SUNSHINE CITY

 どうしてこうなったのだろう。
 どれ程考えても分からない、と思いながら、臨也は目の前の相手を見つめる。
 リビングの長さが二メートルほどもある大型ソファーを定位置と決めたらしい静雄は、今夜も臨也が提供した毛布にくるまり、クッションを枕に安らかな眠りを貪っていた。
 静雄がこうして臨也のマンションに泊まってゆくのは、一体何度目か。少なくとも片手の指には余る。
 確かに最初に誘いをかけたのは、臨也だった。
 ───否、違う。
 臨也は静雄の言葉に乗せられたのだ。『普通』に接すれば、『特別』にしてやるという、まるで悪魔の囁きのような言葉に。
 そんな言葉を吐かせるきっかけを作ったのは臨也自身だったが、それさえも静雄が悪い、と臨也は思う。
 熱を出して具合の悪い自分にとどめを刺さなかった静雄が、全ての元凶なのだ。
 別に死にたがりのつもりはない。けれど、あの時あの場所で、この息の根を止めてくれていたならば、どれ程楽だったことか。
 窓からの街明かりが薄く室内を浮かび上がらせる中で、臨也は気配を殺したまま、ソファーの傍らに膝を付き、眠る天敵を見つめる。
 驚くほど端整で、優しさと精悍さが絶妙に溶け合った静雄の寝顔を、こうして眺めるのも何度目か。
 だが、一度も静雄は眼を覚ましたことはない。
 臨也がナイフを持たず、害意すらも一時とはいえ、心の隅の方に遠ざけているからだろうか。
 天敵が直ぐ傍にいるのに無防備に眠るのは、これまで散々に殺し合ってきた自分たちの関係に一種の裏切りだと思いながらも、こうして眺めている間に静雄が目覚めなくてほっとしている自分が居ることも、臨也はそろそろ認めざるを得なくなってきていた。

 シズちゃん、と吐息だけで小さく名前を呼ぶ。
 静雄と出会ってから九回目の春は、もう目の前だ。
 八年以上の年月をかけても変わらない静雄との関係に疲れ、熱に浮かされながら霧雨に濡れた池袋の街を彷徨っていたあの日から、既に二ヶ月が過ぎようとしている。
 その間に二人の関係は、随分と変わってしまった。
 といっても、池袋の街中で出くわせば、静雄が青筋を立てて自動販売機を投げつけてくるのは変わらない。おそらく静雄は野生の勘で、臨也が池袋の街に対して良からぬ企みを持っていることを察知しているのだろう。
 だが、そんな静雄であるのに、休日の前日になると律儀に連絡を入れてくる。大概はメールで、『明日休みになった』というような至極簡単な文面だ。
 そんなメールが届くたびに、臨也は無視しようかと考える。
 だが、現実的にそうできたためしはなく、スケジュールをあれやこれやと組み替えて予定を空け、その旨をメールで送る。すると、本当に静雄はやってくるのだ。律儀にインターフォンを鳴らし、時には手土産すら持参して。
 本当に何なのだ、と思う。
 自分たちは天敵ではなかったのか。
 目と目が合うだけで、殺し合いが始まる。そういう仲ではなかったのか。
 とはいえ、心の奥底でそれだけではない関係を求めていたことは、否定しない。もうここまで来きてしまったら、否定できない。
 けれど、それは有り得ない話だったのだ。
 昔は一人きりで悔しげに苦しげに拳を握り締めている姿を、最近ならば人の輪の中で笑っている姿を、自分は遠くから眺めているだけで、彼の目はこちらに向きもしないし、こちらの言葉に耳を傾けることもない。それは絶対の法則で、決して覆(くつがえ)らないもののはずだった。
 それなのに。

