MOONLIGHT CITY
【田中太郎】 「そういえば先日、あの平和島静雄さんとすれ違ったんですけど」
【セットン】 「彼がどうかしたんですか?」
【甘楽】 「えー、あの人って池袋なら、どこにでも出没してるじゃないですかー。何でもかんでも手当たり次第に投げたり壊したり……ホント、怖いですよねぇ、もう公害の域ですって」
【田中太郎】 「いえ、それがその時は違ってて。以前に平和島さんを刺したっていう人との遭遇の場面だったんですけど」
【セットン】 「ええ!?」
【甘楽】 「キャーッ!! 殺人!? 殺人現場ですか!?」
【セットン】 「ど、どうなったんですか、その人!?」
【田中太郎】 「普通、血の雨が降ることを予想しますよね? それが僕も驚いたんですけど、平和島さん、いいってことよ、の一言で許しちゃったんですよ」
【甘楽】 「えー何ですかそれー?? アルマゲドンの宣告? それとも地球滅亡の日到来??」
【セットン】 「……本当に? それで済んだんですか?」
【田中太郎】 「済んじゃったんですよ、本当に。その加害者だった人が、悪かったって頭を下げたからじゃないかと思うんですけど」
【田中太郎】 「むしろ、その直前に、その元加害者が女の子を悪い奴からかばったんで、平和島さんはそっちの方を褒めてました」
【セットン】 「いい奴なんだと思いますよ、キレやすいのは確かみたいですけど」
【甘楽】 「えー、なんか信じられなーい。自動喧嘩人形らしくないですよぅ」
【田中太郎】 「でも本当なんですよ。目の前で見てましたから」
【甘楽】 「でも、やっぱり怖いですよぅ。あんな人、見かけたら瞬間的に逃げちゃいます。ガクブル」
【田中太郎】 「そんなに怖がるってことは、甘楽さんには何か後ろめたいことがあるとか(笑)」
【甘楽】 「ありませんよ!! こんなにも清く正しく美しい甘楽ちゃんに対して、なんという暴言!! プンプン」
【田中太郎】 「すみません、そっちの方が余程信じられません(笑)」
【甘楽】 「ひっどーい!! ひっどいですよぅ。もーいいです。オチちゃいますからね! 引きとめようとしても無駄ですから!!」
【田中太郎】 「あ、はい。おやすみなさい」
【セットン】 「おやすみなさい」
──甘楽さんが退室されました。
キーボードを操作する手を止めて、臨也は溜息をついた。
今夜はチャットに上がるべきではなかった、と思う。だが、よりによって平和島静雄の話題が出てくると、どうして予想できるだろう。
後でこのログは消してやる、と思いながら、臨也は画面を睨みつける。
「シズちゃんのトリ頭なんて、今に始まったことじゃないけどさ」
あの男は昔から単細胞なのだ。相手が害意を持って接すれば暴力で返し、優しさを向けられれば戸惑いつつも不器用な笑みを見せる。
暴力には暴力で、好意には好意で。
まるっきりハンムラビ法典だ。どこまでも分かりやすい。
その単純さが、臨也は昔から大嫌いだった。
「いつもいつもそうなんだよね、シズちゃんは。どんなに悪意を向けられても、すぐに忘れてしまうし、相手が本心から謝れば、簡単に許してしまう。シズちゃんの中には、何にも引っかかりやしないんだ」
無論そこには、常に暴力にさらされている以上、いちいち相手を記憶していたら精神的にもたないという自己防衛も働いているのだろう。
並の人間より遥かに沸点の低い静雄が、一時でも精神の平穏を得るためには──毎晩安らかに眠るためには、その場限りで喧嘩相手のことなど忘れるしかないのである。
といっても記憶障害が起きているわけではなく、相手の顔を見れば思い出す、その程度の軽い忘却でしかない。極々健全な脳神経の反応だ。
だが、臨也はそれが許せなかった。
───生半可な攻撃をしただけでは、あっという間に忘れられてしまう。
───一度や二度の攻撃では、彼が「腹が減ったな」と考えた瞬間に忘れられてしまう。
