桜慕情
何故こうなったのだろう、とベッドに横たわったまま臨也は考える。
情事の後の身体は気だるく、布団の温もりが心地よいような鬱陶しいような微妙な気分が全身を支配している。
「ねえ」
シングルサイズの狭い布団の中、もう一人いる自分ではない存在へと声をかける。
けれど、その後の言葉が続かない。
責めたいわけではない、と思う。
かといって、何も言うべきことがないというわけでもない。
ただ、胸の内に立ち込める思いをどういう言葉にすればよいのか、分からない。
そしてまた、その声を聞いた静雄も、臨也に先を促す言葉を持たなかった。
言いたいことはあるように思う。
だが、何一つ言葉にならない。
ずっとそれの繰り返しで、何度共に夜を過ごしても、何一つ言えた試しはなかった。
高校入学以来の仇敵同士である平和島静雄と折原臨也の関係が変わったのは、つい春先の話だった。
桜に惑わされたのだ、とその時のことを臨也は分析している。
静雄もまた、桜に中(あ)てられて気がおかしくなっていたのだ、と思っている。
そうでなければ、こんなことになるわけがない。
満開の桜に惑わされて、仇敵を目の前にしてもナイフを抜くことができず、或いは殴りかかることができず、棘のない言葉を交わし、あまつさえ、花を見上げながら酒まで酌み交わして。
互いにやわらかく酔いが回ったところで、目と目が合い、何かが崩れた。
崩れた、としか言いようがない。
相手の鳶色の瞳に映る自分の姿から、臨也は目を離せなかった。
そして、静雄もまた、臨也の紅を帯びたセピアの瞳から目を逸らさなかった。
そうしてまなざしをぶつけあった数秒後か、数十秒後か。
今度は唇が重なっていた。
部屋に来るか、と先に切り出したのは、静雄の方だった。
臨也もまた、行く、とすぐにうなずいた。
何を考えていたのか、あるいは何に取りつかれていたのかは、互いに分からない。
だが、狭い部屋の薄い布団の上で、二人は他のことなど全て忘れて抱き合った。
形容するならば、おそらく無我夢中で。
「ねえ」
「何だよ」
もう一度呼べば、愛想のない声が返る。
不機嫌そうに聞こえるが、不機嫌ではない。少なくとも怒りは込められていない。むしろ困惑している、と臨也の鼓膜は聞き分けた。
そう、きっと同じなのだろう。この現状に戸惑っているのは。
どうすれば良いのか、分からずに立ち尽くしているのは。
「俺達ってさ、何なの」
同じ、という感覚が、その言葉を唇に上らせた。
これまで何度も口にしかけて、躊躇った台詞。
出してみれば、あまりの陳腐さに嫌気が差す。
だが、他に何と言えば良いのか、分からなかった。
数秒の沈黙の後、静雄はゆるりと動いた。
仰向けに横たわっていた長身を起こし、臨也の身体の両脇に手をついて、覆いかぶさるように上から臨也を見下ろす。
威圧的な角度ではあったが、臨也がそうとは感じなかったのは、静雄の顔もまた、ひどくしかめられていたからだった。
「そんなのは、俺が知りてぇよ」
街中で出会えば殺し合い、なのに時折、こうして身体を重ねる。
その一貫性のない関係をどう呼べばいいのか、互いに分からなかった。
世間にはセックスフレンドという簡単な言葉もあるが、自分たちの関係は決してそこには収まらない。
その単語におそらく含まれているだろう、後腐れのなさ、というものが二人の間にはなかった。
執着。
そうとしか呼べないものが、互いの間にはある。
嫌いならば目を逸らせばよいものを、互いから目を離すことができない。
街を歩けば姿を探し、後を追う。
心の中には、常に互いの姿がある。
そんな自分たちが、単なるセックスフレンドであるはずがない。
だが、ならば何だというのか。
その答えを互いに見つけられないでいる。
静雄の身体の下、組み敷かれた臨也はひどく不安定な目で見上げていた。
透明感のある瞳の中で、色とりどりの感情が揺れている。
何故。
どうして。
俺たちは一体、何。
静雄を責めているのではない。ただ出口を求めてもがいている。
静雄と同じように。
「糞っ……」
短く吐き捨てて、静雄は細い体を腕に抱き込む。
重なった肌がひどく温かかった。
だが、その温かさが心を乱す。
不安定に揺れて、どうしようもなく答えが欲しくなる。
自分たちは一体何なのか、と。
短い言葉と共に抱きすくめられた臨也は、重なった胸の温かさに静かにまばたきした。
抱き締め離さない、ということは、静雄にとってこの行為は不快ではないのだろう。
そして、振り払わない臨也にとっても、この行為は不快ではない。
むしろ、もっと欲しい、という思いが心の一番奥底から湧き上がる。
この温もりが、この重みが。
もっと欲しい。
