涼しい部屋で、午後の光にきらめく金の髪や、くるくると表情を変える夏空のような青い瞳を見つめているのは、きららかな万華鏡を覗いているような気分にも似て、毎日──それこそ十六年以上見続けているのに飽きなかった。
「プレーンと紅茶とチョコレートと。今日の姉上のクッキーはどれも甲乙つけがたいな」
「ええ。でもきっと、リナリア様はどれが一番美味しかったか、お聞きになられると思いますよ」
「うん。お前はどれが一番気に入った?」
「私は、やはりプレーンですかね。かなり迷いますけど、バターの香りがすごく香ばしいですし……。カナン様はいかがです?」
「うーん。……僕は紅茶、かな。でもチョコレートも捨てがたいしなぁ」
木目が美しい菓子器に山盛りにされた姉姫お手製のクッキーをつまみながら、カナンは真剣な表情で首をかしげ、考え込む。
そして、もう一枚ずつ味わってから、カナンは心を決めたようにうなずいた。
「うん。やっぱり僕は、紅茶が一番美味しかったと申し上げることにしよう」
「はい。カナン様のお気に入ったことを伝えられたら、きっとリナリア様はお喜びになられますよ」
「うむ」
家族を含むごく親しい人間にしか見せない、花が咲いたような笑顔を見せてカナンはうなずき、紅茶のカップを取り上げる。
それからカナンの話題は、いま読んでいる娯楽小説の内容に移り、世俗に関する知識ばかりを日々増大させてゆく主君にセレストが内心頭を抱えつつも、穏やかに主従のお茶の時間は過ぎて。
主君に夏祭りの件をうまくごまかされたことにセレストが気付いたのは、カナンをリナリアの部屋まで送り、近衛の詰め所に戻る途中のことだった。
* *
……甘かった、とセレストは心の中で呟く。
カナンの並々ならぬ頭脳と行動力は、嫌というほど分かっているつもりだった。
が、その一方で、むやみやたらに人を困らせる性格でないことも知っているつもりだった。
たとえば、セレストには我儘放題を言っていても、その実、従者としての役目を離れた近衛騎士としての任務に支障をきたさせるような無茶は決して口にしないし、セレスト以外の人間に対しては、臣下であれ家族であれ、我儘らしい我儘を言うこともない。
好き勝手に振舞っているようで、他者の立場や心理には細やかに気遣うところがカナンにはある。
(だから、今回は大人しくしていて下さるかと思ったんだがな……)
夏祭りに行く、と二日も前に言い出したのは、人込みでごったがえす街に、いつものように単身で出かけていったら、従者の心臓がこむらがえりを起こすだろうと配慮したからに違いなく、そして、それをセレストが近衛隊の任務があるから駄目だと言えば、普段のカナンなら、仕方がないと渋々うなずいてくれるはずだった。
だが、それでも我慢できないくらいに、夏祭りという単語の持つ響きは魅惑的だったらしい。
「いつまでそんな顔してるんだ。せっかくの祭りなのに」
「〜〜〜どうして私が機嫌よくいられると思われるんですか」
「何が不満なんだ。お前の悩みは綺麗さっぱり、解決してやっただろうが」
そう言いながら、カナンは身支度を手伝ってくれていた侍女が、できましたよ、と告げたのを受けて、セレストに向かって袖を広げて見せた。
「どうだ。似合うか?」
「……………」
上機嫌な笑顔で、小首を傾げるカナンは年齢以上に幼く見えて、たちが悪いほどに可愛らしい。
その細い身体にまとっているのは、藍色の単(ひとえ)──いわゆる浴衣(ゆかた)、だった。
「似合うか、と聞いているだろう?」
「……お似合いでない、とは申し上げませんが」
「そうかそうか」
従者の複雑な褒め言葉に、しかしカナンは気にすることなく笑顔でうなずいて、卓上に置いてあった、一つの包みに手を伸ばす。
大きな長方形に折りたたんだ厚手の紙(畳紙(タトウガミ)、というらしい)でできたそれは、この国では少々珍しいもの……先程までカナンの浴衣が包んであったものと同じで。
それを、カナンはさあ、と従者に差し出した。
「ほら、さっさとお前も着替えろ」
まさか、と思った予感に違わない台詞に、セレストはくらりと眩暈を感じる。
「ど、どうして私まで……」
「そりゃ夏祭りだからに決まっているだろう。夏祭りといえば浴衣。本にはそう書いてあったぞ」
「一体何をあなたは読んでいらっしゃるんですか!?」