そんな強迫観念に襲われるようになったのは、いつの頃からか。
常に彼がもっとも嫌がる形での攻撃を仕掛けていなければ、自分の存在など、彼の中で瞬く間に抹殺されてしまう。
そして彼は、振り返りもしないし、思い出しもしない。
高校時代に知り合って間もない頃、そのことに気付いた臨也は、静雄を心底憎いと思った。
自分は彼を潰すために毎日毎晩、策を巡らせているというのに、彼は帰宅する頃には臨也のことを忘れ、毎晩惰眠をむさぼっているのだ。
一体どうして、そんな不公平が許されるだろう。
以来、臨也はそれまでにも増して、静雄に対する攻撃を絶やさなくなった。それがエスカレートして、高校の校舎内にガソリンの詰まったドラム缶を運び込んだことさえある。
だが、それでも、静雄は臨也のことを特別に嫌うようにはなったものの、臨也の方を向こうとはしなかった。
とにかく視界から追い払おう、あわよくばノミのように潰そうと追ってくるだけで、臨也の言葉になど耳を傾けもしない。
そして、決して変わらない静雄の態度に、さすがの臨也も疲れ果て、虚しさを感じて一計を案じたのが、数年前の冤罪事件だ。
それまで臨也は、常に悪意に満ちたちょっかいをかけつつも、静雄がやっと見つけた職を失ったり、警察沙汰やヤクザに目をつけられるような形での嫌がらせはしなかった。静雄の職場には近寄らないようにしていたし、あくまでも殺し合いは二人だけのものだったのである。
だが臨也は、静雄を無実の罪に陥れるために、敢えて二人の間にあったその暗黙のルールをも踏みにじった。
おそらく静雄は気付いてはいないだろうが、あの冤罪事件は、臨也にとっては宣戦布告だったのだ。
これからは今までとは違う手段でゆく、場合によっては社会的に追い詰めることも厭わない。そう肚を決めたのである。
同時にそれは、臨也自身が相応のリスクを負うということでもあり、現に、少し前には策を練り過ぎて粟楠会との関係がおかしくなりかけたが、それも仕方がないことと割り切っている。
だが、それでも……そこまでしても、静雄は変わらないのだ。
むしろ最近では、臨也の策を逆手に取るかのように、周囲に人を集めている。
今、彼の周囲にいるヴァローナも茜も、元はといえば臨也が静雄との接触を持たせたのだ。なのに彼女たちは、静雄を傷付けるどころか、慕っているようにさえ見える。
「シズちゃんのくせにモテ期到来なんて、生意気だよ」
どこで失敗したのだろうか、と思う。
静雄を孤立させるはずが、臨也が策を巡らせれば巡らせるほど、静雄は孤独から遠ざかってゆく。
かつての彼には家族しかいなかったはずなのに、臨也が動いた結果、田中トム、ヴァローナ、茜、更に最近では正臣、帝人、杏里と彼を恐れない少年少女たちが、一人また一人と増えてゆき。
そして、その人の輪の中で、静雄は相変わらず、輪の外にいる臨也のことは見ないのだ。
彼らの言葉には耳を傾け、自然な笑顔を向けるのに、臨也に対しては相変わらず、嫌悪と怒りのまなざししか向けない。
───否、一度だけ。
一度だけ、その法則が破られたことがあった。
その時のことを思い出しかけて、臨也小さく頭を振る。
あの一夜というか一日というべきか、あの時間と空間については考えたくなかった。
ましてや、その際に静雄が吐いた台詞など思い出したくも無い。
あれは、あってはならない時間だった、間違いなく。
「大嫌いだよ、シズちゃんなんて」
早く死んでくれないかな、とお決まりの台詞を吐いて。
臨也は、茶でも煎れようと立ち上がった。
* *
そこに立ち寄ろうと臨也が思ったのは、ほんの気まぐれだった。
仕事に一段落がついて、珍しく翌日には予定がない。そんな夜にはDVDをレンタルして帰るのも悪くないかと思いつき、池袋駅東口と新しい事務所の中間点くらいにあるレンタルショップに足を向けた。
そして、程々に客の入った店内を眺めながら、旧作洋画のコーナーに足を踏み入れて。
「──シズちゃん?」
