Yesterdayを歌って 04

「何、って……」
 唐突な問いを突きつけられた静雄は、本気で戸惑っているように臨也の目には見えた。
 涙を零しつつも、臨也は決して感情を昂ぶらせているわけではなかった。むしろ、精神的には疲れて果てていたという方が正しいだろう。
 そのせいか、頭の中の一部はひどく冷静で、静雄の表情も実に良く見えた。
 問われた意味が分からず、答えようにも言葉が見つからないという風情で、静雄は臨也を見下ろしている。
 内心の困惑を示すように、指の長い大きな手が所在無く握られたり開かれたりするのを、臨也は見るともなしに見つめ、問いを繰り返した。
「恋人だとか大事だとか、そういう答えが聞きたいわけじゃないよ。そんな記号じゃなくて、シズちゃんの中で俺はどういう位置にいるのか、それが分からないだけ。シズちゃんにとって俺は何? どういう存在?」
「どういう位置って……」
 ますます分からないと言いたげな静雄に、分からないだろうな、と臨也は心の中で一人ごちる。
 静雄には決して分からないだろう。
 これまで素振りすら見せたことはないのだ。そんなことに臨也がずっと苦しんでいることですら、気付いているはずがない。
 そうと分かっているのに、「何でもないよ」とこの場をごまかしてしまうには、もう疲れすぎており、臨也の口は止まらなかった。
「シズちゃんがシズちゃんなりに俺を大事にしてくれてることは、俺だって分かってる。そんなことも感じ取れないくらい馬鹿でも鈍くもないからね。でも……」
 どう言ったものかと、臨也は少しだけ躊躇う。
 静雄を責めたい気持ちは、確かに自分の中にある。
 けれど、傷付けたいわけではなかった。
 ただ、分かって欲しいだけだ。だが、どんな言葉を使えば、傷付けることなく正しく思いを伝えることができるだろう。
 どう言っても傷付けてしまいそうで、続きを口に出すことを、少しだけ躊躇わずにはいられなかった。
「シズちゃんはピアノなしじゃ生きられないだろ?」
 そう告げた途端、静雄の顔色が変わる。
 それはおそらく、静雄の罪悪感と後ろめたさから来る反射的な怒りで、その反応を引き出してしまったことを臨也はひどく哀しいと思う。
 その一方で、静雄の反応は自分を大切に思っていてくれるからこそのものだとも理解していたから、かすかに嬉しいと思うことも抑え切れなかった。
「臨也……」
「責めてるわけじゃないよ。ピアノが無かったら、俺は今、こうしてここには居ないし、ピアノを失くしたらシズちゃんじゃない。それは分かってる。どうしようもないことだって分かってる。けど……」
 今度こそ本気で臨也は躊躇う。
 だが、今度は静雄が待たなかった。
「けど? 何だよ。言えよ」
「…………」
「言えよ、臨也。言ってくれなきゃ、俺は分かんねーんだよ。知ってるだろ、ンなことはよ」
 苛立ったような静雄の言葉を聞きながら、知っている、と臨也は思う。
 ピアノ以外のことについてはとんと気が回らない静雄の性格を知っているからこそ、言わなかったことは沢山ある。昔も、今も。
 そうやってやり過ごしながらでも静雄の傍に居ることはできたから、意地とプライドを盾にして、敢えて言わずにきたことがどれほどあるだろうか。
 良いことも悪いことも押し隠して、どうでもいい皮肉やからかいばかりを口にしていた。そのツケが積もり積もった結果が、今だ。
 ツケは、いつか支払わなければならない。
 その支払いの時が来ているのだろうかと、今更ながらに臨也は自問する。
 答えは。
 是、だった。
「……シズちゃんがピアノを大事なのは知ってる。昔から分かってる。それでいいんだ、それで。……でも、」
 己を叱咤して、ともすれば、かすれてしまいそうな声を絞り出す。


「そのピアノに比べたら、俺はどうなんだろうって思うと……時々、たまらなくなる」


 静雄の目を見て言う勇気はなかった。
 だが、それでも静雄が目を見開くのが見えるようだった。
 臨也といてもピアノに思いを馳せてしまうことを済まないと思っているのに、それを取り沙汰されるのは辛いことだろうし、衝撃でもあるだろう。
 そうと分かっていても口にしなければならない現状を、それを作り出してしまった自分を、臨也は心の中で呪った。
「シズちゃんはピアノを失くしたら生きていけないだろ? でも、俺のことは……俺が、居なくなっても、」
「平気なわけねぇだろ!!」
 生きていけるだろう、と続けるのが辛くて口調がゆっくりになるのに被せるように、静雄が叫ぶ。