「シズ、ちゃん」

 細く細く名前をささやいて。
 臨也はソファーの背もたれに片手を衝き、そっと上体を傾ける。
 静雄の顔を見つめたまま、ゆっくりゆっくりとコマ送りのように顔を近づけて。
 けれど、互いの唇が触れ合う二cmほど手前で動きを止め、かすかに震えるようなひどく臆病な仕草でそっと離れる。
 それから、もう一度元の位置から静雄の寝顔を見つめて。
 今度は右手の人差し指の指先を自分の唇に軽く押し当ててから、躊躇いがちにその指を伸ばし、ごく微かに静雄の唇に掠めて触れ──自分の唇に戻そうとして、少し惑った後、そのまま手を下ろした。
 そして、ぎゅっと唇を噛む。
 ───一体何やってるんだよ、俺は……。
 キスどころか、子供めいた間接キスさえ完成させることができない、なんて。
 自分がしていることの情けなさ、惨めさに泣きたくなる。
「ねえシズちゃん、俺はもう、こんなのは嫌だよ……」
 ずっとずっと、静雄に振り向いて欲しかった。
 ここに自分が居るということを、認めて欲しかった。
 けれど、こんなぬるま湯のような関係が欲しかったわけではないのだ。
 休日の度に、肩を並べてのんびりとプリンやケーキを食べながら、レンタルDVDを鑑賞する関係など、望んでなんかいなかった。
 だからずっと、ナイフを振り回し、策を巡らせて、彼が一番嫌がる形での攻撃をし続けてきたというのに。
 あっさりと静雄は、そんな臨也の努力を踏みにじり、まるで無かったことにしてしまった。
「酷いよ、シズちゃん……」
 ずっとずっと、どんな手段を使ってでも静雄の『特別』になりたかった。
 その『特別』は、決して『友達』という意味ではなかったのに。
 でも、静雄にとっての『特別』は、これまで彼には一人もいなかったという、普通の友達、で。
 そんなことは最初から分かっていて、だから『普通』になどなりたくなかったのに。
 静雄が口にした『特別』という言葉に惑わされて、堕ちてしまった。
 そんな自分の愚かさに反吐が出る。
 ならば、休日を告げるメールを遮断してしまえばいいのに、彼が再び手の届かない距離に遠ざかってしまうことが怖くて、それすらもできないのだ。
 そんな現状が、苦しい。
 苦しくてたまらない。
 ずっとずっと出会った時から苦しかったのは事実だが、今の苦しさとは質も重みも違う。
 かつての苦しさは、手の届かないものに何とか手を届かせようと虚しい努力を続ける辛さだった。
 対して今の苦しさは、欲しかったものがやっと手の届くところにきたというのに、それは既に欲しかったものとは異なる色合いをしていて、なのに、全てを失ってしまうことが恐ろしくて指先を触れることもできない。そういう哀しさだ。
 そして、その苦しさは、かつてのものよりも遥かに絶望に近い。
 殺し合っているだけであった頃は、自分たちの関係は変わらないという安心感も心のどこかにあった。
 だが、『特別』という名の『普通』に落ち着いてしまった今は、もうこれ以上は変わらない、動かせないという袋小路に嵌まってしまった感覚が重くのしかかってくる。
「俺が欲しかった『特別』と、君が欲しかった『特別』は違う。そんなことは最初から分かっていたのに……」
 それでも、自分の知らない、これまで知ることができなかった静雄の顔が見たくて、誘いに乗ってしまった。
 そして、うっすらと涙を滲ませた横顔に、初めて向けられた温かなまなざしに、思わず我を忘れて、何かを願ってしまったのだ。
 決して叶わない、何かを。
 ───愚かな感情だと分かっていたから、ずっと認めたくなかった。
 叶うはずがない、手に入れられるはずがないと分かっていたから、心の奥底に押し込めて、ずっとずっと気付かないふりをしてきたのに。
 彼がこんな無防備な寝顔を見せるから。
 毎度毎度、休みの度に訪ねてきては、自分が煎れたお茶やコーヒーを疑いもせず口にするから。
 その度に何かが──押し込めてあったはずの想いが、ざわりと騒いで。
 日毎にそのざわめきは大きくなって、今はもう。
 ───抑えていることさえ、息苦しいほど、に。
 だが、そんな臨也の心情も知らずに、静雄は無防備で綺麗な寝顔を見せ続ける。
 臨也が今、ここに居ることにすら気付かずに。
「シズちゃん、俺は……」
 呟きかけた言葉は音声にならず、夜の静けさに解け消える。
 そのままもう何を言うことも、何をどうすることもできず。
 臨也はのろのろと立ち上がり、足音も気配も殺したまま、二階の自分の寝室へと戻った。

