釣鐘草は朝の鐘を高く鳴らし












 未練がましいのは、あんたじゃない。
 名残を惜しんでるのも、あんたじゃない。
 本当に弱いのは────…。








 月が遠慮もなく光を降り注ぐ部屋の中は、闇に目が慣れる必要など微塵もないほどに明るかった。
 夜空に浮かんでいる月そのものは、やわらかな色合いをしているのに、地上はまるで深い海の底のように蒼くて、その静けさが嫌で一瞬目を閉じる。
 途端に、ひなた日向くさい、よく知っている匂いが頭の芯まで染みて。
 ひどく苛立った。
 ───一体、何のために自分はここにいるのか。
 分かっているのに。
 分からないはずがないのに。
 背を向けたままの相手に、どうしようもないほど腹が立つ。
「葉」
 ついさっきは、今夜は一緒にいてもいいとうなずいたくせに、妙なところで堅いのだか意気地がないのだか知れないこの男は。
「こっち向きなさいよ」
 月光に照らされて青白いシーツに零れ落ちる黒髪を見つめながら、言葉を紡ぐ。
 この少し堅い、癖のない髪を見るのも、もしかしたら最後になるのではないのかと思いながら。
「言っとくけど、あんた、今朝から一度もまともにあたしの顔を見てないわよ。このまま、あたしを見ないで明日、出て行くつもりなの?」
 放った言葉は、静寂に満ちた部屋に落ちて。
 一体どこに届いたのか、見極めることができない。
「葉」
 苛立ちを抑えられなくなった声に、相手は気付いたのかどうか。
「こっちを向けって言ってるでしょう。こんな距離で聞こえない振りするんじゃないわよ」
 今度こそ本気の憤りを込めて言った途端。
「あのなあ!」
 それまで背を向け続けていた葉が、ばっと振り返った。
 そのままの勢いで、のしかかられるような体勢になって。
 少しだけ驚きを込めて、目の前の相手を見上げる。
 流れ落ちた髪が作った影の中で、黒い瞳が強く輝いている。その意外なほどの強さに、何故か、初めてこの少年を見たような錯覚に一瞬、囚われた。
「オイラはまだガキだけどな。でも、男なんよ」
 声変わりしたばかりの、初めて出会った頃よりもずっと低い、けれど変わらずよく透る声に。
 心を串刺しにされるような気がして。
「──あんたって、どこまでお馬鹿なの」
 そんな錯覚に負けないように、強い瞳を睨み上げる。
「あんたの言葉を借りるんなら、あたしだって女よ」
 そう。
 世間的な年齢がどうであれ、小さな子供が親の温もりを求めるのと同じような気分で、今、ここにいるわけじゃない。
 欲しいのは、そんな優しいだけのものじゃない。
「あたしは、あんたが男で自分が女だってことくらい、ちゃんと分かってるわ。分かってないのは、あんたの方よ」
 こうして、ここにいる意味が。
 分からないなんて言わせない。
 この夜の意味を。
「────」
 視線を逸らさないあたしに、少しだけ驚きを瞳に浮かべて。
 それから。
「──アンナ」
 温もりが、ほんの一瞬、唇に触れる。
「嫌じゃ、ないのか」
「……目的語を言いなさいよ」
 考えてみれば、キスもこれが初めてだった。
