※ピアノ奏者×大学生の続き

Yesterdayを歌って 01

 ひどく臨也は焦っていた。
 受験者の着席を促す予鈴が鳴ったのに、まだ静雄が姿を現さないのだ。
 二人の受験番号は十番と離れていなかったから、斜め後ろの席に彼は居なければいけないのに、受験番号の貼られた机は、椅子がきちんとしまわれたまま端然と空白を作っている。
 何かあったのかと思うと居ても立ってもいられず、臨也は、本当なら電源を入れたままでの持ち込みを禁止されている携帯電話を机の影ですばやく操作して、短いメールを発信した。
 件名も無い、どこに居るのかと問いかけるだけのメールだ。だが一分待っても返信はなく、臨也は諦めて電源を落とす。
(本当にどうしたんだよ、シズちゃん……!)
 急病か、あるいは事故か。
 いずれにせよ、臨也にすら連絡を入れないのはおかしい。何かあったに違いないのだが、それを知る術は今の臨也には無い。
 いっそのこと、自分もこの受験会場を飛び出して静雄を探しにいこうかとさえ思う。
 だが、一緒に行こうと約束した本命校の入試を棄権するだけの割切りは、さすがの臨也にも直ぐにはできず、どうしようかと必死に考えているうちに試験官が入室してきてしまい、退室するタイミングを完全に逸してしまった。
(シズちゃん、どうして……)
 問題と解答用紙が配られても、試験が開始となっても、結局、静雄が会場に現れることはなく。
 休憩時間ごとにリダイヤルを繰り返した電話がやっと繋がったのは、その日の深夜になってからのことだった。

 

「シズちゃん!? 今日、どうしたんだよ!?」
『──臨也』
 静雄のことを案ずるあまり、上ずった声で怒鳴るように呼びかけた臨也を迎え撃ったのは、ひどく重く、低い静雄の声だった。
「風邪? インフルエンザ? それとも事故にでも……」
『臨也』
 もう一度、重い声で名前を呼ばれて、臨也ははっと眉をひそめる。
 何か、ひどく嫌な予感がした。
 単なる病気や事故といった話ではない、もっともっと根源的に拒絶したくなるような、何か。
 それが静雄の声に込められていることに気付いて、臨也の背筋が知らず、ぶるりと震える。
 そして、運命の刃は容赦なく。
 臨也の頭上に落ちてきた。

『悪い。……俺は、お前とは一緒に行けねぇ』

 一瞬、何と言われたのか分からなかった。否、分かりたくなかったのかもしれない。
 ゆら、と臨也の視線が宙を彷徨う。
 悪い。重く苦しい声にそう告げられた瞬間に時が止まったような錯覚に陥ったまま、戻ってこられない。
 或いは、世界の全てが石になる悪い魔法をかけられたような。
 どういう意味、と聞き返すこともできずに、見開いた目で宙を見つめたまま、臨也は携帯電話のスピーカーから聞こえてくる静雄の声に無防備に晒される。
『どんだけ考えても浮かばねぇんだよ、大学行ったり、サラリーマンになったり……そういう自分が思い浮かばねぇ。俺はこういう性格だしよ……そういう道には向いてねぇんだと思う。だから、大学行くのは止めた』
「──や…めて、どうするの……?」
 かすれ、途切れそうな声ではあったが、かろうじて問いかけの言葉は出た。だが、静雄の次の言葉を聞いて、臨也は問いかけたことを心の底から後悔した。
『就職先を見つけた。前から気になってたとこだ。昨日の夜、思い切って行ったら採用してもらえた』
「ど…こ……? どこに……」
『ごめんな臨也。約束してたのによ』
「違う、そんなこと聞いてない。どこに……」
『ごめん』

「やめてよシズちゃん!!」

 謝罪の言葉を繰り返す静雄にたまらず、臨也は携帯電話に向かって泣き叫ぶように怒鳴った。
「昨日の夜って何だよ!? 昨日の夕方、明日頑張ろうなって言ったよね!? なのに、なんで……!?」
『──頑張ろうなとは、言ってねぇよ』
 電話の向こうの静雄の声も、ひどく辛そうだった。だが、それを思いやるだけの余裕は臨也にはなく。