「言っただろうが! お前が居ないとピアノ弾いてても楽しくねぇんだよ!! それだけでどっちが大事か分かるだろうが!!」

 勢いよく両二の腕を掴まれて、思わず臨也は静雄を見上げる。
 静雄の目も表情も恐ろしいほどに真剣で、そして怒りとも哀しみともつかない感情が渦を巻いていた。
 けれど。
「それは……嘘だ」
 対照的に、臨也の感情は急速に凍り付き、渇いてゆく。
 からからに干からびた声とまなざしで、臨也は静雄を見つめた。
「シズちゃんの中で、俺がピアノより大事なんて有り得ない」
「はあ!? なんで有り得ねぇんだよ!?」
 臨也の返しに、静雄はまなじりを吊り上げる。
「俺の感情を、なんで手前が断言すんだよ! 何にも分かってねぇくせに……!!」
「分かってないって……何をだよ!」
 静雄の激昂に触発されて、臨也の感情も瞬く間に氷点下から沸点まで駆け上がる。
 元より不安定な状態だっただけに、その変化は自分でも止めようがないほどに急激だった。
「君の何を、これ以上分かれって言うわけ!? 俺はこれ以上、何を分かればいいわけ!?」

 ───初対面の時は、能力を鼻に掛けた嫌な奴だと思った。
 けれど、それは本当は間違いだった。
 次に、ピアノが三度の飯より好きなのだと知った。
 そして、ピアノさえあれば、折原臨也という存在など無くとも生きてゆけることを知らされた。
 それでも、傍にいて欲しいと言うから。
 そして自分も、ずっと傍にいたかったから。
 静雄にとっての一番がピアノでも仕方が無いのだと、ずっと自分に言い聞かせてきたのに。
 そういう静雄が好きなのだからと、ずっと諦めていたのに。

「シズちゃんはピアノが大事なんだから、それでいいだろ! そりゃ時々辛くなることがないって言ったら嘘になる。でも、ピアノを弾いてないシズちゃんなんてシズちゃんじゃないんだから、俺はそれでいいんだよ!」
「はぁ!? なんだそりゃあ……!!」
「優しい嘘をつかれても嬉しくないって言ってるんだよ! 俺をどれだけ惨(みじ)めな気分にさせたら気が済むの……!?」
 ───そう、惨めだった。
 愛されているわけでもないのに、愛していると言われる。静雄の言葉はそれに等しかった。
 静雄の中で、折原臨也の存在がピアノと同等以上であるはずが無い。もしそうであるのなら、どうしてこんなに苦しむことがあるだろう。
 もし百歩譲って静雄の言い分を認めるとしても、到底そうとは感じられなかったというのが臨也にとっての現実だった。
 あの日から今日まで、静雄にピアノ以上に大切にされていると感じたことは一瞬たりとも無い。
 大切にしようと努力してくれていることまでは、さすがに否定しないし疑いもしない。
 だが、努力しなければならない時点で、既に及第点には遠く及ばないことを静雄は分かっていない。
 それが生来の芸術家である静雄と、普通の人間でしかない臨也の決定的な差であり、越えることのできない溝なのだ。
 それを理解しない限り、静雄もまた、臨也の言い分を理解することはできない。臨也が、静雄の言い分を理解できないのと同じように。
「シズちゃん。シズちゃんの感覚と俺の感覚は違う。どうしようもないくらい、違うんだよ。俺は、シズちゃんが俺を大事にしようとしてくれてることは分かってる。でも、シズちゃんの小さな仕草を変換しなきゃならない部分が、どうしてもあるんだよ」
 どう言えば伝わるのか。
 必死に言葉を選びながら、臨也は告げる。
「変換って……何をだよ」
「端から見たらつまらない、ささやかなことばっかりだよ。たとえば今日だったら、映画を一緒に行こうかって言ったのを断らなかったのは、シズちゃんも俺と一緒に居たいと思ってくれたからなんだろうとか、手を繋いだのは、恥ずかしい思いをしても俺がそこにいることを感じていたいからで、それはつまり好きってことなんだろうとか」
「……分かってるじゃねぇか」
「分かってるよ。分かってるって言っただろ。でも、どうして俺が一々そんなことを思わなきゃいけないか、シズちゃんは分かる? 分からないだろ?」
 大事な話だった。
 だから、こんな時に泣きたくなかったのに、堪え切れない涙が零れ落ちる。零れ落ちてしまう。
 卑怯な涙だと自分でも思った。
 涙の相手をするのが得意な男などいない。静雄だって例外ではない。
 なのに、どうしても堪えることができなかった。
「シズちゃんにとって、俺がピアノより大事だとは思えないからだよ」
 告げた途端、静雄の顔色が変わる。
 それは怒りというよりも衝撃の色だった。
 そんな静雄を見つめながら、臨也は言葉を紡ぐ。
 一言告げる毎に零れる涙が、どうしようもなく厭わしかった。
「思えないから、俺はいつも自分に言い聞かせなきゃいけない。シズちゃんはちゃんと俺を好きなんだって。俺を大事にしようとしてくれてるんだって、いつもいつも自分に言い聞かせてる。──その意味が分かる?」
「意味、って……」