*               *

 軽やかなチャイムの音が室内に響き渡る。
 臨也は弄っていたパソコンから離れて立ち上がり、壁のインターフォンで来訪者を確認した。
 カメラに映っているのは、金髪バーテン服。東京広しと言えども、平日の真昼間にこんな風体で誰かの家を訪ねる男は一人しかいないだろう。
 言葉での遣り取りは無しに、臨也はボタンを押してマンションの入り口を開錠する。
 そしてインターフォンから離れ、ケトルに湯を沸かすためにキッチンへと向かった。
 きっかりとニ分後、静雄が玄関に現れる。
「……よう」
「いらっしゃい。今日も時間通りだね」
 案外静雄が時間に几帳面だと知ったのも、この休日の逢瀬が始まってからのことだ。
 メールで何時頃に行く、と連絡してきた時は、ほぼ間違いなく静雄はその時間ちょうどにやってくる。一度だけ、来る途中で何かムカつくことがあって暴れたらしく、十五分ほど遅刻してきたことが合ったが、その時も、約束の時間を過ぎる頃に「悪い、少し遅れる」とメールで連絡があった。
 そして今日も、静雄がインターフォンを鳴らしたのは、臨也が指定した午後二時という時間にぴったりだった。
「これ、今日の分な」
 室内に上がりこみながら、レンタルショップの青い袋と一緒に持っていた小さな紙袋を差し出す。
 紙袋の中身が今日の手土産だということは、外側に印刷された店名のロゴからも知れて、臨也は内心で溜息を押し隠し、それを受け取った。
 毎回ではないが、静雄は時々、こうして手土産を持参してくる。基本は自分が食べたいのだろうが、臨也としては調子が狂って仕方がない。
 静雄と自分が肩を並べて甘い菓子を食べているという構図が、何度繰り返しても心理的に受け入れがたいのだ。
 だが、こうしている時間には毒を吐かない、攻撃もしないという取り決めだ。何を機嫌取るような真似してるんだよ気色悪い、と言いたいのをこらえて、紙袋の中から小さな白い箱を取り出し、蓋を開ける。
 静雄が気に入っているパティスリーのプリンか、新作のケーキか。
 さほど期待もせずに中を覗き込んで。
 臨也は固まった。
「……杏仁プリン?」
「ああ。前にそっちの方が好きだっつってただろ」
 リビングの方に移動して、レンタルショップの袋を開けていた静雄が、何でもないことのように言葉を返してくる。
 確かに以前、そんなようなことを言った覚えはあった。
 静雄が、プリン→新作ケーキ→プリン→季節限定のケーキ→プリンというようなローテーションで手土産を買ってくるのに少々呆れ、あの店なら杏仁プリンの方が好きなんだけど、などと嫌味未満の文句を付けた。確か、前回の手土産持参の時だ。
「……覚えてたの? 俺が言ったこと」
「──手前、俺を馬鹿にしてんのか?」
「あ、いや、別にそういうわけじゃないよ。ただ……シズちゃんは普通の卵のプリンが好きだろ。なのに、なんでって……」
「ンなの、俺の好みにばっかり付き合わせちゃ悪いと思うからだろうが。そこまで性格悪くねぇよ。手前じゃあるまいし」
「……でも、それならそれで自分の分はプリンにするとか、やりようがあるじゃん」
「それは俺もちょっと思ったけどな。何となく同じのにしちまったんだよ」
 昔から、おやつは弟と同じものを一緒に食ってたからかもな。
 そんな風に言われて、臨也は何も言い返せなくなる。
 ただ箱の中に行儀よく並んだ、二つの杏仁プリンを途方に暮れたように見つめた。
 白くなめらかな杏仁の上に透明なゼリーを薄く流し、フルーツと生クリームで綺麗にデコレーションしてある。
 決して珍しいものではない。味は良いが、どこにでもある杏仁プリンだ。
 だが、これは間違いなく、半分は臨也のために買って来られたものだった。
 最初から次は杏仁プリンにしようと思っていてくれたのか、それとも店頭でショーウィンドウを眺め、杏仁プリンにしようと思いついたのか。
 いずれにせよ、普通のプリンよりも臨也が喜ぶだろうと思ってくれたのに違いない。
 それをどう受け止めれば良いのか、臨也には分からなかった。
 機嫌取ろうとするなんて気色悪いと怒ればいいのか、俺の好みを考えるなんて馬鹿じゃないのと嘲ればいいのか、或いは──ありがとうと喜べばいいのか。
 途方に暮れたまま、二つの杏仁プリンを見つめる。
 と、ケトルが高い音で鳴り、
