Heven's Door -04 meltdown.3 -
大きくなったものだ、と夜道を歩きながら思う。
出会った時は、まだほんの子供だった。
彼自身は同年代に比べると小柄なことを気にしているようだが、大人の目から見ればきちんと成長している。
四年前は、まるっきり子供のものでしかなかった細い手足も肩も、今はしっかりとした成長期の少年のものへと変じており、身長も見るたびに少しずつではあるが伸びて、琥珀色の瞳に浮かぶ光もよりいっそう深く、鋭さを増している。
それでも彼としては自分の成長ぶりに不満であるらしいから、子供というものは複雑なものだと思う。もっとも彼にしてみれば、身長で悩んだことのない奴が勝手なことを言うな、と言いたいところなのだろうが。
(しかし、よく本当にここまで来たものだな)
一歩先を歩いてゆく背ではねる金色の尻尾のような編下げを見やりながら、思い返す。
初めて出会った時、彼はまるで生ける屍だった。打ちひしがれ、絶望に染まった虚ろな瞳の色を、今でもまざまざと思い浮かべることができる。
正直なことを言うと、あの惨劇の痕を目にし、その意味を理解した瞬間、自分は冷静さを忘れた。
それが錬金術師としての禁忌に触れることだったからではない。あの光景が触れたのは、自分の中にあった最大の嫌悪──どす黒い血の色の記憶だった。
込み上げた激しい憤りに駆られるままにロックベル家の玄関を叩き、車椅子の上でうなだれていた子供の襟元を締め上げた。今から思えば、まったく冷静ではない。兄弟の行為は咎められてしかるべき大罪ではあったが、自分は初対面の赤の他人であり、個人的な感情で責めるのは筋違いもいいところだった。
その憤りが、巨大な鎧から聞こえた年端の行かぬ子供の声という違和感に満ちた現象によって、すぐに冷やされたのは幸いだったというべきだろう。
冷静さを取り戻して事情を聞けば、彼らはただ母親が恋しかっただけで、生命を弄ぶつもりなど微塵もなかったことはすぐに分かった。
しかし、だからといって彼らを無害な存在だと判断する気になったわけではない。
『あの子供は危険だ』
リゼンブールから当方司令部へ帰還する途中、自分ははっきりと副官にそう告げた。
最大の禁忌とされる人体練成に挑んだ、子供ゆえの無謀さ。わずか11歳で、不完全だったとはいえその禁忌の練成式を構築するに至った早熟さ。
そして、何より危険だったのは──彼が新たに抱いた、強い望みだった。
禁忌の領域にすら手の届く天賦の才能。あるいは、いかなる困難をも厭わぬ強靭な魂。喩えるならそんなものを抱えている子供だと判断したからこそ、年端も行かない彼に国家錬金術師になるという茨の道を指し示した自分に対し、見せた灼けるようなまなざし。
あの焔の点いた瞳こそが、自分を最も危惧させた。
彼が、自分と弟の肉体を取り戻そうとあがくのは構わなかった。生命をもてあそぶのでない限り、何をしようとそれは自分の知ったことではない。
──否、そう言うのは不正直だろう。
犯した罪の重さに溺れ、うずくまることは許されるべきではない。咎人となった以上、生涯かけてその罪を引きずり、その罪の重さ以上のものをもって贖(あがな)わなければならない。
自分が茨の道を提示したのは、そんな思いからだった。
そして、その一方で禁忌を犯したとはいえ、幼い子供が母恋しさゆえに犯した罪に、一体どれほどの重さがあるというのだろうかという思いもなくはなかったし、子供であっても禁忌を犯せるだけの能力を持つ以上、相応の責任を負わねばならないのだとも思った。
茨の道を指し示すことに迷いはなかったが、相反する躊躇いにも似た憐れみは、あの時、確かに自分の中にあったと思う。
だからこそ、辞去する寸前に彼が見せた黄金色に燃えさかる瞳は、自分に満足というよりも、当然だという思いと仄かな痛みをもたらし、そして同時に、野放しにするべきではない、という強い危機感をも、彼の瞳はこちらの胸襟に湧き上がらせた。
この手で火を点けた、そのあまりにも強い願いが表に出れば、それは悪意を持つ人間、あるいは悪事しか招き寄せない。
