DAY DREAM -Honeyed Proposal-
明るいマンションのエントランスを通り抜け、二人揃ってエレベーターに乗り込む。
その間、静雄も臨也もずっと無言だった。
別に、二人とも言葉に詰まっていたわけではない。ただ必要なかったのだ。
自分がいて、相手がいる。
手を伸ばせば直ぐ触れられる距離に、世界で一番大切な人がいて、その人が自分をとても大切に想っていてくれる。
そんな状況で浮かぶ言葉など、せいぜいが相手の名前くらいではないだろうか。
言葉が無力だとか無意味だとかいうつもりは毛頭ない。だが、全てが満たされていて、言葉すら入る余地がないこともあるのだ。そして、今がその時だった。
エレベーターの四角い箱の中、視線さえ交わさずに、ひたすら直ぐ傍にある互いの存在を感じているうち、やわらかなチャイムが鳴って、僅かなショックと共に上昇が止まる。
それから一秒遅れて扉が開き、二人は筐体を出て、そのままほんの数メートル先にある玄関へと向かった。
カードキーを取り出したのは静雄の方が先で、臨也は彼が鍵とドアを開ける様を、ただ黙って見つめる。
そうしてドアの内に入り、カシャンと音を立ててオートロックが閉まるのと同時に、静雄の手がそっと臨也の手を取った。
指の長い、形のいい爪を短く切り揃えた大きな手が、臨也の一回り小さく細い手に重なり、優しい仕草で指を絡め取る。
その様を見下ろし、先程と同じように手指にじんわりと伝わってくる温もりを感じてから、臨也はゆっくりと顔を上げた。
至近距離で自分を見つめる優しい鳶色の瞳と目が合う。
「───…」
相変わらず言葉もないまま、ゆっくりと顔が近付いて、唇が重なる。やわらかく触れ合い、温もりを感じるだけのキスだったが、これ以上ないほどの幸福感が臨也の胸の中に満ちてゆく。
貪られるように口接けられるのも嫌いではない。でも、ついばむような可愛らしいキスも、戯れるように軽く触れ合うキスも同じくらいに好きで、そして、こんな風に想いを伝え合うような優しいキスは、格別に好きだった。
決して欲望だけではなく、切ないほどにいとおしみ、いとおしまれる感情が、触れ合う唇から心の隅々まで染み透る。
ただ触れ合うだけの子供だましのようなキスなのに、こんなキスをされるのが何よりも臨也は好きだったし、嬉しいと感じる。
優しいキスは触れた時と同じようにゆっくりと離れ、二人は再び目を見交わす。
きゅ、と絡めた指に軽く──静雄にしてみれば極々軽くだろう──力を込められて、臨也も同じように返し、そしてもう一度、ゆっくりと顔を寄せて唇を重ねようとしたその時。
ミィ、とドアの向こうで甘く細い鳴き声がした。
あ、と目をみはって至近距離で互いを見つめ、それから二人は同時に小さく声を立てて笑う。
耳の良い猫のことだ。当然ながら二人が玄関に入ってくる音を聞きつけ、ドア前で待ち構えていたのに、中々上がってこないことに焦れて鳴いたのだろう。
「まあ、玄関はイチャイチャする場所じゃないよね」
「そういうことだな」
苦笑しながら、ひとまず靴を脱いで玄関先から上がる。だが、その間も当たり前のように二人の手は繋がれたままだった。
そして、短い廊下を歩いてリビングのドアを開ければ、待ち侘びていたようにサクラが甘えた鳴き声を上げながら、二人の足の間をくるくると8の字を描くように体を擦り付けてくる。
その様はひどく可愛らしいが、下手に足を踏み出したら蹴飛ばしてしまいそうで、臨也は一瞬躊躇した後、繋いでいた手を解き、身をかがめてひょいと小さな生き物を抱き上げた。