 それぞれの保護者に婚約を決められてから、かれこれ四年になるけれど、一緒に過ごした時間といえば、最初の出会いの時のほんの数日と、シャーマンキングを目指して戦う葉のサポートとして呼び寄せられてからの、この数ヶ月だけ。
 トータルで数えても一年にも満たない。
 ほんのそれだけ分の時間しか、あたしたちは互いのことを知らない。
「だから、オイラが、さ」
 初めて葉が目をそらした。
 誰相手にも……、あたし相手にも決してまなざしを背けなかった葉が。
 今、初めて。
 それが、あたしが返すかもしれない答えを恐れているからだと、考えるまでもなく分かって。
 憤りとも苛立ちともつかないものに胸を灼かれ、その痛みに眉をしかめる。
「だから、あんたはどうしてそんなに馬鹿なのよ。今夜、ここに来たのはあたしの方じゃないの」
「……そうだな」
 ほんのかすかに、葉が微笑んで。
 そのまま抱きしめられる。
 初めて感じる葉の重みと、温かさと。
 陽だまりのような匂いに、胸がひどく波立った。
「……ごめんな、アンナ」
 いつもよりもずっと低い声に。
 胸が騒ぐ。
「やめてよ」
 それを振り切りたくて……、否定したくて紡いだあたしの声も、わずかにかすれているような気がして。
 不意に、夜の闇と月の光に押しつぶされそうな気がして、すすけた天井を見上げたまま、身動きができなくなる。
「あたしは、あんたに謝って欲しいことなんか何にもないわ」
「……うん。分かってるけどな」
 でも、これがオイラのけじめだから、と顔を上げた葉は、あたしを見下ろして微笑った。
「ごめんな。もうここには戻ってこれんかもしれんのに」
「────」
「それでも……好きだから。すまん」
「何よ、それ……」
 本当は、葉が何を言いたいのか嫌というほど分かっていた。
 それでも否定したくて。
 なのに、キスをされて目を閉じなければならない。
 お互い経験などないのだから、おそらく不器用な、でも自分のものではない温もりがひどく唇に甘くて。
 どうしようもなく、苦しかった。
「忘れても構わんけど、できたら覚えといてくれ。オイラがシャーマンキングになりたいのは、オイラにやりたいことがあるからだけど、そん中にはアンナの幸せもちゃんとあるから」
「分かってるわよ」
 今すぐ顔を背けてしまいたい衝動を押さえつけて、葉の瞳を見つめる。
 もしかしたら、これが最後になるかもしれないから。
 後から後悔するのなんて、あたしの趣味じゃないから。
 この一瞬くらい、月に照らし出された今の表情を、葉に見られることを我慢してみせる。
「分かってるわよ、そんなこと。一番最初に会った時から、あんたはそればっかりだったじゃない。忘れようったって忘れられないわよ」
「そうだったな」
 こんな時まで、いつもと同じように笑う葉がひどく憎い。
「……じゃあ、忘れんでくれな。オイラのこと」
「───なら、教えてよ。あんたのこと、全部」
「ああ」
 葉の手が、そっとあたしの髪に触れる。
 こわごわというほどでもない、でも拙い気遣いを込めて。
「オイラも、アンナのことを覚えておきたい」
「当たり前よ。ちょっと離れたくらいで忘れたりなんかしたら、殺してやる」
「うん」
 やはり、葉は笑って。
 あたしは月の光から逃げるように目を閉じた。








