- sweet rain -
そもそもからして、その日は調子が悪かったのだ。
久しぶりに訪れたイーストシティの街は、汽車を降りる前から霧雨にうっすらと煙っていた。
にもかかわらず、傘を持って歩くのも差して歩くのも嫌いな性分が災いして、目的地に着く頃には全身、かなり
濡れてしまっていて。
けれど、2ヶ月ぶりに足を踏み入れた司令部内は、ひどくあわただしい雰囲気だった。
殺気立っている、と言ってもいいくらいに、廊下を行く軍人たちの足取りに緊張が張りつめている。それだけで、何か、が起きたのだろうという見当はついた。
いつになくバタバタとしている司令部内の様子に、なんとなく耳をそばだてながら大部屋を目指し、開け放たれたままのドアを軽く二度、ノックして到来を告げ、けれど、そこで、あれ、と思う。
大部屋の奥にはもう一枚、ドアがあるが、いつもはそれは、きっちりと閉じられている。
なのに今日に限っては、それが大きく開かれているのだ。
これは相当に大事(おおごと)らしい、とエドワードは踏んだ。
「あ、エド。久しぶりだね!」
真っ先に振り返ってくれたのは、両手に丸めた大きな紙を幾つか抱えたフュリーだった。
「よう、大将。……と、随分濡れてんな。ほれ」
ひょいと手近にあったタオルを投げてくれたハボックに、エドワードは素直に礼を言い、しっとりと濡れてしまった髪や肩を簡単に拭う。
そうしながら、腰を落ち着けることなく立ったまま、室内でそれぞれにやるべき事をやっている軍人たちに話しかけた。
「何か忙しそうだな。俺、出直した方がいい?」
「あー。いや、その辺は大佐に聞いてくれ。勝手に追い返したら、後から俺らが大佐に怒られる」
「え、でも、ここがこうなら、大佐はもっと忙しいんじゃねえの? 司令部全体が随分とバタバタしてるみたいだし」
「ああ、まあな」
「事件?」
「うんにゃ。事件と言えば事件だが、ちょっと違う」
「?」
それでは何が、という顔をしたエドワードの疑問を正確に読んだのだろう。ハボックが微妙な、としか形容のできない笑みを口元に浮かべた。
「視察なんだよ」
「へ?」
「中央からの視察が明日の早朝、やって来るんだ。口実は、半月前にうちの管轄内で起きた、連続テロ事件の顛末を確認、ってとこかな」
そのテロ事件なら、エドワードも旅の空の下、新聞等で大まかな内容は把握していた。
一ヶ月ほどの間に、イーストシティ市街及び近郊で爆発物を使ったテロ事件が4件続き、死者も7人出た大掛かりなものだった。
新聞記事を読みながら、きっと彼らは不眠不休で捜査に当たっているのだろうと思いつつ、しかし自分も中々東部までは戻って来られず、そのうちにテロの首班は射殺、一味も逮捕されたと報じられ、ちょっと安心していたのだが。
「……解決したのに、嫌味やアラ捜しの口実にされんの?」
素直すぎる問いかけを向けると、今度こそハボックは苦笑した。
「俺らとしては、大佐の指揮だったから1ヶ月で済んだと思ってんだけどな。上からしてみれば、たかがテロ如きに1ヶ月も手間取るとは何事だ、ってとこなんだろ」
ハボックの言うことは、軍部内では別段、奇をてらったことでも珍しいことでもない。
だが。
「何だよ、それ」
思わず、不機嫌な声がエドワードの口から零れる。
「文句を言うくらいなら、てめぇが指揮してみりゃいいだろ」
「そうそう」
「大体、こんなとこまで文句言いに来るくらい暇だっていうんなら、代わりに働いていくくらいの根性見せたらどうなんだよ」
「いいなそれ。その間、俺らに休暇くれたら泣いて感謝する。もう絶対」
「っていうより、嫌味言いに来ること事態が無能の証明だって、なんで分からねえんだか……」
