- 09.このまま世界が終わればいい -










「まったく、何だって君はこんな日にやって来るんだね? 雨は苦手だろうに」
「雨だろうが嵐だろうが、錬金術は使えんだから、あんた程じゃねぇよ。無能大佐」
「減らず口はいいから、さっさとタオルを使いたまえ。風邪でも引いたらどうする気だ」

 報告に来ただけのイーストシティで熱を出し、足止めを喰らうのは嫌だろう、と言うと、ようやくふてくされたような表情のまま、彼はここに来るまでの間に部下の誰かが渡したらしい左手に持っていた支給品のタオルを両手で掴みなおし、髪を拭き始める。
 が、ずぶ濡れになった全身は、それでは追いつかないだろうと溜息をつきつつ、内線のボタンを押した。

「──至急、予備の作業服を上下持ってきてくれ。Sサイズだ」
「誰がスペシャルミニサイズだ!?」
「スペシャルのSじゃない。それともSSとでも言って欲しいのかね?」

 後半は、内線を切った後に言った台詞だった。が、その前の彼の台詞は回線を通じて部下に届いており、少なくとも作業服を誰に着せるつもりなのかは、これ以上ないほど明確に通じたことだろう。
 それにしても、よくもこれほどまでにサイズに関する言葉に反応するものだと思う。彼の弟から話を聞く限り、眠っていても反射的に暴れ出すというのだから、はっきりいって人間業を越えている。
 むしろ、錬金術の技より、そちらの才能を伸ばした方が面白い上に有益なのでは、とかなり真剣に思ったことは、いずれ何かの機会に口にするまでの小さな内緒事だった。

「失礼します」

 ノックの音と共に、フュリーが顔を出す。

「作業服をお持ちしました」
「ああ、すまない。鋼の」
「早く着替えたほうがいいよ、エド。そのままじゃ風邪引いちゃうから」
「……別に平気だって」

 渋い顔で言いながらも、不承不承彼は差し出された作業服という通称の野戦服を受け取る。
 フュリーが届け役になってくれたのは幸いだっただろう。彼はフュリーのように、見るからに温和でお人好しなタイプには強く出ることができない。もっとも、毅然として隙のない才媛にも、飄然としているようで案外知恵の回る男にも、豪快なようで戦略家の男にも、薀蓄を語らせたら切りのない理論派にも、加えて、暑苦しいほどに感激屋の肉体派にも、それぞれに弱いようではあるが。
 結局のところ、愛情豊かに育てられた負けず嫌いの子供が強く出られるのは、彼を侮る人間と、彼の目から見て正しくないと思える人間、そして頭の上から意地悪く揶揄う人間、それだけに限られているのだ。

「…………」

 机上に積まれた書類にサインをしながら様子を窺うと、彼はひどく渋い顔で身につけた薄灰茶色の作業服の袖口を見つめ、それから口元を激しくへの字にしたまま袖を折り返す。
 一度、二度折り返して、ちょうど手首の丈になった。
 それから裾を見下ろし、更に憮然とした顔で、やはり二度折り返す。
 そこまで横目で見届けたところで、ようやく声をかけた。

「服は、そっちの壁にあるハンガーに吊るしておきたまえ。どうせすぐには乾かないだろうから、今夜はそれを着て帰って構わない。傘も司令部のを使いなさい」
「……要らねぇよ、傘なんか」
「上官の言うことは聞くものだ」

 素っ気無く言えば、ぶつぶつと何事かを呟きながらも、彼はハンガーに濡れた服を掛ける。
 そして、忘れられたように床の上に置いてあったトランクのところに戻り、中に雨水が浸水していないことを確かめるようにしながら大型の茶封筒を取り出して、中身を引っ張り出した。

「今回の報告書」
「ああ、ご苦労だ……」

 だった、と言いかけた言葉が、不意に途切れる。
 何の前触れもなく、世界が暗闇に落ちたせいだった。

「停電?」
「停電だな」

 言葉は、ほぼ同時に重なった。
 窓の外の嵐のせいだろう。司令部の建物だけでなく、付近一帯の町並みから光が失せてしまっていることが風雨の向こう、ガラス窓越しに確認できた。

「この天気では直ぐには復旧するまい。自家発電機が動くまで待つしかないな」
「……ランプとか無いの?」
「司令部内にはある。が、備品倉庫の中だ。闇の中を手探りで行って、それを棚から探し出して持ってくるのが早いか、自家発電が動くのが早いか……。まぁ考えるまでもあるまい」
「自家発電が動くまで、どれくらい?」
「ここのは初期の初期型だからな。実は20分くらいかかる」
「20分!?」
「機密事項だよ。そちらに回せるほど予算が潤沢に降りてこないんだ。最優先事項ということで、私がここの権限を握った2年前から上層部に申し立ててはあるんだがな」
「機密も何も、これでバレバレだろ!?」

