強き者よ
知らず詰めていた息を吐き出したのは、第2クォーターの終了を告げるホイッスルと同時に、宙に放たれたボールがゴールネットをくぐり抜け、体育館の床に落ちて弾んでから、かっきり1秒後だった。
34対43。
スコアボードを確認し、内心で眉をひそめる。
前半を終了して9点差というのは、致死的な状況ではない。むしろ通常ならば、十分に逆転が可能な点差である。
しかし。
「──確かに飲み物、欲しいわね」
リコが呟くのが耳に届いて、黒子はふっと意識を周囲に引き戻した。
「なんか買ってきましょうか」
言われてみれば、確かに自分も喉が渇いている。
このインターハイ会場である県営体育館は、学校の体育館とは異なり、空調設備は整っているはずだが、観客はほぼ満員で試合の熱気がこもっているせいか、体感温度は涼しいどころか、かなり蒸し暑い。
となれば、飲料を調達してくるのは、当然、自分たち一年生の仕事だった。
黒子は別段、親切な性格はしていないが、その場その場での役割については、きっちり捉えて行動するのが習い性だったから、とりあえず下級生らしく提案してみる。
と、たちまちのうちに一年生全員での買出しが決定し、先輩たちの注文を受けて、黒子は仲間たちと共に席を立ち、ぞろぞろと歩き出した。
前半戦からして激闘であったために、体育館全体がひどくざわついている。
その感覚を全身で受け止めながら、やっぱり違うな、と黒子は心の中で呟く。
中学時代は、全国大会であっても会場内の雰囲気はこんな風ではなかった。何故なら、帝光は常勝だったからだ。
全中の決勝戦であっても、既に試合開始の時点で、帝光の敗北を願う者は多々居ただろうが、勝利を疑う者など殆ど居なかったに違いない。
会場がどよめくのは、青峰が、緑間が、黄瀬が、赤司が、紫原が見せる超絶的な技巧に対してであり、勝敗の行方に対する緊張感などどこにもなかった。
比べて、今日の観客の緊張度、集中度はどうだろう。
両校の関係者を除けば、今日の観客は、この超高校生レベルの試合を目の当たりにできたのは間違いなく幸運だ、と黒子は思う。
もちろん、自分も含めて。
青峰と黄瀬が、インターハイで当たるのは最初から分かっていたことだし、トーナメントの組み合わせも事前に知っていた。
ただ、ハードスケジュールの合宿に気を取られて、試合の日程は失念してしまっていたから、今朝、リコから試合を見に行くと聞かされた時には、チームメイトたち同様に驚いた。
今年のインターハイは他県での開催であり、都内在住の高校生がそう簡単に観戦に行ける距離ではない。
それに万が一、近隣での開催であったとしても、自分一人なら、試合経過を心のどこかで気にしながらも、わざわざ観戦のために足を運びはしなかっただろう。
だが、合宿のオマケとしての強制観戦となれば、そんな自分の中の意地を核とした複雑な葛藤など何の関係もない。
そして、現実としては、冬に再戦する予定である以上、彼らの試合は見ておかなければならないものである。
そういう意味では、黒子は素直にリコに感謝していた。
青峰と黄瀬が、コートの中で敵味方に分かれて対戦しているのを見る気分を、新鮮だと一言で片付けてしまうのは難しい。
中学時代、キセキの世代の五人が、銘々勝手に強豪校のスカウトたちと話をしているのを見た時点で、高校進学後の彼らの対戦は確定していたことだった。
だから、今日のような光景を想像したことがないとは言わないが、黒子は性格的に想像を先走らせることは殆どしないし、彼らのように異常な速度で成長し続ける存在について、未来予想などはしても無意味でしかない。
ゆえに想像も、二人が対戦することになる、というところ止まりで、試合の経過や勝敗を考えたことは、これまで一度もなかった。
そして今、現に二人の試合を目の当たりにして、夏前にそれぞれと対戦した経験から言うと、青峰の強さは予想通りであり、黄瀬の健闘は予想を上回っている、というのが正直なところである。
ただ、バスケットボールはチームスポーツであり、個人スポーツではない。
彼らの能力に、それぞれのチーム力を足して考えなければ、勝敗の行方を占うことはできないのだ。
そして、海常と桐皇は、面白いくらいに正反対のチームである。
片や、互いにフォローし合うチームプレイ、片や、フォローも何もない銘々勝手な個人プレイ。
だが、どちらもそういうチームカラーに対する迷いがなく、十二分に強い。
黒子が見たところ、前半戦の内容からすれば、エースを除く四人の能力は、ほぼ互角。
勝負に差がつくとすれば、それはそれぞれのエースの差だろうと思われた。
観客席ゲートから外周の通路に出て売店に向かう途中、黒子は、すぐそこに屋外への出入り口があるのに目を惹かれた。
開け放たれたガラス戸の向こうに、真夏の日差しが白く照りつけている。