「そりゃそうだけど、な……」
「どうせアラなんて、こじつけない限り出てくるわきゃないだろ。あの大佐が、そんな甘い奴に見えたら、世の中天使だらけだぜ」
「…………」
感情に任せて零れるままに、つらつらと文句を並べ立てていると、相槌を打っていたハボックの反応がいつの間にか消えている。
あれ、と顔を上げてみると。
いささか人の悪い、面白げな笑みを浮かべて、淡い金の髪を短く刈った少尉はエドワードを見下ろしていた。
「何だよ」
「いや」
「だから、何だよ?」
「いや、な。大将って案外、大佐のこと好きだよな」
「!?」
「顔つき合わせるたびに文句言ってる割には、こういう話聞くと、毎回、結構本気で機嫌悪くなるし」
まぁ俺たちだって普段ボロクソに言ってても、他の部署の連中に言われると一瞬ムカつくしなー、と笑われ、ついでに大きな手で、わしゃわしゃと頭を撫でられて。
エドワードは、ぷつんと切れる。
「頭撫でんな!! 縮むだろ!!!」
そのまま勢いで、ひとしきり騒いでいたのだが。
しかし、いくらも経たないうちに、
「それくらいにしておきなさい、ハボック少尉」
決して怒ってはいないが、耳にした者を瞬間冷凍にするような凛と美しい女性の声が、二人の動きを止めた。
「先程の資料の整理は終わったの? まだなら急いでちょうだい。やることは幾らでもあるのよ」
「イエス、マム!」
奥の部屋から書類ファイルを片手に出てきた女性士官に、直立不動の敬礼を返して、ハボックは、また後でな、とあたふたと自分のデスクへと戻ってゆく。
その大きな背中を見送り、それからいささか気まずい気分でエドワードはリザへと顔を向けた。
「え…と、ごめん、中尉。いま忙しいって教えてもらったとこだったのに」
「いいのよ」
エドワードの謝罪に、くすりと笑ってリザは自分のデスクに書類ファイルを置く。
そして、彼女にしては悪戯めいた光を、明るい茶色の瞳に浮かべてエドワードを見やった。
「正直なことを言うと、あなたが来てくれて良かったと思ってるの」
「へ?」
「こんな風に司令部全体がピリピリしてるけれど、本当のところは、そう深刻になるようなことでもないのよ。勿論、簡単な事件ではなかったし、こちらの手際に対する上層部の不満も本物だけれど、そんなものは、どうとでも対応できることだから」
言われてみれば、確かにそうかもしれないと思える。
第一、つい今しがた、自分でもアラ探しをするだけ無駄だと口にしたばかりだ。
「……だったら何で、こんなに切羽詰ってるわけ?」
だから、素直に問いかけてみると。
リザは、小さく肩をすくめるようにして、視線を彼女自身が閉めて出てきたドアへと流した。
どういう意味だろう、と考えて。
「……機嫌悪ぃの? もしかして?」
何となく思いついたことを口にすると、リザは小さな微苦笑を口元に浮かべる。
「悪い、と言うと少し違ってしまうのだけど。お疲れなのは確かよ」
「ふぅん」
「テロ事件の捜査中、他にも幾つか小さな事件はあったし、管轄内の町に治安維持の部隊を先日、派遣したばかりだし……」
「そんな忙しいとこに中央の連中が査察に来るから、余計にムカついてるってわけか」
なるほど、と納得する。
あの男は書類を溜め込むのは大得意だが、やるべき時には桁外れに働く。リザが言うのだし、疲れているのは間違いないのだろう、とエドワードは思った。
とりあえず、事情は分かった。
だが、どうしたものだろうか。
自分は、いつものように旅の報告書を提出に来ただけだ。
報告書くらいなら、別に直接でなくとも、この大部屋に居る誰かに言付けてしまえば片付く。
──けれど。
「中尉、俺が今、大佐のとこに顔出したら邪魔かな」