「シズちゃん、ミルクティーでいい?」
「ああ」
 そんな会話を期に混乱から逃れることができた臨也は、ティーポットに湯を注いで、カップ共々温めてから、分量の茶葉をポットに入れ、改めて湯を注いだ。
 そして、茶葉が開くのを待つ間、再び杏仁プリンの箱を覗き込む。
 何度見ても、可愛らしい杏仁プリンが二つ、並んでいる。厳然として、それはそこにあった。
 ───本当に、どうしろっていうんだよ。
 溜息を押し殺しながら、吸い寄せられてしまう視線を無理矢理にはがして、冷蔵庫を開け、牛乳を取り出して大き目のミルクピッチャーに注ぐ。
 そして、紅茶が程よく濃い目に出たのを確認して茶葉を取り上げ、マグカップ二つとティーポット、ミルクピッチャー、シュガーポットを大き目のトレイに乗せ、静雄を呼んだ。
「シズちゃん、これ持っていってよ」
「ああ」
 すぐに応じてソファーから立ち上がった静雄にトレイを任せ、臨也はスプーン二つをシステムキッチンの引き出しから取り出して、杏仁プリンの箱と共にリビングへと移動する。
 そして、いつもと同じ距離でソファーに落ち着いた。
「あ、今回もちゃんとあったんだね」
「まぁな。今時、マクロスなんてそうそう借りてく奴もいねーんだろうよ」
「面白いのにねえ」
 古いアニメのDVD鑑賞会は、宇宙戦艦ヤマトから始まり、前々回からは時空要塞マクロスに突入している。
 一度に借りるDVDはニ枚、一枚に付き四話収録で、合計四時間弱だ。今日のように昼間から見始めれば、夜までには見終わるし、臨也の仕事の都合で、静雄の休日の前夜から見ることになれば、終電を逃した静雄は泊まってゆくことになる。
 二人のこれまでを思えば、何とも奇妙な話であり、知人たちに明かせば目を剥いて驚かれること必死だったが、既に二ヶ月余りも鑑賞会は続いている。
 何故続いているのかと誰かに聞かれても、自分こそが理由を教えて欲しい、というのが臨也の正直な気持ちだった。
 本日何度目か知れない溜息を押し殺しながら、静雄が既にディスクをセットし終えてくれていたDVDプレイヤーのリモコンを取り上げ、再生ボタンを押す。
 そして、始まるオープニングを横目に見ながら、パティスリーの箱の中から杏仁プリンを取り出し、一つをスプーンと共に静雄に手渡した。
「やっぱりこの主題歌、何度聞いてもいいよねぇ。癖になる感じ」
「ああ」
 他愛ないことを話しながら、臨也も自分の杏仁プリンをスプーンですくい上げ、口に運ぶ。
 生クリームは甘さ控えめで、ゼリーはほんのりオレンジの香りがする。そして、杏仁プリンはやわらか過ぎず、程よい弾力で口の中でつるんと溶けて。
 プリンもいいけど、やっぱり杏仁の方が美味しいよねえ、と心の中で呟きながら、半分ほどを食べ終えた時、不意に視線を感じた。
「──何?」
 プラズマTVの大画面から視線を外し、隣りを見ると、同じく杏仁プリン片手の静雄がこちらを見ていて。
「美味いか?」
 そんなことを訊いてくるものだから、臨也はひどく返答に困る。
 表情を殺して三秒ほど黙って考えたが、ここで言い返すべき適切な言葉は浮かんでこず、
「……美味しいけど」
 それがどうかしたの、というように無難な答えを紡いだ。
 なのに。
「そうか」
 静雄の瞳が、ふっと微笑んで、臨也は訳が分からなくなる。
 一体どういう意味なのか。
 臨也の好みを考えて杏仁プリンを買ってきてくれたのだから、それを美味しいと言われれば単純に嬉しいのかもしれない。
 だが、一時休戦中とはいえ、天敵に好物を買ってくるとか、美味しいと言われて喜ぶとかいう心情が理解できない。
 元より静雄の考えていることなど分かったためしがないが、今の状況も極めつけだった。
 なのに静雄は臨也の内心の混乱など構う様子もなく、視線を画面に戻してしまう。
 信じられない何考えてんだこの化け物、と臨也は責めるようなまなざしを向けたが、すぐに虚しくなって、手元の杏仁プリンに注意を戻した。
 どうせ、どれ程考えたところで理解などできやしないのだ。
 そして静雄もまた、臨也の心情など理解しようとはしない。
 考えるだけ無駄なのだ、と自分に言い聞かせて、画面を眺めながら何の罪もない杏仁プリンを無言で咀嚼する。
 だが、肝心のアニメのストーリーは全くと言っていいほど、頭の中には入ってこなかった。