思いもかけず、金髪バーテン服に遭遇して臨也は目を丸くする。
「……何か臭うと思ったら、やっぱり手前か」
顔をこちらに向けた静雄も、同時にサングラスの向こうの目を眇(すが)めた。
ゴキリ、と指の関節を鳴らす音に、臨也は慌てて言い逃れを試みる。
「ちょっと待ったシズちゃん! 俺はもう帰るところなんだよ。二、三本見繕ったら退散するから、見逃してくれないかな」
「聞こえねえなぁ」
「聞こえないんじゃなくて、聞く気がないんだろ。日本語は正しく使ってよ。っていうより、マジで今日は俺、君とはやり合うつもりで来てないからさぁ」
「手前のつもりなんざ、知ったこっちゃねえんだよ。手前だって、いっつも俺の都合なんざ、お構いなしだろうが」
獲物を目の前にした獅子のように、ゆったりと破壊力に満ちた足取りで静雄が臨也との距離を一歩一歩詰める。
これを説得するのはやはり無理かと、店の出入り口までの距離を測りつつ、ナイフを袖口の隠しから取り出しかけたその時。
悪魔の囁きのように、臨也の脳裏でそれが閃いた。
「ねえシズちゃん、どうせなら今夜は殺し合うんじゃなくて、うちで一緒にDVDを見る気はない?」
その言葉の意味を深く吟味するよりも早く、よく回る舌が口走る。
そして。
「は…ぁ……?」
「あ……」
思わず臨也は、呆(ほう)けた瞳を静雄と見交わした。
一体今、自分は何を口走ったのか。
「手前……」
向かい合う静雄もまた、何かとてつもなく珍しいものを目にしたかのように戸惑い、驚いた瞳で、臨也を見下ろしてくる。
その視線に、臨也は何故か酷く慌てた。
「だから! 君が言ったんだろ。『普通』にしてみろって」
「……確かに言ったけどな。手前はあんなに嫌がってたじゃねぇか。そんなことできるもんかっつったの、覚えてるぞ」
「俺だって覚えてるよ。今でも思ってるさ。でも、人間には好奇心ってものがあるんだよ」
自分でも何を言っているのか分からなくなりながらも、臨也は必死に論理が破綻しないように言葉を紡ぐ。
「俺は君を潰すために、君のことは何だって知りたい。その知りたいうちに、俺が『普通』にしたら君がどんな反応をするのかっていうことが含まれるのが、そんなにおかしいかい?」
「──おかしかねぇかもしれねえが、胡散臭ぇ」
「だから! 今ここで俺に下心があるかどうかくらい、君には分かるだろ!」
苦し紛れにそう言うと、サングラス越しの視線が不躾なほどに臨也を見つめてくる。
静雄と向かい合うのは日常茶飯事なのに、ひどく居心地が悪く、何故だろうと考えて、臨也は、下心を持っていないからだ、と気付いた。
静雄が嫌悪の表情と共に断ることを前提に吐いた言葉でもないし、自宅に何らかの仕掛けをしてから誘いかけた言葉でもない。
何の計算もなく口走ってしまったからこそ、そのことが気持ち悪い。
その居心地の悪さに、今のやっぱ無し、と言いかけた時。
「マジで下心はなさそうだな」
どこか感心したような声音で言われて、臨也はタイミングを逃す。
そして考えるように、静雄は右手を首筋に当てて後ろ髪を掻き揚げた。
「──いいぜ」
低く短い承諾の言葉に、思わず臨也は、まじまじと静雄を見つめる。
「シズちゃん、本気?」
「先に誘ったのは手前だろうが。取り消して、ここで殺し合いすんのなら、俺はそれでも構わねぇんだぜ」
「シズちゃんって暴力嫌いって言う割には、俺に対しては暴力を振るうのを躊躇わないよね」
「手前はノミ蟲だからな。今更遠慮なんかするかよ」
「はは、とんだ特別扱いだよね。どうせ殺し合ったって、寝る前には忘れちゃうくせに」
「手前みたいなノミ蟲のことなんざ、一秒だって余計に覚えてたくなんかねぇからな」
静雄にしてみれば何気なく告げた一言だろう。
だが、その一言が臨也の心の奥底でいつも燻っている炎を煽り立てた。
───一秒だって余計に覚えていたくないだなんて。
そんなことは、絶対に許さない。
絶対に許せない。
「──取り消さないよ」