「いいえ、そうしてくれると嬉しいわ」
ちらりと様子を窺うと、書類を片付ける手を一瞬止めて、リザは微笑んだ。
「大体の打ち合わせは、さっき終わったから。むしろ今は、仮眠を取っていただきたいくらいの気分よ」
「……へえ」
そりゃすごい、とエドワードは内心で一人ごちる。
よりによって、彼女にここまで言わせるのだ。相当な状態なのだろう。
「分かった。じゃあ行ってくるよ」
「ええ。大佐のこと、お願いね」
「イエス、マム」
冗談めかした敬礼を返して。
エドワードは、デスクや書類が詰め込まれ、積み上げられた箱たちの間をすり抜けるようにして奥のドアへと歩み寄った。
「大佐、入るぜ」
右手でノックするのとほぼ同時に、左手でドアを開ける。
その杜撰なやり方は、もう随分と前からだが、それで咎められたことは一度もない。
逆に言えば、部屋の主は、不意にドアを開けられても全く困らない程度には隙がないということだから、正直面白くない気持ちもあるのだが、かといって今更、堅苦しく相手の返答を待つ気にもなれない。
だから、今日もさっさとエドワードは室内に足を踏み入れた。
案の定、非礼を咎める声は今日も聞こえては来なくて。
「鋼の。いつ来たのだね?」
問いかけに、ドアを閉めながら答える。
「イーストシティに着いたのは、夕方。ホテルを取るのはアルに任せて、俺は駅から真っ直ぐに来て、ここに着いたのは、ちょっと前。こっちで俺が騒いでたの、聞こえなかったのか?」
「あいにく真面目に仕事をしていたのでね」
溜息混じりに肩をすくめる相手の顔には、確かに、そう思って見れば分かるほどの疲労が滲んでいた。
目の下にごく薄くではあるが陰りがあるし、何よりも雰囲気がやさぐれている。司令官がこれでは、司令部全体が落ち着きをなくしている理由も、分かるような気がした。
だが、それには触れず、エドワードは執務机に近づき、鞄から取り出した書類の束を置く。
「いつもの報告書。今回は大した事は書いてないから、後回しにしても大丈夫だぜ」
「それは助かるな」
言いながらも、ロイは手に取った書類をパラパラとめくる。
さしあたり、記されている町や村の名前だけを確認したのだろう。確かに大丈夫そうだ、とうなずいて、改めてエドワードを見つめた。
「久しぶりだな。二ヶ月ぶりか?」
「……うん、それくらい」
向けられた漆黒の瞳が、優しい。
込み上げる面映(おもはゆ)さを、いささか持て余しながら、エドワードは、それよりも、と切り出す。
別に話題を逸らそうとか、姑息なことを考えたわけではなかったが、真っ直ぐに向き合って軽口ではない言葉を交わすのは、未だに少しばかり気恥ずかしい。
彼が、こういうまなざしを向けてくるようになって、もうそれなりの時間が過ぎてはいるが、実質的に一緒に居る時間は、合算してしまえば、ほんの数日にも満たない。
おかげで、当初の頃よりはまだマシになったものの、この関係に慣れたと言うには、まだいささかの時間がかかりそうだと思う。
けれど、決して嫌な気分ではないのだ。
時々、気恥ずかしさに耐え切れずに暴れたくなるものの、会いたいとはやっぱり思うし、こうして二人きりで言葉を交わす機会があれば嬉しい。
実際に顔を合わせたら、可愛いことなど全く言えないのだが、そればかりは本当だった。
「少尉とか中尉とかに聞いたけど。ずいぶんと忙しいんだって?」
「まあな。人よりも有能であれば、それだけ仕事や厄介事が増えるということさ」
「それは分かる気もするけど。あんまり休んでないんだろ。中尉が、打ち合わせは終わったんだから、仮眠くらいとって欲しいって言ってたぜ」
「中尉が?」