「足りないんだよ、全然」

 告げる声には、恨みが籠もってしまったかもしれない。
 傷付けたいわけではない。だが、少しでもいいから痛みを感じて欲しいと思う心を抑えることはできなかった。
 ずっと辛かったのだ。
 ずっとずっと辛くて、苦しくて。
 傍にいても、ほんの一滴の水を必死にかき集めるばかりの日々に、飢えて干からびてしまいそうだった。
 好きだというのなら、満たして欲しかった。
 一滴の雨粒ではなく、溢れんばかりの海が欲しかった。
「足りない。全然足りないよ、シズちゃん……!」
 右手の拳を振り上げて、どんと静雄の胸を一回打つ。
 もう一度。
 だが、静雄は避けもせず、臨也の拳をただ受け止めた。
「臨也」
 ひどく戸惑っているような、悔いているような声で、静雄は臨也の名前を呼ぶ。
 そして、温かな指がそっと頬に触れて、後から後から零れ落ちる涙をおずおずと払った。
「ごめんな。ごめん……臨也」
 どうすればいいのか分からないというように躊躇いながら詫び、涙を拭う。
 だが、その優しさを臨也はむずかるような仕草で、泣きながら拒否した。
「やだ……触んないでよ」
「臨也」
「嫌い。シズちゃんなんか大嫌い……!」
 臨也の言い分を多少のところは理解したかもしれない。
 だが、それで静雄の本質が変わるわけではないのだ。彼自身、どうすれば良いのかは分からないだろう。
 それなのに謝られても、臨也の気が収まるわけが無かった。
 なのに。
「大嫌い、か。お前は昔っから、それしか言わねぇよな」
 ぽつりと静雄が呟くから、臨也の涙は更に止まらなくなる。
「俺は……どうすりゃいい? どうすれば、お前が一番大事だって伝わる?」
 途方に暮れた声に、嫌々をするように臨也は首を横に振った。
 そんなことは知らないし、信じられない。
 信じられるようになる方法があれば、それこそ知りたかった。
 静雄を丸ごと信じられたら、どんなに楽になれるだろう。
 どんなに幸せになれるだろう。
 だが、今のままでは、それは見果てぬ夢だった。
「クソッ」
 小さく吐き捨てて、静雄は臨也を乱暴に胸に抱きこむ。
 こんな時なのに、変わらず静雄の腕の中は温かく、ほのかな煙草の残り香が臨也の胸に染みて。
「好きだ。すげぇ好きだ。高校の時からずっと好きだ。見せられるもんなら、俺の心ン中を手前に見せてやりてぇよ」
「──だったら、」
 そんなことを言うのなら、と臨也は思う。
「だったら、どうして三年前、何も言ってくれなかったんだよ。どうして何にも言わないで、あんな……っ」

 三年前のあの日。
 たった一本の電話で、別れを告げられた。
 共には行けないと言われた。
 自分はずっと待っていたのに。
 あの試験会場で、静雄が来てくれるのをずっと待っていたのに。
 電話しても電話しても繋がらなかった。そのことが、どれ程不安と恐怖を煽ったか。
 静雄は、何も知らない。
 知ろうとすら、しなかった。
 意味のない願掛けをして、ただ臨也を待っていたばかりで。
 会いに来ることすら、してくれなかった。

「シズちゃん、ずるい。本当にずるい……! 肝心なことは何にも教えてくれないくせに、それじゃどうやって俺はシズちゃんを信じればいいんだよ……!?」
「臨也……」
「このまま俺は、シズちゃんは俺を好きなはずだって、ずっと自分に言い聞かせ続けてなきゃいけないわけ!? そうやってシズちゃんの傍にいるしかないの!? そんな形でしか俺はシズちゃんと一緒に居られないのかよ……!?」