 軍司令部という最もテロの標的になりやすい施設で、自家発電機がまともに動かないとは何事だ!と部屋のほぼ中央で、子供がわめく。
 相変わらず悪いのは口ばかりで、ついつい他者の心配をせずにはいられない彼のお人好し精神は健在らしかった。

「一応、停電発生と同時に出入り口を封鎖するスクランブルのマニュアルは作ってある。あとは部下たちが暗闇でパニックにならないこと、テロリスト共と通じていないことを願うしかない」
「……電気が通じないってことは、内線も駄目ってことだよな。無線は使えんの?」
「電池式だからな。ただ、各部署ごとには送受信機があるが、捜査時でもない限り兵士の一人一人が通信機を持ち歩くことは無い」
「結局、使えねぇってことじゃん」

 役に立たねえ、と呟いて彼は闇の中、そろそろと動いて彼の傍らにあった客用のソファーに腰を下ろす。
 暗闇の中で立ち尽くしていても仕方がないと思ったのだろう。
 窓の外の町明かりも消え失せ、非常灯も灯ってない今、周囲は真の暗闇に等しく、視界が闇に慣れてきても物の輪郭すら定かには掴めない。

「──アル、ホテルに行かせておいて良かったな」
「そうだな。全身避雷針も同然だ。落雷でもしたら洒落にならん」
「別に雷が直撃したって中身がないんだから平気だろうけど、逆に雷に打たれてピンピンしてるのは怪しすぎるもんな」

 溜息混じりに呟いたきり、言葉が途切れる。
 窓硝子を叩く激しい風雨の音にまぎれ、時折遠い雷の音が響くが距離があるのだろう。稲妻は執務室内までは届かない。

「……発電機、まだかな」

 何でもないように紡がれた言葉は、しかし、暗闇と風雨の見えない圧力に耐えかねたかのようだった。
 口調はいつもと変わらなくとも、気配が僅かに緊張している。
 そう感じた時、自分はゆっくりと立ち上がった。

「──大佐?」
「何だね」

 わざと足音を殺さずに室内を横切り、彼の前に立つ。

「こんな闇の中でも、君の髪は何となく判別が付くな。隠密行動には向かないから、しないようにしたまえよ」
「余計なお世話だ。闇夜の黒烏やろー」

 子供っぽい憎まれ口に苦笑して、彼の隣りに腰を下ろす。革張りのソファーが、加わった大人一人分の体重にきしりと軋んだ。

「暗闇は好きじゃないか?」
「──別に」
「そうか。私は好きじゃない」
「……なんで?」

 問い返す声は、どこか心底驚いた響きがあった。

「ロクでもないことばかり思い出すからだよ。君は、灯火管制を知っているかね?」
「とうかかんせい? ……明かりを点けないってことか?」
「そうだ。戦場で夜間、明かりを灯せば、それは敵の攻撃目標になる。相手が正式な軍組織でなく、ゲリラ戦を仕掛けられている時は尚更、ここに居るから襲ってくれと言っているのに等しい」
「────」
「作戦図を確認するのに、一瞬ライターの火を点けることすら細心の注意を払った。──暗闇で思い出すのは、そんな馬鹿馬鹿しい記憶ばかりだ」

 息を呑んだように黙り込む。
 戦場を知らず、いつか戦場に赴くことを恐れている子供には、少々酷な話だとは分かっていた。
 ただ、そういう真実も隣に居る男の中には間違いなくあるのだと、伝えておくことは必要だと以前から思っていたから、自分にとってはいい機会ではあった。

「だが、嵐は悪いものではなかった。こちらが移動能力が低下する不利はあるが、行動を相手に察知されにくい。地形の下調べさえ十分にしてあれば、悪天候は奇襲にお誂え向きとなる。だから、どんな条件下でも火種を確保して、焔を練成する術を懸命に工夫した。馬鹿みたいに必死だったよ」
「────」

 それだけ言えば、聡い彼は言葉の裏を察したのだろう。
 また新たに息を呑む気配がした。

「──まさか大佐、嵐でも焔の練成できる?」
「火種さえあればね」

 下手に弱点を探られるよりは、見え透いた弱点が一つあった方がいい。だから、目撃者のいる現場で水分子分解の練成をしたことはこれまで一度もなく、真実を知っているのは、あの内乱を共に戦った者に限られていた。
 何故、とおそらくは事実を隠蔽していた理由を問いかけて押し黙った彼は、数秒の間にそこまで理解したのだろう。そもそも彼が無能と言いだしたのは、部下たちが雨の日は無能だと繰り返しているのを聞いてからのことだった。