さすがに意外だったのだろう。ロイは軽く目を見開く。
そして、考えるように首をひねった。
「私に直接休めと言うだけでなく、君にも言うとはね。さすがにまずいと判断されているわけかな」
「心当たりがあるって事は、あんた一体何日、司令部に泊り込んでるんだよ?」
「さて?」
そんな言い方ではぐらかす。
つまりは、正確に答えたらエドワードが腹を立てる日数だということだろう。
思わず怒鳴ってやろうかと、大きく息を吸い込んだ時。
「そうか。だが、中尉がそう言ってくれたのなら、少し休むのも悪くないかもしれないな」
呟くような言葉が耳に届いて、気勢がそがれた。
「ちょうど良く、目覚ましも来てくれたことだし。──鋼の」
「あ。何?」
「三十分……いや、二十分でいい。時間になったら起こしてくれ」
「え?」
ぽん、と銀時計が投げられ、反射的に受け取ってしまって。
エドワードが戸惑ううちに、ロイは上着の襟元のボタンを外し、来客用のソファーへと歩み寄る。
「え? 何? ホントに寝るのかよ?」
「ああ。折角君が来てくれたんだから、ゆっくり食事でもと言いたいところだがね。事件や事件の後始末やらが重なって、この数週間というものは、まともに眠れたためしがない。すまないが、二十分だけ待っていてくれ。そうしたら、いつもの私に戻る」
「いつもの、って何だよ? それより、疲れてんなら二十分じゃなくて……」
「部下たちが働いているのに、私一人がのうのうと惰眠をむさぼるわけにはいくまい。じゃ、頼んだよ」
言うなり、ロイは大人三人が余裕で腰を下ろせる黒革張りのソファーに、ごろりと転がる。
思わず立ち尽くし、見守ってしまったエドワードの前で、すぐさま彼の呼吸は深い寝息に変わった。
……一体こういう場合、どうするべきなのだろう?
一人きり執務室に置き去りにされて。
少々途方に暮れながら、エドワードは音を立てないように気をつけつつ、ロイの銀時計のふたを開け、針の位置を確認した。
(国家資格の証を、簡単に他人に預けるなよな……)
心の中で呟きながら、鈍い輝きを放つ表面を眺め、そっと指先で辿る。
自分のものに比べると、全体的に細かい日常傷に覆われたそれは、何ともいえない重みが付加されているような気がする。
(そういえば、大佐がいつ国家錬金術師の資格を取ったのか、聞いたことない)
彼の年齢と、イシュヴァール内乱に参戦していたという戦歴を考えると、過去十年以上十五年以内、という範囲か。大体、十代後半から二十歳前後という辺りが、妥当な線だろう。
まだまだ知っていることの方が少ない、とエドワードは溜息をつき、今度は足音に気を配りながら、一人掛け用のソファーへと移動して腰を下ろす。
(……初めて知り合ってから、四年くらい、か)
十五年分の四年は大きいが、二十九年分の四年は、一体どれくらいの大きさに相当するのだろう。
ちぇ、と面白くない気分で、旅行鞄の中から読みかけの本を取り出す。
せめてもの意趣返しに、言いつけられた時間の倍の四十分、放っておいてやるつもりだった。
(そろそろか)
ちらり、と三人掛けのソファーを見やり、エドワードは本を閉じて立ち上がる。
三十分以上も時間がありながら、時計の針を気にしていたため、結局ほとんど読み進めることはできなかった。なにしろ、一旦本に集中してしまったら、二時間や三時間は簡単に過ぎてしまう。
さすがに、あまりにも長引けば、リザか誰かが様子を見に来てくれるだろうし、ロイを起こしてもくれるだろうが、目覚まし役を指名された以上、仕事はしてやるつもりだった。
しかし、立ち上がりはしたものの、エドワードは素直にソファーに歩み寄りはせず、その逆方向にあるドアへとそっと足音を忍ばせて向かい、素早く執務室を出る。