*               *

 一本目のDVDが終わり、臨也は傍らに置いてあったリモコンを取り上げ、取り出しボタンを押した。
 立ち上がって、次のディスクを入れ替え、それからどうしようと考える。
「シズちゃん、何か食べる? ポテチとかならあるけど」
 ピザ取ってもいいし、そんな風に声をかけながら、殆ど空になってしまったティーポットを確認してキッチンに戻る。
「いや、いい。そんなに腹は減ってねえ」
「そう。じゃあお茶だけね。なんか飲みたいものある?」
「……カフェオレ」
「分かった。シズちゃん、結構好きだよねカフェオレ。コーヒーはそんな好きじゃないのに」
「コーヒーとカフェオレは全然別もんだろ」
「まあ、それは否定しないけど」
 オープニングの主題歌を聞きながら、臨也はケトルに湯を沸かし直し、カフェオレの準備をする。
 静雄がカフェオレをリクエストするのは、珍しいことではなかった。ほぼ毎回の頻度で淹れているのではないかと思う。
 一番最初の時に淹れてやったのが、口に合ったのかもしれない。フレンチローストの細挽き豆を丁寧にドリップして、ミルクを多めに、砂糖はスプーンに山盛り一杯。臨也の好みも、砂糖を入れないだけで、ほぼ同じだ。
 沸騰したケトルの湯を細くドリッパーに落としながら、自分も同じなのかもしれない、と臨也は少し疲れた気分で考える。
 静雄が臨也の好みに合わせて杏仁プリンを買ってきたように、臨也もまた、一番最初の時から甘党で乳製品の好きな静雄の好みに合わせて飲み物を作っている。少なくとも、静雄が苦手としているコーヒーやビールを勧めたことは一度もない。
 喜んで欲しい、と思っているわけではない。だが、少なくとも嫌な気分にはさせないようにしている。
 何故かと問われたら……言葉に詰まるしかない。
 普通は大嫌いな相手には、相手の好みに合わせた飲み物など用意したりしない。そんな正論は嫌になるほど承知しているのだ。
 だが、ブラックコーヒーを押し付ける気にはなれないのである。それよりも、ミルクティーやカフェオレを淹れた時に、時折、静雄が零す一言が聞きたい、と思ってしまうのだ。
 ───本当に馬鹿だろ。
 つい零れそうになる溜息を押し殺して、綺麗に洗って拭いたマグカップにカフェオレを注ぎ、砂糖を溶かし込んで、リビングに戻る。
 そして、ソファーに腰を下ろしながら、片方のマグカップを静雄に手渡した。
「サンキュ」
「どういたしまして」
 こんな邪気のない遣り取りも、何度交わしただろう。
 そして。
「美味いな」
 この言葉も。
 何度聞いただろう。
 穏やかに落ち着いた低い声で言われる度に、心の深い部分で何かが震える。それを必死に押し殺しながら、いつも何でもないような口調で、そう、と返す。
 それがどんなに愚かなことか、誰に云われるでもなく臨也は理解していた。
 ───馬鹿馬鹿しくて、涙さえ出やしない。
 泣きたいほどの気分でそう思いながら、マグカップをローテーブルの上に置き、画面を眺める。
 しばらく見ていると、何となくストーリーの状況が掴めて、やっと集中できる状況が整ったと思ったその時。
「臨也」
 不意に静雄が名前を呼んだ。
 いいところなのに、と思いながらも無視はできずに、何、と顔を向ける。


 すると、ふわりと唇に温かく、やわらかなものが触れた。


「え……?」
 なに、と目を見開いて、妙に近くにある静雄の顔を見つめる。
 何が起きたのか、全く分からなかった。
 ───今のは、何?
 混乱したまま何を言うこともできずに、ただ静雄を見つめていると、何を考えているのか分からない真面目な顔で、彼は口を開く。
「お前が嫌なら、もう二度としねえよ」
 そう言われて、臨也は更に混乱した。
 ───今のは。
 吐息さえかかりそうな距離にある、静雄の顔。
 先程唇に押し当てられた、やわらかく温かな感触。
 かあっと頬に熱が集まるのが分かる。

 キス、された?

 なんで、どうして、と疑問符がぐるぐると脳裏を回る。
 ああ、それよりも嫌なら二度としないと言われたような気がする。それはどうしたらいいのか。
 何をするんだと怒ればいいのか、俺のこと好きなの?と嘲(あざけ)ればいいのか。
 でもそんなことを口にしたら、宣言通り、もう二度と彼はしないだろう。
 これはあの時と同じだ。
 自分に応か否かを選ばせる、最後通告だ。
 否と言ってしまえばそれきり。
 でも、応と言ったら?
 ああでも、応と言うなんてエベレストよりも高い自尊心が許さない。そんなことを口にするくらいなら、豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ方がいい。
 これまで自分たちは、一目出会った時から殺し合いをずっと続けてきたのだ。
 断じて、キスなどするような仲ではない。
 ───けれど。
 けれど。
 けれど、けれど。

「ははっ」

 押し黙ったまま葛藤し続けていた臨也の目の前で、不意に静雄が相好を崩して笑う。
 そして両手を伸ばし、臨也の腕を掴んで強く引き寄せた。
 そのままぼふっと静雄の胸に倒れこんだ臨也が驚き、暴れる間もなく、背中に腕を回されてがっちりと拘束される。