「……そんなこと、俺に話しちまっていいのかよ」
「無能と連呼される分には一向に構わないが、本気で君に無能と思われているのは、いい加減、飽きたのでね。認識を改めてくれたかい」
「……なんか、すっげームカつく」
「はは」

 いかにもな返答に笑い、上着の懐を探る。
 そして指先に触れた金属の塊を掴み、それで彼の鋼の手を軽く小突いた。

「何?」
「魔法の種だ」
「──ライター?」
「そう」

 反対側の生身の左手で受け取り、ひとしきりこねくり回して、小さくて平べったい直方体のそれが何か悟ったのだろう。
 点けてごらん、と促すと、素直に彼は蓋を開けて火を灯した。

「そのまま振り回してみれば分かるが、雨や風の中でも火が消えない優れ物だ。軍の支給品として、あの内乱の時に改良が重ねられた」

 そう言い、彼の手に手を重ねるようにして、蓋を閉じる。
 途端に、一瞬の明るさを見たがために前よりもいっそう濃く感じられる闇が戻った。
 暗夜に一番危険なのは、この暗順応の問題だ。光に慣れた目は、直ぐに闇に慣れることが出来ない。停電時に明かりを確保する手段であるランプや蝋燭を配備していないのも、結局は、それらの光の消えやすさを考慮した上での措置だった。

「嫌なものだよ、暗闇は。そこに僅かな光が灯ったとしても、それが希望を意味するのか絶望を意味するのか、判明するのは事が起こってしまった後の話だ」
「────」

 沈黙してしまった彼が何を考えているのかは、読み難かった。
 ただ、ライターの火を消したきり引き戻さなかった自分の左手が、彼の左手に触れたままになっている。そこから伝わる体温は、自分よりも少しばかり高いように感じられた。
 と、彼の手が小さく動いて、ライターをこちらの手のひらに押し付けるように戻してくる。

「──なあ。何か話せよ」

 そう言った彼は、おそらく暗闇も沈黙も得意ではないのだろう。
 家族や隣人に愛されて育ち、常に身近に誰かが居る生活を送ってきた子供が、冷たく寂しいそれらを好むはずが無かった。
 暗闇の中で微かに笑んで、彼の知識に無さそうな話題へと考えを巡らせる。

「そうだな。……君はリガールという楽器を知っているかね?」
「楽器?」
「北方の楽器だ。形は……そうだな、大きなふいごに似ている。ふいごの持ち手の部分をうんと長くしたような感じだ」
「へえ」
「演奏の仕方も、ふいごと似ている。持ち手の部分には鍵盤が付いていて、皮袋の部分から空気を上端のリード管に押し出すことで音が出る。音色はオルガンやアコーディオンの音に近い。音を出す原理が同じだからね」
「アコーディオンはあんまり聴いたことないけど、オルガンならボロいのが村の学校にあったよ。ウィンリィとアルと3人で、どうやって音が出るのか分解しようとして見つかって怒られた」
「君たちらしいな」
「ウィンリィなんて家から工具まで持ち出してきてさ。授業が終わって皆が帰って、さぁやるぞ!って時に、たまたま担任の先生が本か何かを取りに教室に戻ってきたんだ。先生の説教も長かったけど、母さんにも滅茶苦茶怒られて、その日は夕飯抜きだった」
「育ち盛りにはキツイ罰だな」
「うん。……でも次の日の朝の御飯は、いつもよりずっと多かった。……いつもそうだったんだ。で、ちゃんと反省した?って聞かれて、うなずくと母さんは笑ってくれた」

 呟くように弱くなった声に共鳴するように、まだライターを挟んで触れたままだった手が微かに反応する。
 それには気付かない振りをした。

「リガールの音色は風の音色だ。君の故郷にはきっと良く似合う。実際、私も初めて聞いた時には、列車の車窓から見た東部の丘陵地を思い出した」
「……どこまでも緑で?」
「そう」
「人間より羊ばっかりが目立って、地平線まで空と草原しかないみたいな?」
「そう。オルガンよりは深みのある音だが、気取りがなくて素朴という表現が一番合う。北方の人は、それに合わせて合奏したり歌ったり踊ったりする、そういう大事な楽器だ」
「ふぅん」
「あちらこちらをうろついている君たちのことだ。どこかで聴く機会もあるだろう」
「……うん、そうだな」

 彼は決して、並みの子供ではない。
 だが、彼が知らないことは、まだ世界中にあふれている。だから、それらに出会い、触れて欲しかった。
 一つのことばかりに長けて、世界を知らない偏狭な人間にならないように。
 己の価値観にそぐわない相手を、容赦なく排除してしまう人間になることがないように。

