小さな白い仔猫の鎮魂に。
LONG ROAD
いつもの帰り道だった。
パチンコで適当に投資し、少し増やした元手を煙草やつまみに替えて、安アパートへと帰る途中。
たまたま、薄汚れた廃屋ビルの入り口の階段に、腰を下ろしている人間がいることに気付いて視線を向けた。
脱色したらしい色の薄い金髪に、ラフな服装。
膝を抱えた腕に顔を伏せている様子に、ジャンキーかと見当をつけた。
裏新宿と呼ばれるこの界隈では、麻薬に手を出すヤツは後を立たない。むしろ、この街に足を踏み込んで一年を経ても、一度もラリったことがないという人間の方が珍しいくらいだ。
だから、その存在を何とも思わずに、廃屋ビルの前を通り過ぎようとした。
その時。
通り過ぎる気配にか足音にか、伏せられていた顔がふと上がった。
こちらを見た瞳に、すぐにジャンキーなどではないということには気付いた。
まっすぐに見上げた瞳は、あまりにも邪気が──濁りがない。
しかし、捨て犬のような行き場を失った色をしたその瞳が、何に驚いてか、軽く見開かれた。
「──君は・・・・」
呟くような声に、どこかですれ違ったことでもあったかと、脳裏を検索しかけて。
ぎょっとなり、声をかけてきた相手を見直す。
「お前・・・・・」
雰囲気が違う。
まるで違う。
だが、別人としか思えない相手の、その顔立ちは。
「無限城の、雷帝か・・・・・?」
まさかと思いつつ、その通り名を口にすると、
「───もう、雷帝じゃないよ」
自分とほとんど年齢の変わらないだろう少年の顔に、何とも言いがたい、激しい痛みをひっそりと押し殺すような色が滲んだ。
「ここに住んでるの・・・・?」
「一応、家賃は払ってるぜ」
何も知らない子供のような表情で古いアパートを見上げる相手を、ちらりと見やりながら、蛮はポケットから鍵を取り出してシリンダー錠を開ける。
今時、こんなちゃちな鍵しかついていないのは、こんなアパートに住む連中が強盗に襲われるほど金持ちではないと、大家が割り切っているからだろう。実際、この界隈ではどんな最新式のコンピューターロックをつけたところで、ほとんど無意味に等しい。
先程の場所から10分も歩かない距離だとはいえ、ここまで連れてきたのは、単に細かい雨が曇天から落ちてきたこと、そして相手に行く当てがなさそうだということを直感したからだった。
もともと蛮は、それほど人付き合いが得意ではない。
人間嫌いでも人間不信でもないし、大勢でわいわいと騒ぐのも嫌いではないのだが、いかんせん、個人主義すぎる俺様な性格のため、初対面の相手とうまくいったためしは殆どないのである。
そのくせ、一度知り合ってしまった人間のことは、完全に見捨ててしまうことができないという性分をしているため、極稀にではあるが、時々こんな風になりゆきで誰かの面倒をみることになることがないわけではなかった。
「おら、入れよ」
「あ、うん。お邪魔します」
久々に聞いた気にする行儀のいい返事に、かえって蛮は面食らう。
目の前の相手から、少し前に死闘を演じた敵の面影を探し出そうとする無駄な努力は、出会ってから五分でやめたが、しかしあまりにもギャップが大きすぎる。
蛮の目の前で見せた凄味もなければ、すさまじいまでの存在感も、今の彼にはない。
それどころか、よく言えば温厚で素直そう、悪く言えば相当な世間知らずそうで、悪意のある人間からしたら、いいカモにしか見えない。
こんなのが、あの無限城に君臨していた雷帝だと言われて、一体誰がすぐに信じられるだろう。
「どうした?」
玄関を入ったところで、物珍しそうに部屋の中を見回している遠慮がちな表情に気付いて、声をかけると、
「あ・・・と、ごめんね。俺、こういう普通のアパートって見たことがないもんだから・・・・」
恥じるように、慌てて彼は答えた。
「ああ、なら珍しいかもしれねぇな」
なるほど、と納得して、蛮は自分の部屋の中に視線を向ける。
もともと物に執着するタイプではないから、室内には家具らしき物はほとんどない。
がらんとした畳敷きの六畳間は、初めて見る者には確かに珍しいだろうと思った。
蛮が否定的な言葉を口にしなかったことで、少しほっとしたのか、彼はうつむきがちながらも話し出す。
「うん・・・・。あそこは・・・・大きなビルの中を、住人が好き勝手に改造して住み着いてるから・・・・」
「普通のアパートなんかねぇわな」
「うん。──だから、ごめん。じろじろ見たりなんかして・・・・」
「別に見られて困るもんなんざねぇから、謝る必要なんかねーけどよ」
「うん。・・・・ありがとう」
「とりあえず、そのへんに座れや。何にもねぇけどな」
素直にありがとうと口にする人間にも、久しぶりに会ったと思いながら、促す。
そして、取ってきたばかりの戦利品の中からマールボロのカートンを引っ張り出し、一箱の封を切って新しい煙草に火をつけた。
それから、さてどうしようか、と考える。
何故、無限城を出たのかと聞こうとは思わなかった。
蛮自身とて、たとえば何故この街に暮らしているのかと初対面も同然の相手に問われても、答えようがない。
過去のことなど気にしない振りをするのが、この薄汚れた街の流儀であり、また本当に気にしないのが蛮の性分でもある。
だから、ただ現実的なことを口にした。
「お前、ここから行く当てはあんのか?」