無意識に足を止めてしまい、振り返ると、既にチームメイトたちは数メートル先を歩いている。自分との距離が開いたことに気付いた様子はない。
勝手な行動をすれば怒られるだろうな、という思いが、頭の片隅をかすめたものの、夏の光に誘われるように黒子は出入り口へと足を向けた。
外に出た途端、強烈な日差しが視界と肌を焼く。
目を細めて左右を見、こっち、と勘の指し示すままに左方向へと歩き出した。
その行動を、何故、と問われても、上手くは答えられない。
結局今年は縁のないものとなってしまったインターハイ会場を、自分の足で歩いてみたかったのか、それとも、単なる観客としてではなく選手としてここに居るだろう『彼ら』のうちの誰かとの邂逅を期待したのか、それとも。
自問の答えが出揃わないうちに、黒子の目は、もしかしたら、と思った相手の姿を見つけ出していた。
「黄瀬君」
呼びかけた途端、胸壁に寄りかかって遠くを見ていた黄瀬が、はじかれたように振り返る。
目は驚きに大きく見開かれ、まるで幽霊にでも出会ったような顔だと黒子は思った。
「黒子っち!? なんでここに!?」
「はぐれました」
「は!?」
端的に答えると、さっぱり分からないとばかりに黄瀬の表情が困惑の度合いを増す。
このまま煙に巻いても良かったが、ハーフタイムは十分間しかない。黄瀬はすぐに控え室に戻らなければならないはずだと、黒子は誠凛の皆と来ているのだと短く説明した。
「昨日まで近くで合宿だったので」
そう告げると、黄瀬は露骨に残念そうな顔で口を尖らせる。
「ちぇー。応援しに来てくれたんじゃないんスか?」
「違います」
「ヒドッ!!」
そんな風に、中学生時代とあまり変わらない調子で言葉を交わした後、黄瀬はふっと表情を変えた。
「……じゃ、ちなみに青峰っちとオレ……、勝つとしたら、どっちだと思うっスか?」
珍しくも正面からではなく、斜め方向からまなざしを向けられて、黒子は真っ直ぐにその目を見つめ返す。
表情は薄く笑んでいても、その実、笑っていない黄瀬の目は、黒子を試しているようでもあり、あるいは何の期待もしていないようにも見えたし、何かを期待しているようにも見えて。
二秒ばかり考えてから、黒子は正直な思いを口にすることにした。
「分かりません」
「え──…」
そう告げれば、当然ながら黄瀬は、優柔不断を咎めるような目つきをする。
そのまなざしを真っ向から切り返しながら、黒子は続けた。
「ただ勝負は、諦めなければ何が起こるか分からないし、二人とも諦めることはないと思います。……だから、どちらが勝ってもおかしくないと思います」
中学時代、中途入部して一軍に上がったその日から、青峰に1on1を挑み続けていた黄瀬。
負けて悔しがっていても、その姿はひどく楽しそうだった。まるで、青峰に軽くあしらわれるのが嬉しくてたまらないとでもいうように。
そして、事実そうだったのだろう。
黄瀬は青峰に追いつきたい、追い越したいと思う一方で、どれほど自分が成長しても手が届かない、青峰の天井知らずの才能に感服していたはずだ。
だが今日、初めて黄瀬は、本当の意味で青峰を追い越すと決断し、覚悟を決めた。
その心の動きは、観客席に居た黒子には手に取るように見えていたから、黄瀬が何をしようとしているのかは分かっている。
そして、一旦決めたら、決して心を曲げることのない彼の負けず嫌いと、明るい外見の影に隠れたプライドの高さも。
その一方で、青峰もまた、闘争心とプライドの塊のような男だ。彼が勝負を諦めることなど、宇宙が滅びるその日まで決して来ないだろう。
となれば、あとは黄瀬が異常な学習速度という天賦の才能をもって、どれ程のスピードでこの試合中に成長できるか。
その一点に全てが懸かっていると思われた。
「…ふーん」
天才VS天才。
そして、どちらも諦めることを知らないのであれば、そんな試合の行方など占えるものではない。
過去の実績を元に青峰の勝利を予言するでもなく、黄瀬が勝利するだろうと励ますでもない黒子の答えをどう受け止めたのか。
「じゃあ、せいぜい頑張るっスわ」
黄瀬は表情を変えないまま、それじゃあとばかりに片手を挙げ、試合会場に戻るべく黒子に背を向ける。
その反応に意表を突かれて、思わず黒子は黄瀬の背中を見つめた。
彼のことだ、お世辞でも黄瀬君が勝つと思いますって言ってよ、とでも訴えてくるか、あるいは、オレはもう青峰っちには負けないって決めたんスよ、とでも言い放つだろうと思ったのに。
せいぜい頑張る、とは、自分の言葉を受け入れたということなのだろうか。
そんな風に混乱していると、何の声もかけない黒子に不審を感じたのだろう、黄瀬が振り返った。
「なんスか?」
「いえ、てっきり……『絶対勝つっス』とか言うと思ってました」
「なんスか、それ!?」
黒子の正直な感想に、黄瀬は素っ頓狂な抗議の声を上げる。
だが、黒子にしてみれば、黄瀬の反応の方が予想外だった。少なくとも、春の練習試合の時までの黄瀬なら、黒子の予想通りの反応をしていたはずだ。