「大佐ってホント、色々知ってるよな。役に立たないことまで、あれやこれや」
「君より十四年分、長生きしているからね」
「……ずっりーの」
「悔しかったら君も長生きしたまえ」
「───…」

 憮然と黙り込んだのは、それでも十四年という時間の差は埋まらない、と思ったからだろう。
 だが、生きていれば差はいつの日か埋まり、逆転する。戦場という究極の空白地帯に足を踏み入れない限り、彼は様々な価値観に出会い、世界を吸収し続けることができるはずだった。

 少しばかりの沈黙に、わずかに触れたままの生身の手同士が鮮やかに存在を主張し始める。
 だが、またもやそれは無視した。
 この小さな子供から、本人の自覚の有無はどうあれ純粋すぎるほどの信頼を向けられていることは知っている。が、それを受け取ることは、また別の問題だった。
 いざとなれば冷酷に切り捨てる。そんな相手に対し、信頼や安堵を求めるべきではない。
 ちょっと雨宿りのできる軒下くらいに思っていれば丁度良いのであって、そこに温かく燃える暖炉や柔らかな寝床を期待するべきではないのだ。
 そう言えば、そんなものを期待したことはないしする気もないと、この子供は言い返すのだろうけれど。

「……なあ、」

 何かを言いかけたその時、前触れもなく室内が明るくなる。

「やっと稼動したか」
「──そうみたいだな」

 天井の照明を見上げ、言いながら立ち上がれば、触れていた手は自然に離れた。

「何を言いかけたんだね、鋼の」

 分かっていながら、彼が膝の上に置いていた報告書を取り上げて執務席に戻りつつ、丸っきり予想だにしていないような顔と口調でそう言った自分は、彼にはどうしようもないほどの愚物にも難物にも見えただろう。
 それで良かった。

「……まだ発電機が動かないのかって言おうと思ったんだよ」
「そうだな。──26分間の停電だ。いい加減、上層部に予算配分を本気で考え直してもらわなければなるまいよ」
「そうしろ」

 肩をすくめるようにして、小さな溜息を隠しながら彼は立ち上がる。

「俺、帰るよ。アルも心配していると思うし」
「ああ。アルフォンス君に怒られたくなかったら、傘は持って行きたまえよ」
「……要らねぇって言ってるのに」

 もう一度、嫌そうに溜息をつき、壁際に行ってハンガーに掛けてあった衣服をくるくると丸めて抱え、傷だらけの旅行鞄を取り上げる。
 そして、ちらりとこちらを見やった。

「じゃあな、また。明日、駅に行く前に、もう一度寄るから。服もそん時に返す」
「分かった。気をつけて行きたまえ」
「ああ」

 最後に向けられた琥珀色の瞳は、いつまでたっても子ども扱いする相手への軽い非難と、ほのかに淡い哀しみが横切ったように見えた。
 が、それを確かめるよりも早く執務室のドアが閉じる。

「──やれやれ」

 呟き、卓上の万年筆を取り上げて指先で少しの間、もてあそぶ。
 懸命に無愛想を装った顔の下で、必死に何かをこらえつつも何かを乞うているような子供の想いを傷つけたいわけではなかった。
 けなげで一途な感情を愛おしいと思わないほど、そして、傷だらけになりながらも尚、走り続けようとする不器用な生き様を美しいと感じないほど、冷血漢にはなれない。
 だが、それに手を差し伸べて応えてやるほど、余裕のある人間でもない。
 両のポケットに手を突っ込んだままの大人に対し、子供は、自分の手だって白くはないのだと言うだろう。
 けれど、あの子供は戦場を知らない。本当の人殺しを知らない。死体を数えることさえ忘れて無感動に殺し続ける日々を知らない。

「君はここに来てはいけないのだよ」

 自分を卑下する気も、彼を尊ぶ気もない。
 ただ、選んだ生き方が違う。生きる世界が違う。
 それだけのことだ。
 だから、自分は決してあの手を取らない。
 あの子供だけは、選ばない。
 そういう道を既に選んだ。

「──少しばかり与えすぎたかな」

 左手に残るほのかな感触の名残は、きっと子供の方にも残ってしまっているだろう。

「私も、まだまだ甘いものだ」

 呟いた声は、自分でも分かるほどに笑みが滲んでいた。






end.






ようやくまともに語ってくれました、マスタングさん。
自分を嘲笑したり、豆を神聖化するほど
弱い人じゃないらしいです。
そして、そういう自分の強さに
豆が惹かれてる事も知っている。
ものすごくタチの悪い大人です。


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