「JAPANの四季について書いた本だ。この国の風俗とは全然違っていて面白かったぞ。いつか僕も行ってみたいなぁ」
カナンはうっとりと大きな目を細める。
JAPANというのはこの大陸の東にある小さな島国で、美しい自然と独特の風俗を持っていることで有名である。そして、その異国情緒に溢れた調度や服飾品は、大陸では非常に人気があり、日常生活全般に渡って広まっている──というのは、この際どうでもいいことだ。
「せっかくだからな。僕のを仕立ててもらうついでに、お前の分も頼んだんだ。これを着て、一緒に夏祭りに行こう」
にっこりと笑った顔は、無邪気そうで可愛い。
だがしかし。
「……せっかくのお心遣いですが、私はお断り致します」
「何故だ」
「浴衣は動きにくいからです。万一のことがあった時、あなたをお守りできません」
「そんなことないだろう。浴衣だろうが何だろうが、お前の剣の腕は、衣装が変わったくらいでは対して鈍らないはずだぞ」
従者に対する信頼とも聞こえる言葉に、セレストは反論の言葉に困る。
カナンが何を言いたいのかは明白だった。
今は傍に侍女がいるから露骨な単語を使わないだけで、かつての冒険の折、温泉のダンジョンの鉄の掟に従い、通常の装備を外して浴衣姿で戦ったことを指しているのは誤解のしようもない。
「でも浴衣は走りにくいんですよ。足元も不慣れな下駄になりますし」
「……じゃあ何だ。へちまでも装備させてやれば安心するのか」
「へちま、ですか?」
反応したのはセレストではなく、カナンの脱いだ宮廷服を片付けていた侍女だった。
きょとんとした彼女に、カナンはにっこりと笑って見せる。
「うむ。今日は夏祭りのための衣装だが、普通、浴衣といったら温泉、温泉といったらへちまたわしだろう? だからな」
「……それはそうかもしれませんけれど。でも、立派な近衛騎士でいらっしゃるセレスト様に、へちまたわしというのは、いくら何でも……」
「そうか? 僕は似合うと思うがなぁ」
「〜〜〜分かりました!」
えげつない笑顔に耐え切れず、セレストは声を上げた。
何を隠そう、温泉ダンジョンでの装備は、浴衣にへちまたわし(カナンはネット入り石鹸)だったのである。
その折、興に乗ったカナンに『へちま剣士』と連呼されたことは、未だに真面目な従者の心の傷になっているのだ。
「着替えます。着替えればよろしいんでしょう!?」
「そうだ。最初から、素直にそう言えばいいんだぞ」
だが、カナンは満足げににっこりと笑って、浴衣の入った畳紙を差し出した。
「着るだけ着て、帯はリーナに結んでもらえ。温泉の浴衣の帯とは結び方が違うそうだから」
「……はい。では少々、失礼致します」
溜息と共にそれを受け取り、セレストは主君の部屋を出た。
街の賑わいは大したものだった。
普段はのんきな農業国らしく、非常に夜が早いのだが、今夜ばかりは出店が建ち並んだ通りに人が溢れている。
誰もが浮かれ騒ぎ、ひどく楽しげで、提灯と夜店の照明に照らし出された賑わいの中を群集に混じってそぞろ歩きながら、カナンはちらりと隣りを見やった。
「まだ拗ねているのか。いい加減に、その不機嫌そうな顔はどうにかならないのか?」
「どなたのせいですか」
見上げてくる大きな瞳に、セレストは苦虫を噛み潰したような顔で答える。
「そんなに気に入らないのか、浴衣」
「気に入る気に入らないの問題ではありません」
そういうセレストが身にまとっているのは、極細の槁模様で、遠目には無紋にも見える鈍い縹(はなだ)色の浴衣。
対するカナンは、鮮やかな藍地に裾から身頃の半ばにかけて夏草を白で描いてあり、いずれもすっきりとした涼しげな図柄だった。
異国の装束とはいえ、町でなら比較的容易に手に入れられる浴衣は、やはり夏祭りの盛装としては人気があるらしく、見渡してみれば、ざっと四割近くの人々が身にまとっている。
それゆえに、二人の姿もまったく奇異なものではなく──それどころか、どこからどう見ても一般市民にしか見えないほど、ごく自然に賑わいの中に馴染んでいた。
「じゃあ、何がそんなに不満なんだ?」
「不満ではなく……これでは示しがつきません」
「近衛隊副隊長としてか」
「……はい…」
なるほど、とカナンはうなずく。
