- 11.そしてわたしを忘れて -










「え? またサボってんの?」
「そうなのよ。どうせ、いつもの場所にいらっしゃると思うのだけど……」
「しょーがねえな、あの無能は。中尉もいい加減、愛想を尽かしてやれば? 中尉に捨てられたら、大佐も多少心を入れ替えるかも」
「検討してみるわ。エドワード君たちはどうする? 待っていれば、そのうちお戻りになると思うけれど」
「待ってる時間が勿体ねぇや。探しに行ってもいい?」
「ええ。それなら伝言をお願いできるかしら」
「いいよ。何?」
「『正午までに戻って来て下さらないと、今夜は官舎にお返しできません』」
「──Yes,Mam!」

 バビロンタワーの如き書類の山を背景に、東方司令部きっての才媛が無表情で紡いだ氷の礫のような言葉に、ひやりと肩をすくめて。
 くるりと回れ右した兄弟は、教練の手本のような駆け足でその場を退散した。





 彼がいる場所を見つけるのは簡単だった。
 広大な司令部の敷地内にある、壁と壁が作り出した小さな空間。何本かの黄色く紅葉する落葉樹と、古ぼけた木製のベンチがぽつんと一つだけある、中庭というには何もなさ過ぎる場所だった。
 敷地のほぼ中央に位置していながら、壁の角度の問題で周囲を取り巻く建物内からは死角となるその場所が、彼の息抜きの場だとエドワードが知ったのは、一体いつの頃だったか。
 最初は、アルフォンスと二人、出入りを許可されたばかりの東方司令部内を見学して回っている時に、そこだけぽっかりと取り残されたような空間を見つけたのだ。
 静かで、ただ陽光だけがふんだんに降り注ぐ。その様が不思議とほっとさせてくれるようで、何となく二人の心に留まった。
 それから何ヶ月か過ぎて、子供頃に二人で作った秘密基地に行くような気分で次に訪れた時、そこには先客がいたのだ。
 君たちもここを見つけたのか、なかなか目敏いな。そう言いながら、その時も執務室から遁走していた司令官は、二人の子供を見て、いつもの笑みを浮かべた。

 声を掛けるよりも早く、彼は二人に気付いた。

「やあ。もう行くのかね」
「のんびりしてる理由はないからな」
「昨日は兄さんに、服と傘を貸して下さってありがとうございました。駅に着いた時、あんな嵐だったし、僕は明日にしておけって言ったんですけど、兄さん、全然聞いてくれなくて」
「君も苦労が耐えないな。まだ若いのに気の毒に」
「そっくりそのまま、あんたに返してやるぜ。中尉から伝言。『正午までに戻って来て下さらないと、今夜は官舎にお返しできません』、だってさ」

 それを聞いた途端、ベンチに腰を下ろしていた男の頭が脱力したようにのけぞる。

「勘弁してもらいたいものだな。昨日だって、帰宅したのは日付が変わった後だったんだぞ」
「そりゃお気の毒サマ。でも、そういうあんたに付き合わされてる中尉たちの身にもなってみろよ」
「……それを言われると立つ瀬がない」

 仕方がない、と呟いた男は素直に立ち上がるのかと思いきや、改めてくつろぐようにベンチの背もたれに背を預けた。

「執務室に戻んねーのかよ」
「今戻ったところで残業は決定だ。中尉は正午までにと言ったのだろう? それなら、一分前に戻れば事足りる」
「……大佐、それはいくらなんでもちょっとあんまりじゃ……」
「大丈夫だよ。有能な副官殿は、それくらいお見通しだ。午後から執務にいそしめば、日付が変わる頃には帰れるはずだ」
「……とっとと戻って、一分でも早く家に帰ろうって気にはならねーのか?」
「ならないな。官舎に帰ったところで、何か良いことがあるわけでもない。寝るだけなら、司令部の仮眠室でも同じことだ」
「そういう問題じゃないと思うんですけど」

 案外に生真面目な兄弟たちが訴える言葉は、しかし、男の琴線には一向に響かないようだった。
 根が生えたかのように立ち上がる気配のない相手に大きく溜息をついて、エドワードは顔を上げる。