やっと人目を気にせず繋ぐことのできた手を離すのは、ひどく惜しかったが、この場は仕方がない。そう思いながら静雄を見上げると、静雄もまた、仕方ないと言いたげな表情でサクラと臨也を見つめ、微苦笑していて。
「お前はソファーに行ってろよ。何か飲みたいもん、あるか?」
「んー。アルコールはもういいなぁ。ほうじ茶飲みたい」
「分かった」
了解とばかりに静雄は、臨也の黒髪をくしゃりと撫でて、ダイニングキッチンへと去ってゆく。
その背中をほんの数秒見送ってから、臨也はサクラを抱いたまま、リビングのソファーへと移動した。
家具屋で吟味に吟味を重ねた、クッションの良い革張りのソファーに腰を下ろし、膝の上にサクラを放す。すると、サクラは少しばかり迷う素振りを見せた後、軽い動きで臨也の脚の上から下り、臨也が手を伸ばせば届く距離にある、彼女お気に入りのやわらかなクッションの上でうずくまった。
「本当にお前は勝手気ままだなぁ」
好きなようにふるまう仔猫に苦笑しながら、臨也は黒ビロードのような毛皮に包まれた小さな頭を撫でる。二、三度、そのゆっくりとした手の動きを繰り返すと、サクラはゴロゴロと満足げに喉を鳴らし始めた。
早いもので、静雄がサクラを拾ってきてから、もう一ヶ月以上が経つ。
仔猫の成長は早く、体重で言えば百グラムかそこらだが、幾分大きくなったし、どこかたどたどしかった体の動きも日々なめらかになってきている。
だが、家の中で我が物顔に振る舞い、静雄や臨也の膝に好き勝手に上がってくるのは一番最初から変わらない。
「まあ、名前を呼べば返事をするようになったけどね……」
犬と違って、可愛い以外、本当に何の役にも立たない生き物だが、それでも家の中を小さな生き物がうろちょろしているのは、思ったよりもずっと悪くなかった。
「お前がシズちゃんと一緒に暮らすきっかけをくれたんだし。多少の我儘は御愛嬌、かな」
そう呟きながら、臨也はサクラの小さな頭を指先でつつく。
静雄が偶然、仔猫を拾い、そして、たまたま彼のアパートがペット禁止だった。要約すれば、たったそれだけのことだ。だが、それが無ければ、きっと今でも二人はそれぞれの部屋で暮らしていただろう。
池袋と新宿に分かれて、週に一度のペースでデートをする生活も、十分に楽しかったし、幸せだった。しかし、こうして一緒に暮らせる喜びや幸せに比べたら、余りにもその濃さが違う。
毎朝、目覚めて一番最初に目にするのが恋人の姿で、毎晩、一番最後に目にするのも恋人の姿なのだ。
夜中に目覚めた時すら、一人ではない。気付いて、抱き締めてくれる温かな腕がある。寄り添える人が傍にいるという、胸が熱くなるような喜び。
世の中広しと言えど、これ以上の幸せなど滅多に見つかりはしないだろう。
「……シズちゃんも、そう思ってくれてるといいんだけどな……」
この毎日が楽しくて嬉しいと言ってくれたのだから、きっと心情は近いものがあるのだろうと思いたかった。
それに、もしかしたら……、本当にもしかしたらだが、この喜びに溢れる気持ちはぴったりと重なってさえいるかもしれない。もしそうならば、と考えるだけで蕩けてしまいそうな甘い感情が胸に満ちる。
「まったく、俺らしくないよねぇ」
全人類を愛するどころか、たった一人に惚れ込んで、それで幸せなのだから、もはや苦笑しか浮かんでこない。
そんな風に仔猫を撫でながら甘ったるい感慨にふけっていると、静雄が二人分の湯呑みを手に歩み寄ってきた。
「熱いから気をつけろよ」
「うん」
うなずいて受取った湯呑みは、柄違いのお揃いだった。夫婦用ではないからサイズは変わらないが、一見ペアであることには変わりない。
正直なことを言うと、これを買う時、臨也はかなり迷った。