「おそろしく忙しい祭りの晩に、副隊長は浴衣姿で王子のお忍びのお供か。確かに、遊んでいるようにしか見えないかもな」
「その……わざわざ浴衣を御用意いただいたわけですし、カナン様にはとても失礼なことを申し上げていると思うのですが……」
「別に構わない。浴衣は僕が勝手に手配したことだし。それに、心配しなくても、そのことはお前の部下たちも分かっていると思うぞ」
「そう、でしょうか?」
「決まっているだろう。第一、僕が父上に今夜、お忍びの許可をお願いしたことは城内に知れ渡っているんだ。全部、第二王子の我儘に付き合わされて副隊長もお気の毒に、で終わりだ」
そうなのである。
セレストに任務があると分かっていても、どうしても夏祭りに行きたかったカナンは、正式なお忍びの許可を父王に願い出たのだ。
そして、国王や第一王子のリグナムの方も、鉄砲玉の第二王子がそう申し出てくることを予想していたらしい。
もともとカナンに甘い二人は、あっさりお忍びを許可して、浴衣まで従者の分も合わせて作ることを許してしまったのである。
国王一家にしてみれば、末っ子が勝手に城を抜け出すのは問題だが、きちんと許可を得て、従者兼護衛も連れて行くのなら、まぁ安心、というところなのだろう。
結果、夏祭りにおけるセレストの任務は、部下と共に祭りの警備、ではなく、お忍びに出る主君のお供、ということになってしまい、今夜この事態に至っている。
「……主君を止められなかった不甲斐ない従者、と思われるような気がしますが」
「そんなわけないだろう」
溜息まじりに言ったセレストに対し、カナンは手に持っていた白い団扇(うちわ)を軽く振って見せた。
この団扇にも夏の花が涼しげに描かれていて、カナンの浴衣とよく似合っている。
「お前に僕が止められると、一体誰が思っているというんだ?」
「……そんな当たり前のことのようにおっしゃらないで下さい」
悪びれない主君に、セレストはがっくりと肩を落とす。
だが。
「真実だろう? ──あ、セレスト、りんご飴が売ってるぞ」
「買い食いは駄目です」
「いいじゃないか。せっかくの祭りなんだぞ」
「いけません。屋台で売っているものを食べて、おなかをこわしたらどうするんですか」
「じゃあセレスト、お前は屋台で売っているものを食べて腹痛を起こした事があるのか?」
「……ありませんけれど」
「そういう話を、実際に身の回りで聞いたことは?」
「……ありません」
「なら、大丈夫だ。確率的に僕が腹痛を起こすことは、十中八九、有り得ない」
「どうしてそうなるんですか!?」
「お前が今、そう言ったじゃないか。──すまないが、一つもらえるか?」
「はいよ、まいどありー!」
止める間もなくカナンは屋台の店主に小銭を払い、代わりに赤い飴でコーティングされたりんごを受け取ってしまう。
「カナン様っ!」
「大丈夫だ。過保護もほどほどにしないと、ハゲるぞ」
「誰のせいですかっ!?」
セレストの叫びは、むなしく祭りの賑わいにかき消された。
夜店から夜店へと、一軒ずつ覗きながら歩いてゆくカナンに付いてゆきながら、セレストはひそかな溜息をこぼした。
いささか俗っぽいところがあるとはいえ、所詮、カナンは王子様。究極の箱入り育ちで、世間知らずなところが多々ある。
それゆえに、こういった雑多な夜店が珍しくて仕方がないらしい。
屋台で作られる簡単な食べ物や、子供だましな安っぽい商品、他愛のない見世物や射的などのゲームにいちいち興味を示し、足を止める。
その楽しげな様子はどこか子供っぽく、微笑ましかったが、正直なところ、セレストは気が気ではなかった。
得体の知れない、といっては夜店に失礼だが、決して衛生的とはいえない場所で作られた食べ物を歩き食いするのも、ガラクタに等しい玩具(カナンが気に入ったのは本物そっくりの樹脂製のカエルだった)を、今夜のためにと国王からいただいたおこづかいで買うのも、決して褒められたことではなく、できれば止めさせたいことである。
だが、ただでさえ主君に甘いセレストがカナンに勝てるはずもなく、先ほど射的で当てた、ちゃちなぬいぐるみを二つ(一つはセレストが取ったもの)、ひどく嬉しげに抱えているのを見てしまえば、もう何も言えなかった。
「なぁセレスト、あっちのあれは金魚すくいか?」