『俺は、頑張れよっつったんだ』

 そう告げられた途端、一日前の会話が臨也の脳裏に蘇る。

 ───明日、頑張ろうね。
 ───あぁ、そうだな……頑張れよ、臨也。
 ───はぁ? 何それ。頑張るのはシズちゃんもだろ。それとも自分は余裕って?
 ───別にそんなんじゃねぇよ。

 嫌味だと受け取った臨也を宥めるように、静雄は小さく笑った。
 だが、その笑顔には隠しきれない翳りのようなものがあって。
 臨也は、シズちゃんも緊張してるんだ、と小さな発見に満足して。
 曲がり角で、笑顔で手を振って、別れた。

『臨也?』
 スピーカーから静雄の声が聞こえる。
 案じるように詫びるように、臨也の名前を呼んでいる。
 だが、それは。

 既に、裏切り者の声だった。

「……もういい」
『臨也』
「もういいっつってんだよ!! シズちゃんなんか勝手にすればいい! 俺の知らない場所で勝手に生きて、勝手に死ねばいい……!!」
『いざ』
 何度でも名前を呼ぼうとする携帯電話を耳から引き離し、通話を切って、そのまま自室の壁に投げつける。
 小さな機械は壊れこそはしなかったが、大きく跳ね返って床の上にガラクタのように転がった。
「裏切り者……っ」
 ぎしぎしと音を立てて胸の奥が軋み、馬鹿みたいに涙が溢れてくる。
 悔しかった。
 たまらなく悲しかった。
 三年間、ずっと一緒に競い合いながら勉強していたのに。
 進路アンケートの時には、さりげなく静雄の志望校を聞き出し、さも自分も最初から同じ志望であったかのように、大学でもシズちゃんと腐れ縁だなんてうんざりだなぁと嗤いながら、自分のアンケート用紙にも静雄とそっくり同じ内容を記入したのに。
 つい昨日まで、学校が開いている時は学校で、休みの日は図書館で、一緒に問題集を解いていたのに。
 それなのに、最後の最後に静雄は何も言わず、臨也を裏切ったのだ。

 ───これからもずっとずっと一緒に居られると、信じて疑わなかったのに。

「なんで、シズちゃん……!!」
 どれほど泣いても詰っても、気持ちは楽にはならなかった。
 泣いて泣いて泣き尽くして。
 そうして幾日が過ぎたのか。
 魂も心もかさかさに干からび、涙も枯れ果てた頃。
 折原家の郵便受けに一枚の封書が舞い込んだ。
 差出主はあの日受験した大学だった。規格紙に印刷された『合格』の二文字を無感動に眺めた臨也は、それきり何もかも忘れることを決めた。
 この先、静雄無しで生きてゆくために、それはどうしても必要なことだった。