そうして大部屋を見回し、リザがデスクに居るのを確認して、声をかけた。
「中尉」
あら、と言うように振り返ってくれた美貌の女性士官に、執務室に向かってからこれまでの経緯を簡単に説明しようと試みる。
「大佐さ、中尉が仮眠取れって言ってたって教えたら、それなら、ってソファーで寝ちまって。で、二十分立ったら起こせって言われて、もう三十分以上過ぎてるんだけど……まずかったかな?」
「いいえ、大丈夫よ。今はまだね」
「まだ、ってことは、そろそろ起こした方がいいんだよな?」
「ええ。このまま休んでいていただきたいのは山々だけど、まだ幾つか、指示をいただかないといけない事があるのよ。一応、日付が変わる頃には仕事にけりをつけて、朝まで仮眠室にこもっていただくつもりでいるのだけれど」
「そっか。中尉も大変だな」
「でも、遣り甲斐のある仕事よ」
大変だということは否定せず、けれど、凛とした美貌に誇りに満ちた表情をちらりとのぞかせたリザに、エドワードは、かっこいいな、と内心で感嘆する。
彼女だけではない。この大部屋に集っている面々は、いずれもがプロフェッショナルの塊であり、そんな大人たちの姿は、エドワードの内面にある十五歳の部分を刺激する。その感覚は、いつも胸を高揚させてくれて快かった。
「分かった。じゃあ俺、大佐を起こすから。二十分休んだら、いつもの自分に戻るとか言ってたから、こき使ってやれよ」
「ええ。ありがとう、エドワード君」
リザの言葉に笑顔を返し、しかしエドワードは、またもや素直にロイの元へと戻りはしなかった。
大部屋の隅にある小さな給湯室に行き、ケトルに水を満たしてから、ぱんと両手を合わせる。そして、その両手をケトルに押し当てると、途端に中の水は激しく沸騰する熱湯へと変わった。
「師匠に知られたら怒られるだろうなー。不精すんなって」
とてつもなく強力な錬金術師でありながら、日常生活では錬金術を禁じ手としていた師の姿を脳裏に思い浮かべ、エドワードはこっそりと首をすくめる。
だが、今は急ぎなのだから許して欲しいなーと心の中で呟きつつ、盛んに湯気を上げる熱湯をティーポットに注ぎ、一旦湯を捨ててから、茶葉を入れて、もう一度ゆっくりと湯を注いだ。
そうして、丁寧に七人分の茶を入れて。
「はい中尉、眠気覚まし」
「あら、ありがとう」
「おーエド、気が利くな」
「ちょうどいいや、このまま大将、うちでお茶汲みやっていかねえ?」
「いい香りですな」
「本当、美味しいよ、エド。こんな特技あったんだね」
「まぁな」
先に大部屋の五人にカップを配ってから、給湯室に戻って二客のカップをトレイに載せ、奥の執務室に戻る。
今度は、ドアを開閉するのに気を使ったりはしなかった。
だから、それなりの音を立てたはずなのに、ソファーに転がった人物は本気で寝入っているらしく、ぴくりとも動かない。
俺が暗殺者だったらどうするんだ、と思いながら、エドワードは声をかけた。
「大佐、時間だぜ」
ひとまずトレイを執務宅に置き、そしてソファーの傍らへと歩み寄る。
「たーいーさー。時間ー。あんたが起こせって言ったんだぞー」
ソファーの上にかがみこむようにして、耳元で呼びかけると、さすがに覚醒したのだろう。小さくロイがうめいた。
「起きた?」
ゆっくりと開かれた目が、顔を覗き込んでいるエドワードを見上げ、何事かを考えるかのように二、三度まばたく。
そして。
「…エドワード?」
唐突に名を呼ばれて。
思わずエドワードはのけぞり、反射的に飛びのこうとする。
が、それよりも一瞬早く、ロイの手に左腕を掴まれて、離れるどころか逆に引き寄せられた。