渋い色の地も、さりげなく筆書きされた柄も一目で気に入ったものの、しかし、お揃いである。
恋人同士が新生活を始めるのに、お揃いの小物を買ってはならないという決まりはない。むしろ、(そんな統計結果があるとは思えないが)世間のカップルは、お揃いの物を買う方が多い可能性だってある。
しかし、だからといって自分たちの使う小物について、そういうベタな真似をするのはどうだろう、と一瞬、臨也は躊躇してしまったのだ。
第一、住居全般についてのセレクトを任せてくれたとはいえ、静雄がお揃いの小物を喜ぶかどうかが分からなかった。
女々しいと呆れられるのではないかという気もしたし、一方で、ベタで単細胞な思考回路を持つ静雄のことだから、単純に嬉しがるのではないかという気もして、簡単には結論が出せなかった。
そして迷った挙句、臨也は一つ、テストをしてみたのである。
湯呑みは取置きを頼んでおいて、それを買う前に、もっと他愛なく色違いでもおかしくない日用品──具体的に言えば、スリッパを用意してみたのだ。
自分用にはダークグレー、静雄用にはネイビーのスリッパを買って、「色違いになっちゃったけどいいかな」とさりげなく尋ねてみれば、静雄の答えは、「別にいいんじゃねぇ? てか、わざわざ違う形や柄のもん探す必要もねぇだろ」とあっさりしたものだった。
その答えを、つまりはペアでも嫌ではないのだろうと解釈して、それならと翌日、臨也は柄違いの湯呑みを購入し、静雄の次の来訪を待った。
そして、少しだけ胸を騒がせながら、箱書のある桐箱に入ったままだった湯呑みを取り出して見せてみれば。
へえ、いいじゃねぇか、と嬉しげに静雄は手に取ってくれて、臨也のテンションは一気に上がったのである。
有名な陶芸家の作品なのだとか、この渋い地の色がいいよねえとか、静雄が苦笑するくらいの勢いで喋ったその時の記憶は、何故か削除が上手くできず、困ったことに今も脳裏の片隅にちんまりと残ったままだ。
「──そもそもシズちゃん絡みの記憶って、上手く削除できないんだよねぇ」
「は?」
「あ、こっちの話。独り言だから気にしないでよ」
「そういうわけにはいかねぇだろ。俺絡みの記憶が何たらとか、不穏なこと言わなかったかお前」
体が触れ合うくらいの距離で並んでソファーに腰を下ろしていれば、独り言であろうと相手の耳に届くのは当然だろう。
胡乱げなまなざしを向けてきた静雄に、臨也はしかし、笑って薄い肩をすくめた。
「別に悪い意味じゃないよ。まあ、見方によっては最悪だけどさ。──シズちゃんが絡んだ記憶は、忘れたくても中々忘れられないって話」
「──忘れたいことでもあるのかよ」
「それはまあ、ねえ。色々?」
臨也が肯定すると、静雄の眉が軽くしかめられる。その意味は、ひどく分かりやすかった。
「そんな顔しないでよ。本当に悪い意味じゃないから」
微笑した臨也は、湯呑みをローテーブルに置いて静雄の方に半身を向ける。
「シズちゃんのことを忘れたいって言ってるわけじゃないんだ。忘れたいのはね、俺自身の行動」
「お前の?」
「そう」
笑って臨也はうなずいた。
そして、少しだけ目線を外して、静雄の手元でやわらかく湯気を立てているお揃いの湯呑みの片割れを見やる。
「シズちゃんが絡むと、俺、どうも平静じゃなくなることが多いからさ。認めるのは少し癪なんだけどね。どうでもいいようなことで気分がハイになったり、落ち込んだり……。俺としては、そういうらしくない言動は綺麗さっぱり忘れてしまいたいんだけど、それが中々できないんだよねって話」
以前は、静雄絡みの記憶でも、もう少し上手くコントロールできていたように思う。