もっと、叶うならば、この互いの物思いすらも壊れるほどに。
「シズちゃん」
その名前をそっと唇に上らせ、臨也は両手をゆるりと上げて温かな背中を抱き締める。
そして、泡が水中から光目指して浮かび上がるように、もしかしたら、と思った。
今の自分たちがそれぞれに抱える混乱が、もし等しいものであるのならば、抱えている思いも、もしや等しいのではないか。
そんな考えが不意に飛来して、臨也は抱き締める手に力を込める。
「シズちゃん」
「……何だ」
「俺は、桜に惑わされたわけじゃないんだよ」
すっと夜の空気に溶け込むような声で、臨也は告げた。
「君は覚えていないだろうけれど。来神に入学したばかりの頃、俺は、桜の花吹雪の中に立っている君を見た」
その言葉に、静雄はぴくりと反応した。
「それ……いつの話だ」
「だから、入学式の直ぐ後だよ。桜が散り切る前」
「どこで」
「第二グラウンド。君が初めて、あそこで喧嘩した日のことなんて、覚えてなくても仕方がないけど」
覚えている、と静雄は思う。
そう、桜が咲いていた。咲き切り、散り始めていた。
覚えている。
忘れられるはずが無い。
「学ランを着た連中だっただろ。初めて、手前が差し向けてきた連中は」
そう言われて。
臨也は目を見開く。
と、腕の中の静雄がゆるりと動いて、ぴったりと重なっていた胸がわずかに離れる。
カーテンを閉め忘れた薄明かりの中、二人の視線がひたと合った。
「お前もあの時、近くに居ただろ。お前の後姿を、あの時、見た」
「……見た、の?」
「ああ」
互いの脳裏に、あの日の光景が蘇る。
静雄は、桜の花の舞い散る中で、金の髪をきらきらと光らせながら、やり場の無い怒りに打ち震えていた。
臨也は、桜の花の舞い散る中で、春の陽射しに照り映える漆黒の髪を風に遊ばせながら、その場を立ち去っていった。
忘れられるわけが、ない。
互いは、ただ互いの目の中に映る自分を見つめる。
そこに映る自分は、見たこともない一途さで、そして、何かに酷く飢えていた。
何かを、必死に請うていた。
永遠に感じられるような沈黙の中、先に動いたのは静雄だった。
ゆっくりと上げられた右手が、臨也のやわらかな黒髪をさらりと梳く。
「シズちゃ……」
「ずっと、こうしたかったんだ」
その言葉に、臨也は目を見開いた。
待って、俺にも言わせて。
そう思い、口にするよりも一瞬早く、静雄が続ける。
「あン時、お前の黒い後姿と、桜の花びらがすげー綺麗で、」
その時から、本当はずっと、この髪にこうして触れてみたかった。
そう言いかけた静雄の唇を、臨也の指先が押さえて制する。
「あの時のシズちゃんも、花吹雪の中ですごく綺麗だった。金の髪がきらきら光ってて、王冠みたいだった」
互いに、何年も胸の奥で堰き止められていた言葉を唇に上らせて。
二人は、呆然と互いを見つめる。
綺麗だと思った。
触れたかった。
それが、互いの抱える真実だとしたなら。
この九年という時間は、一体何であったのか。
互いに向け合った、嫌悪は、憎しみは、殺意は。
そこに込められた意味は。
笑えなかった。
これが他人事であったなら、臨也は腹の底から笑っただろう。
静雄も、何をやってるんだと呆れた苦笑を浮かべただろう。
だが、笑えない。
笑えるはずが無かった。
目の前に横たわる年月に打ちのめされ、初めて明らかになった真実に驚き戸惑うしかない。
綺麗だと思った。
触れたいと思った。
自分だけのものにしたいと思った。
その願いが自分だけのものではないと知った今、一体どうすれば良いのか。
呆然と互いを見つめ、互いの瞳に映る自分を見つめる。
そしてまた、互いが同じ表情をしていることに気付いて。
どちらともなく、静かにまばたきした。
そのまばたきをきっかけのように、静雄の背に回されたままだった臨也の両腕がゆるりと動いて、首筋にまで上がる。
静雄もまた、その動きに応えるようにゆっくりと身を沈めた。
互いの胸がぴったりと重なり、スローモーションのように唇が重なる。
静雄も臨也も、互いの身体をかき抱いて、ただ相手の熱を求め、無心に口接けた。
初めて二人が抱き合った、あの夜のように、ひたすらに我を忘れて。
呼吸が途切れかけたところで、やっと唇を離して、ゆるゆると目を開く。
そうすれば、また互いの瞳に自分の姿が映っていた。
目を見交わし、そしてまた、二人は互いを抱き締める。
言葉など、もう役には立たず。
ただ、二人の閉じたまぶたの裏で、あの日の桜が音もなく輝きながら舞い散っていた。
End.
桜の季節には、少し早いですが。
BGMは、渡辺美里の『卒業』で。
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