クレヨン
荷物を片付けていたら出てきたんですよ、と夏実がくれたのは、何故かクレヨンだった。
あまりにも暇で、日差しも眩しい公園で昼寝をするのにも飽きたのだろう。
先程から蛮は、せっせとスケッチブックにクレヨンを走らせている。
ちなみに、そのスケッチブックも夏実がくれたものだ。いいのが描けたら下さいね、と笑って。
無邪気で天真爛漫な少女が、何故、HONKYTONKの2階に下宿しているのか、実は誰も知らない。
裏の世界には無縁にしか見えず、事実何の知識も無い少女と、その道では名の知られた情報家の中年男がどこでどう出会ったのか。
おそらく誰もが疑問を抱いているはずだが、しかし、夏実自身と、家主兼雇い主の波児は何も言わないし、誰も聞かない。
それが、この街の流儀だと、あの店に集まる人間は皆、承知している。
「蛮ちゃんって本当に器用だよねえ」
スケッチブックを覗き込んで、銀次は溜息をつく。
白い紙に描かれているのは、公園のブランコで赤いリボンのついた麦わら帽子を被った幼い少女が遊んでいる目の前の光景そのもの。
幼稚園児が使うようなたった12色のクレヨンなのに、驚くほどにその色彩は深く、緻密に描かれている。
下絵もなしに、蛮はそれを極短時間のうちに仕上げようとしているのだ。
「ヴァイオリンも弾けるし、何でも知ってるし、強いし、蛮ちゃんに出来ないことなんてないんじゃない?」
何でもこなす相棒に呆れ半分、嘆息半分で銀次は問い掛ける。
「・・・・そんなもん、幾らでもあるさ」
「そう?」
蛮は物事に集中すると、時々、人の話を聞かなくなる。
戦闘中は決してそんなことは無いのだが、神経を張り詰める必要のない日常生活の中では──とりわけ金銭がらみでは──たまに起こることであり、だから今も正直、返事があると思っていなかった銀次は、少々意外さを感じながらも応じた。
「完璧な人間なんざ居ねーよ。じゃなきゃ、なんで俺様がこんな公園で時間潰しをしてなきゃなんねーんだ?」
「そうだよねー。とっくの昔に億万長者になって、ロフト付きのマンションで暮らしてるよね」
「馬鹿野郎。億万長者がなんでロフト付きマンションなんだ。豪邸って言え、豪邸って」
言いながらも、蛮は彩色する手を止めない。
銀次も黙って、その手元を眺めた。
どうせ現時点での依頼はないし、依頼が入るという当ても無いのだ。
貰ったクレヨンで良い絵を描いてHONKY TONKに持っていけば、一食や二食くらい奢ってもらえるかもしれない、という蛮の発案に反論する理由など見当たらないのである。
けれど、と銀次は思う。
絵と食事の物々交換という俗な考えは別にして、蛮は本当に絵を描くことは嫌いではないのだろう。
ただの暇つぶし&飲食目当てにしては集中の度合いが違うし、何しろ楽しそうなのだ。
たかが12色しかないクレヨンで、どこまで描けるか挑戦しているようにも、その横顔は見える。
「綺麗な絵だね」
改めて蛮の手元を見つめ、素直に思ったままを口にする。
が、今度は返事は無い。
しかし気にすることなく、銀次は仕上げられてゆく絵に見入った。
「──そら、出来た」
手にしていた緑のクレヨンを箱に戻し、蛮はスケッチブックから少し身を引くようにして、絵の全体を確かめる。
そして、銀次を振り返った。
「上手いもんだろ?」
「うん。すごくあったかくて、いい感じ。これなら夏実ちゃんも絶対喜んでくれるよ」
「当たり前だろ。俺様のレア作品だぜ。じゃ、行くか」
「HONKY TONKに?」
「おう。これ1枚で2、3日はタダ飯が食えるぜ」
「それはちょっと欲張りすぎだと思うけど・・・・・」
首をひねりながらも、クレヨンを片付けて立ち上がった蛮に続いて銀次も立ち上がる。
そして二人が連れ立って公園を出ていった後には、眩しい日差しだけがざわめく木立の影を地面に落としていた。
End.
クレヨン、と目にした途端に思いついたのが、蛮ちゃんの絵。
以前、ミロのヴィーナスと自由の女神を、その場で一瞬で描いた技量からすると、絵の腕前も相当なものです。
でも、蛮ちゃん自身は、自分の能力に対する自負はあっても、自分がオールマイティーだなんて微塵も思ってないんだろうなと。
読んだばかりのマガジン15号の鬼蜘蛛の「貴様も我らに類する悲しみを背負っている」に対する「・・・・あんたほどじゃねーよ」が引っかかって、こんなのになりました。
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