「やっぱお前、可愛いわ」

 ひどく楽しげにそんな台詞を吐かれて、臨也は更に混乱する。
 ───可愛い?
 ───誰が!?
 だが、静雄は臨也の混乱など気にする様子もなく、笑いを含んだ声で続けた。
「あのな、お前の場合、黙ってんのはイエスと同じなんだよ。本当に気に食わないんなら、マシンガンの勢いで言い返してくんだろ」
「そ……」
 そんなことはない、と言い返しかけて、その通りだと思う。
 けれど。
「ちょ、っと黙ったくらいで、何でイエスになるんだよ!? 君がいきなり変なことするから驚いただけに決まってるだろ!?」
「そうだな、してもいいか聞かなかったのは俺が悪いよな。でも、不意打ちした方が、お前の本心が分かるからよ。驚かせて悪かったな」
「悪いと思うんなら、手を離してよ! なんで抱き締めてんだよ!?」
「だって、離したらお前、逃げるだろ」
「当たり前だろ!!」
「じゃあ、離さねえ」
「なんで!?」
 分からない、と混乱しながら臨也は懸命にもがき、どうにか自由になる手で遠慮なく静雄の背中や脇腹をどつく。
 だが、そんな抵抗で静雄がびくともするはずがなく。
「あのな臨也。俺だって何の根拠もなくこうしてるわけじゃねぇよ。ちゃんと考えたし、その間、お前がやることなすこと全部、見てた。──なあ、臨也。俺は嬉しかったんだぜ」
 耳元で言い聞かせるようにそう告げられ。
 臨也はフリーズする。
「う…れしかった、って……何が」
「色んなこと全部だ」
「──俺、何かした……?」
 これまでの比でなく混乱しながら、臨也は問いかける。
 静雄を喜ばせるようなこと。そんなことを一度でも自分はしただろうか。嫌がらせなら散々にした覚えはあるが。
「そうだな……、手近なところから言うと、カフェオレが美味かったし、その前のミルクティーも美味かった。俺の買ってきた杏仁プリンを、お前が美味いって言ったのも嬉しかった」
「は……」
 何それ、と臨也は呆れる。
「カフェオレとかミルクティーとか、シズちゃん、一体どんだけ安いわけ……?」
「安くねえよ。今まで俺にそういうことしてくれた奴が、一体どれだけいると思ってんだ」
「…………」
「まあ、トムさんはマクド奢ってくれたり、缶コーヒー奢ってくれたりするけどな。でも、俺のために飲み物作ってくれたのは、家族以外じゃお前が初めてだ」
 そんなことは考えていなかった、と臨也は思う。
 誰かの家で他愛のない時間を過ごす。そういう経験が静雄には極端に少ないことは分かっていたし、彼のそういう誘い文句に惑わされて、静雄をこの部屋に呼び込んだのだ。
 けれど。
 それが本当に、彼にとって意味のあることだったなんて。
 考えたこともなかった。
「それに言っただろ。お前が俺に『普通』をくれるんなら、俺は必死にお前のことを見るってよ。朝から晩まで、お前のことを考えるって言ったよな?」
「──朝から晩まで、じゃなくて、お前のことばかり考える、だよ」
「なんだ、お前だって覚えてんじゃねえか」
 くくっと笑われて、臨也は自分が失言したことを知る。
 だが、本当に一言一句、忘れていないのだ。忘れられなかったからこそ、情けなく惨めな行動を繰り返す羽目になった。
 けれど、どうしてそれが真実の言葉だったと思うだろう。
 自分を陥れるための誘い文句。そうとしか思えなかったのに。
「一番最初にな、ちゃんと考え直さないといけねぇと思ったのは、あの夜のお前の言葉がきっかけだ。どういう意味であれ、お前はいつでも本気で俺に向かってきてたのに、俺はまともに取り合おうとしなかった。でも、そのせいでお前が傷付いてるっていうんなら、俺のしてきたことは何か間違ってるんじゃねえかと思ったんだよ」
 本当に嫌いな相手に嫌われても、人間は傷付かない。傷付くということは、嫌悪以外の何かがある、ということだ。
 そんな意味合いのことを静雄は言った。
「で、話の途中でぶっ倒れたお前を連れて帰ったんだが、あの日、俺は、お前は目が覚めたら帰ると思ってたんだよ。夜中だろうと、どんなに高い熱を出してようと、タクシー呼んで、這いずってでも俺の部屋から出てくだろうってな。
 でもお前は、出てかなかっただろ? それどころか、憎まれ口叩きながらも、粥も全部食っちまいやがってよ。それで気付いた。もしかしたら、お前の本心は、言葉とは全然違うところにあるんじゃねぇかってな」
 語りながら、静雄の手が宥めるようにゆっくりと臨也の背中を撫でる。
 それはひどく優しく、温かな感触で。
 臨也は止めろ、と言うことができなかった。
「それから後は、ずっとお前を見てた。こいつは何考えてるんだろう、本当はどうしたいんだろうってな」
「そ…んな風に観察してるなんて、悪趣味だよ」
「お前がいつもしてることだろうが」
「それでも。可愛い女の子ならともかく、よりによって俺を観察するなんて、悪趣味過ぎるだろ」
「そうでもねぇよ。見てるうちに、お前がすげぇ可愛いのが分かってきたしな」
「……は……!?」
 とんでもない台詞を言われて、思わず臨也は素っ頓狂な声を上げる。
 が、静雄は臨也を抱き締めたまま、小さく笑った。
「さっきだってそうだぜ。俺が買ってきた杏仁プリン見て、固まってただろうが。なんで、あんな一個四百円もしない菓子で固まるんだよ」
「!」
 気付かれていたのか、と今更ながらに臨也は慌てる。
 てっきり静雄は、こちらに背を向けてDVDプレイヤーを弄っていると思っていたのに。
「媚を売るなんて気持ち悪いとか言われるかと、俺は思ってたんだぜ。だから、ケーキ屋でも散々迷ったってのによ」
「それは……怒らせるようなことは言わないって、最初に約束したからだろ。心の中では思ってたよ、シズちゃん馬鹿じゃないのってさ」
「だから、その約束をお前が守るなんて、俺は思ってなかったんだよ。ここに泊まる時も、いつお前が寝首をかきに来るかと思ってた。でも、お前は夜中に俺の近くに来ても、本当に何にもしなかっただろ」
「──気付いて、たの?」
「気付くに決まってんだろ、お前が近付いて来たらよ。まあ全然嫌な感じがしなかったから、ちゃんと目が覚めるほどじゃなかったけどな。でも、お前が近くに居るなってのは、半分寝惚けてても分かってた」
 その言葉に、一体どこまで知覚していたのかと聞きかけて、ぐっとこらえる。これ以上墓穴を掘るのはごめんだった。
「そんなの、シズちゃんの寝顔が間抜け過ぎて、殺す気が削がれただけだよ」
「でも、何にもしなかったんだから、それがお前の答えだ」
 何と臨也が憎まれ口を利こうと、静雄は動じる気配を見せない。
 そして、ぎゅっと臨也を抱き締める腕に力を込めた。