 ──その瞬間に、一体何があったというのだろう。



 春の嵐が去った今日は朝から良く晴れて、青空一面に嵐の名残の雲が散り散りに白い模様を描いている。
 風は少しばかり強いが、さして肌寒くはない。
 これから爛漫となるだろう予感を秘めた陽射しは、きらきらしさをシフォンのヴェールで包んだような穏やかな眩しさで小さな空間に降り注いでいる。

 その只中で、悠然と怠惰を決め込んでいる男。
 端整な横顔は静かで、何を思っているのか知れない。
 ただ、風にさやぐ癖のない黒髪が、新芽が出始めたばかりの梢を通して落ちかかる陽光を受けて、一瞬の魔法ようなきらめきを見せた。

 多分、それだけのことだった。



「──アル」
「何、兄さん」
「大佐と話したい事、思い出した。悪いけど、ちょっと外してくれないか」
「うん、いいよ。じゃあ僕、中に戻ってるね」
「悪い」

 国家資格を得た三年前から、エドワードは軍部と交渉するのは一貫して自分の役割だという姿勢を崩していない。
 それを承知しているアルフォンスは、少しばかり気にするような様子を見せながらも、素直にその場に兄を残して立ち去る。  そして、残った子供は、兄弟の短いやり取りを黙って見つめていた男へと、まなざしを向け直す。

「話というのは?」

 エドワードが、こんなあからさまに弟を排除することは珍しい。普段ならロイと二人きりになる隙を上手く狙って、弟には聞かせたくない話題を持ちかけることを、彼も重々承知しているからだろう。
 取り立てて構えるような様子を見せることもしなかったが、かといって、いつものように揶揄するような表情を向けることもなく、エドワードの視線を受け止める。

 息が詰まりそうだった。

「あのさ」
「ん?」



「What would you do, if I say I like you ? (あんたのこと、好きだって言ったらどうする?)」



 怖いほどに、心臓がどくどくと耳元で鼓動を響かせていた。
 真っ直ぐ見つめているつもりなのに、眩暈を起こしたかのように瞳に映る世界が回転していて、はっきりと焦点を定めることができない。
 けれど、彼が微かに目をみはったのは、確かに見て取れた。



「I say, I love you, too. (私も君が好きだよ)」



 穏やかに返された言葉の意味が一瞬、把握できなかった。
 呆然として、けれど混乱した脳で「[lav]」という音を「love」と変換することに成功しても、咄嗟に有頂天になれなかったのは。
 多分、彼と自分の間にある埋めがたい何かを感じていたからだった。

「好き、って……」
「言葉通りの意味だがね。君の事は三年前からずっと見ていた。人が人の生き様に惹かれるには十分な時間だ」
「────」

 やはり意味が分からなかった。
 自分が使ったlikeという言葉と、彼の使ったloveという言葉の間には、何かとてつもない隔たりがある気がエドワードにはする。
 意味合いで言うのならlikeよりloveの方がずっと重いのに、そう感じられないのは何故なのだろう。

「だが、鋼の。私を好きだと言い、私の気持ちを確かめて、それでどうするのだね?」
「……え…」

 エドワードを見つめる彼の漆黒の瞳は、静かだった。
 優しさが浮かぶわけではない。だが、苛立ちや憤り、あるいは憐れみといったものも見当たらない。
 そのままの瞳、そのままの口調で、ロイは続けた。



「君は、私を見つめ、私に触れるための肉体を持っているのかい? その心は、その魂は、私を想うために在るものか?」



 ひどく静かな声だったのに。
 全身を落雷に打たれたような気がした。

「私は、君に捧げるものは何一つ持たない。この手も足も目も耳も口も、全ては君ではないもののために在る。君を好きだと言いながら、君の生き様を見届けたいと願いながら、必要とあらば私は私のために、君を切り捨てることができる」

 何もかも。
 己の野望の妨げとなるものは認めないのだと。
 全身全霊を賭けなければならない唯一絶対を、出会うよりもずっと前に定めてしまったのだと、男が言う。
 本当に愛しいと想う存在であっても、そこに入る余地はないのだと。