もともと忘れようと思ったことは、引き出しの奥深くにしまってしまえるタイプだ。きっかけがあれば思い出すが、日々記憶することが多過ぎて、大抵のことは記憶層の深い部分に沈めたままになる。
なのに、静雄に関することだけそうできないのは、毎日顔合わせるという反復行為が記憶を強めていることもあるが、それ以上に忘れたくない、全て覚えていたいという無意識が働いているせいだろう。
強い関心を持って見聞きし、忘れまいと無意識に留めていれば、いくら表面的に『忘れよう』と決めたところで記憶が薄れるわけが無い。
この一年もそうだったが、この先もおそらく、忘れようにも忘れられない思い出ばかりが増えてゆくのに違いなかった。
だが、そんな臨也の思いを知ってか知らずか、静雄は釈然としなさそうな表情で口を開く。
「……別に忘れる必要なんかねぇだろ。てか、俺が覚えてたら無意味じゃねぇのか」
「いやいや、俺の気分の問題だよ。俺は右往左往してる人間を観察するのは好きだけど、自分が右往左往したいわけじゃないからさ」
「意味ねぇっての。お前が忘れたからって、無かったことにはならねぇだろうが。少なくとも、俺は忘れねーぞ」
「シズちゃんが、一発ぶん殴れば何でも忘れてくれる体質なら良かったのにねぇ」
「そんな奴、世界中探したっているかよ」
言葉遊びのようになってきたやり取りに、臨也が別に本気で記憶を削除したいと言っているわけではないことを察したのだろう。静雄は小さく苦笑してローテーブルに湯呑みを置き、手を伸ばして臨也をひょいと抱き上げ、自分の膝の上に横抱きに乗せた。
「……何すんの」
「言っただろ、お前を可愛がり倒すってな」
「……俺は、俺の喜ぶことしてって言ったつもりだったんだけど」
「意味は変わらねぇだろ」
そんな風に切り返して、静雄は臨也の手を取り、甲に軽く口接ける。
さらりとしているのに、ひどく甘やかなその仕草に、もう、と臨也は拗ねたような溜息をついた。
「いつも自分の都合のいいように解釈するんだから」
「そんなことねぇだろ。たとえそうだったとしても、お前の嫌がることをした覚えはねえ」
「……まあ、嫌じゃないけどさ」
この体勢だとシズちゃんより目線高いし、と臨也は静雄の体に完全に体重を預け、空いている方の手で静雄の金の髪を撫でる。
少し落ち着きの悪い髪は、それでも指を通すと、さらさらとすり抜けてゆく。その感触が楽しくて、しばらくもふもふしていると、静雄が面白げな光を眼に浮かべて、こちらをじっと見つめていた。
「何?」
「楽しいか?」
「シズちゃんの髪撫でるの? 楽しいけど。なんか大型犬撫でてるみたいで」
「……そういうお前は猫だっての」
呆れたように静雄は笑い、そして手の中に収めたままだった臨也の左手の指をやわらかく撫でる。
何ということはない仕草ではあったが、その温かな感触に臨也の胸の奥、或いは体の奥がほのかに疼く。
彼はこんな風な何気ないスキンシップが好きらしい、と臨也が気付いたのは、付き合い始めてから直ぐのことだ。
髪を撫でたり頬に触れたりといったさりげない接触は頻繁にあるし、また、そうする時の静雄はひどく優しい目をしている。
家族以外の人間と触れ合う機会の少なかった静雄にとっては、暴力を介在せずに他人に触れられることが嬉しいのだろうが、臨也としても別に悪い気はしない。むしろ、触れ合うだけのキスと同じで、とても大切にされている感じが、くすぐったくも嬉しかった。
純粋な喜びがふんわりと胸の奥で花開いてゆくのを感じながらも、せっかくこういう体勢にあるのだから、もっと堪能しようと臨也は静雄の髪をするりと梳いて、その手を頬に滑らせる。