そして、肉体を取り戻せるかもしれないという可能性をちらつかせられたら、彼は、どんなに見え透いた罠であっても進んで飛び込むだろうと確信できた。──軍の狗になる道を示した自分の非情な言葉に、迷いもせず喰らい付いたように。
あまりに危うかった。
だからこそ、そんな事はさせまいと思った。
彼の望みは、誰かに利用され、曲げられて良いものではなかった。
──自分の望みが、他者の冒しべからざる物であるのと同等に。
彼の金の瞳に宿った焔は、決して翳らされてはならないものだと、その焔を見た瞬間に決断した。
『監視をつけろ。問題が起きない限り定期報告の必要はないが、決して他者には勘付かれるな』
一瞬、副官は問うような目をし、だが、すぐに納得したようにうなずいた。
己の肉体の一部と弟の肉体を失い、失意と絶望のどん底にあった子供に容赦のない言葉を向けた自分に対し、あの家を出る時に、いつになく責めるようなまなざしをこちらに向けた彼女だからこそ、かえってこちらの真意を容易に汲み取れたのだろう。
自分たちをあの村に導いた書類の間違いは訂正しないまま、処理済としてファイルに収められ、それから一年後に彼が東方司令部に現れるまで忘れ置かれた。
その間、副官からの報告は一度もなく、小さな村の幼い兄弟のことは、自分と副官、そして彼女が手配した密偵以外、誰一人として知ることはなかった。
(しかし彼女も徹底していたな。なにしろ、君がやって来ることさえ私にも告げなかった)
一年後、自らの足で東方司令部までやってきた彼に一番驚いたのは、おそらく自分だっただろうと思う。
必ず立ち上がるとは思っていた。彼ら兄弟が厄介になっていたのは機械鎧技師の工房であったし、鋼の手足を得て、不自由のない肉体を取り戻すだろうことは予測できていた。だからこそ、国家錬金術師という肢体不自由では到底認められない地位を目指すことを示唆したのだ。
しかし、僅か一年という短い期間を経たのみで再会することになろうとは、さすがに予想外だった。
通常の義肢と異なり、神経を直結して生身の手足同然に動かせる機械鎧は非常に便利なものだが、高価であるという以上にその手術とリハビリの困難さのため、実際に装着する人間の割合は低い。
困難を承知で装着手術を受けたとしても、自在に動かせるようになるまで最低三年はかかると聞いていたからこそ、彼と再会するのは、それくらい後になるだろうと踏んでいたのだ。その時に自分がまだ東方司令部に居ればいいが、と今から思えば少々のんきな心配もしていたのだが、実際それくらいに異常な早さでの邂逅だった。
だからこそ。
改めて、危険だと思った。
(試験の後、結果が出るまでの一週間、散々にセントラルとイーストシティの軍関係施設を連れ回したから、君はひどく気分を害していたな。そのくせ錬金術関係には、人が変わったように強い好奇心を示した)
12歳という子供が国家錬金術師の資格を求めたことだけでは満足できず、更なる錬金術の知識に飢えていることが、あまりにもあからさまだったから、それを隠すように諭すことは一番最初に放棄した。
代わりに自分がしたことは、自分が子供を連れて至る所に姿を現すことだった。
良くも悪くも、イシュヴァールの英雄の名は軍関係者に知れ渡っている。そして、そんな軍人が毛色の代わった子供を連れて歩いていれば、必ず注目される。
更に、この子が最近、国家錬金術師の試験を受けた者ですと、あらゆる関係施設で紹介すれば、この子供の背後には『焔の錬金術師』が居るのだと思い込まない輩がいるはずもない。
無論、そんな真似をしなくとも、『鋼の錬金術師』は東方出身で、とりあえずは東方司令部の管轄下に置かれることは当然の処置であり、自分もそれは承知していた。
だが、それだけでは不十分だった。
この子供が、この国のどこに居ようと、軍関係者の誰もが話しかける前に『焔の錬金術師』の名を思い浮かべる。そうでなければ意味がなかった。
(思い上がりだと笑うかい?)