*          *

 駅前の道に沿ってロータリーを回り込み、駅舎の正面まで来て、臨也は歩きながらきょろ、と周囲を見回す。
 待ち合わせの相手は、決して時間にルーズではない。
 案の定、遠目にも目立つ金髪が噴水の向こうに立っているのが見えて、臨也はそちらへと歩き出した。
「シズちゃん」
 臨也の声は高くも低くも無いが、良く透る。そして、耳の良い相手は、即座にまなざしをこちらへと向け、臨也の姿を捉えた。
 幾らか歩調を速めて近づきながら、臨也は久しぶりに見る静雄の私服姿に、鼓動が小さく高鳴るのを感じる。
 共に通った高校は制服があったし、卒業してからは三年近く音信不通で、再会した時には静雄はバーテン服を着ていた。
 ゆえに、臨也の記憶が正しければ、最後に静雄の私服を見たのは大学受験の直前の日曜日、一緒に図書館で勉強した時のことだ。
 紺色の温かそうなセーターとダークグリーン系のネルのシャツにジーンズ、そして、焦げ茶色のダッフル。取り立てて良いものを着ていたわけでもないのに、元々のスタイルが抜群に良いものだから、嫌になるほど映えて見えた。
 そんなことまで覚えている自分の記憶力が嫌になりながら、臨也は静雄の前に立つ。
「相変わらず早いね」
「そうでもねぇよ。五分くらい前に来たとこだ」
 まだ半分くらい残っていた煙草を携帯灰皿に片付けながら、静雄は何でもないことのように言う。事実、きちんとした両親に育てられた彼にしてみれば、待ち合わせの十分前に到着しているのは当然のことなのだろう。
 臨也も別に遅刻をしたりはしないのだが、それでも静雄より先に待ち合わせ場所に着いたことは、過去にも殆どなかった。
 そして、その数少ない例外の一つは、今でも思い出したくない記憶だ。
 霙(みぞれ)の降る寒い冬の朝に、着席を促す予鈴が鳴っても姿を現さない静雄のことを、心底不安になりながら待ち続けたあの時のことなど。
 何度電話しても繋がらず、メールを送信しても返信は無く、ただ焦って怯えることしかできなかった、あの日。
 思い出す度に身を引き千切られるように辛くて、腹立たしくて、何度も忘れようとしたのに、どうしても忘却の淵へと捨て去ることができなかった苦く苦しい記憶。
 自分の記憶を自由自在に操れたらどんなにか良いだろうと思いながら、臨也は静雄を見上げる。
 だが、静雄は臨也の心情になど、まるで気付いていない素振りで携帯灰皿をしまい、体重を預けていた壁から背を離した。
「じゃあ、行くか」
「うん」
 うながされて、臨也は素直にうなずく。
 ここで静雄に喧嘩を売っても仕方が無い。言いたいことも詰りたいことも山のようにあったが、だからといって、デートの初っ端から気まずくなりたいわけではないのだ。
 しかし、
(デート、でいいんだよな……?)
 静雄に並んで歩き出しながら、今更なことをちらりと臨也は考える。

 今日、二人で出かけることになったのは、三日前、静雄の働くジャズバーに臨也が会いに行った帰り道に、静雄が見たい映画がある、と何気なくもらしたのがきっかけだった。
 名画系のヨーロッパ映画で、とあるピアニストを描いた作品だという。
 どこまでピアノ馬鹿なのかと思いながらも、つい、じゃあ一緒に行く?、と持ちかけてしまったのは、臨也の甘さだろう。或いは、もっと別の心の動きに言い換えることもできるかもしれない。
 その辺りはともかくも、静雄は少し驚いたように臨也を見つめ、つまんねぇかもしれねーぞ、と言った。だが、それは決して拒絶の返事ではなかったから、臨也は、いいよヨーロッパ映画嫌いじゃないし、とうなずいたのだ。
 そして今に至るのだが、一応付き合っている二人が一緒に出かけるのなら、それは普通、デートと呼ぶはずである。
 だが、そうと断言できないのは、臨也が静雄の心情を未だに図りかねているからだった。
 好きだとははっきり言われているし、何度か──正確には三回、キスもした。しかし、それでも恋人だと胸を張れないのは、三年近く前のことが、どうしても頭にちらつくからだ。
 再会した静雄は、高校時代から臨也をずっと好きだったというようなことを言ったが、それなら何故、臨也には何も言わず、同じだったはずの進路を変えてしまったのか。
 それについては静雄も未だ説明してくれてはおらず、そのために臨也も、まだあの頃のように静雄を全面的に信じる気にはなれずにいた。
(女々しいよな……)
 二十歳も超えたのに、思春期の少女のように傷付いたままの自分が嫌で、臨也はこっそりと溜息をつく。
 そして、隣りを歩く静雄を窺い見たが、彼のまなざしは前方に向いており、こちらの様子に気付いた気配はなくて。
(シズちゃんのバーカ)
 この距離に居ながら、おまけに好きだと言いながら、臨也の気持ちになど全く気付かない。鈍感にも程があると心の中で悪態をつく。
 だが、臨也の方も、静雄の考えていることが分かるわけではないのは同じだった。
 そういう意味ではお互い様であるし、哲学的に考えれば、言葉にしなければ相手に考えを伝えることができない人間という種族の限界でもある。
 だが、それはなんてもどかしいことだろう、と臨也は思わずにはいられない。
(手と手を繋いだら考えが伝わるとかだったらいいのに……)
 知りたい、と願ったら相手の考えが伝わって、分かって欲しいと願ったら自分の考えが伝われば、そんなに便利なことは無いだろう。
(でも、シズちゃんに全部知られても困るのは確かなんだよね)
 分かって欲しいとは思うが、心の中には、決して知られたくないと思うドロドロした感情も、うんと沢山溢れている。
 こういう風に物思いをしていることすら、分かって欲しいけれども知られたくないことの一つだ。
 本当にもどかしい、と溜息を押し殺して、臨也は心持ち歩く速度が遅くなった足を速めて、静雄に肩を並べた。
 ちらりと見上げた静雄の横顔は、相変わらず端整で──高校時代よりも精悍さを増して、否が応にも目が惹き付けられる。
 そのことがひどく悔しかったが、今更どうしようもない。
(ホント、なんで俺、シズちゃんなんか好きになっちゃったんだろ)
 ついた溜息はほろ苦く、そのくせ妙に甘くて、臨也の眉間に思わず小さな皺が寄った。