「そうみたいですね」
「見るのは初めてだ。よし、やろう」
「……ちゃんと金魚の世話をおできになりますか?」
「もちろんだ。だから、今夜のために金魚鉢を用意したんじゃないか」
「それは存じていますが……」
即答すると、カナンは地面に置かれた大きな浅い水槽の前に陣取り、店主に小銭を払う。
そして、針金の輪に紙を貼った金魚すくいとお椀を渡してもらい、背後のセレストを振り返った。
「セレストは、やったことあるか?」
「はあ。子供の頃には何度か」
「じゃあ、コツを教えてくれ」
目をキラキラさせている主君に、内心で微苦笑しながら、セレストはカナンが手にしている金魚すくいに手を伸ばした。
「紙ですから、真ん中ですくおうとすると、すぐに破れてしまうんです。だから、この針金の枠に引っ掛けるようにして、すぐにお椀に移して下さい。水に長時間つけるのも駄目ですよ。上から狙って、素早くすくうんです」
「上から狙って、素早く縁に引っ掛けるんだな。分かった」
うなずくと、カナンは真剣な面持ちで水槽の中を見つめる。
客寄せに入れてある大きな金魚をちらりと見やり、それをすくうのは無理だと判断したのだろう。小さくておとなしめに泳いでる金魚に狙いをつけて──。
「あっ……」
「逃げられてしまいましたね……」
「うー」
「でも要領は良かったですよ。次は、あの隅にいる赤いのなどはいかがです?」
「うむ」
再度、カナンは水槽の中を見つめる。
そして、今度は──。
「やった!」
「ええ。お上手ですよ」
椀の中に入った金魚を確かめ、振り返って笑顔を見せるカナンに、セレストの顔もほころぶ。
「見ていろ。もっとすくってやるからな」
そんな従者の優しい瞳を見て、更に気分が乗ったのか、カナンは軽く腕まくりをして、また水面に向き合った。
そして最終的に、三匹をすくったところで紙が破れて、カナンの金魚救い初挑戦はお開きとなり。
ビニール袋に入れてもらった金魚を見つめて、カナンは嬉しげに微笑み、その笑顔のままセレストを見上げる。
「初めてにしては上出来だと思わないか?」
「ええ。お上手でしたよ」
「お前の教え方が良かったからだぞ」
「私は大したことは申し上げてませんよ」
「でも、お前の言う通りにしたら、ちゃんとすくえたんだ。お前のおかげだと思わないか?」
「勿体ないお言葉です」
よほど嬉しいのだろう。手放しに助言を褒めてくるカナンに、セレストは小さく微笑んだ。
と、その時、人の流れが急に激しくなる。
「うわっ」
「カナン様!」
肩を押されてよろけかけたカナンを、セレストは咄嗟に手を伸ばして支えた。
「な、何だ?」
「──ああ、花火が始まるみたいですね。皆、花火見物に都合のいい場所に移動しようとしているんでしょう」
「そうか……」
周囲から聞こえてくる声から判断して、セレストが答えると、カナンは納得してうなずく。
その身体を通りの端の、人通りの影響を受けない所まで誘導して、セレストはカナンに問い掛けた。
「カナン様、どうされますか?」
「どうって? 何がだ?」
「花火ですよ。お城に戻られた方が、花火を御覧になるには都合がいいと思いますが……」
「嫌だ」
「嫌だ、って……」
即答した主君に、セレストがその顔を見直すと、カナンの大きな瞳がまっすぐにセレストの緑の瞳を見上げていた。
「確かに城のバルコニーからの方が綺麗に見えるだろうがな。それじゃ気分が出ない。花火は群衆の中で見てこそ花火だろう?」
「……どこで御覧になっても、花火は花火だと思いますが」
「全然違うだろう。情緒のない奴だなー」
「情緒と言われましても……」
言いながらも、セレストは溜息まじりの吐息をつく。
もともと、これからクライマックスという時に、カナンが大人しく帰城しようとするはずがないことは分かっていた。ただ、立場上、言わずにはいられなかっただけのことである。
仕方がない、と諦めて、セレストは改めてカナンを見やった。
「分かりました。では、花火が終わったら速やかにお城に戻るということでよろしいですか? 国王陛下やリグナム様もご心配しておられるでしょうから」
「分かった」
傍若無人な言動の得意なカナンだが、大切な家族のことを持ち出されると、途端に大人しくなる。
セレストの提案に素直にうなずくのを見届けて、セレストは自分の左手をカナンに差し出した。