「あぁ?」
「うちに来いって話。いつもと同じになんかしない」
してたまるものか、と肚に決意を据えながら、臨也はきっぱりと告げる。
「約束するよ。今夜、一緒にDVDを見る間は俺は何もしない。シズちゃんを怒らせることも言わない。だから、シズちゃんもキレない努力をしてよ」
「──俺はさっき、いいぜって言ったよな」
「うん、そうだね」
応じ、臨也は大きく深呼吸して息を整える。
そして、真っ直ぐに静雄を見つめた。
「それじゃあさ、DVD選ぼうよ。それぞれ1本ずつ。相手が選んだものには文句を言わないこと」
「分かった」
静雄もうなずき、再び臨也が旧作洋画コーナーに入ってきた時のように棚に向き直る。
その横顔から目を逸らし、臨也も、どうしてこうなったのかと自問しつつ、目の前に並ぶ洋画のタイトルを眺めやった。
* *
臨也が静雄を連れて帰ったのは、本来帰るつもりであった池袋の新しいマンションではなく、新宿のマンションだった。
池袋は新しい拠点というだけで、こちらが現在の本拠であることには変わりない。いずれ本格的に池袋に戻ることかもあるかもしれないが、それは今ではなかった。
そして、仕事の都合上、少なくとも二日に一度以上はここに足を踏み入れているために生活感は薄れてはおらず、静雄を連れ込んでも彼に怪しまれる心配もない。
彼を室内まで立ち入らせたのは初めてだったが、それが暴力をもって上がりこまれたのでもなく、謀略の結果誘い込んだわけでもないのが、我ながら不思議だった。
そして、その不思議さは今夜は消えることなくついて回るようであり、自室のリビングセットで寛ぐ静雄というシュールな構図に言い難い違和感を覚えながら、臨也はレンタルショップの袋の中からDVDを取り出した。
「シズちゃんがチャップリンなんて、ちょっと意外過ぎ」
「おかしいかよ」
「笑ってるわけじゃないよ。どうしてかって思っただけ」
「……うちの親父が好きなんだよ。だから、子供の頃から時々見てた」
「そうなんだ」
それは想像もしなかった、と心の底から思いながら、臨也はDVDをケースから出してプレイヤーにセットする。
静雄の潰し方を考えたことは散々にあるが、子供時代を想像したことは殆ど無いといっていい。そんな過ぎ去った事柄には何の興味もなかったからだ。
無論、家族構成や、通った幼稚園や小学校の名前、交友関係くらいは基礎知識として把握している。だが、それらはあくまでも単なるデータの域を出なかった。
「『町の灯』って、目の見えない花売り娘との話だっけ?」
「ああ」
臨也は、この作品そのものを見たことはなかった。『モダンタイムス』と『独裁者』は、子供の頃にテレビの洋画劇場でやっていたのを見た覚えはあるが、『町の灯』はチャップリンの代表作として題名とあらすじを知っているだけである。
だからこそ、レンタルショップのレジでこれを渡された時、驚いたのだ。
「シズちゃんは、もっと派手で分かりやすい大作映画が好きかと思ってた。大画面で大爆発してるとスカッとしない?」
「そういうのも嫌いじゃねえけどな。昔の映画の方が面白ぇよ。ジャッキー・チェンのCG使ってない若い頃のとかよ。マジですげえと思う」
「普通はそういうのって、俺たちの世代はあんまり見ないよね。やっぱりお父さんの影響?」
「だろうな。うちの親父は、とにかく古い映画が好きなんだ。子供の頃から、テレビの洋画劇場とかを録画したビデオが色々あって、俺も幽もそれ見て育った。あいつが役者の道を選んだのも、それが影響してるのかもしんねぇな」
「へえ」
静雄が家族のこと、ましてや大切にしている弟の名前を臨也の前で出すなど、まさに青天の霹靂、破格の椿事だった。
一体何が起きているのだろうと思いながらも、臨也は大人一人分の空間を空けてソファーに腰を下ろした静雄の隣りで、やっと始まった映画の本編へと意識を集中させる。
『町の灯』は、一言で言えば、綺麗で切ない恋物語だった。
