- 04.涙の理由を知ってるかい -










 整然と林立する書棚と書棚の間に、午後の陽射しが静かに落ちかかる。
 東方司令部の資料室は、広く、膨大な書類が納められている割に、立ち入る者は少ない。
 今日も他に人影はなく、室内はひっそりと静かだった。

 ぱらりとページをめくる。
 印字されたアルファベットの上を視線がすべり、そのまま、するりと窓の外に向く。あるいは、ぼんやりと宙に留まる。
 そんなことを一体どれくらい続けていたのか。

「今日は全くはかどっていないようだな」
「──大佐」

 いつの間に入って来たのか、気配を消すのが上手い男のことはともかく、ドアの開閉音にすら気付かなかったことに驚いた。
 ここのドアの蝶番(ちょうつがい)は、いつも少し油切れ気味で、開け閉めするたびに金属と金属のこすれる小さな音がするというのに。

「……またサボり?」
「人聞きの悪い。息抜きと言いたまえ」
「あんたの場合、同じ意味だと思うけど」

 言いながら、けれど本を読むことは一時諦めて、手にしていた万年筆を置く。
 本を読む時には集中したい方だし、また集中してしまうと、周りのことなど忘れてしまう。
 二つのことを同時進行できない不器用さは昔からで、正直、その点は傍らに居る男が少し憎らしい。
 滅多に見ることはないが、たとえば何か事件が起きた時、部下たちに矢継ぎ早に指示を出していく様は、一体幾つの耳と目を持っているのだろうと疑いたくなるほどで。
 だから、つい、今日が雨降りだったらな、と考えてしまう。
 そうしたら、心置きなく、無能のサボり魔野郎、とこき下ろせたのに。

「……またロクでもないことを考えているな、鋼の」
「そう? あんたの被害妄想じゃねえ? それとも心当たりがあり過ぎるとか」
「甘いな。あいにく、君の目は嘘をつくのには向いてないのだよ」
「────」

 言われなくとも分かっている。
 詰まるところは、不器用な人間……不器用な子供。
 自分はそういう存在だ。

 黙り込んだ自分に、彼は、仕方がないな、というように軽く微苦笑まじりの溜息をついた。

「先程、話は聞いた」
「……へえ」

 どうせ、アルフォンスからアイホーク中尉へ、中尉から目の前の男へ、そういう経路だろう。いつものパターンだ。
 そして、この男が、こうしてやって来ることも。
 毎度過ぎて。

「……あんたのそういう所、嫌い」
「そうかね」
「忙しいんだろ。さっさと執務室に戻れよ。中尉が怒るぜ」
「そうだな。私も彼女に怒られるのは怖い」
「だったら戻れってば」
「もう少し息抜きしたらな。今日は朝から執務室に詰めっぱなしだったから、さすがに息が詰まった」
「それが正しい司令官の姿だろ。たまには真面目に働けよ、無能大佐」
「今日は晴れているから無能ではないよ」

 何と言っても、腹立ちの欠片すら見せやしない。
 ひどく悔しくなって、唇を噛む。
 と。
 突然、緩やかに空気が動く感覚がして。

「!?」


 いきなり視界が大半、何かに遮られた。


 驚き慌てながらも、頭に被せられたそれが軍服の上着だと気付いたのは、布地に残っていた温もりと、ほんのかすかな……ヘアトニックか何かの香りのせいだった。

「意地っ張りなのは君らしいが、たまには肩の力を抜いても罰は当たらないよ、鋼の」
「────」
「何もできなかったことが悔しい。アルフォンス君が言っていたそれも真実だろうが、真実というものは常に一つとは限らないだろう? ましてや人の心は、たやすく白か黒に塗り分けられるものでもない」