 二人の出会いは、六年前。高校の入学式直後まで遡る。
 都内でもそこそこの進学校である来神高校。そこが二人の出会いの場所だ。
 もっともクラスが違っていたため、臨也が静雄の名前を知ったのは入学式ではなく、もう少し後、入学式から半月後に行われた一番最初の実力テストの結果発表でのことである。
 進学高校であるだけに、校内試験が行われる度、上位成績者の名前と点数が廊下に張り出されるのだが、その一番先頭にあったのが平和島静雄の名前だった。
 頭脳に自信のあった臨也は、自分の名前が次席であることが信じられず何度も見直したのだが、どれほど眺めても順位が入れ替わることはなく。
 呆然としていたところに、同じ中学出身の友人、岸谷新羅が「さすが静雄だなぁ」と感嘆の声を上げたのだ。
 その声に臨也は、中学時代に何度か話に聞いた、彼の幼馴染みだという少年が【平和島静雄】であったことを思い出したのである。
 その直後、新羅が、自分たちと同じように成績を見に来た男子生徒の一人に声をかけた。
 それが、静雄だった。

 少しだけ着崩した制服と、身長170cm後半と思われる長身、金色に染めた髪。
 詰まらなさそうに順位表を眺める横顔は、モデルか俳優と言っても通るほどに端整で、新羅の声に応じてこちらを向いた鳶色の瞳とまなざしが合った瞬間、臨也はどくんと心臓が大きな音を立てるのを間違いなく聞いた。
「さすがだね、静雄。高校でも君に勝たせてはもらえないのかなぁ」
「たまたまだろ。今回も何箇所かケアレスミスしちまったしな。なんか集中力がもたねぇんだよな」
「睡眠不足なんじゃないの?」
「いや、きちんと寝てるぜ。でも、なんか面白くねぇんだよ、学校のテストって」
「まぁ君の気質には合ってないのかもね。日本の学校の試験は記憶力勝負で、思考力や発想力を問うものじゃないからさ。いっそのこと海外留学でもしたら?」
「ンな金、あるかっつーの。うちは普通のサラリーマン家庭だぞ。高校が私立ってだけでも親に申し訳ねぇのに」
「君なら海外でも奨学金取ってやれる気がするけどなぁ」
「そこまでして学校に通いたかねぇよ」
 そう言った後、彼は新羅の傍らにいた臨也へとまなざしを向けた。
「そいつは?」
「ああ、彼は折原臨也。僕と同じ中学の出身で、ずっと首席だったやな奴だよ。性格も捻じ曲がってるしね」
「新羅!」
 一体何という紹介をするのかと思わず臨也は咎めるが、しかし、静雄の方は気にした様子もなく順位表を指差して問うた。
「折原って二位の奴か。あれでイザヤって読むのか?」
「あ、うん。うちの親、変な名前をつけるのが好きで、俺の名前も妹たちの名前も初対面じゃ誰も読めないんだ」
「へえ」
 感心したようにうなずき、そして静雄は、かすかに笑んだ。
「俺は平和島静雄。新羅とは小学校が一緒だったんだよ」
「らしいね。名前だけは聞かされたことがあるよ」
「そうか。クラスは新羅と一緒か?」
「ああ。1−C。君は?」
「1−Aだ」
 なるほど、とうなずく。AとCでは体育や選択式の芸術科目で合同クラスになることもない。だから、これまで噂話を聞くこともなかったのだろう。
「でも、すごいね。さっきの新羅の紹介じゃないけど、中学じゃ負け知らずだったんだけどな」
「成績の話か? 大したこっちゃねぇよ。いつもよりミスが少なかったってだけだ。実際、全科目合計で十三点差だろ。次はお前が勝つんじゃねぇの?」
「――その言い方、なんかムカつくなぁ」
 臨也は元々、相当に負けず嫌いの性格をしている。それゆえに格別勉強が好きというわけでもないのに中学時代は主席を譲らなかったし、今回の実力テストも相応の気合で挑んだ。
 にもかかわらず、それを大したことないと言われては、腹を立てるには十分過ぎた。
「そういう余裕ぶったことを言う奴、俺は好きじゃないんだよね。涼しい顔して自分より成績の悪い奴を腹の中でせせら笑ってるんじゃないの? どうせ誰も俺には勝てないんだって自信?」
「――あぁ?」
「臨也、静雄はそんな奴じゃないよ。本当に成績とかに興味がないだけで」
「その辺も胡散臭いよね。そんなにどうでもいいなら、こんな進学校に来る必要なかっただろ。高い学費を申し訳ないと思うんなら、中卒で就職でも何でもすれば良かったんじゃない?」