「俺だって怖かったんだよ!!」

 責め立てる臨也の言葉に、耐え兼ねたように静雄が叫んだ。
「あのまま一緒に居たら、どうやっても俺は、お前を傷付けちまうと思った。自分がピアノしか選べねぇロクデナシだってことは、あの頃にはもう分かってたんだよ!」
「シ、ズちゃ……」
 臨也を抱き締めていた静雄の両手が臨也の両肩を掴み、ぐいと自分から引き離す。
 途端、二人の間にできた空間に大気が入り込んできて、臨也から静雄の温もりを奪った。
「シズちゃん」
 顔を背けた静雄は、ひどく辛そうな表情をしていた。
 苦しくて苦しくてたまらないと訴えかけるような表情に、もしかしたら、と臨也は思う。
 もしかしたら、あの日の電話の向こうでも彼はこんな顔をしていたのだろうか。
 だとしたら。
 本当に馬鹿だと思った。
 こんな顔をして別れを告げて、好きだった相手を泣かせて、挙句、後悔して。
 その過程で彼が得たものは、果たしてあったのだろうか。
 あったのならいい。だが、無かったのだとしたら、静雄は本物の馬鹿だった。
「高校の頃、お前にもよく言われたよな、ピアノ馬鹿だって。でも、その通りだ。あんな進学校に通ってたのに、俺は自分の進路に全然興味が持てなかった。大学行って、就職してサラリーマンになって? 親を安心させるにはそれが一番いいんだって分かってたけど、心の底では、そんなのは俺じゃねえと思ってた」
 苦々しく語る静雄に、知ってた、と臨也は心の中で呟く。
 知っていた。けれど、それでも一緒に大学に行く夢を見ずにはいられなかったのだ。
 静雄の言う通り、二人の通っていた高校は進学校だったから。それが自然だった。
「それなのに無理して大学行けば、きっと俺は駄目になっちまうと思った。俺はこういう性格だから、こんなのは自分のやりたいことじゃねえ、そう思っちまったら最後、きっと我慢できなくなる。毎日苛々して周りの連中に……お前にも当たり散らすようになるんじゃねぇかって思った」
「……だから、その前に離れようと思ったの?」
「ああ」
 うなずき、静雄はやっと臨也へまなざしを向ける。
 鳶色の瞳は、初めて見るひどく傷ついた色をしていた。
 散々に苦しんで疲弊したその色は。
 臨也が鏡の前に立った時に見る瞳の色に、とても良く似ていた。
「いつでも苛々して、不機嫌で、頭ん中はピアノのことばっかで……。そんな俺はお前だって嫌だろ? そんな形でお前を傷付けるくらいなら、その前に離れた方がいいと思ったんだよ」
「……そんな風に考えてたんなら、どうしてそれをきちんと話してくれなかったんだよ。きちんと言ってくれたら、俺だって考えたよ? そりゃ最初は怒ったかもしれない。でも、シズちゃんが真剣に言ってるのが分かったら、俺はちゃんと考えたはずだよ」
 そう告げると、静雄のまなざしが惑った。
 そこに困惑でなく躊躇いを見て取った臨也は、シズちゃん、と少しきつい声で名前を呼ぶ。
「きちんと話してよ。話してくれなきゃ、俺だってシズちゃんのこと分かんないんだよ!」
「───…」
 言いつのれば、止むを得ないとばかりに静雄は小さく溜息をつく。
 そして、ゆっくりと口を開いた。

「……俺だって、お前と一緒に居たかったんだよ。このまま大学に行けば、また四年、お前と一緒に居られる。そう思ったら、なかなかピアノを選ぶ決心がつかなかったんだよ」

 まなざしを背け、苦く打ち明けられた告白に。
 臨也は目を見開く。
「……シズちゃん」
「……なんだよ」
「そんなに俺のこと好きだったの? 高校の頃から?」
「だから、そう言ってんだろうが! 本っ当に手前は俺のこと信じてねぇな……!!」
「信じてないよ! 信じたくても信じさせてくれないのは、シズちゃん自身じゃないか……!」
 静雄を睨みつけ、それから臨也は肺から空気を搾り出すような溜息をついて、深くうなだれた。
「おい、臨也……」
「シズちゃんって、本当に駄目人間。へたれ。へっぽこ。ロクデナシ。おたんこなす」
「おい」
「こーんな馬鹿をずっと好きだったなんて、俺って本当にかわいそう……」
「は……」
 静雄が固まる気配を感じながら、臨也はのろのろと顔を上げる。
 すると、静雄が目をまん丸にしてこちらを見ていた。
「今、お前……」
「ずっと好きだったって言ったよ? でも、それが何?」
「何、ってお前……」
 どう言葉を告げばよいのか分からないと口をパクパクさせる静雄に、臨也は深く溜息をついた。
「そんなんだから、シズちゃんは馬鹿だって言うんだよ」
「はぁ?」
「俺も昔からシズちゃんが好きでした。で? そういう俺に君は何をしたわけ?」
 きついまなざしで睨めば、静雄は気圧されたように息を呑む。
「ねえ、シズちゃん。俺は、あの音楽準備室で初めて君のピアノを聴いた時から、ずっと君が好きだったよ」
 そう告げる端から再び涙が零れ落ちる。
 どうしようも悔しかった。
 あんなにも一緒に居たのに、何一つ伝わっていなかったことが。
 何一つ、静雄は分かっていなかったことが。
「確かに俺は、君には憎まれ口ばかり叩いて、怒らせてばっかりだった。でも、好きだったからずっと傍にいたし、ずっと君の傍で君のピアノを聴いていたかった。そして、それは君も一緒だと思ってた。馬鹿かもしれないけど、そう信じてたんだよ」
「臨也……」
「言って欲しかったよ、シズちゃん。そんなに俺のことを好きで居てくれたんなら、迷うのも悩むのも、俺にも一緒にさせて欲しかった」