懸命にもがき、誰かのために必死に頑張る。不器用で温かな、人間の感情を描いた話だった。
もし一人でこの映画を見ていたのならば、臨也は散々に画面に向かって突っ込みを入れただろう。チャップリンの無様といってもいいような必死の努力を愛でる一方で、鼻で笑い、皮肉ったに違いない。
だが、今はただ黙って、台詞のないモノクロの画面を見つめていた。
そして、最後のクライマックスシーン、チャップリンが必死に作った大金のおかげで目が見えるようになった花売り娘が、花を手渡した時の感触で、チャップリンがいつも自分から花を買ってくれていた青年であること、自分の恩人であることに気付くその場面を眺めた後、臨也はそっと静雄へとまなざしを向けた。
映画館の雰囲気を出そうと、天井の照明は暗く絞ったスポットのみで、カーテンのない窓からの街明かりと淡い月明かり、そして大画面の液晶からの青い光が静雄の横顔を照らし出している。
じっと画面に見入るその横顔。
サングラスを外した素のままの目に、
───うっすらとほんのかすかに涙が滲んでいた。
思わず臨也は息を呑み、咄嗟に目を逸らす。
見てはいけないものを見てしまった気がして、ひどく心臓が跳ねる。
画面に集中していた静雄は気付かなかったのだろう。そのまま何事もなく画面がエンディングロールに入ったのを一分ほど見届けてから、臨也は立ち上がった。
「飲み物入れてくるよ。結構長かったね」
そうとだけ告げて、キッチンへと向かう。
そしてケトルを火にかけ、かすかに震える手をシンクに突いた。
───確かに切ない映画だった。
人によっては、愛おしい、とも形容するだろう。
だが、陳腐な感情だ。愛する者のために何かしたい。誰でも考えることだ。
なのに。
あの池袋の自動喧嘩人形が。
臨也の基準に照らし合わせれば人外の化け物が。
───涙、を。
在り得ない、と唇を噛む。
あの化け物がそんな感情を持っていてはいけなかった。
そんな人間のような感情を持っていては。
それこそ映画の中の怪獣のように、人間などその感情も考慮せずに踏み潰してくれなければ。
───けれど。
あの横顔と、涙、は。
「!」
エンディングロールに重ねてメインテーマが流れるだけの室内の静けさを破るように、不意にケトルが高い音を立てる。
我に返った臨也は急いで火を止め、ケトルの湯をドリップに細く注いだ。
細引きの豆を十分に蒸らしてから、丁寧にドリップを落とす。そうしてからミルクパンに牛乳を注ぎ、鍋肌に細かく泡が立つまで温め、大き目のマグカップを二つ食器棚から下ろして、二杯分のカフェオレを入れる。
片方にだけ、スプーンに山盛り一杯分の砂糖を溶かし込み、それから二つのカップを手にリビングへと戻った。
「はい。砂糖が足らなかったら、あっちにあるから自分で入れてきて」
そう告げながら砂糖入りのカップを差し出すと、少し驚いたような顔をしてから静雄は受け取り、くん、と匂いをかいでから、そっと口に含んだ。
「……美味い」
一口を飲み干し、どこか感慨深い口調で低くそう告げられた瞬間。
ざわりと背筋が総毛立つような感覚に臨也は襲われる。
だが、それを押し隠し、口に合ったのなら良かった、と短く応じた。
そしてソファーに腰を下ろし、自分もカップに口をつけながら、ちらりと見やると、静雄の目元は既に乾いていて。
先程濡れているように見えたのも、もしかしたら只の錯覚だったのかもしれない、と思ったが、それにしては自棄に瞼に焼き付いている。
あれは何だったのだろう、と考えていると。
「でも久々に見たぜ、チャップリンの映画」
不意に静雄が口を開いた。
「……そうなの?」
「つか、映画自体、レンタルでも見るのが久しぶりだ。嫌いじゃねえんだけどな、なかなか借りに行くタイミングが取れなくてよ」
「まあ、それはあるかもね。映画だと、せめて二時間くらいの纏まった時間がないと最後まで通して見られないし、借りたら返しに行かなきゃ行けないし」