なのに、そうでないということは、黄瀬の中の何かが変わったことを意味する。
それは、黄瀬が青峰を超えると覚悟を決めたことと関係があるのかどうか。この短いやり取りでは、到底、見極めることも叶わない。
その混乱と疑問が表情に出ていたのかどうか、黄瀬は再び行きかけながら、肩越しに振り返って口を開いた。
「そりゃ勿論そのつもりなんスけど……正直、自分でも分かんないス」
「中学の時は勝つ試合が当たり前だったけど……、勝てるかどうか分からない今の方が気持ちいいんス」
そう告げた黄瀬の表情を、どう表現すればいいだろう。
確かに笑顔だったが、いつもの彼の笑顔ではなかった。
陽光を思わせる明るい笑みでもなく、試合中によく見せる自信に満ちたふてぶてしさの覗く笑みでもなく、もっと深い何かを秘めていて。
咄嗟には、どんな意味が含まれているのかは分からなかった。
だが、分からないまま、
「黄瀬君」
黒子は反射的に、彼の名を呼んでいた。
黄瀬は、肩越しに振り返る。
数メートルの距離を置いて、黒子はその瞳を真っ直ぐに見つめて告げた。
「最後まで見てますから」
一言だけ。
だが、他に告げる言葉などなかったし、他の言葉は思い浮かびもしなかった。
そして黄瀬は、先程と同じに不思議に深い笑みを淡くその瞳に浮かべ、もう一度右手を上げて、言葉に出しては何も言わず、緩くカーブした外周通路の向こうに姿を消す。
その後姿を見送ってから、黒子もやっと踵(きびす)を返して、元来た道を辿った。
真夏の強い日差しを全身に感じながら歩く間中、黒子は黄瀬のまなざしを反芻し続けていた。
あの表情と、あの言葉。
黄瀬は新たな何かを見出しつつある、と不意に黒子は閃く。
青峰を超えると決めた覚悟だけではない、もっと別の何か。
──中学の時は勝つ試合が当たり前だったけど……、勝てるかどうか分からない今の方が気持ちいいんス。
春先に再会した時、黄瀬は、勝たなかったらスポーツに何の意味があるのかと、黒子の変節を責めた。
だが、今の黄瀬の台詞は、帝光時代の常勝という理念を、真っ向からではないにしても否定する言葉だ。
あの練習試合から四ヶ月弱。
その間に、彼の中で何がどう変わったのか。
「変わったと言えば……」
あの練習試合の時に比べて、黄瀬と海常メンバーの連携は格段に良くなっていた。というよりも、今日の海常の選手たちは全面的、積極的に黄瀬をフォローしている。
その様子は、単にエースの青峰にボールを集中させる桐皇のプレイとは、全く流れが違う。
明らかに海常の選手たちは黄瀬を信頼し、彼を中心として、それぞれがすべきことをしているのが見て取れるのだ。
「黄瀬君は……チームメイトを手に入れた……?」
小さく呟きながら、黒子は思わず出入り口手前で足を止めた。
キセキの世代の一人である黄瀬には、チームプレイもチームメイトも、いずれも全くそぐわない単語である。
だが、現実としては、黄瀬は海常高校というチームの輪の中心にあり、そのプレイは、他のチームメイトとしっかり繋がっている。
「────」
思わず黒子は、黄瀬がいた外周通路を振り返った。
無論、そこにはもう誰もいない。
数秒の間だけ、真夏の日差しを白っぽいく反射する通路を凝視してから、屋内へと入る。そして、足早に観客席を目指した。
黄瀬と会話していたのは五分程度だが、もう間もなく後半が始まる。
青峰も黄瀬も、誠凛のバスケ部としては倒さなければならない目標だが、今はそれは脇において、この試合を最後まで見届けなければならない。
青峰と黄瀬、桐皇と海常。
どちらが勝つかということ以上に、この試合そのもの、その底流にあるものを。
観客席ゲートをくぐると、既に両校の選手たちは、コートに出てきていた。
黒子が席に戻った途端、火神たちからどこに行っていたのかと非難の声がかかるが、それに適当に返事を返す間もなく、後半の開始を告げるホイッスルが鳴り響く。
どちらが勝つとも負けるとも分からない。
ただ、最後まで見届けるべく、黒子は全神経をコート上に集中させた。
End.
海常VS桐皇戦の例の場面。
ベタですが、これを書いておかないと始まらないと思ったので、頑張ってみました。
この試合中、黒子は黄瀬のレボリューションに驚かされっぱなしだったように見えるのですが、内面はどう感じていたのか。
加えて、なんで買出し行くはずが、ふらふらと外に出て行ったのか。←考えると、黄瀬が外にいることを予想してたようにしか思えないんですが……。
原作では、試合後、黄瀬と会話する場面が全然出てこないままウィンターカップ予選になってしまったので、フライング気味かなぁとは思うのですが、大きくは外してないと信じたい……。
作品タイトルは、SKE48のデビュー曲より借用です。
歌詞の内容が黒バスっぽい、というか、黒子→キセキへのメッセージっぽい感じだったので。