「俺は、君が居て、君のピアノがあったら、もうそれだけで良かったんだ。大学とかそんな形はどうでも良くて、ただ一緒に居られたら、それで良かったんだよ……!」

 もし高校三年の頃に静雄に正直な思いを打ち明けられていたら、臨也も必ず戸惑い、悩み、怒っただろう。
 だが、最後に辿り着く結論は、間違いなくこれだった。
 形などどうでもいい。ただ一緒にいたい。
 そうとしか思えないくらい、どうしようもないくらいに好きだったのだ。それ以外の真実など、あるはずがなかった。
 なのに、それを静雄は知らなかったのだ。
 臨也が言わなかったせいでもあるし、彼が気付かなかったせいでもある。
 再会時にあんな告白の仕方をした以上、臨也が静雄を好きなことはぼんやりとでも感じ取っていたに違いないだろう。だが、その想いの深さまでは、静雄は分かっていなかった。
 分かっていれば、幾ら静雄がピアノ馬鹿であっても、あんな離れ方はしなかっただろう。少なくとも、二人してこんな思いをすることは無かったはずだった。
「臨也」
 流れ落ちる涙もそのままに、睨みつけるように見つめていれば、静雄は衝撃に見開いていた瞳をくしゃりと打ちひしがれたものに換えて、臨也の名前を呼ぶ。
 そして、らしくないほどにおずおずと臨也の涙で濡れた頬に指を触れた。
「臨也」
 その場に屈みこんで、臨也の顔を覗き込む。
「……なんて言っていいのか、分かんねぇ。お前がそんなに俺と俺のピアノを好きだなんて、知らなかったしよ……。でも、知らなかったじゃすまねぇよな……」
 壊れ物に触れるかのように、そうっとそうっと静雄は臨也の頬を撫で、零れ落ちる涙を何度も払った。
「ごめんな、臨也。俺、滅茶苦茶にお前のこと傷付けてたんだな」
「そうだよ」
 先程までの意味が分からないまま詫びる声ではなかった。
 この上なく真摯で、どうしようもなく優しくて、ひたすらに悲しい。
 その声で紡がれる言葉を肯定する端から、ほろほろと涙が零れてゆく。
「滅茶苦茶、傷付いたよ。ものすごく悲しかったし、悔しかったし、腹が立ったし……!」
「ああ。……本当に悪かった」
「本当に、辛かったんだから……っ」
 ぼろぼろと泣きながら、やっと伝わった、と臨也は震える吐息をつく。
 どんなに辛くて悲しかったか。
 どんなに好きだったか。
 やっと静雄に伝わった。
 やっと分かってもらえたという安堵に、今度こそ涙が止まらなくなる。
「ごめんな、ごめん」
 そのまま再び胸にぎゅっと抱きこまれて、臨也は遠慮なくそこで泣きじゃくった。
「でも、好きだ。すげぇ好きだ」
 何度も何度も臨也の頭を撫でながら、静雄は繰り返して告げる。
「あの日、お前との電話を切った後すぐから、もうピアノ弾いても全然楽しくなかった。それで気付いたんだよ、本当に大事なのはピアノじゃなくて、お前が傍に居ることだったんだって。もう少し早く気付いてればって、すげぇ後悔した」
 告白もまた、先程までの苦い声ではなかった。
 ただひたすらに切ない響きで、臨也に真っ直ぐに届いて。
 その心を震わせた。
「でも、さすがに昨日の今日で、お前に電話する勇気はなくってよ……。そのうち、ピアノ弾いてても楽しくねぇのをマスターに気付かれて、大事な奴を失くしたって言ったら、いつかまたピアノを聴いてもらえるといいね、って言われてよ。それからだ。もう一度お前が俺のピアノを聴いてくれたら、って考え始めたのは」
「……それで、ずっと待ってたの?」
「ああ」
 答える静雄の抱き締める腕の力が、ぎゅっと強くなる。
「ずっと待ってた。毎日ピアノ弾きながらよ、今夜は来るかな、明日は来るかな、やっぱ無理だよな、ってよ。すげぇ馬鹿みたいだったけど、俺も他にどうしたらいいか分かんなかったんだよ」
 そうだったのか、と臨也は思う。
 自分も辛かった。本当に悲しかった。
 けれど。
「シズちゃんも辛かった……?」
「ああ。辛かったし、すげぇ寂しかった」
「……そっか」
 寂しかった、という静雄の素直な言葉が、この上なく臨也の胸にも染みて。
「こんなこと言う資格、ねぇのかもしれねぇけど。でも、傍に居てくれ、臨也。お前が居ないと俺は駄目だ。何してても楽しくねぇし、寂しくて仕方ねぇんだよ」
「……うん」
 静雄の腕の中で、臨也は小さくうなずく。
 ずっと辛かった。
 悲しかった。
 けれど、剥き出しのまま差し出された静雄の心が、今、目の前にある。
 それは、ずっとずっと欲しかったものだった。
 臨也と同じくらいに傷付いて、悲しんで、寂しがっていた静雄の心。
 ずっと臨也を好きで、ずっと待ち続けていた、どうしようもなく馬鹿で愛おしいその光に触れて、もういいと、やっと心の底から思うことができる。
 やっと許すことができる。
 あの日からずっと凍り付いていた心が、魂が、春風に触れた薄氷のように優しく融けてゆく。そのことに深い安堵を感じながら、臨也はゆっくりと静雄の背に両腕を回した。
「いいよ。仕方ないから、許してあげる。俺が居ないと駄目だって言うんなら……ずっと傍に居るよ」
「臨也」
「でも、その代わり、優しくして。ピアノのこと好きなだけ考えてもいいから、その分、俺が傍に居ることを思い出した時は、うんと優しくして甘やかして。そう約束してくれるんなら、俺はずっとシズちゃんの傍に居てあげる」
「約束する」
 静雄の答えは迷いなかった。
 腕の力を緩められ、正面から目を合わされる。

