- 02.その先の言葉は知らない -
この季節には珍しく、良い天気だった。
ぐずぐずと続いていた霧雨も昨夜のうちに上がり、石畳の道のあちこちに残る水溜りの一つ一つに太陽が映り、小さく輝いている。
久しぶりに開けた気のする執務室の窓から入ってくる微風も、ほどよく乾いていて心地いい。
こんなにも良い日であるのならば、仕事の能率も上がりそうだな、と思ったのは、ほんの一瞬のこと。
そして、その二時間後には、執務室を脱出することに成功していた。
東方司令部の敷地は、イーストシティにあるいかなる施設よりも広い。そして当然ながら、そこには数多くの軍人及び軍属が勤務している。
が、それは建物の中での話であり、忙しく人々が行き交う建造物から一歩出てしまえば、たとえば建物と建物の間に自然にできた中庭と呼ばれる空間などは、驚くほどに閑散としている。
無用心だと思わないでもないが、正門か通用門、あるいは上端に鉄条網を張り巡らせた高い壁を越え、更には建物の中を突っ切らないとたどり着けない空間に警備兵を配置するのは、実際問題として無駄に過ぎるため、結局いつまで経っても、これらの空間は無人のままだった。
この誰も来ない、まるで廃墟のように人々に忘れられた場所を自分が気に入っていることは、側近たちも知っている。
おそらくは一時間もすれば、誰かが探しに来て捕獲されるだろうと思いながら、一応形ばかり置いてあるベンチの座板に積もった枯葉を軽く払い落とし、腰を下ろす。
執務室を脱走するのは、別に悪気があってやっていることではない。
ただ、好きではないのだ。
あの空間も、山と詰まれた書類にサインをすることも。
従順な軍人のふりをするのは、本来、自分の性には全く合わない。
仕事に手を抜く気はないが、自分の能力が本当に必要とされる時は、事務処理など関係のない、力対力の場面だ。
決して戦場を好むわけではない。だが、思う存分に自分の力を揮(ふる)える場所に立ちたい、そういう欲求は常に身の内にある。
得てして、人間など不遜なものだ。
それが軍人、国家錬金術師ともなれば尚更に、己にだけしか通じないような理を携えて世の中を渡ってゆこうとする。
正しいも正しくないもなく、己にとっては、それだけが真実なのだとばかりに。
この自分の中にも、他者が理解するには難しいだろう理が横たわっていて、それの求めるままに、今はただ前へ前へと歩き続けている。
──かさり、と落ち葉を踏む乾いた音がして。
梢の隙間から見える空を見上げていた視線を、そちらへと向ける。
「相変わらずサボってんだな」
そこに居たのは、部下たちの誰でもなかった。
「鋼の。いつ来たんだ?」
「ついさっき。執務室行ったら、中尉にあんたを探してきてくれって言われた」
「それでここに?」
「今日は天気いいし、こんな日ならここかと思ってさ。正解だったな」
少しばかり楽しそうに笑いながら、日差しに金の髪を輝かせつつ歩み寄ってくる。
そして、ほい、と手にしていた紙の束を差し出した。
中身を見なくても分かる。左上をクリップで留められたそれは、今回の旅の報告書だった。
「今回はどこへ行っていた?」
「北の方をぐるっと。変わったことは大してなかった」
「そうか。後でじっくり読ませてもらうよ」
「今読めば? あんたの机の上、すんごい量の書類が積んであったぜ。で、午後一時にお戻り下さい、って中尉からの伝言」
「……彼女は私に事務仕事をさせるのが、そんなに楽しいのだろうかね」
「楽しくないだろ、そりゃ。肝心の上司が逃げ出してばっかりなんだから。あんたがすらすらとサインしてくれたら、すっごく嬉しいだろうけど」
大人一人分ほどの空間を開けて、隣りに腰を下ろした彼は、けろりと言う。
口は達者で、どうしようもないほどに悪いが、彼の性情には陰湿なものが微塵も含まれていない。
だから、この子供には何を言われても、腹は立たなかった。
「まったく……。中尉は午後一時までだと言ったのだね、鋼の」
「うん」
「それなら、もうしばらくここで過ごしてから、昼食を食べに行こう。君も付き合いたまえ」
「何で俺が」
「いいだろう、たまにしか君と話をする機会はないんだ。今は勤務時間中なんだから、上官命令に従いたまえ」
「サボりを勤務時間に数える気かよ」
ずうずうしいな、と口を尖らせながらも、彼は立ち去らない。
それならとでもいうように、少しばかり肩の力を抜いて、澄み切った空を見上げる。その琥珀の瞳が、木漏れ日を透かして金色に揺らめく。
まだあどけないその風情に、かすかに微笑して、自分もまた空を見上げる。
この人気(ひとけ)ない空間に流れる静かな時間に、名前をつける気はなかった。
ただ、この一時が確かに存在している。それだけで十分であり、それ以上を求める方向には、自分の中の理は動かない。
互いに軍人でも国家錬金術師でもなければ、また違う方向に進むこともできたのかもしれないが、それを思うことは意味がなかった。
「鋼の。昼食のリクエストはあるか?」
「昼? そうだなぁ」
一瞬きょとんとして、だが、すぐ考え始める子供に小さく笑んで、目を閉じる。
すぐに終わりを告げるこの時間が、この先も、あと何度か繰り返されることがあればいい、と。
今はそれだけを思った。
end.
エド13歳くらい?
絶対に飼い慣らされない虎と子猫が
仲良く並んで日向ぼっこしてる感じ。
ロリもショタでもなく、同類、というのが二人の定義。
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