- 08.この恋に終わりなどないと、 -
初めて知った体温は、ひどく温かかった。
直接鼓膜に響いて聞いた声は、怖くなるほどに優しい音だということを初めて知った。
初めて感じた腕の力強さは、彼が抱いている思いがけない悲哀を伝えてきた。
初めて──初めて、自分は彼という存在に、触れた。
「────」
己の手を見つめ、ぎゅっと握り締めて、また開く。
生身の手は特別形良くもなければ、力強くもない。
気心の知れた人たちと居る時以外、常に手袋に隠されている手は不健康というほどではないにしても日に焼けておらず、輪郭もまだ幼さが抜けきらない。
哀しいほどに子供の手。
こんな手では、何一つ掴むことができないような気すらして、思わず唇を噛む。
ただのアクシデントだった。
意味などない。
口や態度とは裏腹に、ひどく優しく甘いところのある男が、後先も考えずに手を伸ばして子供を怪我することから庇った。それだけのことだ。
たまたま、男は難題を抱えていて、一瞬、気の迷いのように現実から逃避をしたがった。
それだけの意味しかないことだった。
───けれど。
真剣だった。
必死だった。
少なくとも、あの一瞬だけは。
自分も、あの男も。
気の迷いのような振りをして、きっと一瞬ではないものを願った。
まるで祈るように。
嘆くように。
あの小さな部屋が、あの一瞬が、世界の全てであることを。
愚者の夢にも似た気の迷いであることを知りながら、信じたがった。
自分たちが、心の奥底に似通ったものを持っていることは知っていた。
自分もあの男も、はばたき続ければ、いつかあの高みへと届くと信じ込み、休むことも翼が痛むことも忘れて足掻くように飛び続けている鳥だ。
虚空の彼方を目指したことを悔いているわけではない。
あの空の向こうには、必ず求める光があるはずだと信じることを諦めるつもりもない。
ただ。
ただ、それでも時々、休むことを忘れた翼が痛むことを思い出す。
飛び続けるしかない己を思い、ちらりと地上のことが脳裏を掠める。
そして、その痛みを知るのは──分かち合えるのは、同類、以外にありえない。
「────」
傷を舐め合うことを求めているわけではない。
痛みを分かち合うことを望んでいるわけではない。
安らぎなど期待していない。
───けれど。
あの絶望に沈んだ闇が業火のような焔に焼き尽くされた、自分にとっては奇跡にも等しい一瞬から、ずっとあの男の存在はここに在って。
時によろめきそうな自分を叱咤し、奮い立たせ続ける。
それだけなら、多分、良かった。
あの男が、遥かに強く、揺るぎない、それだけの存在であれば。
悔しいほどに遠く、大きな道標というだけであってくれたら、自分は、何年経ってもその背に追いつけないことに歯噛みしているだけでよかった。
「でも、あんたは───」
小さな手。
無力な手。
けれど、こんな幼い手の持ち主に、たとえ一瞬の気の迷いであったとしても、何かを求めずにはいられないほどの翼の痛みを、あの時、あの男は胸裡に秘めていた。
あんなささやかなアクシデントを引き金にして、それを露呈させてしまうほど、あの瞬間、あの男は脆(もろ)い存在になった。
そして。
伝わった彼の抱えているものの重みに驚愕するままに、死んだ振りをしてみたら、と唆(そそのか)した自分が、あの瞬間、何をどう感じていたのか。
百を数えた後、いつもと同じ声で蘇生完了と呟いた男には、きっと分かっていただろう。
「────」
もっと大人だったなら。
もっと強かったなら。
あの時、幼く無力な言葉でなく、もっと確かなものを差し出すことができただろうか。
言葉ではない励ましを。
あるいは打開策となるような助力や助言を。
もしくは、抱擁──あの背を優しく、強く抱き返す両腕を。
自分が自分でさえなければ、泣きたくなるほど……腹立たしいほどに切ないと感じたことを、何の役に立たない言葉以外のもので伝えることができたのだろうか?
哀しいほどに好きだと思う心の行く末は、どこにも見えない。
自分もあの男も、唯一至上のものを心に定めている以上、そこから外れた想いの行き場はどこにも存在し得ない。
進むべき道がないことを知り尽くしていながら断崖絶壁の際で彷徨っているのにも似た自分たちの様は、滑稽ですらあると思う。
けれど。
「 」
決して言葉にはできない。
決して、聞かせることはできない。
けれど、それでもきっと、この想いに果てはない。
気が狂うほどに想っても、焦がれ死ぬことすら自分に許すことのできない恋ではあっても。
いつか、この身が滅びても。
きっと想いだけは、風化することを忘れた小さな結晶のように残るだろう。
そしていつか、この世界が終わる時が来たら、その時こそ。
───たった一つの言葉を。
end.
第1話にちょろっと回帰。
まともに考えると、やっぱり二人の関係は
切なくならざるを得ないようです。
幸せにしてあげたいんだけどな…。
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