臨也の知る限り、碌にスキンケアなどしていないはずなのに指先に触れる感触はなめらかで、見た目に肌理も整っている。
これであと僅かでも外見に頓着していたら、とんだ伊達男になって女性にもモテるだろうに、その辺りの気質がとてつもなく残念クオリティーなのが平和島静雄だ。
いつも身奇麗にしてはいるが、バーテン服にサングラスでは、怖い後ろ盾のいるバーで働いているチンピラにしか見えない。
だからいいんだけどね、と思いつつ、臨也は静雄の澄んだ鳶色の瞳を覗き込み、微笑んだ。
「何だよ?」
「んー。シズちゃんがシズちゃんで良かったなーって」
「? 何がだ?」
「色んなとこ全部、かな」
静雄が静雄でなかったら。
あとほんの少しでも彼の気質や体質が違っていたら、きっとこんな風には愛してもらえなかっただろう。
静雄がもう少し積極的な性格をしていれば、極普通に可愛らしく素直な女性に恋をしただろうし、その怪力という特異体質がなかったら、臨也は静雄の存在になど気にも留めなかったに違いない。
たとえ特異体質がそのままでも、静雄が臨也に対し一切の反応を見せなかったら、その時点できっと臨也は、冷たい腹立ちと共に静雄の存在を忘れていた。
奇跡のように彼の気質と体質が揃って、初めて臨也との接点ができたのだ。
だが、接点ができただけでは、こんな関係には辿り着けない。
先程、静雄は「好きになってくれて、ありがとな」と言った。だが、実際は逆だ。
臨也は出会った一番最初から静雄に惹かれていたが、静雄はそうではなかった。静雄が臨也の本音に気付いてくれて、初めてこの恋は叶ったのである。
『好きになってくれた』のは、臨也ではない。間違いなく静雄の方だった。
「全部、って分かんねぇよ」
言葉足らずの臨也にそう反論しながらも、臨也を見つめる静雄のまなざしはひどく優しい。宝物のように大切にされているのだと、その瞳を見つめているだけで判る。
そうしてまなざしを合わせているうち、先程夜道で何よりも幸せな言葉を聞いた時と同じ、泣きたいほどの切なさがしんしんと胸の奥に満ちてきて。
たまらずに臨也は静雄の名前を呼んだ。
世界でたった一つの名前──臨也にだけ許された呼び名を。
「シズちゃん」
「ん?」
「───…」
好き、と言いかけて言葉が詰まる。
これ以上ないほどにありふれた、陳腐な台詞だ。こんなのは平凡過ぎると思うのに、他に気持ちを伝える言葉が見当たらない。
胸が苦しいとか切ないとか実況するような形容は幾らでもあるが、それでは足らない。もっと切実に、真摯に想いを伝える言葉。
それはこの使い古された言葉以外に無いのに、それが上手く声にならない。
この言葉を口にしようとする時は、いつもそうだった。たとえば、ベッドの上で身も心もドロドロに溶かされて訳が分からなくなって、初めて素直に口にすることができる。
他愛ない、たった二音の音節しかない言葉なのに、それを音として出すことがこんなにも難しい。
素直になることが、気恥ずかしくて仕方がないのだ。
だから臨也は、
「シズちゃん……」
もう一度名前を呼び、静雄の頬に手のひらを添えて、そっと口接けた。
やわらかくついばみ、角度を変えて何度も合わせ、表面を舌先で軽く撫でる。
好き。大好き。
その気持ちを伝えるのにキスを深める必要は感じなかった。ただ何度でも、触れるだけのやわらかなキスを繰り返す。
静雄も目を閉じてそれを受け止めてくれたが、しかし、臨也の胸に満ちる切なさと愛おしさは尚も水かさを増し続け、そして。
「──愛してる…」
とうとう溢れて言葉となり、零れ落ちていってしまう。