「う、わっ、何す……!」
「良かった良かった。ちゃんと現実だったか」
「何言って……!」
「いや、君が来たのが現実だったのかどうか、目が覚めた時、一瞬分からなくなってね。君に会いたいあまりに作り上げた私の妄想でなくて良かったよ」
「──っ、それより離せって!!」
何しろソファーに転がっている相手に引き倒されたのだ。
必然的にエドワードは、ロイの体の上に倒れこんだような姿勢で抱きしめられて、身動きできなくなっているのである。今誰かがドアを開けたら、と思うと気が気ではなく、本気の抵抗を両手両足に込める。
と、拘束がふっと緩んだ。
腕はまだ背に回されたままだが、無理やりに引き寄せようとする強引さは消えて、エドワードはほっと息をつきつつ、顔を上げる。
と、至近距離からロイの漆黒の瞳がこちらを見ていて。
思わずうろたえそうになった。
「な、何?」
何気なさを装おうとして失敗し、声がかすかに上ずる。と、ロイが小さく笑んだ。
「いや。本当に久しぶりだと思って」
「二ヶ月しか経ってないだろ?」
「二ヶ月も、だ。もっと会いに来いとは言わないが、もう少し電話なり手紙なりを寄越したらどうだね。まったく、つれないことこの上ない。それを分かっていて好きになったのだから、そう文句を言うわけにもいかないが」
「言うわけにもいかないって、十分言ってるじゃねーか」
甘いのだか甘くないのだか分からないロイの言葉に、思わず頬に血が上るのを感じながら、エドワードは言い返す。
だが、ロイは、「それくらいの報復はしなければ割に合わない」と肩をすくめて見せ、それからエドワードを腕に抱いたまま、上体を起こした。
「相変わらず軽いな。ちゃんと食べているか?」
「縮んでなんかねえ!! ちゃんと食ってるし、成長もしてんだよ!!」
デスクワークばかりのくせに一体いつ鍛えているのか、標準体重よりは機械鎧の分、重いはずの体を軽々と膝に抱き上げた男に、思い切り毛を逆立てながらエドワードは暴れる。
そうしながら、内心ではロイに仮眠を取らせたことを深く悔いていた。
眠る前に彼が言っていた、「いつもの私に戻る」というのがこういう事だというのなら、一生、睡眠不足でいて欲しかったと心底から思う。
だが、今更どうしようもない。
「いいから、はーなーせーっ!!」
「残念ながら、これでも軍隊格闘は得意なほうでね。ほら、肘をこう押さえると、人間の体は自由が利かなくなるんだ」
「馬鹿野郎っ! 錬金術師が体術なんか使うなー!!」
「君には言われたくないな、それは」
溜息混じりに言いながらも、このままでは埒は明かないと判断したのか、ロイはぱっとエドワードを拘束していた手を離す。
そして、すかさず殴りかかったエドワードの拳を、素早くソファーから立ち上がることで避けた。
「避けるな!!」
「避けるよ、それは。……まったく相変わらずだな、君は」
苦笑して。
ロイは更に自分へ向けて繰り出された拳が体に届く寸前、その手首を捉えた。
「!」
あ、という顔をしたエドワードが、ロイを見上げた、そのタイミングを見計らったように。
手首を捉えたまま。
「会いたかったよ、エドワード」
甘く響く低音で名を呼ばれて。
思わずエドワードは固まる。
「久しぶりなのだし、そろそろゆっくり話をさせてくれないか。もう十分に暴れただろう?」
漆黒の瞳を楽しげに、けれど優しく笑ませて。
ロイは、そのままエドワードの手首を引き寄せ、金色の髪の間から覗く額に、一つキスを落とした。
「!!」
素肌に触れたやわらかな感触に、かっと頬に血の気を上らせてエドワードがうろたえている間に、今度は先程とは打って変わった穏やかさで胸に抱き寄せられる。