「お前のこと、すげぇ大事にする。一生大事にするから、傍に居てくれ」

「一生って……」
「一生っつったら一生だ」
 真剣に断言する静雄に、臨也は首をかしげる。
「……なんかそれ、プロポーズみたいだよ?」
「馬鹿! プロポーズしてんだよ!」
「は……」
 きっぱり言い切られて、臨也は目を見開く。
 だが、静雄の瞳は本気だった。
 その瞳を呆然と見上げたまま、臨也の脳裏では、まだ二十一歳なんだけど、だの、同性婚は認められてないけど、だのという常識が明滅する。
 しかし、同時に、そんなことは静雄も百も承知だということも、臨也には分かっていた。
 そもそも彼は、ピアノ馬鹿ではあっても知能が低いわけではないのだ。新聞やニュースを媒体とした一般的な知識であれば、並以上によく知っている。
 つまりこれは、全てを承知の上でのプロポーズなのだ。
「……一生、一緒に居るって簡単じゃないよ?」
「あぁ?」
「今の離婚率、知ってる? 神様の前で永遠を誓った夫婦だって、別れるのは珍しくないんだよ? 一生って、俺たちこれから後何年、生きると思ってるの? 男の平均寿命は七十九歳だよ?」
「たかが、あと五十八年じゃねぇか」
「はぁ? たかが、じゃないだろ! 君と俺と出会ってから、まだ六年しか経ってないんだよ!? あと何倍あると思ってんの!?」
「十倍近いのが何だっつーんだよ! この先何十年経ったって、お前より好きな奴なんか現れねぇよ!!」
 怒鳴りつけるように断言されて、その勢いに気圧された臨也は目をまばたかせる。
「ったく、ごちゃごちゃ言いやがって……。一生お前のためにピアノ弾いてやるっつってるんだ。黙ってうなずきやがれ」
「……ちょっと、その言い方はないんじゃないの?」
 気が長いとは言いがたい性格をしている彼のことだから、臨也が素直にうなずかないことに痺れを切らし始めているのだろう。
 それが分からない臨也ではない。
 だが、さすがにこの物言いには反応せずにはいられなかった。
「さっき、優しくしてって俺は言ったよね? なのに、早速そういう横暴なこと言うわけ?」
「──っ、でも、俺と俺のピアノがあればいいっつーったじゃねぇか!」
「言ったよ? 言ったけど、でも、うんと優しくして甘やかしてって付け加えただろ」
 君だって大事にするって言ったくせに、と切り返せば、静雄はぐっと黙る。
 そして、ひどく難しい表情をした後、ぼそりと口を開いた。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「……そうだね」
 臨也も売り言葉に買い言葉で応戦しただけで、深い考えがあったわけではない。
 けれど、静雄が彼なりに自分に合わせようとしてくれていることは、素直に嬉しかったから、さほど焦らすことなく思いついたことを口にした。
「とりあえず、ピアノ弾いてよ。それ聴いてから、プロポーズの返事するから」
「──しょうがねぇな」
 ねだれば、静雄は渋々といった表情で臨也から手を離す。
「俺に弾かせるだけ弾かせといて、嫌だとかぬかしたら承知しねぇからな」
「ははっ、どうだろうね」
 笑いながら、臨也はピアノに向かう静雄の背中を見つめる。
 プロポーズの答えなど最初から決まっていた。
 大好きな相手に一生傍にいて欲しいと望まれて、嬉しくないはずがない。
 ただ、臨也の性格上、素直にはうなずけなかっただけだ。
「おい、リクエストは?」
「んー」
 問われて、考える。
 思いついたのは。
「Love me tender」
「プレスリーかよ」
「いいじゃん。あと……、Yesterday、聴きたい」
 弾いて、とねだれば、その曲にまつわる記憶を思い出したのだろう。肩越しにこちらを振り返っていた静雄の瞳が優しくなった。
「分かった」
 そして、二人しかいない午後のジャズバーの店内に、なめらかに音が流れ始める。
 ───優しく愛して、ずっと愛して。
 彼らしい破調で時折、力強い、それでいて情感に満ちた音で、どこか切なくピアノが歌う。
 だが、『love me tender』は、さほど長い曲ではない。臨也を包み込むようなその音の世界に浸っているうち、最後の一音がやわらかく消えて。
「え……?」
 続いて『Yesterday』が始まるかと思いきや、全く違うメロディーが流れ出して、臨也は目をまばたかせた。