「────」
沈黙する相手に、少し意地の悪い質問だったかと思いながらも、表情は変えない。
「行く当てがあるんなら、さっさと行けって言いてぇトコだけどな。本当に行く所がねぇっていうんなら、少しの間ならここに居させてやっても構わねーぜ」
「え・・・・」
驚いたように見開かれた瞳は、少し甘い茶褐色をしていた。
「まったく知らねー相手でもねぇしな。こんな雨ん中に追い出すのも、後味が悪ぃだろうがよ」
こつこつと薄い窓ガラスをノックするように軽く叩きながら、蛮は雷帝と呼ばれていた相手を見やる。
と、彼は無防備なほどに、まるで誰かに拾ってもらえた子犬のような目で、蛮を見上げていた。
「───いいの・・・?」
「本当は迷惑なのを無理に我慢するほど、俺は優しかねぇよ」
本当にこれが、あの雷帝だろうかと改めて思いながら、蛮は短くなった煙草の火を引き寄せた灰皿にもみ消し、新しい煙草を取り出す。
そして、火をつけてからまなざしを向けると、彼は二、三度まばたきしてから、目を伏せてうつむいた。
「・・・・・じゃあ、少しだけ・・・・いい? 新しいねぐらを見つけるまででいいから・・・・。俺、本当に行く所がないんだ。無限城を出たのも初めてで・・・・」
小さくおずおずと告げてくる相手に、そんなんでどうやって暮らしていくつもりだったんだと心の中で突っ込みを入れながら、蛮は紫煙を細く吐き出す。
「好きにしろよ。俺がいいって言ってんだから、妙に遠慮するこたねぇさ」
そう言うと、彼は本当にほっとしたような笑みを小さく浮かべた。
「ありがとう、ホントに・・・・・。え・・・と、」
「蛮、だ。美堂蛮」
そういえば名前を名乗ったことはなかったと気付いて、すぐに蛮は答える。と、彼は初めて聞く名前を吟味するように、軽く首を傾ける。
「美堂蛮・・・・蛮君・・・・・蛮ちゃん?」
「は・・ぁ!?」
これまで十七年ばかり生きてきて、ちゃん呼ばわりされたのは初めてのことで、思わず蛮は素っ頓狂な声を上げる。
と、目の前の相手は慌てて首を横に振った。
「あ、ごめん! 蛮ちゃんは嫌だよね。ええと・・・・」
何かいい呼び名はないものかと懸命に考えているらしい相手の様子に、蛮は開いた口がふさがらないものの、一方で呆れにも似た諦めを感じて、手にした煙草の灰をとんと灰皿に落とす。
「んな馬鹿みてーなことで悩むんじゃねーよ。呼び捨てで構わねーって」
「でもなんか・・・・」
呼び捨てにはしづらい、と眉を八の字にする相手に、ますます蛮の体の力が抜ける。
「・・・・・勝手にしろ」
「じゃあ、蛮ちゃんって呼んでもいいかな?」
「ああ・・・」
顔見知りや商売敵の連中が聞いたら、どんな顔をするだろうかと思いながら、蛮は諦めの境地でうなずく。
と、相手は幼い子供のような笑顔を小さく見せた。だが、すぐにその笑顔も淡く翳ってしまう。
その表情を横目で眺め、これは相当に厄介な拾いものをしちまったかと、最初から見当はついていたことを改めて思いながら、蛮は手の中でシルバー製のジッポーを転がした。
「で、お前は?」
「え?」
「名前だよ」
「あ、天野銀次。銀次でいいよ。皆、そう呼んでたから・・・・」
皆、と言いかけたところで勢いが弱まり、そのまま語尾は頼りなく消える。
余程の事情を抱えているらしいことは、それだけで十分に見当はついたが、だからといって、それでどうこうしようとは蛮は思わない。
相手の事情に進んで関わろうという気はないし、巻き込まれてしまったらその時はその時だと割り切っている。
そうして、これまでこの街で生き延びてきたのだ。
「じゃあ、銀次」
「何?」
「俺は厚かましいのは嫌いだが、下手に気を使われんのも好きじゃねぇ。ここにいるのは構わねーが、妙な気遣いはすんなよ」
「・・・・うん。ありがとう」
何度目かのありがとうを口にして。
銀次と名乗った少年は、安堵と寂しさの入り混じった表情で微笑んだ。
なりゆきで始まった同居は、かれこれ1ヶ月ほどの間、それなりに上手くいっていた。
何が心を重くさせているのか、銀次はそれほど口数は多くなかったし、自己主張もほとんどすることはない。自分の意見をちゃんと持ってはいるのだが、うるさく何かを求めて蛮を苛つかせることもなかった。
毎日、初めて見るらしい無限城の外の世界を確かめ、馴染もうとするかのように蛮のアパートを中心に街を歩き回り、そして、夜には今日一日に見たことを
蛮に話してから、眠った。
蛮の方はといえば、こちらも相変わらずで、毎日奪い屋の仕事が入るのを待ちながら、街中やパチンコで時間をつぶし、暗くなる頃にアパートに戻って、銀次の話を聞いた。
時には、道の分からない並外れた世間知らずの銀次に付き合って、街を歩くこともあったが、それは稀なことで、同じ安アパートの部屋をねぐらにしているとはいえ、二人が顔と名前を知っているだけの他人であることは何も変わらなかった。
その日も、雨の降り出しそうな少し肌寒い曇天だった。
綺麗な花が咲いていた、と前日に言った銀次に何となく蛮が付き合い、珍しく二人で連れ立って中央公園まで歩き、そして、満開の藤棚と牡丹を見た帰り道。
それを見つけたのは、銀次だった。
「蛮ちゃん・・・・・」
どうしよう、と途方に暮れたような声で名を呼んだ銀次のまなざしを追うと、少し離れた植え込みの影に、小さな白いものが見えた。