次いで、温かい大きな手に髪を撫でられて。
「……ちくしょ」
こうなってしまっては、もう抵抗のすべはなかった。
「ずっりい……ホントに、あんたってタチ悪い」
「そうでもないと思うがね」
「悪いんだよ。ちったあ自覚しろ」
言いながらも、エドワードは不承不承、突き飛ばしたい衝動を抑えてロイの胸に顔を埋める。
いま無理に顔を上げたり、離れたりして、至近距離でまともに顔を合わせてしまったら、かえって恥ずかしさが倍増するというのは、これまでに学習済みだったから、今は大人しくするしかない。
少なくとも、隙間なくくっついていれば、相手にはこちらの顔は見えないし、相手の顔も見えないのだ。
「そういえば、平気なのか?」
そんなエドワードの内心の葛藤にどれほど気付いているのか、いつもと変わりない調子で、ロイは目的語の見えない問いかけをしてくる。
「……? 何が?」
「今思い出したが、今日は一日、雨降りだっただろう」
言われて、ああ、と思う。
確かに、一時間ほど前にイーストシティ駅に降り立った時、眉をしかめたのはそれが理由だった。
湿度や気圧が、機械鎧の接合部や傷跡に影響を与えるのだろう。思い出したように鈍くうずく痛みは、もう慣れはしたけれど、馴染みはしない感覚で、どうしてもこんな天気の日には持て余してしまう。
「今は平気だよ。そりゃ何も感じないわけじゃねぇけど、司令部の建物の中は暖かいし、大分マシ」
「それならいいが……」
言いながら、背を抱いていたロイの手が動く。
相手の意図が分かって、そのまま身動きせずにいれば、大きな手のひらがコートの上から背中側の機械鎧と肉体の継ぎ目を、ゆっくりとさするように撫でる。
それで何が変わるというわけではない。が、エドワードは少しだけ力を抜いて、体重をロイに預けた。
「どうせまた、無茶ばかりしていたんだろう」
「んなことねぇよ。報告書、ぺらぺらだろ」
「報告書が薄いからといって、君たち兄弟が大人しく旅をしていた証明になるとは思えないがね。しかしまぁ、今回もこうして戻ってきたのだから良しとしようか」
「何が良しとしようか、だよ。偉そうに」
「偉いんだよ、実際に。少なくとも君の上官だ」
「雨の日は無能な、な」
「……まったく、その減らず口はどこで覚えてくるのかね?」
意趣返しのつもりだろうか。背を抱くロイの腕が、少し苦しくなるほどにきつくなる。
しかし、それもごく短い時間だけのことで。
「──鋼の?」
何かに気付いたように、調子を変えてロイが銘を呼んだ。
「この茶は君が?」
「あ、うん」
すっかり忘れていた、とエドワードはうなずく。
そういえば、執務卓の上に置きっぱなしになっている。そして自分たちが何をしているのかと思うと、どうにもいたたまれず意趣返しのように、皺になれとばかりにロイの軍服の上着を機械鎧の右手で握り締めた。
だが、そんなことには頓着する様子もなく、ロイが片手を伸ばし、ティーカップに口をつける気配がして。
何となく慌ててエドワードは言葉を紡いだ。
「あ、と……もう冷めちまってると思うし……」
「──いや」
遮るようにして告げられた声は、純粋な感嘆に満ちていた。
「美味い。香りからすると、ここの備品の茶葉だろうが……とても同じ茶とは思えないな。こんな特技があったのか?」
「────」
正面切って賞賛されると、かえって面映く、対処に困る。その真理を今、身をもって経験しながら、エドワードはぼそぼそと小さな声で答える。
「母さんが、コーヒー駄目な人だったんだよ。だから、うちは俺たちが子供の頃から茶ばっかりで……。その後、弟子入りした錬金術の師匠も体悪くしてたから、やっぱり茶しか飲まなくて……。それで自然に覚えた」