「……好きにならずにいられない……?」
 静雄のことだ。おそらくはプレスリー繋がりで思い付いたのだろう。
 ───流れる水が海に注ぐように、運命とはそうなってしまうもの。
 ───この手を取って、俺の人生をお前のものにしてくれ。
 『好きにならずにいられない』の歌詞は、『Love me tender』以上に平易かつ短い詞だ。
 それに託された呆れるほどに率直な想いが、ピアノの音と共に臨也の心に染み込んでくる。
 静雄は、決して口が上手くない。その自覚があるからこそ、想いをピアノに託そうとしているのだろうと臨也は気付く。
 だが、それは正しかった。
 言葉よりも遥かに雄弁に、静雄のピアノは静雄の心を臨也に伝えてくる。
 好きだと。
 大切だと。
 傍にいて欲しいと、ピアノが静雄の代わりに音の限りに歌っている。
(そっか。俺のために弾くって、こういうことなのか)
 静雄の言っていた意味が初めて理解できて、臨也はぎゅっと胸元を押さえた。
 静雄の奏でる一音一音。
 メロディーの全てが、臨也へのメッセージだった。
 言葉ではなく音で綴られたラブレターが、余すことなく臨也に届けられる。
 臨也を優しく包み込み、満たしてゆく。
(じゃあ、今、シズちゃんは幸せ? 俺が傍に居て、俺のためにピアノ弾いて。シズちゃんは嬉しい? ちゃんと楽しい?)
 背後からでは、静雄の表情は窺えない。
 臨也は、ずっと座っていた椅子から立ち上がり、音を立てないようにそっと静雄の側方に回り込む。
 すると。
 ちょうど、『好きにならずにいられない』の最後の一音を弾き終えた静雄が、臨也が移動してきたのに気付いて目線をちらりと上げ、微笑んだ。
「次、Yesterdayな」
 低く告げられた言葉に、臨也は、うん……、とうなずくことしかできなかった。
 そのまま、ピアノを弾き続ける静雄の表情にただ見入る。
 ジャズは弾き手の気分によって、まったく曲が変わる。だから、この『Yesterday』は、あの日、音楽準備室で聴いた『Yesterday』とは全くの別物だった。
 そして、静雄の表情も。
 あの日の静雄は、臨也の存在をまだ意識してはいなかった。だから、あの日の『Yesterday』は誰のためのものでもない、彼自身が好きで弾いただけの曲に過ぎなかった。
 けれど、今は。
 曲の持つ切なさややるせなさはそのままなのに、一音一音は限りなく温かい。
 温かくて、包み込むように優しい。
 そして、表情もまた。
 穏やかに満ち足りて、幸せそうだった。少なくとも、臨也の目にはそう見えた。
 臨也がじっと見つめていると、視線を感じ取ったのか、ピアノを弾きながら静雄がちらりとまなざしを向けてくる。
 その鳶色の瞳が、ふっと笑むのを見た瞬間。
 臨也の中で、何かが弾け飛んだ。
 ───ああ、昨日までは全てが輝いていたのに。
 そんな切ない余韻を長く残して、最後の和音が大気に溶け消える。
 そして、鍵盤から手を下ろした静雄がこちらを見るのと同時に。
 臨也は躊躇いなく、その胸の中に飛び込んだ。
「うおっ…、臨也……!?」
 力任せにしがみつく臨也を、静雄は驚きつつも受け止める。
「シズちゃん」
「お、おう」
「これからも、こんな風に俺のために弾いて。時々でもいいから。そうしたら、俺はずっとシズちゃんと一緒に居てあげる」
「──それって……」
 臨也が何を言いたいのか理解したのだろう。
 声に驚きを込めて、静雄は臨也の肩を掴んで引き離し、顔を覗き込む。
「OK、ってことだよな?」
 期待に染まりつつも、どこか請うような不安を残した真剣なまなざしに、臨也は小さく笑んだ。
「シズちゃんが約束してくれるならね」
「する! するに決まってんだろ!!」
 勢い込んで叫んだ静雄は、そのままの勢いで臨也を抱き締めて歓喜の声を上げた。
「すげぇ大事にする! お前が弾いてくれって言ったら、幾らでも弾いてやるよ。一生ずっとだ」
「うん……、うん」
 大事にしてあげるから、大事にしてね。そんな想いを込めて、臨也も何度もうなずく。
 そして、二人は少しだけ抱き締める腕を緩め、互いの目を見つめた。
 それぞれの瞳には互いの姿しか映っていない。そのことに微笑んで、ゆっくりと唇を重ねる。
 初めての深いキスは、ただひたすらに甘くて。
 やっと手の届いた幸せを、臨也は目を閉じたまま深く噛み締めた。