「──野良の仔猫だな」
しかも、少々具合が悪いらしい。じっと小さくうずくまっている。
こういうものに関わるのは、蛮の本意ではなかった。
弱肉強食は世界の摂理であり、弱いものは死んで、強いもの、その隙間を上手くすり抜けたものが生き延びてゆく。
それが当たり前だと思うから、これまで余程のことがない限り、こうした生き物には手を出さないようにしていた。また、所詮、裏家業の身では動物など飼い切れないという自覚もある。
だが、今回ばかりは勝手が違っていることも、蛮は承知していた。
「────」
銀次は、何とも言わない。
ただじっと、小さな白い仔猫に目を向けている。
だが、おそらくは手を差し伸べたい思いでいることが、この1ヶ月ほどの間、なりゆきとはいえ一つ屋根の下で生活していた蛮には分かっていた。
雷帝ではない素顔の天野銀次は、あの無限城でよく生き延びたものだと感心するほど、お人好しで甘い人間だった。
今、居候の身でさえなければ、銀次はきっと、躊躇うことなく仔猫のもとへと駆け寄ったに違いない。
どうするかな、と蛮が迷ったのは一瞬だった。
どちらかといえばドライな性格をしている自覚はあるが、だからといって、後味の悪い思いをするのが好きなわけではない。
もともとが気まぐれで、くよくよ思い悩むよりも直感で物事を決める性分だったから、先のことはどうとでもなるだろう、と自分ひとりなら通り過ぎただろう仔猫に向かって足を踏み出す。
それに慌てたのは、銀次の方だった。
「蛮ちゃん?」
すっかり定着した呼び名を呼びながら、さっさと歩いていく蛮の後を追う。
そして、仔猫のすぐ側で足を止めた蛮に並んで、問い掛けるように蛮と足元の仔猫との間で視線を往復させた。
「───弱ってるな。多分、ウイルス性の気管支炎だろう」
「え・・・・?」
「オラ、目が腫れて、鼻がずるずるしてっだろ? 典型的なヘルペス性の気管支炎の症状だよ」
「そうなんだ・・・・」
蛮の言葉に、銀次は地面にしゃがみこんで、仔猫に手をのばしかけて、途中で止める。
「撫でても大丈夫?」
「健康な人間には移らねぇよ。赤ん坊や年寄りにゃまずいけどな」
銀次は、やや曇った表情でうなずき、そっと仔猫に手をのばして小さな頭を撫でた。
蛮の言う通り、仔猫のまぶたは目やにで固まってしまっていて、開かない。
触れられて不安げに小さく身動ぎをしながらも、仔猫は爪を立てたり逃げようとしたりはしなかった。もはや、そんな体力もないのかもしれない。
「かわいそうだね。こんなに小さいのに・・・・」
「生後1ヵ月半ってとこかな。この大きさだと、多分、母親が同じ病気で感染しちまったんだろうよ」
「お母さんから?」
「このくらいの仔猫は、普通は親兄弟以外の猫とは接触しないからな。伝染病が移るとしたら、親からなんだ」
「────」
淡々とした蛮の声に、銀次はいっそう表情を曇らせる。
「・・・・それじゃあ、この子のお母さん猫や兄弟たちも・・・・?」
「ああ、多分な」
このくらいの大きさの猫なら、まだ親離れをするには程遠い。母猫が死んでしまい、一匹で迷い出てきた可能性も小さいものではなかった。
そのことに気付いたのだろう、もしかしたら泣くのではないかと思えるほど沈痛な瞳をして、銀次は仔猫を見つめながら、小さな体をそっと撫でている。
そして、
「蛮ちゃん・・・・」
何かを決めたように名前を呼ぶのを聞いて。
蛮は取り出した煙草に火をつけながら、口を開いた。
「オメーが見つけたんだから、オメーが抱いて行けよ?」
「え?」
「動物病院。行きてーんだろ?」
「───いいの?」
「見つけちまったもんは仕方がねぇだろうが」
「───ありがとう、蛮ちゃん!」
ぱっと表情を輝かせたその瞳が、かすかに潤んでいるのを認めて、蛮はさりげなく視線をよそへ向ける。
無限城の雷帝とまで呼ばれていた男が、通りすがりの仔猫にそこまでの情を向けることができることに少々驚いたことと、もう一つ、あまりよくない予感が胸をかすめたゆえの仕草だったが、当の銀次は気にすることなく、着ていたジャケットを脱いで、そっとくるむように大事に仔猫を抱き上げた。
動物病院の獣医は、仔猫を一目見て、眉をひそめた。
そして、蛮が説明したのとほぼ同じことを言い、現在猫を買っていない、年寄りも赤ん坊もいない家なら飼えないことはないが、かなり弱っているから他の病気にも感染しているかどうか検査もできないし、病気を治すにしても根気が要る、と告げた。
黙って聞いていた銀次は、それでも助けてやれるものなら助けたい、と獣医に頭を下げ、おそらく四十前の若い獣医は、それなら、とうなずいた。
こういう時の治療費はもらわないことにしている、という獣医の言葉に、もう一度頭を下げ、アパートに帰ってきた銀次は、ずっと膝の上に仔猫を抱いていた。
濡らした脱脂綿で目やにを取り除いてもらった仔猫は、目はまだ結膜炎を起こして腫れたままではあるが、どうにか物を見ることができるようになっている。
仔猫特有の鮮やかな青い瞳を、銀次は目を細めて見つめていた。
「ずっと抱いてるつもりかよ?」
「そうだね。・・・・できる限りのことはしてあげたいんだよ。この子が頑張れば、助かる可能性もあるって先生も言ってたし」
仔猫をそっと撫でながら答える銀次に、蛮は気付かれないように小さく溜息をついた。