「ああ。だから半年振りくらいだ、俺があの店に行ったの。明日は休みだから、のんびり映画でも見るかと思ったら、手前なんかに遭遇しちまうしよ」
「……ここまで来ておきながら、随分な言い草だね。でも、俺だってレンタルは三ヶ月ぶりくらいだよ。ネットで動画見ることの方が多いから」
「まあ、そんなもんかもな」
仕事してるとよ、そんな風に呟いて、静雄はカフェオレを啜る。
それは酷く奇妙な感覚だった。
夜更けの自分の部屋で、手を伸ばせば届きそうな距離で静雄がソファーに寛ぎ、自分が入れたカフェオレを飲んでいる。
いっそこれはタチの悪い悪夢だとでも言われた方が、まだ納得できた。なのに現実なのだと思うと、比喩でも何でもなくめまいを感じる。
どうしてこんなことになったのか。
どれ程考えても分からない謎に嫌気が差し、臨也はマグカップを置いて立ち上がる。
そして、DVDプレーヤーを操作してディスクを入れ替えた。
「ショーシャンクの空に、って題名は見たことある気がするんだけどな」
「まあ、それなりにヒット作だからね。俺もタイトルは知ってたし、何となく気になってたけど、見てない映画の一つだよ」
筋書きは何と言うこともない話だ。
とある刑務所で、囚人たちの間で起きた出来事。檻の中で、一人の男が何人もの人間の運命を少しだけ変えた。
今から十数年前に作られた映画だが、何となく興味を惹かれ、でもこれまで見ずにきた。それを手に取ったのは、認めたくはないが、静雄と見る、という意識が動いたからだろう。
二人で肩を並べてコメディーを見たいとは思わなかったし、恋愛ものは論外だ。そして、長過ぎる大作も間が持たなくなる気がした。
そうして残る選択肢は、ほどほどの良作か、サスペンスか、アクションか。
迷いつつ、アクションものはあまり好きでない臨也が手に取ったのは、原作が中々に面白かったサスペンス作品の『依頼人』と、ヒューマンドラマの『ショーシャンクの空に』だった。
サスペンスの方が本当は好みだが、静雄と二人でとなると、やはり緊迫感が重荷になるような気がして、最終的に『ショーシャンクの空に』を選んだのである。
いつもなら彼との間に流れる緊迫感は臨也の楽しみの一つなのだが、屋内の二人きりの空間でとなると、そのうち耐え難くなって、つい静雄の気に障ることを口にするか、ナイフを突きつけるかしてしまいそうな予感がしたのだ。
何もしないと最初に明言した以上、それは避けたかった。
そして、画面上に映し出されたイントロダクションを、臨也は痛いほどに直ぐ傍の静雄の存在を意識しながら、黙って眺めた。
* *
静かに映画は終わり、ほうと溜息をついて。
臨也は、おもむろに目線を上げて時計の針の位置を確認する。
「ねえ、シズちゃん」
「あぁ?」
「終電の時間、過ぎてるけど、どうするの?」
「は?」
間抜けな声を上げた静雄は、ポケットから携帯電話を取り出し、時刻を確認して目を丸くする。
「ちょっと前に気付いてたんだけどね。シズちゃん、映画に集中してたし、その気になれば歩いてだって帰れない距離じゃないし、明日は休みだっていうし。だから黙ってたんだけど」
「……言えよ、そういうことは」
低い声で静雄はうなったが、しかしキレはしなかった。臨也があまり皮肉な言い方をしなかったからだろう。その辺りの加減は、臨也も分かっている。分かっていて、いつもは大きく踏み越えているのだ。
そして臨也は、渋い顔をしている静雄を横目で見やりながら、何の感情も込めず、呟くように淡々と告げた。
「外の気温、下がってきてるみたいだし。ソファーでいいんなら泊めてあげるけど」
「は…あ?」
それこそ鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした静雄が、まじまじと見つめてくる。
その視線に、臨也は頬杖を突いたまま、小さく肩をすくめた。