「お手をお貸し下さい。この人込みでは、はぐれてしまう危険性がありますから」
「…………」
その大きな手のひらを見つめ、カナンはセレストを見上げる。
青い瞳は、驚きに瞠られていて。
主君である少年の心の動きが、この時ばかりは手に取るように見えて、セレストは微苦笑した。
「カナン様」
そして、促すように名前を呼ぶと。
「……うん」
おずおずとカナンは右手を上げ、セレストの手のひらに重ねた。
労働を知らない細く華奢な手を、優しく握り締めて、セレストはそっと引き寄せ、歩き出す。
その動きに促されて、カナンも歩き出した。
「────」
人の流れに沿って歩きながら、不意に二人の間に訪れた沈黙に、セレストは少しだけ困ったような微笑を唇に滲ませる。
先ほどまでひっきりなしに喋っていたカナンは、人が変わったように黙り込んで、大人しくセレストの誘導に従っていて。
困ったな、と思いつつも、可愛いという気持ちがゆっくりとセレストの心の奥から湧き上がってくる。
と、
「……ずるいぞ」
小さな声が、カナンの口から零れた。
「こういう時だけ、手を繋ぐなんて……」
なじっているとも拗ねているとも聞こえるその声に、セレストは内心、苦笑いをこぼす。
──以前、町中でカナンが手を繋いできた時、セレストは、悪目立ちしてしまいますから、とそれを諭して拒んだ事があった。
その時は、純粋にカナンの立場や将来を思いやっての発言だったのだが、以来、カナンが外で手を繋ぐことを求めたことは一度もない。
セレストからも、しかりだ。
互いの部屋で二人きりの時は別として、外では、相手を特別に想い合っているような素振りは見せない。それは、お互いの立場と想いを守るため、暗黙のうちに決まった約束だった。
なのに。
今、初めてまともに町中で繋がれた手に、カナンが拗ねている。
そのことを、セレストは素直に、可愛い、と思った。
「こういう時だから、ですよ」
温かな手を、ぎゅ、と優しく力を入れて握り締めながら、セレストは告げる。
「こういう時でなければ、いつ手を繋ぐとおっしゃるんです?」
「……ずるいぞ、セレスト」
「カナン様よりは大人ですから。その分、ずるくもなります」
「……セレストのくせに」
「何ですか、それは」
苦笑した時。
頭上で音と光の花が広がった。
打ち上げられ始めた花火に、人の流れが止まる。
その中を誘導して、セレストはうまく夜空が見える位置にカナンをいざなった。
赤。
白。
青。
黄。
重く高く火薬の音を響かせながら、色とりどりの光が夏の夜空に大輪の華を咲かせる。
満天の星がさざめく濃藍の夜空に抱き止められた光の華は、たとえようもないほどに眩しく、あでやかで。
この上なく力強く、美しいのに、刹那の幻のように儚く消えてしまう壮大なその光景に、誰もが声もなく魅せられる。
その中で、セレストとカナンも手を繋いだまま、夜空を見上げた。
と、ふと花火から逸らし、隣りに向けた視線が偶然、絡み合って。
お互い、目が合ったことに一瞬驚いた後。
「────」
吸い寄せられるように、唇が重なった。
ほんの一瞬、花火が作り出した陰の中で触れ合い、離れて。
カナンの瞳がセレストを見上げた後、ふいと夜空に逸れて、代わりに夜目にも眩しい金の髪が、こてんとセレストの腕に押しつけられる。
「……お前と一緒に祭りを歩けたら、きっと楽しいだろうと思ったんだ。本当は」
「……リグナム様に夏祭り開催を提案された理由、ですか?」
セレストが優しい声で問いかけると、カナンは、うん、と暗躍していたことをあっさり認めてうなずいた。
「そりゃあ四六時中、城を抜け出して出歩いてはいるけど。でももう、小さなこの町の中で目新しいことって、そうはないだろう? だから……」
「なさったことのない事をなさりたかったわけですか」
「うん」
もう一度うなずくカナンに、セレストは微笑する。
珍しいもの好きの気質と、ごくごく個人的な、ひそかな感情と。
その二つが絡み合って、今夜の事態になっていることは分かっていた。
それこそ、夏祭りを開催すると国王陛下から聞いた一番最初から。
分かっていたから……いたけれど、従者としては、あれやこれやと無鉄砲な主君を止めずにはいられなくて。
でも結局、カナンの望んだ通りになった。