「そんなら仕方ねーから、さっさと銭湯に行って来いや。その間、猫は見ててやるからよ」
「いいの?」
「だから、仕方ねーつってんだろうが。冬じゃねーんだから、風呂に入らずに済ますわけにはいかねぇだろ」
「うん」
蛮の言葉に笑ってうなずいて、銀次は膝の上の仔猫を、毛布代わりにしている古タオルごと抱き上げ、そっと蛮の膝の上に運んだ。
「俺の膝の上に乗せる必要はねーだろうが」
「ちょっとの間だけだから。すぐに帰ってくるから、見ててあげて欲しいんだ」
「ったく・・・・」
軽く舌打ちをしつつも、蛮は膝の上の仔猫をそのままに煙草に火をつけようとする。
と、銀次の声がそれを静止した。
「あ、煙草も我慢して欲しいって言ったら、蛮ちゃん怒るよね?」
「当ったり前だろ! 煙草も吸わずに猫を抱えたまま、テメーが帰ってくるまでの三十分ばかり、俺にどうしてろって言うんだよ!?」
「えーと、えーと・・・」
悩み出した銀次に、蛮は盛大に眉をしかめたまま、煙草の箱とライターを放り出す。
「いいからもう、さっさと行ってきやがれ!」
「あ、うん。蛮ちゃんごめんね。でもって、ありがとう」
「礼なんざ言ってる暇があったら、足を動かせって」
「うん。すぐ戻ってくるからね」
慌しくタオルと着替えを掴んで、銀次はもう一度、蛮の膝の上の仔猫の頭を撫で、そして安アパートをバタバタと出てゆく。
その足音を聞きながら、蛮は溜息をついた。
調子が狂っているとは思わない。
銀次がいようが、仔猫がいようが、やはり自分は自分で、それだけは何があっても変わらない。
だが、目の前の相手の一種の異常さに、関心を引かれているのは事実だった。
あまりにも、正常すぎるのだ。
あの無限城で幼い頃から育ち、しかも君臨していた存在としては、天野銀次という人間は、あまりにもまっとう過ぎた。それどころか、同年代の普通の少年少女と比べても、純粋でお人好しに過ぎると言っていい。
そんな彼が、どうして感情の揺れを一切感じさせないような雷帝として無限城に君臨し、自分と死闘を演じたのか、蛮の中では今ひとつ繋がらないのである。
「二重人格ってワケじゃなさそーだけどな」
育った環境が環境である以上、それなりにトラウマは背負っているだろうが、精神を病んだ者特有の不安定さは、銀次にはない。
それがまた、蛮にしてみれば不可思議だった。
「人格異常でも何でもないとしたら・・・・鍵は無限城ってことか。つくづくヤベー場所だな」
あの現実世界とは思えない、奇妙な悪鬼の巣窟。
もしかしたら、銀次が仲間たちから離れて無限城を出たのも、あの場所に何かを感じたからかもしれない、と蛮は想像する。
「ま、考えても俺には関係のねーことだけどな」
呟き、膝の上で眠る仔猫の頭を、軽く人差し指でついた。
「・・・・かなり苦しいだろうが、頑張って生きろよ。あいつがあんだけ、一生懸命になってくれてんだからよ・・・・」
低くうなされる声に気付いて目覚めたのは、真夜中を少し回った頃だった。
はっと起き上がり、蛮はすぐ側で眠っている銀次の肩に手をかけ、少々乱暴に揺さぶる。
「銀次、起きろ!」
数度声をかけ、揺すってやると、銀次はぱっと目を見開いた。
「あ・・・・」
「目ぇ覚めたか?」
「・・・・蛮、ちゃん?」
「ここがどこだか分かんねーなんて言うなよ」
「ああ・・・・うん。大丈夫」
ほうっと息をついて、銀次は気付いたように額に滲んだ汗を拭う。
蛮は何も言わないまま、枕元においてあった煙草とライターを引き寄せ、窓越しに都会の明かりが差し込む薄闇の中で火をつけた。
「ごめん・・・・また起こしちゃったね」
「・・・・・大したこっちゃねーよ」
こうして銀次が夢にうなされることは、数日に一度の割合であった。
だから、夜中に起こされ、起こしてやることを繰り返していれば、本当に慣れてしまう。
何気ない調子で応じながら、ふと蛮は古ぼけた畳の上に落ちかかった、銀次の影の肩が小さく震えているのに気付く。
そのことに軽く舌打ちし、仕方がないと心の中で溜息をついて、蛮は右手を伸ばし銀次の肩を自分の方へと引き寄せた。
「蛮ちゃん?」
「妙な遠慮はすんなって最初に言ったろ? そんな震えてる時まで我慢すんじゃねーよ」
「───ごめん」
「うるせー。謝んな」
乱暴な口調ではあったが、銀次は小さく息をついて、大人しく蛮の肩口に頭を預ける。
どんな夢を見たのかは蛮は聞かなかったし、銀次も言わなかった。
聞いたところで何をどうしてやれるわけでもない。嫌な夢を見た、それだけ分かっていれば十分だった。
やがて、落ち着いてきたのか銀次がそっと離れる。
「ありがとう。もう大丈夫だから」
そう言った銀次を蛮も引き止めることなく、二人の体は互いの体温が感じられない距離へと遠ざかる。
そして銀次は、古タオルで作った寝床で眠る仔猫の様子をうかがった。
「───この子は夢を見ないのかな」
「見るだろうよ。大抵の動物は、眠ってる間に夢を見るんだからな」
「そうなんだ」
うなずきながら、銀次は白い仔猫をそっと撫でる。
「いい夢を見てるといいけど・・・・・苦しい時には、やっぱり苦しい夢をみちゃうのかな」
「・・・・さぁな」
真夜中の薄闇の中で、仔猫を見つめる銀次の横顔を、蛮は煙草をくゆらせながら眺める。