「なるほど。だが大したものだ。あんな安物の茶葉で、これだけの香りと味を出せるんだからな」
「……そんなに美味い?」
「ああ。これまで味わった中で一番だ」
「……それは大げさだろ」
「こんなことで嘘はつかないよ。いっそ、私専属のお茶汲みに任命して、毎日いれてもらいたいくらいだ」
「それは無理。絶対」
「つれないな」
「当たり前だろ」
言いながら、ようやくエドワードはのろのろと顔を上げる。
ロイの左腕は相変わらず背を抱いたままで、近い距離も変わらないままだったが、どうにか視線を逸らさずに相手の瞳を見上げることに成功して。
「あんたって本当、時々ガキみたいだよな」
「そうかね」
「ああ」
でも、そういうとこも嫌いではないだろう?と低く笑う甘い声が響いて。
エドワードは小さく肩をこわばらせながらも、至近距離で覗き込んでくる漆黒の瞳に目を閉じた。
そっと優しく触れて離れるだけの、可愛らしいとさえ呼べるキスだった。
が、それにさえ固まってしまうエドワードに、ロイは小さな苦笑を浮かべる。
「まったく……。これでは先に進めるのは、一体いつのことになるのだろうね」
「!?」
「ま、私としては全然構わないが? 今でも十分楽しいしな」
「〜〜〜〜っ」
ロイが何を言わんとしているのか理解し、けれど、反論する言葉も見つからずエドワードは、ただ頬に血を上らせる。
「気長に待っているから、早く大人になりたまえ。色々な意味でな」
「──色々って、何だよ!?」
「おや、教えて欲しいかね?」
「…っ、絶対要らねえっ!!」
このセクハラ上司!と暴れて、エドワードはロイの腕から逃れる。
ロイもそれを追う事はせず、代わりに執務卓に置きっぱなしになっていた報告書を手に取った。
「まだ時間はあるのだろう? せっかくだ、私がこれに目を通すのに付き合いたまえ。君とのんびりお茶を飲める機会など、そうそうないからな」
「……あんたに確認を取りたいことが幾つもあるって、中尉が言ってたぜ? だから俺も起こしたんだし」
「なに、本当に事態が差し迫ったら、彼女のほうから書類を持ってくるだろう。それまでは小休止だ」
「さっきからずっと休んでただろ……」
溜息をつきながらも、あえて反論はせずに、エドワードは冷めてしまった自分の分のティーカップを手に取る。
一口飲んで、もう香りは飛んでしまっているが、それでも確かに味は悪くないと自分でも思う。
そして何気なく顔を上げると、ロイと目が合って。
「そういえば、まだ言ってなかった」
深い漆黒の瞳に浮かぶ光が優しい、と思いながら問い返す。
「何を?」
「茶の礼だよ。──ありがとう」
言葉と共に肩を抱き寄せられ、今度は額にやわらかなキスを落とされて。
再び至近距離で目を見交わし、どちらからともなく破願した。
「こんなんで良けりゃ、また入れてやるよ。今度、司令部に来た時にさ」
「ああ。楽しみにしているよ」
ようやく二人揃って笑って、ティーカップを片手に並んで執務卓に寄りかかるようにしながら、エドワードが提出した報告書のページをめくる。
そうして、あれやこれやと言葉を交わしているうちに、いつしか窓の向こうでは降り続いていた雨も上がり、雲の切れ間から静かに宵の星がまたたき始めていた。
end.
この作品は、素敵スケブを描いて下さった
あづみ真琴ちゃん(as BABYLON)に捧げます。
しかし、でこちゅーがテーマの可愛い話を書くはずが、
どんどん長くなって何故か気付いたら、お笑いに……!!
本当は、もっと可愛い話になるはずだったのに……。
ごめんなさいごめんなさいこれから精進します〜(T▽T)
BACK >>