「オ、レは……」

 突如として突きつけられた冷厳な現実に小さく震えながら、エドワードは自分という存在を思い返す。
 この手は足は目は耳は口は、心は、魂は。



 ──決して、ロイ・マスタングという男のためには存在していない。



 彼の言葉は正しい。
 そう悟った途端、琥珀の瞳から涙が零れ落ちた。

「……分…かってる…っ」

 本当は分かっていた。
 そんなことは言われるまでもなく分かっていたはずなのに、初春の風が見せた幻のようなきらめきに、一瞬……ほんの一瞬だけ、自制を忘れてしまった。

「俺もあんたも、絶対にやり遂げなきゃいけないことがあって、それは余所見なんかしてる暇は全然ないもので……っ…」

 こんなにも好きなのに、彼も好きだと言ってくれたのに、この恋には行く末がない。
 自分の中に想いが存在することすら許せない恋は、恋という名前すら付けられない。
 胸の最奥で小さく小さく押しつぶされて、いつか泡沫のように消えることだけを願う、そんな決して言葉にしてはいけないものだったのに。
 それを表現するためにloveという言葉を使うほど、深く誠実に、本当の意味で彼は自分という人間を理解し、想っていてくれたのに。
 自分はlikeという幼い言葉で、彼がその優しい大人の手で目隠ししてくれていた現実を暴き立ててしまった。

「ご…めん……、大佐、ごめん…っ」

 感情任せに口にしてしまったことで、そして、loveという言葉を使わせてしまったことで、あの一瞬に、一体どれほどの葛藤に彼を晒してしまったのか。
 考えると、拙く詫びる言葉しか出てこなくて。
 これ以上、彼を困らせたくも傷つけたくもないのに、役にも立たない涙ばかりが溢れて止まらない。

「鋼の」

 声を押し殺して子供のように泣き咽ぶエドワードに呆れるでもなく、音もなく降り注ぐ陽射しのような、静かな声が銘を呼ぶ。

「君は君の道を、私は私の道を行く。その道は決して交わることはない。君と私は、それぞれに生きて、それぞれにいつか死ぬ」

 言いながら、ゆっくりと彼は立ち上がった。

「だが、それでもだ。鋼の」

 零れ続ける涙を隠すように両拳で顔を覆ってうつむいたままのエドワードの方へと向かって歩きながら、すれ違いざまに右手を上げて。



「千分の一、万分の一に過ぎなくとも、私はずっと君のことを想っているよ」



 くしゃりと陽光をはじく金の髪を撫で、その感触に反射的に顔を上げたエドワードを中庭に残して、ロイは建物の向こうへと歩き去る。

「───…」

 その青い軍服に包まれた後姿を目をみはったまま見送ったエドワードの瞳から、また新たな涙が零れ落ち、萌え始めたばかりの若草の上で散った。

 ──千分の一、万分の一であっても。

 彼の心は、自分のために在る。
 それがもしかしたら命取りになるかもしれないというのに、ロイはそれでいいと言う。
 そんな馬鹿なことがあっていい訳がない。
 この不安定な軍事国家の頂点に立とうという男が、そんな隙を作ることがどれほど危険なことであるか。
 重々承知しているだろうに、あの男は。

「馬っ鹿野郎……っ」

 これでは自分も忘れられない。
 弟と自分の肉体を取り戻す。それに賭ける想いの千分の一、万分の一にしか過ぎない想いであっても、きっとこの命が消えてなくなるまで彼のことを想い続けてしまうだろう。
 許されないことだと思いながら。
 忘れなければと思いながら、それでもきっと。

「あんたみたいな馬鹿……好きにならないでいられるわけないだろ……!」

 小さく叫んで、止まらない涙をコートの袖口で強く拭う。

「大佐……」

 どうしようもなく、胸が痛かった。
 けれど、同時に。

 どうしようもないほど、幸せだと思った。






end.






loveの発音記号は[lav]ではないのですが
WEB上では表記できないので、こういうことに。
英語ってムズカシイネ……。


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