それは決して『雷帝』にふさわしい表情ではなかったが、しかしジャンクキッズのリーダーと考えるのなら、確かに人を引き寄せる何かがあった。
無限城にいた頃の彼が、こんなにも愛情深い人間だったかどうかは別として、たとえば、この仔猫のように病気をした時、または怪我を負った時、こんな風に心配して、真摯に回復を祈ってくれる相手がいたら、おそらくどんな人間でも感謝し、好意を抱かずにはいられないだろう。
ましてや、これまで殆ど優しさらしい優しさを受けたことのないジャンクキッズであれば、なおさら思いは深くなるに違いない。
何故、彼が無限城の帝王だったのか、強さだけに由来しない理由も垣間見えて、蛮はなんとも言えない気分になる。そうなると、ますます彼が無限城を出た理由が分からなくなるのだ。
だが、それでも銀次に直接、理由を聞こうという気にだけはならなかった。
「ごめんね、起こしちゃって。もう夢なんか見たりしないから、朝までもう一度寝ようよ」
「ああ」
しばらく仔猫を撫で、気がすんだように振り返った銀次にうながされるまま、蛮は煙草を消す。
そして、薄いせんべい布団に再び転がった。
「おやすみ、蛮ちゃん」
「・・・・おやすみ」
かけられた声に低く答えて。
けれど、すぐに目を閉じることなくしばらくの間、蛮は安アパートの天井を見つめていた。
仔猫が死んだのは、拾ってから三日目の明け方だった。
どちらも何かを感じ取っていたのか、その夜は寝ないまま銀次は膝の上に仔猫を抱き、蛮も黙ってそれに付き合っていた。
白い小さな仔猫は、苦しむ様子も見せずに眠ったまま、少しずつ呼吸を弱くしてゆき、空がわずかに白み始める頃、静かにそれを止めた。
銀次は何も言わないまま、冷たく固くなってゆく体を撫でていた。
そして。
静かに立ち上がったのは、朝日が昇る直前だった。
「銀次?」
「この子のお墓、作ってあげなきゃ」
「・・・・ああ、そうだな」
うなずいて、蛮も立ち上がる。
本来は、小動物の墓などせっせと作るような性分ではなかったが、それでも三日間、同居人が一生懸命面倒を見ていた仔猫の死は、蛮の中にもそれなりのさざなみを残していったのだ。
二人は連れ立って安アパートを出て、朝日が照らし出す直前の裏通りを歩き出す。
「中央公園でいいよね。最初にこの子がいた場所」
「そうだな。あの辺でこいつは生まれたのかもしれねーしな」
「うん」
会話らしい会話はそれくらいで、後は黙々と公園まで歩き、そして植え込みの片隅に、やはり二人は殆ど無言のまま、手ごろな石を使って穴を掘った。
大きめに掘った穴の底に、そっと銀次は仔猫を置き、土をかぶせて花壇から取ってきた花を置いた。
「───ごめんね」
小さく呟き、手を合わせて。
その間、蛮は銀次の後ろに黙って立っていた。
「蛮ちゃん、ありがとうね」
「───何が」
「俺に付き合ってくれて。本当は俺、気付いてたんだよ。あの子が助からないこと。何となく分かるんだ、動物とか人間とか・・・・生き物が助かるか、助からないかってこと」
ひどく寂しげな、自嘲するような横顔で銀次は言葉を紡ぐ。
「でも、もしかしたら助かるんじゃないか、助けられるんじゃないかと思って・・・・。ごめんね、俺のせいで嫌な思いさせちゃった」
「・・・・テメーのせいじゃねぇだろ」
朝の光の中、ゆっくりとアパートに帰りながら、蛮は答える。
生物の死を感じ取ることが出来る──それは、それだけ死を見送ってきた経験があるということだ。
そしてそれは、蛮もまた同じだった。
初めて仔猫を見つけた時に感じてから、結局、嫌な予感は一瞬たりとも振り払えないままで、その予感通りに仔猫は死んでしまったのだ。
「最初に病院につれてきゃいいって言ったのは、俺だぜ」
「でも、それは俺が思ってたから、先回りしてくれたんでしょ? だから、俺のせいでいいんだよ」
そして、銀次はやはり寂しげに笑う。
「いつもこうなんだ。本当に助けたいと思ってるのに、結局、俺は誰も・・・・何も助けられない。今度こそはって思ったのに、やっぱり駄目だった」
あんな小さな生き物さえも、助けてやれなかったと、諦めさえ滲む声で銀次は言った。
そのどうしようもないほど彼には似合わない声に、蛮は何も答えることなく煙草をくわえたまま、朝日に照らされた道をいつもと同じ速度で歩く。
銀次もそれきり何も言おうとはせず、どちらも黙り込んだまま、十分ほどで安アパートにたどり着いた。
そして、
「銀次」
ドアの鍵を開けながら、蛮はようやく隣りにいる相手の名を呼んだ。
「何?」
だが、すぐには言葉を続けようとはせず、靴脱ぎ場しかない狭い玄関に入り、ドアを閉めてから、蛮は銀次を振り返る。
感情の読めない、その紫を帯びた昏い青の瞳に、銀次がまばたきした時。
「我慢なんかしてんじゃねーよ、馬鹿野郎」
低い声が、アパートの室内に響いた。
そして、蛮は身長のほとんど変わらない相手の頭を、右手でくしゃくしゃと乱暴にかき回す。
「そんな泣きそうな目して、ぐじゃぐじゃ言ってんじゃねぇ」
「そん・・・なの・・・・」
俺の勝手じゃん、と言いかけるのが精一杯だった。
銀次の、やや子供っぽく見える大きな瞳から、こらえきれない涙が零れ落ちる。
「いいんだよ、銀次。泣きたい時は好きなだけ、泣きゃあいいんだ」
そのまま崩れ落ちる体を抱きとめるようにして、背を壁に預けたまま、蛮は玄関を上がってすぐの床に腰を落とし、泣きじゃくる銀次の背中を抱いてやる。
