- 10.この手も、瞳も、唇も、 -
「兄さん、大丈夫だったの!?」
ホテルの部屋のドアを開けた途端、耳に届いたのはそんな弟の声だった。
「あれ、服……」
「司令部で借りた。傘も。明日、駅に行く前に返しに行く」
「そうなんだ。良かったね、帰りは濡れずに済んで」
そもそも嵐の中を報告書出しに行くのが無茶なんだよ、明日になればきっと雨も止むのに兄さんはせっかちなんだから、と言いながらアルフォンスは、硬質な金属音を小さく鳴らしつつ、無骨な手を器用に使ってお茶の支度を始める。
その様子を横目で見ながら、エドワードは旅行鞄と、抱えていた濡れた衣服を椅子に放り出した。
一晩広げておけば、何とか旅行鞄にしまいこめる程度にはシャツもズボンも乾くだろう。コートはもう少しばかり時間がかかるかもしれないが、色の濃い長袖のシャツを着てしまえば左腕の機械鎧も隠せる。
しわを伸ばすように広げたシャツを木製の椅子の背に掛け、それからエドワードは自分が身につけている『作業服』を見下ろした。
おせじにも綺麗とはいえない灰茶色をした丈夫な布地の、蓋付きポケットが全身で十以上もある服が、本来はどういった用途のものであるのか知っている。
そもそもが軍司令部の備品だ。軍と関係ないものが官給品に含まれているわけがない。
けれど、これは民間の労務者が身につける作業服と一見、大差ないように見えた。
そういうデザインの服を選んでくれたのだ。何種類もある軍服の中から。
(なんで優しくするんだよ)
毒舌で腹黒くていけ好かない。それなのに、彼の気遣いは時々、驚くほどに分かりやすくて優しい。
どうせ優しくしてくれるのなら、こちらが気付かないほどささやかな事や、それが優しさであるとは到底理解できない意地悪な表現の方がいいのに、時折気まぐれのように与えられる、あからさまな思いやりは、ひどくエドワードを哀しくさせる。
いつもそうなのだ。
借りを作るのは気色悪い、Give and Takeだと言いながら、彼はこちらが差し出したいと思うものを片端から拒絶し、そのくせ一方的に、ぬるいほどに甘い慈雨を降らせてくる。
こちらが十四も年下の子供だからという理由で、そんなことをするのであれば、それはひどく残酷だった。
(こういうことするから、抑えきれなくなりそうになるんだろ!?)
対等なのか、保護者と子供という優劣のある関係なのか。
ロイとエドワードの間にある距離は、一枚の葉の裏と表のように、風に吹かれるたびに気まぐれにくるくると変わる。
どうせなら、どちらか一つに絞って欲しいと腹の底から思う。
同じ国家錬金術師という資格、そして29歳と15歳という年齢差が生み出している現状が、自分たちの正しい関係なのだとしても、その差異は今のエドワードが受け止めるには少しばかり重すぎた。
敬語を使わないことも許容され、同次元で嫌味の応酬をしていた相手から、次の瞬間、大人の顔で諭され、時には甘やかすような気遣いを向けられることが、どれほどこちらを傷つけているのか。
きっと彼は、想像さえしていないのだ。
否、分かっていてやっているのかもしれない。あの狡い大人は。
対等に接されていれば、互いには互いの進むべき道があるのだと納得できる。割り切ることができる。
だが、そこに一滴でも優しさを落とされてしまったら、決して虚勢ではなかったはずの自制が、ただの強がりだったかのように正体なく粉々に砕けてしまう。
ロイがしているのは、荒れ果てた悪路であることを承知の上でを歩いているのを分かっているくせに、喉の渇きを無視しようとしていた子供に一滴だけ水を与えるような行為だ。
砂漠のど真ん中で、たった一滴の水が何になるというのか。
飲ませてくれるのなら、これ以上ないほどに、それこそ溺死するほどに注いでくれるべきであって、一滴の水はこちらを餓え狂わせる猛毒にしかならない。
(あんたは、そういうところが残酷なんだよ)
少し前までは平気だった。
向こうが大人で、自分が子供であることは当然で、庇護されるのは悔しいけれど仕方がないと思えた。
苦しくてどうしようもない時、迷いもがいている時、脳裏に浮かぶのはいつも、あの背中だった。
思い出すたびに、こん畜生、と思った。
負けるものか、諦めてたまるものかと。
そうやって、あの日からここまで歩き続けてきた。
けれど、もうそれでは嫌なのだ。
もう自分は、出会った時の11歳の子供ではない。
彼に導かれて国家資格を取った12歳の子供は、過去の存在でもうどこにもいない。
それなのに、あの男は、まだ同じ顔であの場所にいる。
こちらの目線は少しずつ、ほんの少しずつであるけれど近づいているというのに。
いずれ近いうち、子供は子供と呼べなくなるというのに。
ずっと遠くに居てくれたら良かったのだ。
何年経とうと手の届かない、声を上げても届かない、そんな遠く高い所に強く毅然として在ってくれたら。
彼が優しさを与えることなど思いつきもしない、彼に触れることなど夢想だにしない、それくらいに隔たった存在であってくれたら。
そうしたらきっと、自分は何一つ、苦しまなかった。
「兄さん、どうしたの。具合悪い? 雨で体が冷えた?」
「うんにゃ。ちょっと疲れたなーって、それだけ。結構、強行軍でここまで来ちまったから」
「せっかち過ぎるんだよ。兄さん、自分が生身の人間だって自覚ある?」
呆れたように言いながら、アルフォンスが温かな茶の入ったカップを手渡してくれる。
サンキュ、と短く言って、エドワードは火傷しそうに熱いそれを慎重に一口すすった。
「それ飲んだら今日はもう寝てよ? 明日、出発するつもりなんでしょ」
「ああ」
珍しく逆らわなかったエドワードの返事に満足したらしく、アルフォンスは部屋の隅に言って床に腰を下ろし、自分の荷物の中から機械油と布を取り出して、鋼鉄の身体を磨き始める。
雨のせいで気温が下がり、湿度が高くなると、具合が良くないのは意味が多少違えど、アルフォンスもまた同じだった。
「次の町で、今度こそ手がかりが掴めるといいな」
「うん、そうだね、兄さん」
カリヨンの音色のように硬質な響きが混じっていても、アルフォンスの声は澄んでいて優しい。
自分の全ては、この弟のためのものだ。
手も足も目も耳も、魂すら自分のものであると同時に、アルフォンスのものである。他の誰にも、ほんのひとかけらさえ分け与える余地はない。
そうすることに迷いを感じたことなど一度もない。それだけは天地の全てに誓える。
───けれど。
「────」
身体磨きに熱中しているアルフォンスに気付かれないように自分の左手にまなざしを落とし、エドワードは小さく唇を噛んだ。
end.
罪作りな大人に振り回される子供。
大人の方は、無理のないバランスを保って
結構冷静に子供に与えているんですがね。
子供はすぐに大人になってしまうのが難点。
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