「この間の借りを返すいい機会だろ。何の下心も企みもないよ。誓ったところで君は信じやしないだろうから、誓わないけど」
「───…」
臨也の言葉に、丸く開いていた静雄の目が、真偽を確かめようとするかのように細められる。
その視線に、臨也は表情を全く動かさなかった。
いつもの嘲るような笑みもない変わりに、親愛の欠片もない、本当の無表情だ。こんな顔を静雄に向けたことは、おそらくこれまでにない。
否、静雄だけではなく誰にも見せたことはない。
偽りはしても演技をすることは止めた、これは素の表情の一つだった。
それをどう読んだのか。
静雄は右手を挙げて、くしゃりと後頭部の髪を掻き揚げる。
「……気が変わったとか言って、夜中にナイフで刺してきたら殺すぞ」
「しないよ。言っただろ、今日は『普通』にするって」
「もう日付は変わってるだろうが」
「子供みたいな揚げ足取りしないでよ。じゃあ、言い方変えるよ。君がここを出て行くまで。それでいい?」
「───…」
静雄がうなずくまでには、長い間があった。
だが、それでも。
「分かった。泊めてくれ」
「──うん」
真っ直ぐに目を見つめて言われた言葉に、臨也もまた、目を逸らさずにうなずいた。
風呂は帰ってから入る、と静雄が断ったため、寝支度は簡単なものだった。
所詮、一泊するだけのことだから、未使用の歯ブラシと洗濯したてのタオル、それから予備のふかふか毛布を提供すれば、他に必要なものは見当たらない。前回、発熱した臨也が静雄にかけた面倒に比べれば、取るに足らない手軽さだ。
看病はシズちゃんが勝手にやったことだし、別に恩義に感じたりなんかしてないけど、と思いつつも、臨也はプライベート空間である二階に上がり、手早くシャワーを済ませて自分も寝支度を整えた。
そして、自分も寝てしまおうと寝室に向かいかけて、ふと足を止め、照明を落としたメゾネット式の階下を覗き込む。すると、薄明かりの中にソファーの上の静雄が見えたが、この距離と暗さでは表情までは分からない。
少しばかりその様子を眺めた後、臨也はそっと足音を殺して階段を下り、応接セットに歩み寄った。
「……シズちゃん?」
うんとうんと声を潜めて、そっと名前を呼ぶ。だが、反応はない。
本当に寝ちゃったの、と唇だけで呟きながら、臨也はソファーの傍らの床に膝を付き、静雄の顔を覗き込んだ。
カーテンのない大きな窓から差し込む淡い月の光が、ほのかにその面立ちを浮かび上がらせている。毛布にくるまり、目を閉じている静雄は、こんな顔をしていたのかと思わず驚くほどに穏やかで、端整だった。
鼻筋は真っ直ぐに通り、薄い唇は形の良い弧を描いて、シャープな顔の輪郭が全体のイメージを精悍に引き締めている。
その顔から目が離せなくなりながらも、臨也は心の中で、どうしてそんなに無防備なんだよ、と呟く。
ここはノミ蟲の自宅なのに、すぐ傍に大嫌いなノミ蟲がいるのに、どうしてこんな風に大胆に眠れるのか。
これはある意味での裏切りではないのか、とさえ思う。
どんな時でも自分たちは嫌い合い、殺し合うのがこれまでの暗黙のルールだったのに、今夜はそれがあっさりと破られている。
一番最初、あの霧雨の夜に均衡を破ったのは、確かに臨也の方だったし、今日の宵に、再び均衡を破ったのも臨也だった。
けれど、臨也にとっては、それに応じた静雄こそが恨めしい。霧雨の中で捨て置いてくれれば、或いは今日の宵に拒絶してくれれば、今夜のことはなかった。
おそらく、その方が自分たちにとっては良かったのに。
───何も変わらなくて、すんだのに。
「大嫌いだよ、シズちゃん」
小さく小さく呟いて。
それでもしばらくの間、臨也はナイフを取りに戻ることもなく、ただ静雄の穏やかな寝顔を見つめていた。
* *
「朝御飯は?」
「いや、いい。そこまで面倒かける気はねぇよ」
「そう」
朝食くらい、一人分を作るのも二人分を作るのも変わらない。そう思いはしたが、重ねては言わずに臨也は帰り支度を整える静雄を眺めた。