「あの子・・・・俺を見たんだよ。撫でてくれるのは誰だろうって、確かめるみたいに一生懸命、青い瞳で・・・・・!」
「ああ、そうだったな」
「生きようとしてたんだ、あの子は。あんなに一生懸命。なのに俺は、何にもできなかった・・・・!」
「んなことはねーだろ。あいつを抱いて病院に連れて行ってやって、ずっと撫でてやってたのは誰だよ?」
けれど、駄目だったのだと大きくかぶりを振る銀次の頭を、宥めるように蛮は撫でた。
「お前は良くやってたよ。病気の仔猫に、できるだけのことはしてやった。だから、そんなに自分を責めるんじゃねぇ」
低く響いた声に、もう一度大きくかぶりを振って。
その後は、銀次は声もなく泣き崩れた。
「───落ち着いたか?」
「うん・・・・」
銀次がようやく顔を上げたのは、日も高くなった頃だった。
「ありがと、蛮ちゃん」
「ちょっと待ってろ」
銀次の体を引き離して、蛮は洗面所を兼ねた狭い台所へと行き、濡らしたタオルを絞ってくる。
「オラ、目ぇ冷やせよ。かなり腫れてるぜ」
「うん」
ありがとうと鼻声でもう一度礼を言って、銀次は素直に目元に冷たいタオルを当てた。
壁に寄りかかった銀次の隣りに、蛮も同じように壁に寄りかかって座り、煙草を取り出して火をつける。
そのまま言葉のない、静かな時間が古いアパートの室内に満ちた。
泣くだけ泣いて、少しだけ気持ちの整理ができたのか、銀次から先ほどまでのような張り詰めた雰囲気は、もう伝わっては来なかった。
銀次は何度かタオルの面を変えて、泣きすぎて腫れぼったくなった目を冷やし、濡れタオルが熱を吸収してぬるくなってきたところで、そろそろ大丈夫かな、と呟き、タオルを外した。
「まだ腫れてる?」
「赤いのは変わんねーけどな、まぁ大分マシだろ」
目を見交わして、言葉を交わし。
そして。
ごく自然な仕草で、二人は唇を重ねた。
「────」
わずかに触れるだけで離れたキスを追うように閉じた目を開けて、蛮を見上げた銀次が、ああ、と小さく呟いた。
「思い出した」
「何が」
「安心するって、こういう感じだったんだね。ずっと・・・・忘れてた」
そして、銀次は、ようやく少し照れたような表情で笑い、すいと体を引く。
「俺、キスなんか初めてしたよ」
「──マジかよ?」
「うん。無限城の中は女の子少なかったし、第一、『雷帝』に近寄りたがるような子は滅多にいなかったから。男ばっかに囲まれてて、一人か二人を除いたら、女の子とはあんまり話をしたこともないんだ」
「ああ、それはそうかもな」
「うん。だから初めて。カッコ悪いよね、俺」
「──別にいいんじゃねーの。経験があるからって、偉かったりカッコよかったりするわけじゃねーだろ」
「それは分かってるんだけど。でも、やっぱり羨ましいっていうかさ。何か違うように思えるんだよ」
そんないいもんでもねーぜ、と言いかけて、蛮は言葉を飲み込む。
自分は身体だけのSEXを当たり前のようにこなせるが、銀次はおそらく違う。
心の伴わないSEXができないということは、逆に言えば、相手や行為そのものを大切に出来るということだ。となれば、空しさと紙一重の快楽を、銀次が味わうことはきっとないだろう、と蛮は思った。
「人それぞれだろ。焦って好きでも何でもねーやつと寝たって、気持ちいいことなんか一つもねーぜ」
「うん、そうだね」
蛮の言葉に、銀次は小さく笑う。
「蛮ちゃんの言う通り、俺、好きな子とじゃないとやっぱり嫌だよ。誰かに触るのが安心することだってこと、思い出したし」
「──俺とのキスで安心してて、どうすんだよ」
「どうするって言われても困るけど・・・・でもいいじゃん。俺、本当にほっとしたんだし」
「アホゥ」
くすくすと銀次は笑う。
が、その表情が泣き笑いであることを見ずとも知っていた蛮は、銀次が抱えた膝に顔を埋めるようにうつむいてしまっても、うろたえることはなかった。
「───俺が無限城を出たのはね・・・」
しばらく沈黙を続けた後。
ひっそりと呟くように銀次が口を開く。
「怖くなったからなんだ」
「────」
顔を伏せたままの銀次をちらりと見やり、しばし考えるような色を瞳に滲ませて、蛮は新しい煙草に火をつけた。
カチン、と乾いた金属音を立ててジッポーの蓋が閉じる。
「──何が怖ぇんだ?」
細く吐き出した紫煙が安アパートの天井に消えてゆくのを目で追いながら、蛮は問い返す。
銀次がなぜ無限城を出たのか、気にならないわけではなかったが、だからといって別に事情を聞きたいわけではなかった。
ただ、これまで堪えてきた何かを、吐き出そうとしているのを聞いてやるべきだと、そう感じたから、銀次の返事を待つ。
そして沈黙を挟んで返ってきた声は、ひどく弱いものだった。
「──全部・・・・俺自身を含めて、無限城の全部が怖いって言ったら、笑う・・・・?」
「笑う理由なんかねぇだろ。お前が何を感じたのかは知らねーが、恐怖の対象なんてのは人それぞれだ。お前が怖いと感じたんなら、他人が見てどうあれ、それはお前にとっては本当に怖いもんに違いねぇんだろうさ」
素っ気ない蛮の言葉に、銀次はくすりと笑ったようだった。
「──蛮ちゃんは優しいね」
「あぁ?」
「俺をここに連れてきてくれた時からずっと思ってたけど、どうしてそんなに優しくしてくれるの? 俺なんて赤の他人で、しかもちょっと前は敵だったんだよ?」