だが、自分より階級が上の軍関係者で、『鋼の錬金術師』の真実を知った上で、その望みを利用することも曲げることもなく、好きにさせてやる度量の持ち主が居るとは到底思えなかったし、今もその確信は続いている。
そして、『焔の錬金術師』にして国軍大佐ロイ・マスタングが、その地位にあり続ける限り、その頭上を飛び越えて『鋼の錬金術師』に命令を下せる者は、国家錬金術師の統括権を持つ大総統その人以外、一切の存在を許すつもりはなかった。
無論、この感情は、独占欲というよりは、むしろ自己愛に属するものだろうと分かっている。
この子供は守られることなど望まない。誰に利用され、どれほど傷つけられたところで、歩みを止めることは決してないだろう。
だが、この子供が誰かに利用されるところなど、自分は決して見たくはないのだ。
何故ならば、自分自身こそが己の進む道を塞がれること、曲げられることを何よりも忌避しているから。
この手で点けた焔が他者によって遮られることも、また許せない。
(そのくせ、私自身は上に行くためなら一時、誰かに利用されるのも構わないと思っているのだから、現金なものだがな)
しかし、自ら望んで利用されることと、自分の知らないところで利用されることとは全く違う。
目的までの最短距離があるのであれば、それを走るべきだったが、その過程で他者の食い物にされては本末転倒というものだ。
一時的に停滞、あるいは後退したように見えたとしても、結果的には前進が叶う。そういう道こそが最短距離なのであり、最善
といえるのである。
そして、その選択を誤る愚を犯す気も犯させる気も、微塵もなかった。
(邪魔はさせない。それが何者であったとしても)
「鋼の」
「何だよ」
呼ぶと、即座に返事が返った。
不機嫌そうにしながらも、短めの編み下げを背で跳ねさせながら振り返り、こちらの目を見上げる。
それがひどく、この子供らしいと思った。
「中央での用が済んだなら、また東部へ帰って来たまえ。その頃には先程のポンレヴェックの月替わりメニューも入れ替わっているだろうからな」
「……言っとくけど、俺はエサなんかで釣られねぇからな。餌付けしようとか思ってんじゃねーぞ」
「君が大人しく一食に恩を感じてくれるような可愛らしい性格なら、私の気苦労も減るのだがね。もっとも君と会話をするのは刺激的だから、奢り損だとは思わないが」
「あんたにかわいーと思われるなんて、冗談じゃねぇや」
「ああ、安心したまえ。君は私が知る中で、最も可愛くない子供だよ。口は悪い、目つきは悪い、おまけに気まで短いくせに、錬金術の腕だけは一流。実にタチが悪いな」
「そっくりあんたにその言葉、返してやるよ。この無能大佐」
「あいにく今夜は月夜だ。発火布の威力を試してみるかね」
「おう、こんな街中で司令官殿がやれるもんならやってみやがれ」
「その程度で脅しているつもりかい? 手配中の凶悪犯が居たとでも何とでも理由は作れるのだよ。なにしろ君の言う通り、私は泣く子も黙る東方司令官殿だからな」
「何が泣く子も黙るだ、この職権乱用野郎。ホークアイ中尉にチクるぜ」
「おや、形勢が不利になったら女性に泣きつくのかね? 鋼の錬金術師とあろうものが不甲斐ない」
「誰が泣きついたんだ、誰が!」
口ではあれやこれやと罵詈雑言の応酬をしながらも、互いの両手は、それぞれのコートのポケットに入ったままだった。
足取りばかりは、いずれにも時間を浪費する歩き方をする趣味はなかったからかなり速く、のんびりと形容することはできなかったが、雰囲気は軽い。
規則正しく街灯の並ぶ夜の街路は、驚くほどに明るく冴えた月の光に照らされ、水底のように蒼く沈んでいる。
(……道は、まだ続いている)
果てなど遥かに遠く、今はまだ霞んで朧気にしかその姿は見えない。
けれど、視線を転じれば、目の前には陽の光を紡いだような金色の編み下げが跳ねていて。
(鋼の。二兎を追って二兎を得る方法を近いうち、君に教えてやろう)
呆れ返るか、驚くか。
あるいは、聡く真っ直ぐな彼のことだ。そんなうまい話など信じないかもしれない。
だが、真っ直ぐであるからこそ狭くなる視野を広げることができれば、見えなかったものが──思いもかけない可能性が生まれて来ることもある。
自分が提示するのは、強制ではない。選び取ることのできる可能性。いつでもただ、それだけだ。
(その時に君が何と言うか。少しばかり楽しみにさせてもらうよ)
心の中で呟き、小さく口元に笑みを刷いたことは、他の誰にも知られることはなかった。
「行っちまいましたねぇ。今回もあっさりと」
「何か急に静かになったような気がするんですよね、エドたちが居なくなるたび」
「実際に静かになるだろ。そもそもエドが静かなのは本を読んでる時だけだ」
「極端なんだよな。じっとしてるのは大の苦手なくせして」
「あの桁外れの集中力と行動力が、エドワード君のエドワード君たるところですからなぁ」
子供二人と大人一人が出立した後も、休憩を切り上げずにだらけている部下たちの会話を、ロイは聞くともなく聞き流していた。
昼間ならともかくも、今は残業時間である。このところ、司令部を上げての激務が続いていたから、多少の息抜きくらいは構わなかった。第一、いつまでもだらだらとサボり続けるような部下を飼った覚えは、少なくともここの司令官となってから一度もない。
案の定、五分も過ぎたところで各々のカップに残っていた冷めたコーヒーを飲み干し、彼らは、やれやれとぼやきながら立ち上がる。
部下たちの中で只一人、昼間と同じく立ち働いていた副官が持ってきた書類にサインをすべく受け取りながら、それでいい、と思った刹那。
イーストシティの夜に、爆音が轟いた。
episode04 as end.
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