「悪かった。これまでお前をきちんと見てやらなくってよ。目を背けるばっかじゃなくて一歩踏み込んでりゃ、もっと早く分かってやれたのにな」

 笑いを消した声で、ひどく真摯にそう告げられて。
 ひくりと臨也の喉の奥が震え、目頭が熱くなる。
 鋭い刃を飲み込んだかのように、胸の奥が痛い。
「何、言ってるんだよ……俺は、別に……」
 君になんて分かってもらいたくない。そう言おうとして声にならない。
 ───シズちゃん。
 シズちゃん、シズちゃん、シズちゃん。
 その名前だけで頭の中が一杯になる。
 熱くなる目元を押さえようと、煙草の匂いのする堅い胸に顔を押し付け、ワイシャツをぎゅっと握り締める。
 その耳元に、静雄の低い声が囁きかけた。

「お前に俺の『特別』をやるよ、臨也」

 お前は俺を『特別』だと思っていてくれるんだろ。
 そう言われて。
 こらえ切れずに臨也は、きつく目を閉じる。
 ───シズちゃん。



 ───俺の、大事な、大好きな、シズちゃん。



 ずっとずっと誰よりも特別で、自分だけを見て欲しかった。
 けれど、どうしてもそれは叶わなくて、絶望しながらも執着することを止められなかった。
 静雄が自分を特別に見ることなど、決してないと思っていたのに。
 でも、そんなことは到底口には出せず、いつもの憎まれ口が衝いて出る。
「──俺を可愛いとか、シズちゃんは目が腐ってるよ」
「腐ってねぇよ」
「特別なんて言って、どうすんの。俺、しつこいよ? そんな風に言われたら、この先一生、付き纏うかもよ?」
「お前がしつこいのは分かってる。でなきゃ、八年以上も俺に突っかかってくるかよ」
「何それ。本当にシズちゃん、馬鹿じゃないの。それともマゾなの?」
「少なくともマゾじゃねえよ。まあ、お前がいいっていう時点で、馬鹿っつーのは否定しにくいし、趣味が悪いとは思うけどな」
「趣味悪くて馬鹿なんて、最低じゃん」
「……それはつまり、手前が馬鹿で趣味悪いってことだろ」
「はあ? 何で俺が……」
「俺がいいっつー時点で、手前も馬鹿で悪趣味なんだよ」
「は? 俺が一体いつ、君がいいなんて言ったんだよ!?」
「──言って……はないか。でも、言ったも同然だろ」
 つーか、これだけしがみ付いといて何言ってやがる。
 そう言われて、臨也は居たたまれなくなる。
 今すぐ離れたいが、離れたら、自分が酷い顔をしているのが見えてしまうだろう。
 どうすることもできず、そのまま固まっていると、溜息交じりに静雄が笑うのを感じた。
「臨也、顔上げろ」
 ぽんぽんとあやすように背中を軽く叩かれて、臨也は益々顔を静雄の胸元に押し付ける。
 もう一生、顔なんか上げてやるものか、と思った時。
「仕方ねぇな」
 べり、と力任せに引き剥がされ、何をするのだと臨也は、視線で殺す勢いで目の前の静雄を睨み付けた。
 しかし、静雄はまじまじと臨也の顔を見つめて、呆れたように口を開く。
「……あのな、そんな顔で睨み付けるのに、一体何の意味があるってんだ?」
 言われて、かっと頬に血が上る。
 確かに、今の自分は涙目かもしれない。顔も真っ赤かもしれない。けれど、それを指摘するのはデリカシーがなさ過ぎるというものではないか。
 そう思い、思い切り言い返そうと息を吸い込んだ時。
 ちゅ、と小さな音を立てて目元に口接けられた。

