- 07.死んだふりでもしてみる? -










 一目見て、疲れているようだとは思った。

 軍属ではあっても、東方司令部所属の軍人ではない自分に詳細が知らされることはなかったが、難しくも厄介な事件が続いているらしい現在、司令部全体がざわついているのは、一歩、敷地内に足を踏み入れた時から気付いていた。
 けれど、大人たちは自分たちに事件に関わらせる気はないようで、いつもの報告書を提出した途端、協力を申し出る暇もなく、この資料室へと追いやられてしまったのだ。──それも、つい一ヶ月前に大量の新資料が追加されたという極上の餌付きで。

 書棚5本分の新しい研究書やファイル、と聞かされた瞬間に、反射的に心を動かしてしまった自分は、正直、あさましいくらいに子供だったと思う。
 そして、そんな子供の反応を咎めるほど、ここの人々は大人気ない性格の持ち主たちではなくて。
 背を押すように、さっさと行ってこいよ、とか、構わないから行っていらっしゃい、とか口々に言われてしまっては、今日でなくとも資料は逃げないと思うけど、という反論は無力なものでしかなく、結局、ここだけ別空間のようにひっそりと静まり返った資料室へと追いやられてしまった。

 正直、悔しさやもどかしさがないわけではなかった。
 国家資格を持ち、軍属でもある自分に対して、ここの人々はまるで只の子供のように接してくる。軍部に要請されたら、協力を拒めない立場であることを十分過ぎるほど分かっているはずなのに、誰も、何も言わない。
 一番最初からそうだった。
 成り行きで、事件に巻き込まれたり捜査に協力する羽目になったことは何度かあるが、たとえば強制的に召喚されて何かを命じられたことは一度もない。
 文字通り、幸か不幸かそこに居合わせた時に限り、『頼まれた』ことしかないのだ。

 そういう大人たちの優しさが、正直、時々もどかしい。
 国家資格を取得して、彼らとの付き合いも数年を数えるようになった今、彼らが困っているのなら手伝いたいと思う。自分の力が役に立つことがあるのなら、使ってくれればいいと思う。それは極自然な感情の発露だ。
 けれど、大人たちは、たとえば凄惨な流血沙汰や、後味の悪い事件には、決して自分や弟を関わらせようとしない。
 守ってくれているのだということは、十分すぎるほどに分かっている。
 分かっているし、気遣いを嬉しいとも思う。
 誰が一体、好き好んで殺人事件やテロ事件にかかわりたいと思うだろうか。
 だが、後味の良くない事件に関わりたくないのは、彼らとて同じだろうと想像し、子供という免罪符を持つ自分を後ろめたく思う。それは多分、そんなに間違ったことではないのではないだろうか?





 つらつらと物思いにふけっていたから、本に集中できていなかったのだろう。
 いつもなら気付かないドアを開ける音に気付いて、そちらへと視線を向ける。
 顔を見た瞬間、息抜きをしに来たのだなと思った。

「進んでいるかね」
「まぁそれなりに。役に立つかどうかは分かんねぇけど」
「一見関係ないように思えても、どこかで全く関係のないことと繋がるかもしれない。知識に無駄なものは一つもないよ」

 そうとだけ言い、彼は背後を通りすぎて窓際へと近づく。
 それきり、窓枠に軽く寄りかかるようにして外を見るでもなく見つめている相手を放って、手元の本のページを繰ることを再開した。

 会話を続けようと思えば、続けられた。
 その気になれば話題など幾らでもある。この二ヶ月の間に旅して回った町のこと、列車の中での小さな出来事、司令部に来る前に昼食のために立ち寄った新しいカフェのこと、──それから、彼がこんな所へ息抜きをしにきた原因である事件について。

 おそらく、事件には一つの区切りが生じたのだろう。指示を出し終えて次の展開待ちなのか、あるいは喜ばしくない展開によって手詰まりになったのか。
 いずれにせよ、何か事件が起きている最中は、本当に一時現場を離れても大丈夫だと判断しない限り、彼は決して執務室から動かない男だ。
 それがここに居て、何を話すでもなく窓際に佇んでいる。
 こんな、ほぼ無表情に近い沈黙は、あまりよくない意味を含んでいると理解できる程度には、この男との付き合いも長くなっていた。





 静寂はどれほど続いたのか。
 自分の本を読む速度で、80頁ほどをめくり終える程度だから、さほど長い時間ではなかっただろう。
 長机に積み上げてあった7〜8冊ほどの研究書を全て読破し終えて、次の本を取りに書棚へと向かった。
 読み終えた本を元あった箇所へ戻し、それから背の高い書棚を見上げて自分の目的に叶いそうなタイトルや著者名を探す。
 この資料室にいる時間で、一番鼓動が速まるのがこの瞬間だった。
 求めるものが得られるか得られないか。ヒントが見つかるか見つからないか。低い確率に賭けて、目を皿のようにしながら背表紙を一冊一冊、丹念に読み取ってゆく。
 時には書棚から取り出し、目次や中身をぱらぱらとめくって確認して、読むべき本を選び出す。
 徒労に終わることも多い作業だったが、だからといって途中で諦めるわけにはいかなかったし、それに何よりも、自分の裡にある知的探究心は、貪欲なまでに新しい知識を求めたから、この作業を嫌だと思ったことはなかった。