ああ言ってしまった、と思いながら見つめると、初めて聞かせたわけでもないのに静雄は驚いたように目をみはって臨也を見つめ返した。
「──どうした?」
聞きようによっては大概失礼な問いかけではあったが、心から恋人を気遣う色が静雄の表情全体に現れていたから腹は立たない。
それどころか、今すぐ溶けてしまいそうなくらいに切なくて、愛おしくて。
ただ好きだと、全身全霊で思う。
「俺だって、たまには素直にものを言いたくなることもあるんだよ」
それでも精一杯の減らず口を叩けば、静雄は逆に安心したようだった。
「なら、いいけどよ」
言いながら、静雄は臨也の手をそっと離して、代わりに臨也の頬を優しく撫でる。それから、ふっと微笑んだ。
「前は、素直とか正直なんてスキルはねぇっつってたのにな」
妙に感慨深げに言われて、勢いで口走ってしまったことへの気恥ずかしさが今更ながらに激しく臨也を襲う。
もういっそ固まってしまいたかったが、それはそれで穴を掘って埋まりたい気分が強くなるばかりだということは経験上、よく分かっている。
だから、臨也は懸命に反論の言葉を探した。
「ずっとシズちゃんと一緒にいたから感化されたんだよ。シズちゃんなんて年中、本音駄々漏れじゃん。毒されちゃったの」
「俺のせいだってか?」
「そうだよ」
少なくとも、静雄と付き合い始める前の自分はこんな風ではなかった、と臨也は思う。
そもそも特定の恋人を作ったことなど無かったし、甘え方だって知らなかった。本音をさらけ出すことは尚更だ。
だが、静雄と一緒にいると時々、口が滑ったり、本音の一端を打ち明けなければならないという衝動に駆られるのである。
そんなのは自分らしくないと思うのに止まらない。
愛し、愛されるために、いつの間にか変わっていってしまっている自分の心と体。
そのことを自覚する度、戸惑いもするが、変化を嫌がって別れるには、臨也は静雄のことを愛し過ぎており、またその自覚もあった。
「俺がこんな風になっちゃったのは、全部、シズちゃんのせいだ」
臨也が繰り返すと静雄は少しだけ考える顔になり、それから面白げに笑った。
「じゃあ、俺もそんなに捨てたもんじゃねぇってことだな。お前みたいに腹の底から捻くれた奴を、ちょっとでも素直にさせるなんて早々できることじゃねえ」
この怪力以外で誰かの役に立てるなんて思ってなかったけどよ。
どこかしみじみとそんな風に言われて、思わず、馬鹿、と臨也は呟いた。
何の気もないだろう静雄の言葉に、自分でも思いがけないほどの腹立ちがこみ上げる。そして、その感情は、決して捻くれていると言われたことに対してではなかった。
「別に俺は、シズちゃんの力目当てで一緒に暮らしてるわけじゃないし」
「それは分かってっけどな」
苦笑する静雄に、ああそうだ、と臨也は思う。
静雄の彼自身に対する無頓着は、生来の性格もあるだろうが、それ以上に彼自身の自己評価が影響しているのだろう。
その尋常ではない力ゆえに静雄は周囲に対し引け目を感じ続け、普通ではないという劣等感を味わい続けてきたのだ。
そして、その感情を散々に煽り立てたのは、他の誰でもない、過去の臨也だった。だから静雄の自己評価の低さを一方的に責めるわけにはいかない。
でも、と臨也は静雄の名前を呼ぶ。
「シズちゃん」
さっきはここでくじけた。だが、今度は勢いで言葉を零すのではなく、きちんと気持ちを伝えたかった。
静雄の劣等感を煽ったことに対する罪悪感からではない。そんなものに駆られるには、過去の臨也は静雄に対し、あまりにも色々とやり過ぎた。本気で償おうとしたら百回死んで詫びても足りない。