*               *


「シズちゃん、コーヒー入ったよ」
 曲の合間を見計らって、臨也はピアノの前の静雄に声を掛ける。
「なに弾いてたの?」
「all the things you are。邦題は『君こそ我が全て』。歌詞だと、この後にmineが付くんだよ」
「へえ」
 また甘ったるそうな雰囲気のタイトルと詞だな、と臨也は思いながら、カフェオレの入ったマグカップを静雄に渡した。
 そして、自分のブラックコーヒーを啜りながら、静雄の背中にとんと寄りかかって体重を預ける。
「何だよ?」
「何にも」
 今日も朝から静雄がピアノばかり構っているから、少し邪魔をしてやろうと思っただけだ。
 一緒に暮らし始める前から見当の付いていたことではあるが、静雄は起きている時間の大半をピアノ相手に過ごし、合間に少し本を読んだり、ぼーっとしたりするのがせいぜいという生活をしているため、どうしても臨也が強引に存在を割り込ませなければならないのである。
 だが、臨也がこうして『構え』と意思表示した時は決して邪険に扱わないし、彼なりに精一杯に甘やかそうともしてくれる。
 それが分かっているから、臨也も面白くないと感じることはあっても、腹が立つところまで行くことはない。それよりもむしろ、あの手この手で静雄の気を引くのを楽しんでいるというのが最近の実情だった。
 昨日は焼きプリンで面白いように釣れたから、近いうちに今度はホットケーキでも焼こうか、と考えていると、「おい」と呼ばれる。
「何?」
「リク、ねぇの?」
「あー、そうだねえ」
 朝から晩までピアノを聴いているのに、リクエストもへったくれもないというのが正直なところだったが、ともかく臨也は考えてみる。
「……サイモン&ガーファンクルの気分かなぁ」
「──お前の好みって、結構渋いよな」
「その方がいいだろ。邦楽ヒットチャートの上位占めてるような曲を弾けって言って欲しい?」
「いいや。俺としては助かる。オールディズから七十年代くらいまでだと、ジャズにアレンジしやすい曲が多いしよ」
「だろ?」
「じゃあ、ちょっとだけ離れとけ」
「うん」
 さすがに臨也に寄りかかられたままでは弾けないという静雄に、臨也は素直にうなずいて、ピアノ横のフローリングに置いた巨大なビーズクッションに腰を下ろす。
 すると、静雄は少し考えた後、臨也を見下ろした。
「Mrs.RobinsonとThe Boxerでいいか?」
「いいよ。ついでに冬の散歩道もつけて」
「おう」
 うなずいた静雄は、そのままピアノに向き直り、鍵盤に指を走らせ始める。
 三曲のいずれも、ややスピード感のある展開を持つだけに静雄としては弾きやすいのだろう。サイモン&ガーファンクルのメロディーが持つ叙情性は残しながらも、小気味よくビートを刻んでゆく。
 どの曲もラブソングではない。だが、臨也のために弾かれるそれらは、どれもこれもただ心地良かった。
 静雄の紡ぎ出す音の世界に浸りながら、開け放たれた窓から入ってくる爽やかな風を感じて、臨也は目を閉じる。
 新生活を始めるに当たって二人が新居として選んだのは、静雄の働くジャズバーもある駅前商店街の店舗に挟まれた小さな空き家だった。
 築年数が古い上に手狭だが、周囲が賑やかなだけに、昼間であれば好きなだけピアノを弾いても苦情がくることは無い。
 臨也としては防音完備のマンションを借りて、家賃分は株かFXで荒稼ぎすることも考えたのだが、静雄が分不相応な住まいは嫌だと反対したためにこうなったのである。
 だが、いざ暮らし始めてみれば食料品や日用品は近所で全て間に合う上に、駅も静雄の職場も至近距離で、色々な意味で便利な物件だったから、今は臨也もこの借家暮らしを気に入っていた。
 ほどなく、鋭く力強いタッチで『冬の散歩道』を弾き切った静雄は、なあ、と臨也を呼ぶ。
「今度の休み、どっか行くか?」
「デート?」
「おう。たまには出かけねぇとよ、こうしてピアノ弾いてるばっかになっちまうし……どっか行きたいとこ、考えとけよ。お前の行きたいとこ、付き合うからよ」
「……うん」
 一緒に暮らし始めてから時々、静雄はこういうことを言う。
 プロポーズの時の約束を律儀に守ってくれているのが嬉しくて、臨也はそっと口元に笑みを刻み込んだ。
「ねえ、シズちゃん」
「ん?」
「もう一曲、リクエスト」
「おう」
「stand by me、弾いて」
 有名過ぎるスタンダードナンバーをリクエストすると、静雄は一つ目をまばたかせてから、笑顔でうなずいた。
「いいぜ」
 そしてまた流れ出すピアノの音に、臨也は目を閉じて耳を傾ける。
 傍に居て、と彼流のアレンジで想いの丈を込めて何度も力強く繰り返されるフレーズが、ただ愛しくて。
「シズちゃん」
「ん?」
「好き」
 自由自在に紡がれる間奏の合間に告げれば、臨也の性格を知り尽くしている静雄は、嬉しさよりも面白さが勝る表情で笑った。
「俺とピアノと曲の、どれがだよ?」
「んー。何て言って欲しい?」
「聞くあたりで嫁失格だろ」
「誰が嫁だよ」
「お前以外の誰がいるんだよ。つか、お前以外いらねぇよ」
 軽やかにピアノを弾きながら、さらりと言われて、臨也は思わず言葉に詰まる。
 時々こういうことを言うのが、この男の厄介なところだった。
「シズちゃんて時々、すごく性質が悪いよね……」
「あ?」
「もういいよ。全部です。そういうことにしといてあげる」
 溜息交じりにそう宣言すれば、静雄は小さく吹き出した。
「じゃあ、俺も、お前もピアノもこの曲も、全部好きだってことにしといてやるよ」
 そう言い、静雄はstand by meのフレーズをもう一度、この上なく甘く、そして力強く繰り返す。
 その愛おしい音に、シズちゃんの馬ー鹿、おたんこなす、と呟きながら、デートの行き先はどこにしようかな、と臨也は二人で過ごす休日に思いを馳せた。

End.

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