帰り支度と言っても、洗面所を使い、歯を磨く程度のことだ。あっという間に済み、そして玄関に向かう静雄を、臨也は見送る。
「じゃあな、一晩世話になった」
「いいよ、別に。借りを返しただけだし」
「そりゃそうかもしれねぇけどよ」
そう言い、静雄は言葉尻を濁す。その様子に、あの夜にかけた迷惑は、彼にとっては迷惑のうちには入っていないのかもしれない、と臨也は思う。
規格外の化け物のくせに、その辺りは妙に間が抜けてお人好しなのだ。
そういうところが嫌いだ、と思った時。
「そういえばな、臨也」
「何?」
ノミ蟲ではなく臨也と名を呼ばれて応じると、静雄は真っ直ぐに臨也の瞳を見据えて、告げた。
「お前が選んだ映画、悪くなかったぜ。ああいうのは嫌いじゃない。……ちょっと意外だったけどな」
お前のことだから、俺への嫌がらせも兼ねてもっとえぐいのを選ぶかと思ってた。
そう言いながら向けられた鳶色の瞳は、ひどく穏やかな温かな色合いをしていて。
そうと気付いた時、臨也は軽い錯乱状態に陥った。
自分でも何を口走っているのか分からないまま、ねえシズちゃん、と呼びかける。
「昨夜は映画だったけど、俺さ、最近古いアニメとかが妙に気になるんだよね。子供の頃にやってたのとか、生まれる前の奴とかさ」
「……で?」
脈絡もなく話し出した臨也に、しかし静雄はキレることもなく問い返す。
その様子は、気を惹かれたというよりは、臨也が何を言わんとしているのか確認するためであるように見えたが、臨也にとっては関係なかった。
ただ口だけが、まるで別の生き物であるかのように、持ち主の意思を無視して言葉を紡ぎ続けて。
「シズちゃんは気になんない? ヤマトとかマクロスとかコブラとかルパンとか」
問いかけると、少しだけ考えるように静雄のまなざしが宙を彷徨う。
「まぁな。タイトルとか大筋は知ってても、きちんと見たことはねぇな。気にならないっつったら嘘になる」
「じゃあさ」
密かに息を吸い込んで、臨也は告げた。
「興味あるのなら、またうちに来たらいいよ。君とDVDを見るのは、思ったよりも悪くなかったから。きちんと事前に連絡してきたら、エントランスのオートロックを壊さなくても入れてあげる」
そう一息に告げると、静雄の鳶色の瞳がまっすぐに見つめてくる。
臨也は昨夜と同じ無表情のまま、視線を逸らさなかった。
静雄の目は、何を思っているのか全く読めない。表情も、臨也にも勝るとも劣らぬ無表情で、内面を窺わせるものは全くなかった。
息の詰まるような沈黙が何秒続いたのか。
「……俺は、手前のケーバンもメルアドも知らねぇぞ」
「じゃあ、携帯貸して」
右手を差し出すと、ほんの半秒ほど考える素振りをした静雄は、スラックスのポケットから携帯電話を取り出す。
傷だらけのそれを受け取って、臨也は自分の携帯電話を操作し、手早く赤外線通信を行った。
「──はい」
「おう」
データが登録されたことを確認してから携帯電話を返すと、静雄はアドレス帳を確認したのか、短く操作をしてから携帯電話を綴じ、元通りにポケットにしまった。
「じゃあな。次の休みが決まったら連絡する」
「うん」
そんな風に、世間ではごく当たり前の辞去の挨拶を交わして静雄は出て行く。
バーテン服の背中がドアの向こうに消え、パタンとやや重い音を立てて金属製のドアが閉まり。
「───…っ」
臨也はその場にしゃがみこんだ。
「……何やってるんだよ、俺は……」
馬鹿馬鹿しい。
あまりにも馬鹿馬鹿しい。
幼児のおままごと以下だ、これは。
一体何をしているのか。
あの化け物に、自動喧嘩人形に何を求めているのか。
馬鹿馬鹿しい、と繰り返し罵倒するように呟きながら。
臨也は長い間、その場から動けなかった。
End.
意地っ張りの捻くれもの臨也の本領発揮。
次で一旦、ケリがつきます。
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