「別に優しくしてるつもりなんざねぇよ。俺は俺のやりたいようにやってるだけだ」
「じゃあ、蛮ちゃんは本当に優しい人なんだね。これが普通だっていうんならさ」
先程とは少し違う声音で、銀次が笑う。
ようやく上げた顔を抱えた膝に預ける形で、こちらを見つめる銀次の瞳が、本物の笑みを滲ませているのを認めて、蛮は嫌そうに眉をしかめた。
「勝手に買いかぶってんじゃねーよ、馬鹿野郎」
「馬鹿じゃないよ」
短く口答えして、それから銀次は少しだけ沈黙する。
古びて表面が毛羽立った畳の上に落ちるまなざしの続きを、蛮は黙って待った。
「──笑ってもいいんだけど、あそこにいるとね、何か俺が思った通りに物事が動いていくような気がするんだよ。色んなことが全部」
膝を抱えたまま、銀次はゆっくりと言葉を紡いだ。
「昔・・・・子供だった頃は全然そんなことなかったんだけど。思う通りにならないことばっかりで、友達も次々に殺されたり死んだりして・・・・。でも、段々・・・俺が『雷帝』になった頃から、誰も死ななくなってきたんだ。
最近は『上』のベルトラインの化け物みたいな連中が襲ってくる時も、俺が予想した通りのルートでやってきたり、派手な戦闘したのに仲間は誰も大した怪我しなかったり・・・・。
それは嬉しいことなんだけど・・・・確かに嬉しいんだけど、そういうのって、何か怖くならないかな・・・・?」
もしかしたら怖いと感じる自分がおかしいのかと、ためらうような口調で問いかけた銀次の瞳を、一瞬見返し、蛮は目を伏せて新しいマールボロをくわえて箱から引き出す。
「敵は予想通り、味方は死なねー、何もかも思い通りにいって、普通なら小躍りして喜ぶとこなんだろうけどな」
にぶい銀色に光るジッポーで火をつけながら、蛮は答える。
「『変』だと思ったんだろ、オメーは」
ちらりと向けた蛮のまなざしに、銀次の瞳が揺れて。
「・・・・・うん」
蛮を見つめたまま、かすかに震える声でうなずく。
「───おかしいって思ったんだよ。何がおかしいのか全然分からない。俺の方がおかしいのかもしれない。でも、何かすごくここに居ちゃいけないんだって気がして・・・・けど、どうしたらいいのか分からなくて」
慕ってくれる仲間たち。
絶え間なく襲ってくる、怪物じみた『上』の住人たち。
この世の地獄のような場所で、ただ何かが変だから・・・・怖いからという理由だけで、仲間たちを捨てて逃げ出せるわけがない。
ましてや、物心ついた頃から無限城で育ち、『外』の世界を知らない自分が。
「でも・・・・、本当にどうしようもなくなった時に、蛮ちゃんが・・・・君がきたんだ」
張り詰めていた銀次の瞳の色が、ふっと緩む。
そして、まっすぐに蛮を見つめた。
「俺ともう一度やりたかったら、今度はテメーが外に出てこい。そう言ったよね?」
「───まぁ、な」
数ヶ月前の自分が口にした、勝者から敗者への挑発の台詞に対し、妙な呆れを感じながらも蛮は肩をすくめる。
だが、気にする様子もなく銀次は続けた。
「初めてだったんだよ、俺に外に出ろって言った人。『上』に攻め込んで無限城を制覇しようとか、無限城の中でVOLOTSの勢力をもっと広げようって言うヤツらは一杯いたけど、『外』に行こうって言うヤツは一人もいなかった。
俺にそんなこと言ったのは、蛮ちゃんが初めてだったんだ」
「────」
「それで蛮ちゃんに言われて初めて、俺は外に出ることを考えたんだよ。もう無限城にはいられない。だったら、『外』に行けばいいんだ、『外』に行こうって」
生死の境界線をくぐってきた仲間が愛しくないわけではない。
彼らを残してゆくことに、魂を引き裂かれるような悲哀と不安を感じないわけではない。
初めて出会う『外』が恐ろしくないわけではない。
けれど。
それでも、得体の知れない不安と恐怖に苛まれたまま、これ以上『雷帝』ではいられないから。
だから。
「上手く説明できなかったから、皆には俺が仲間を見捨てたようにしか思えなかったかもしれないけど、俺はVOLTSを解散して無限城を出たんだ。でも、行く当てなんかなくって・・・・このまま野垂れ死にでもするのかなって思ってたら、蛮ちゃんが拾ってくれた」
そう言って、銀次は小さな笑みで蛮を見つめる。
「俺、本当に嬉しかったんだよ。蛮ちゃんが、ここにいていいって言ってくれたのも、仔猫を拾ってくれたのも・・・・。蛮ちゃんが優しいから、俺、嬉しくて甘えすぎちゃったみたいだ」
「銀次」
次に彼が何を言うのか予想できて、蛮は低く名前を呼ぶ。
だが、まるで聞こえないように銀次は自分の言葉を続けた。
「ありがとう蛮ちゃん。俺、もう出てくよ。行く当てのない俺を置いてくれて、本当に嬉しかった」
「───馬鹿か、テメーは」
笑顔で告げる銀次に、蛮は冷ややかといえるほどの素っ気なさで視線を逸らした。
その仕草に、銀次の表情が不安げに曇る。
「蛮ちゃん?」
「当てもねーのに、ここを出てってどうすんだよ? 今度こそ野垂れ死にする気か?」
「え、でも・・・・」
「いーんだよ。出てけなんて、俺は一言も言ってねーだろ?」
心底呆れたような口調で紫煙を吐き出しつつ言う蛮に、銀次の瞳が揺れて惑った。
「───でも俺、もう雷帝じゃないから何の役にも立たないんだよ? これ以上、蛮ちゃんに迷惑かけたくないよ・・・・!」