いつもと同じように。
「困った方ですね」
「でも、皆、楽しんでいるだろう?」
「ええ」
「じゃあ、いいじゃないか。お前だって……」
楽しかっただろう、とカナンの声が問いかける。
その声に、セレストは少しだけ迷った後、正直に応じた。
「……ええ。楽しかったですよ。カナン様とご一緒できて……。多忙を極めているだろう近衛隊の部下たちには、申し訳ないですし、示しがつかないとも思いますが」
「うん」
うなずき、カナンはセレストの腕に寄りかかったまま、夜空に広がる花火を見つめる。
その瞳にきらめく輝きを見つめてから、セレストが周囲に視線を向けると、人々は皆、同じように空を見上げていて。
誰も自分たちに気付く様子がないのを確認してから、セレストも夜空に咲く華に目を向けた。
やがて花火も終わり。
人々は家路に向かって流れ始める。
その中を手を繋いだまま、セレストとカナンもゆっくりと、第二王子の帰還を待ちわびているだろうルーキウス城に向かって歩いた。
「帰ったら、すぐにこの三匹を金魚鉢に移さないとな。こんな小さな袋に入れたままじゃ可哀相だ」
「それはそうですけど……。でも、まず袋ごと金魚蜂の水に浮かべて、水温を慣らしてあげないといけませんよ。突然違う環境に移されたら、ショックで弱ってしまいますから」
「そうなのか」
「はい。せっかくお掬いになったんですから、大事にしてあげないといけませんよ」
「分かってる」
他愛ない会話を交わしながら、ところどころの街灯と星明かりに照らされた夜道を歩く。
慣れない下駄に足が痛くなった、という手を繋いでいることへの言い訳は、花火が終わる前にカナンが用意していた。
「なぁセレスト」
金魚のことをしゃべっていたカナンが、ふと思い出したように呼びかける。
「はい?」
「来年も、また行こうな」
「……そうですね」
いま約束しなくても、カナンの性格ならば必ずそうなるだろうなと思いながらも、セレストはうなずく。
来年の夏祭りもきっと、カナンは夜店に目を輝かせて、また金魚すくいをしたがるのだろう。
それとも、もっと大人になっていて、今夜とは全く異なる顔を見せるだろうか。
どちらにせよ、その傍に自分が居られたらいい、とセレストは思う。
「また参りましょう」
穏やかに夜風に溶けゆく声に応じるように、カナンの手元で金魚の入ったビニール袋の水が、ちゃぷんと揺れた。
End.
初書きセレカナ。
温泉ダンジョンでの主従の可愛い浴衣姿が忘れられなかったのと、1.5の手繋ぎ拒否の件が引っかかっていたのが丸分かりなので、もはや解説することもないのですが。
ちょこっと製作裏話をすると、この作品はリストのところで書いてある通り、うちのパソ&プリンタで自家製本したんですが、1部ずつ冊子印刷していたため、途中で何度も誤字脱字を直しています。
その結果、30部しか作っていないにもかかわらず、大体5〜10冊ごとに微妙に文字(単語というレベルではない)が違うという、実に楽しいことになり、大阪行きの新幹線の中で友人にそれを打ち明けたら、「朝からお客さんの運を試すな!」と怒られてしまいました☆
で、自家製本のレイアウトは、縦書き(上下2段組)と横書きという違いと、文字色が黒だったという以外、これと似たようなものです。
飾り罫もこんな感じ・・・・というか、飾り罫に使ったうずまき画像を再利用して、この壁紙画像は作ってあります。
ていうか、いつも「文字書きのくせに画像作ったりトーンを駆使したりするな」と罵倒されてもいたりするのですが。でも、うずまき描くのは楽しかったです♪
なんにせよ、ご無体なカナン様と、カッコいいんだかそうじゃないんだか分からないセレストは、書いていて楽しかったです。
書き上げた最初のうちは何かしっくり来なかったんですけど、読み返しているうちに、いわば『へそ』がないことに気付いて、さりげなく文章を書き加えたら落ち着いたりとか、短い制作期間中にも色々あったんですけど、とりあえず最初はこんなものでしょう。
これからまた、ラブコメもシリアスも、しょぼしょぼと書くつもりでいますので、よろしかったらまた見てやって下さい。
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