 思い切り嫌味な調子で言い放てば、静雄の表情が一気に険しくなる。
「――気に入らねぇな。初対面で相手に難癖つけるのが手前の流儀かよ」
「はっ、人を馬鹿にした発言してるのは君の方だろ。君の言い方を聞いてると、いい成績を取るために努力してる奴は馬鹿と同義ってことになる」
「誰もそんなこと言ってねぇだろ。それに俺だって勉強せずに試験受けてるわけじゃねぇよ」
「こんなものはつまらないって思いながらね! でも、おあいにく様。君が大したことじゃないっていう成績を示さなきゃ、この国じゃ生きにくいんだよ。君だってそれが分かってるから、高い学費を出してもらってここに居るんだろ」
「────」
「くだらないと思うのは勝手さ。確かに成績上げることだけに夢中になって、しがみついてるのはみっともないよ。成績や出身校だけが人生の全てじゃない。でも、ここに居る以上、それを思っても口に出すなよ。君だって同じ穴のムジナなんだから、そういうのを目糞鼻糞を笑うって言うんだよ」
 真っ直ぐに相手の目を見据えて告げれば、静雄の表情は険しいを超えて、すっと冷えた。
 辺りの気温が急に下がったと錯覚するほどに、それは劇的な変化だった。
「折原」
「何?」
 わずかながらも気圧されつつ、それを隠して平然と応じれば、憤怒がそのまま凍てついたようなまなざしで静雄は臨也を睨みつけた。
「手前の言い分は確かに全部は間違ってねぇよ。俺は俺の意志でここに居るんだ。それは認めてやる。――だから、」
 静雄のまなざしが鋭く光る。その輝きを臨也は挑戦的に受け止めた。
 張り詰めた空気の中、静雄の低い声が響いて。
「俺はこの先三年間、首席を譲ってなんかやらねぇ。他の誰に負けても手前にだけは絶対に負けねぇよ、折原臨也」
「はっ、上等。やれるもんならやってみなよ。俺だって二度と君に負ける気はないからさ」
「言ってろ」
 荒く言い捨てて、静雄は踵を返しその場を離れてゆく。
 その背の高い後ろ姿に鋭いまなざしを向けていた臨也に、新羅がいつもと変わらないのんきな口調で話しかけた。
「珍しいね、初対面の相手にこんな風に喧嘩を売るなんて。臨也らしくないよ?」
「俺らしくないって何だよ」
「そういう風にむきになるところが、だよ。いつだって余裕の笑みで、腹の中で周囲をせせら笑ってるのが君だろ。まったく、自分に対して言ってるのかと思ったよ、さっきの啖呵はさ」
「――ちょっと気に食わなかっただけさ」
「静雄が? でも彼は表も裏もないよ? 君が難癖つけたことは全部言いがかりだ。静雄は他人の努力を馬鹿にしたりしないし、学校の成績を重要とも思ってない。彼の口から出るのは全部本気の言葉だよ」
「そういう奴、嫌いなんだよ」
 胸のうちに渦巻くじりじりとした感情に憮然としながら応じれば、新羅はやれやれとばかりに肩をすくめた。
「いよいよ空前絶後だね。君が誰かを嫌いだってはっきり言うの、初めて聞いたよ。人間は面白い、俺は人間を愛してるが君の口癖じゃなかったっけ?」
「――お前のことも嫌いだよ、新羅。分かったようなことを言う奴は、皆嫌いだ」
「おや、それはどうも。構わないよ、私は心の恋人さえいればいいんだから。彼女さえいれば世界の全てが満たされるんだ」
「お前だって、その恋人とやらに賞賛されたいだけで、この学校に進学したくせにさ」
「その何が悪いと言うんだい? 世界は愛が全てだよ。愛さえあれば全てが許されるし完璧になるんだよ」
 そのまま滔々と愛のすばらしさ、自分の恋人(?)について語り出した新羅を無視して、臨也は廊下を静雄が去っていった方向とは反対に歩き出す。
 自分でも何故、こんなにも胸の内が焼けているのか分からなかった。
 とにかく気に食わないと思う。
 あんな無神経に他人を小馬鹿にしたことを言うような傲慢な人間は、絶対に認めたくなかった。
 たとえ自分自身も、学校の成績もテストもくだらない、つまらないと思っていても、だ。
 その学歴社会のど真ん中に存在しているこの進学校に居る以上、同じ場所に居る他の人間を嘲笑うことは許されない。――否、他人のことなどどうでもいい。この自分を嘲笑うことだけは決して許さないし、許せない。
「吠え面かかせてあげるよ、平和島静雄」
 これまで一度も出したことのない冷たく冷えた声でその名前を呼び、臨也はまっすぐに前を見据えて歩いた。