「うるせーよ」
わずかに苛立ちをのぞかせながら、蛮は銀次に視線を向ける。
「いいか、ここは誰の寝ぐらだ?」
「蛮ちゃん・・・」
「だろうが。家主の俺様がいいって言ってんだ。テメーは大人しく居候してりゃいーんだよ」
「でも・・・・」
「だってもクソもねぇ」
強引に反論を封じて、蛮は引き寄せた灰皿に短くなった煙草をもみ消す。
「そんかわり、タダ飯食わせてやるのは今日までだからな。明日からはテメーにも飯代くらい稼いでもらうぜ」
「・・・・でも俺、バイトとか、働いたことないよ?」
「んなもん、何とでもなるに決まってるだろーが。人間、何やったって食ってけるもんなんだよ」
「そうなの?」
きょとんと大きな瞳をまばたかせる目の前の世間知らずに、蛮は内心ひそかに早まったかと考える。
が、前言を撤回するのは山よりも高いプライドが邪魔をするし、第一、こんなカモがネギを背負ったような存在を一人、この街に放り出せるわけがない。
こいつだってとことん馬鹿じゃなかろうし、無限城を出て雷帝でなくなったからといって戦闘能力まで皆無になったわけではないだろうと、あえて楽観的な方向に思考を傾けて、そこはかとない不安をやり過ごす。
「とにかく、当てもねーのに出てくなんて馬鹿なことは金輪際、言うんじゃねぇぞ」
「・・・・・うん」
きっぱりと言い切った蛮に、まだためらいつつも銀次はうなずいた。
それを見届けて、蛮は新しい煙草をくわえながら続ける。
「とりあえず、明日からは俺の仕事を手伝えや。あつらえ向きに一件、依頼が入ってっからよ」
「蛮ちゃんの仕事って・・・・奪い屋だっけ?」
「おう」
元はそれが縁で、自分たちは出会ったのである。
運命などというものは信じないが、たまには、この巡り合わせともいえる流れに乗ってみるのも一興かと、蛮は思う。
「俺にもできるのかな」
一方銀次は、少し不安げな、だがそれ以上に期待のにじんだ声で、問うでもなく呟く。
その声を蛮は聞き逃したりはしなかった。
「できるかな、じゃなくて、できるようになんだよ。俺様と組む以上、最低でもテメーの食い扶持ぐらい稼げるようにならねーと許さねぇからな」
「・・・・そりゃ確かに俺はよく食べるって言われるけど、でもどっちかっていうと、蛮ちゃんの方が色々お金がかかってる気がするな〜。ヘビースモーカーだし、この間も競馬を外した勢いでマグカップ握りつぶしてたし、中央公園のベンチが壊れてたのも蛮ちゃんがこの前、依頼の話を聞いた時にやったんでしょ?」
首をひねりながら悪行を数え立てる銀次に、蛮はゆらりと立ち上がる。
「テメー、なかなか言うじゃねぇか」
「ち、ちょっと蛮ちゃんっ!! 痛い痛い痛いーっ!!!」
グリグリグリと容赦なく両拳でこめかみをえぐられて、銀次は悲鳴を上げた。
「フン」
「ひどいよ、蛮ちゃん!!」
「うるせー。これに懲りたら二度と、つまんねーこと口にするんじゃねぇぞ」
「つまんないことって・・・俺は本当のこと言っただけじゃんか」
「あんだと!?」
「ごめんなさい、もう言いません!」
「よし」
ふん、と偉そうにふんぞり返って、元通り壁に背を預けて腰を下ろした蛮を、銀次は眉をしかめて見る。
「もしかしなくても・・・・・蛮ちゃんって、すっごく我儘?」
「あぁ!?」
「やっぱり・・・・」
「やっぱりって何だ! やっぱりってのは!!」
「だって、やっぱりなんだもん」
肩をすくめて応じ、それから銀次は笑顔になった。
「でもいーよ。代わりに、すっごく優しいってことも知ってるから」
「────」
その邪気も何もない子供のような笑顔に、怒鳴りかけた蛮の毒気も思わず抜ける。
言葉を探し、だが上手く見つからずに、一つ息をつきながら安っぽいアパートの壁に背を預けて。
「テメーも相当、変な奴だな」
「お互い様だよ」
笑ったまま応じる銀次に、目の前の相手は雷帝とはまた違う強さ──あるいは、しなやかさを持つのかもしれない、と蛮はふと思う。
それなら、その方がずっといい、と。
あの魔窟に君臨していた非情な帝王よりも、この明るい笑顔が彼の本質である方がいい。
他の誰のためでもなく、銀次自身のために。
「・・・・ま、どっちでもいいけどな」
「へ? 何、蛮ちゃん」
「何でもねーよ」
くすりと笑って蛮は右手を伸ばし、銀次の短めの金髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
「とりあえず、これから頼んだぜ、相棒」
その単語に銀次は大きな瞳を零れそうなほど見開き。
「うん!」
それから。
真夏の日差しのような、満面の笑顔でうなずいた。
その後。
既に伝説の存在だった“奪還屋”GetBakersの新たな勇名が裏新宿に響き渡るのは、これよりもう少し時間が過ぎてからのことだった───。
End.
というわけで、今しか書けない妄想に基づいた蛮銀の出会い編。
おそらく原作で描かれる2人の実話は、これよりもずっとラブラブに違いなかろうと、敢えてドライに映画を意識して書いてみました。
小さな映画館の粗いスクリーンで上映されるニューシネマのイメージで、読んでいただけたら嬉しいです。
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