 自分の無力が悔しくて落ち込んでいるだけではないだろう、と。
 低く響く声に、穏やかに問われて、被せられた上着を取ろうともがいていた手が止まる。

「どうせ今日も、ここには誰も来ないだろう。折角だ、ゆっくりしていきたまえ。それは後で返してくれればいい」

 言うだけ言って。
 気配と足音が遠ざかってゆく。
 全身を耳のようにしてそれを追いながら、呼び止めることもできずに、きつくきつく唇を噛み締める。


 ──いつも、こんな風だった。


 最初の頃は、彼の意図が分からず、サボるついでにからかいに来たのかと身構えてばかりいた。
 でも、すぐに、わざわざ執務室を離れてまで子供をからかっていられるほど、彼は暇でも物好きでもないことに気付いた。
 本当に息抜きをしたい時には、彼は誰も居ない場所に行く。
 そうではなく、ここに……自分の傍に来る時は、サボりはただの口実に過ぎない。

「……ホントに、あんたって嫌だ」

 人の機微にすぐ気付いて。
 知らぬ顔でやって来ては、小さくて大きな優しさを落としてゆく。

「ちくしょー……」

 ……本当は悲しかっただけだった。
 知り合ってから、ほんの短い時間ではあったけれど、確かに一緒に笑い合っていた小さな命が消えて。
 何もできなかったことが悔しかったのは、間違いのない事実。
 でも、それ以上に。
 目の前で命が消えてしまったことが、ただ、悲しくて。
 今もまだ、とてもとても悲しくて。


 ──でも今、目の裏が熱いのは、決して悲しいせいなんかじゃなくて。


「……大嫌いだ、あんたなんか」

 呟いた声は、情けないくらいに小さくかすれていて。
 頭から被せられた上着が作り出した、優しい小さな暗闇の中で、誰にも知られないようにきつく目を閉じた。




   *          *




「あれ、大佐は?」
「今は会議中よ。そろそろ戻られると思うけれど」
「え!?」

 両腕に青紺の軍服を抱えたまま、思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。
 が、幸いなことに、目の前の素晴らしく有能な女性は、すぐにこちらの思考を察してくれたらしい。

「上着のことだったら大丈夫よ。ロッカーに替えは、いつも用意してあるから」
「あ、そうなんだ」

 良かった、と思わず息をつく。
 その会議とやらがどんな規模のもので、どんな面々が集まるのかは知らないが、仮にも佐官の地位にある軍人が身だしなみの整わない格好で、会議室に赴いていいはずがない。
 自分のような子供でもそれくらいの常識は分かるから、中尉の言葉に心の底から安堵した気持ちは、決して嘘ではなかった。

「それは私が預かった方がいいかしら? それとも大佐が戻られるまで、ここで待ってる?」
「あ。うん、それじゃあ頼んでもいい? 俺、もう宿に戻るし、明日の朝も早いから」
「あら、そうなの」

 少しばかり残念そうに小首を傾げてくれる。
 そんなアイホーク中尉は、やっぱり綺麗で優しくて、間近で見ると、少しばかりくすぐったい感じがする。
 ──それは、あの男に感じるものとは、似て非なるどころか、天と地ほどにも違うものではあるけれど。

「それじゃ大佐に、またそのうちに寄るって言っといて。それから、今日の借りは次回につけといてって」
「ええ。それだけでいいのね?」
「うん」

 うなずき、中尉の手に上着を渡す。

「それじゃ、中尉も大佐のお守りは大変だろうけど、頑張ってくれよな」
「ええ。エドワード君も、あまり無茶するのは駄目よ」
「分かってるよ。ありがと、中尉」

 笑顔で大部屋の面々に手を振り、司令部を後にする。
 外に出ると、宵の空には満天の星が輝き始めていて。
 一つ、大きく深呼吸してから、アルフォンスの待つホテルに向かって駆け出した。






end.






何となく前回の続き。
落ち込んで泣きそうな子に、頭から上着をかけてあげる。
自分にとっての萌えツボを突っ込んでみました……。


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