(あー、今から思い返すと本当に最悪の出会いだったよね)
 初対面の時から臨也は彼が気に入らなかったし、喧嘩を売られた静雄も同様だっただろう。
 その日以来、静雄と臨也は激烈な成績争いに突入し、最低でも月一回は行われていた校内試験で、それぞれ全科目満点すら叩き出したことも一度や二度ではない。
 成績は僅差どころかほぼ同等で、どちらかが続けて首席を取ることは殆どなく、毎回のように首席と次席の名前は入れ替わりながら、点数では三位以下を遠く引き離していた。
 とはいえ犬猿の中であることには変わりなく、廊下で顔を合わせる度に、無視しようとする静雄を臨也が挑発する形で口喧嘩を繰り返し、それが学校中を使った追いかけっこに発展することも日常茶飯事だった。
 それに転機が訪れたのは、入学からおよそ半年が過ぎた頃。
 秋の初めの放課後のことだった。
(結局、ピアノだったんだよなぁ)
 俺たちの転機はいつでも彼のピアノだ、と思った時。
「おい、何ぼーっとしてんだ」
「あ、うん」
 目的地である小さな映画館の入り口で静雄が振り返って、こちらを見ている。
 思い出にふけるあまり、歩く速度が遅くなっていたらしい。臨也はすぐに足を速めて、彼の隣りに並んだ。
「具合でも悪いのか?」
「ん? そうじゃないよ」
「にしては、今日はぼーっとしてるじゃねえか」
「ああ、まぁね……」
 確認するように顔を見つめてくる静雄に苦笑しながら、何でもないと臨也は彼の懸念を否定する。
「君と出かけるの久しぶりだからさ。ちょっと感慨に浸ってんだよ」
 そう告げれば、静雄は虚を突かれた顔になった。
「あー、まぁ、いつもうちのバーで会うばっかりだもんな」
 きまり悪げに視線を逸らしながら、後ろ髪を掻き上げる。そんな表情、そんな仕草さえも好きだと思いながら、臨也は微笑んだ。
「そういうこと。分かったら、入ろうよ。こういう名画系の映画館って席数少ないから、すぐに埋まっちゃうよ?」
「――おう」
 気まずげな表情を残したまま、それでも静雄は切符売りの窓口へと向かう。
 その後をついて行きながら、臨也は過ぎ去った遠いあの日のことを思い出していた。

to be continued...

リクエストの多かったピアノ奏者×大学生の続編です。
SSの過去もその後も気になる!、というお声が多かったので、その両方を取り込んでみました。
しばらく続きますので、楽しんでいただければ幸いです(*^_^*)

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