「臨也」

 鳶色の瞳に、自分が映っている。
 見つめる静雄の表情は、ひどく優しい。
 不意にそう気付いて、思考がぼやける。
 自分が何を言おうとしていたのかも忘れて、臨也はゆっくりと近付いてくる静雄の顔に、目を閉じた。
 そっと唇に温かいものが触れる。
 ほろ苦い煙草の匂いと、ほのかに残るカフェオレの味。
 けれど、ひどく甘くて、触れるだけで離れていこうとしたそれを両手を伸ばして引き止める。
 頬に手を添えて、薄く開いた唇を相手の唇にそっと擦り付け、舌先で乾いた感触を舐める。すると、すぐに静雄の舌が応えて、やわらかく絡んできた。
 優しく優しく舌を舐め擦り、くすぐるように上顎を撫で、歯列をたどる。
 ただの粘膜の触れ合いであるのに、それがどうしようもなく気持ちよく、幸せで、臨也は静雄の首筋に両腕を伸ばし、しがみ付く。
 そして、酸欠になりかけたところで長い長いキスが終わり、臨也はゆっくりと目を開いた。
 自分を見つめる、鳶色の瞳。
 午後の日差しを受けて、淡くキラキラと輝く金の髪。
「──シズちゃん……」
 名前を呼ぶと、何だというようにまばたきが返る。
 それに、何でもない、と小さく答えて臨也は静雄の肩口に顔を埋める。
 静雄ももう何も言わず、その大きな手のひらで、ゆっくりと背中を撫でてくれて。
 その感触に、臨也はそっと目を閉じた。

*               *

「じゃあな」
「うん……」
 明日は仕事が早いから、と改めてマクロスのDVDを見ながら夕食を食べ終えた時点で、静雄は辞去を告げた。
 いつも静雄は食事時を外して訪れ、泊まった時も朝食は食べずに帰っていっていたから、一緒に食事をしたのはこれが初めてだっただけに、妙に寂しくて、臨也は自分の気持ちを持て余す。
 だが、そんな思いは押し殺して玄関まで静雄を見送った。
 そして臨也の見つめる前で、静雄は出て行くべくドアノブに手をかけて、ふと動きを止める。
「シズちゃん?」
「あー、あのな、臨也」
「?」
 珍しく言葉をよどませて、静雄は臨也を振り返る。
 どうしたの、と小さく臨也が首をかしげると、静雄は言葉を選び選び、告げた。
「いつでもメールとか電話、してこいよ。自分一人で、あれこれ溜め込むんじゃなくて、言いたいことがあったら全部言え。これからは、ちゃんと聞いてやるから」
「……シズちゃん」
「昼間も言ったけどな。ちゃんとお前のこと、考えってっからよ」
 真面目に言われて。
 臨也は内心で、ひどく困る。
 自分のことを特別に見て欲しかったが、いざ、叶わないと思っていたそれが現実になってしまうと、どう対応すればいいのか、さっぱり分からない。
 分からないまま、いつもの調子で言い返す。
「……シズちゃんがそんなこと言うなんて、なんか気持ち悪い」
「──手前なぁ…」
 臨也の憎まれ口に眉をしかめたものの、しかし、キレはせず、溜息をついて腕を伸ばし、ぽんと臨也の頭を撫でた。
「ま、いいさ。手前はそういう奴だもんな」
「──それ、どういう意味だよ」
「まんまだろ」
 それじゃあな、と小さく笑って、静雄は出て行く。
 いつものようにバタンとドアが閉まるまで、その後姿を見送って。
 臨也はその場にしゃがみこんだ。
「はー……」
 本当はもう一度キスして欲しかったのに、なんて、我ながら馬鹿過ぎる。
 けれど。
 静雄はキス以上の言葉をくれたのだ。
 ちゃんとお前のことを考えていると。
 お前はそういう奴だから、それでいい、と。
「馬鹿だろ、シズちゃん」
 趣味が悪いにも程がある。
 馬鹿過ぎて、また一つ、好きにならずにはいられない。
 次はいつ会えるのかな。本当に電話とかメールとかしても嫌がらないのかな。
 そんなことを思いながら、その場にしゃがみこんだまま、幸せ過ぎて臨也は少しだけ泣いた。

End.

以上、3部作完結。
シズちゃんが大好きなのに、それを表に出せない意地っ張り臨也を泣かせるのが大好きです。

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