            *               *








「アンナ……」
 どこかひどく遠く聞こえる声を懸命に追って、わずかに目を開く。
「辛かったら言えよ?」
「大丈夫……」
 本当は、叫びだしたいほどに苦しかった。
 体も、心も。
 焼け付きそうに熱くて。
 ───自分を丸ごと葉の前にさらけ出すことが、どうしようもないほど怖くて。
「っ…、あ……!」
「アンナ」
「…い…いから……」
 それでもやめて欲しくなくて、かすれそうな声を紡ぐ。
 わずかにシーツの上を彷徨った手に、すぐに葉は気付いて握り返してくれる。
 初めてで余裕がないのは、同じだろうに。
 それでも、葉はあたしを気遣うことができる。
 そのことを思った時、ふと目が熱くなりそうな気がして、急いであたしは意識をそらした。
 目を閉じると、鮮やかなまでに痛みと葉の熱が感じられる。
「……葉」
 どうしようもないほどに切なくて、苦しくて。
 何とかして欲しくて、名前を呼ぶ。
「葉」
 口接けられて、全身で互いの温度を感じて。
 世界が壊れそうなほどに、心がきしむ。
「……悪い、アンナ。そろそろオイラも限界……」
 熱の混じった声に低くささやかれて、ぞくりと何かが背筋を駆け上がった。
「───あぁ…っ!!」
 そして、与えられるものを受け止めきれず、思わず悲鳴が零れる。
「アンナ……」
 苦しい。
 どうしようもなく苦しくて。
 悔しい。
「葉…っ…」
 ───イタコは寂しい女たちなのだと、あたしを育てた老婆は言った。
 家族に捨てられ、行き場を失った悲しい女のことなのだと。
 自分も、そして、あたしも。
 でも、あたしはそんなことはどうでもいいと思っていた。
 自分が何故、捨てられたのか。
 何故、温かいものが……欲しいものが一つも与えられないのか。
 そんなことは、物心がついた頃から常に考えないようにしていた。
 考えたら、苦しくなるから。
 苦しくなれば、鬼が出るから。
 ───なのに。
 葉が、気付かせた。
 あたしは何が欲しかったのか。
 何と言ってもらいたかったのか。
 鬼を呼ぶ自分から遠ざけたくて、初対面の時からあんなひどい言葉を浴びせたのに、葉は決して逃げようとはしなくて。
 まだ何の力もなかったくせに、あたしを助けると。
 そして。
「っ…あ……葉…っ!」
 あたしは。
 どうしようもなく弱くなった。
 望むことさえ諦めていたものを、葉がくれてしまったから。
 温もりを……想いが向けられる歓びを知ってしまったから。
 もう一人には、戻れない。
 葉が、あたしに寂しさの意味を教えたから。
 ずっとあたしの世界には、あたししか居なかったのに。
 今は。
 ───葉しか、居ない。
「葉っ…!」
 それが、悔しい。
 もう一人では生きていけないことが。
 こんなにも弱くなってしまったことが。
 悔しい。
 葉は、どんどん強くなってゆくのに。
 あたしは。
「…ぁ…、もう…っ!」
 身と心を灼く苦しさに耐えかねて、葉の背に爪を立てる。
 白い光の向こうで、あたしを呼ぶ葉の声が聞こえたような気がしたけれど、それきり。
 もう、何も分からなくなった。















「じゃあな、行ってくる」
 いつもと同じヘッドフォンをつけ、腕のオラクルベルに導かれるままに、いつもと同じ笑顔で葉は出てゆく。
 玉緒が涙ぐみながらも激励の言葉をかけているのを、あたしは他人事のように見ていた。
「ヘマするんじゃないわよ。あんたは肝心な時以外は、いつも抜けてるんだから」
「おお」
 笑って。
 いつもと同じ顔で片手を上げ、葉はあたしに背を向ける。
 道の向こうに遠ざかってゆく後姿を、ぽろぽろと涙を零しながら見送っている玉緒を置いて、あたしは家の中に戻った。
 朝の光の差し込む古びた木造の廊下を歩き、立ち止まる。
 大丈夫。
 玉緒たちは、まだ戻ってこない。きっとあの娘は、気が済むまで門の所に立ち尽くしているはず。
「葉──」
 握り締めた指の爪が、手のひらに食い込む。
「葉」
 大丈夫。
 あたしは余計なことは何も言わなかった。
 いつもと同じように、葉を送り出せた。
 もう、ここには葉は居ない。
 だから。
「───行か……」
 言いかけて、言葉を無理やりに止める。
 たとえ聞く人が居なくても、こんなただの女みたいな弱々しい台詞を吐きたくない。
 葉はシャーマンキングになるために、ここを出て行ったのだから。
 そして、あたしはシャーマンキングの妻になるのだから。
「葉……」
 どうしようもなく弱くなってしまった悔しさに唇を噛んで。
 しばらくの間、あたしは自分の影が伸びるくすんだ廊下に立ちつくしていた。







(終)










かつて碧水亭の売り子嬢を務めてくれていた、秋月葵嬢の葉×アンナ本へゲストさせていただいたマンキン作品。
私にしては珍しく一人称です。しかも女の子主人公だし。
葉もアンナも大好きなので、また書きたいなぁとも思うんですけど・・・・時間が、ねぇ。







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