「あ…と」

 一冊のファイルを取り出そうとして、背表紙にかけた指先が滑る。
 書棚の幅ぎりぎりまで資料が詰め込んであるせいだった。
 なにしろ、この資料室は広いが、収められている資料もまた膨大だ。本棚には僅かな隙間でも許したくないと思うのが、ここの管理をしている係官の心理なのかもしれない。
 けれど、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた本棚ほど厄介なものも多くない。低い位置ならまだしも、手の届くぎりぎりの高さの棚だと、これはもう論外だ。
 くそう、と踏み台の上に立ち、このファイルを詰め込んだ係官を呪いながら、指先に力を込めて何とか引っ張り出そうとする。
 反対側の腕には、既に選び出した本を数冊抱えていたから、やりにくさも倍増だった。

「うわっっ!」
「鋼の…!」

 声を上げたのは、どちらが先だっただろうか。
 一杯に詰め込まれた書棚は、結局、そのうちの1冊だけが抜き出されることを認めず、最上段の棚に収まっていた資料が全部まとめて自分へと向かって飛び出してくるところまでは状況を認識できていた。
 それから、自分の体がバランスを崩して重力に引っ張られたこと、その周囲で、ばさばさと本が落ちては床に叩きつけられる音が響いていたことは、否が応でも五感に飛び込んできた。
 けれど。

「──鋼の?」

 声を掛けられるまでには、随分と間があったような気がする。
 直ぐに返事ができなかったのは、らしくもなく呆然としていたからだろう。

「鋼の? 痛むところはないか?」
「……あ、うん。へーき……」
「そうか」

 安堵したように、男が小さく息をつく。
 そこまでは良かった。周囲には30冊を越えるだろう本が散らばり、ちょっとした惨事の様相を呈しているが、少なくとも自分の体に痛む箇所はない。
 それは喜ぶべきことだ。
 けれど。

「全くひどい詰め方をしたものだな。後で注意をしておこう。──だが、鋼の。君も横着をするんじゃない。腕に抱えていた本を一旦下ろすなり、私を呼ぶなり、やりようはあっただろう。横着をするから、こういうことになるんだぞ」

 低い声が、どうして相手の衣服越しに、かすかな振動と共に鼓膜へ直接飛び込んでくるのか。

「聞いているのかね、鋼の」
「──あんたのことなんて、忘れてたんだよ」

 そう、忘れていた。
 少なくとも、書棚と格闘していたあの一瞬には。
 ここへ来て短い会話を交わしたきり、黙り込んでいた男のことなんて。

「ひどい言い草だな。私がいなければ、最悪、後ろにあった長机の角で頭を打って人生を終えていたのかもしれないというのに。私は君をそんな感謝知らずに育てた覚えはないんだがね」
「あんたに育てられた覚えなんざねぇよ!!」

 うなるように言うと、彼は喉元で低く笑った。
 どうかするとひどく心地よく感じられるその笑い声も、会話と同じように直接鼓膜へと響いてくる。
 めまいがしそうだった。

「それより、さ。いい加減、離してくんねぇ……?」

 彼は書棚に背を預けるようにして、床に腰を下ろしている。
 そして、その腕は──自分の背中へとしっかり回されたままで、いまだに緩む気配すらない。

「そうだね」
「そうだね、って。なら、離せよ」
「そうだね」
「まだ仕事、あるんだろ? 執務室に戻らないと、中尉がそろそろ怒り出すぜ」
「そうだね」
「こんな所にいる暇、本当はないんだろ?」
「そうだね」

 何を言っても、そうだね、としか言わない相手に溜息をつく。

「……なら、さ」
「ん?」
「それならさ。……死んだふり、してみるってのは?」

 そうしたら、ここから動かなくても済むだろ?

「それもいいね」

 一瞬の沈黙の後。
 ゆったりと低く笑って。
 ほんの少しだけ、背を抱く腕の力が強くなる。

 そのまま、どちらも何も言わずに、ちょうど百を数えた時。
 するりと腕が解けて、立ち上がる男の動きにつられるように、自分もまた立ち上がった。
 こちらの服に付いた埃を軽く払い、自分の濃青の軍服についた埃をも払って、「甦生完了」と短く言った彼は、周囲の惨状を改めて見回して小さく眉をしかめる。

「これは後で担当者に片付けさせよう。君は手を出さなくていい」
「でも……」
「原因は君じゃない、鋼の。君の時間は、君の目的のために使うべきものだ」

 有無を言わせぬ口調で断言して、さて、と彼は上着の襟を整える。

「集中するのもいいが、休憩はきちんと取りなさい。それと食事もだ」

 あまり弟君を心配させないように、と、そんなことを言い置いて、資料室を出てゆく。
 息抜きは終了ということなのだろう。
 ぱたん、と軽い音を立ててドアが閉まると、午後の遅い光が斜めに差し込む室内に、再び静寂が満ちた。
 一人きり、床に散らばる本を見つめて、もう一度、閉ざされたドアへと視線を向ける。

「──勝手なことばかり言いやがって」

 呟いた声は、ひどくぽつりと響いた。

「いつもいつも、人のこと庇ってばっかりで。ずるいんだよ、あんたは」

 別に庇ってもらわなくても、守ってもらわなくても、大丈夫なのに。
 子供だけど、子供扱いなんかしてくれなくてもいいのに。
 そんな疲労が濃く滲んだ艶のない顔色で、優しい言葉なんて口にする必要なんかないのに。

「クソ大佐」

 呟いた声こそが、ひどく子供じみているようで。
 しばらくの間、その場所から動くことができなかった。
 





end.






微妙な関係?
エドも微妙、大佐も微妙。
14の年齢差は難しいです。


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