それに、過去九年間は九年間で、臨也自身も必死だった。悔いが全くないとは言わないが、あの時はひたすらに静雄を嫌い、攻撃することが臨也にとっての真実だったのだ。
だから詫びとか償いではなく、ただ今は、静雄の価値はそんなものではない、と伝えたかった。
自分がこれまでどんな罵詈雑言を彼に聞かせ、そのうちのどれほどが彼のうちに染み込んでしまっていたとしても、そんなものは静雄の真の価値をこれっぽっちも表してはいない。
先程、静雄は臨也に世界で一番幸せな言葉をくれた。今度は自分の番だ、と臨也はともすれば逃げようとする自分の心を懸命に抑えつけて、口を開く。
「──俺がシズちゃんに目を着けたのはその力があったからだけど、今はその力があっても無くても、俺はシズちゃんが好きだよ」
そう口にした瞬間、爆発したくなる。
静雄が驚いたように目を丸くする。顔も体も、かぁっと熱くなるのが自分でも分かった。
「この先どう変わったって、シズちゃんはシズちゃんだから。一生離してやらないって言っただろ?」
だが、それでも渾身の力で自分を抑え込み、真っ直ぐに鳶色の瞳を見つめて告げれば。
じっと臨也を見上げていた静雄は物思うように数度まばたきし、そして、ほのかな、だがこれまでで一番満ち足りて幸せそうな微笑みを浮かべて。
臨也、といつもよりも深みのある声で名前を呼んだ。
うん、とうなずいて、臨也はゆっくりと顔を近づけ、静雄の唇に自分の唇を重ねる。
先程、この部屋に戻ってきた時と同じ、触れるだけの温かなキスをしてそっと離れて。
そしてまた、静雄の目を見つめた。
「……なあ、臨也」
「何?」
「指輪、買うか?」
「──は?」
至近距離で見つめ合ったまま、唐突にそう言われて、臨也は一瞬、意味を把握し損ねる。
指輪。指輪。指輪。
今、この両手の人差し指にも一つずつシルバーリングが嵌っているが、それと静雄が言う指輪は全く意味が違うだろう。その程度のことを察することができないほど鈍くはない。
「指輪って……」
「少し前から考えてたんだよ。一緒に暮らすこと決めた時にな」
静雄の方も、さすがに面映ゆいのだろう。少しだけ目線を逸らし、言葉を探しながら続けた。
「俺たちには形がねぇだろ。養子縁組ってのもあるけど、あれは便宜上のもんだしよ。だから、なんかねぇかなと思ったんだよな。俺とお前の関係をはっきりさせるようなもんがよ……」
それって、と臨也は思うが言葉にはならなかった。
ただ静雄を見つめ、その声を聞き続ける。
「俺と揃いの指輪なんて、お前が外じゃ絶対につけないことは分かってる。だから、持っててくれるだけでいいし、俺の自己満足みたいなもんなんだが……やったら受け取ってくれるか?」
最後の一言だけ、目線を合わせて言われて。
臨也の中は言葉にならない感情でいっぱいになる。
───シズちゃん。シズちゃん、シズちゃん。
好きだとか、愛してるとかいう言葉すら浮かばなかった。馬鹿みたいに静雄を見つめ、ひたすらにその名前を心の中で繰り返す。
何か言わなければと思ったが、口を開いたらとんでもないことを口走ってしまいそうな気がして、臨也はぎゅっと唇を引き結ぶ。
「臨也?」
すると、また固まってしまったのかと気遣うように名前を呼ばれ、優しく頬を撫でられて。
ひくりと喉の奥が痛んだ。
駄目だ、このままでは泣いてしまうと、ぐっと歯を噛み締めれば、それに気付いたのだろう。静雄は、この世の何よりも愛おしいものを見る目で臨也の瞳を覗き込んだ。
「臨也、イエスかノーかだけ言ってくれ。イエスなら、うなずくだけでいいから」
そう言われて、反射的にうなずきかけ、しかし、寸前で臨也は思いとどまった。
そして、喉の奥にこみ上げてきていた涙の塊を強引に呑み込む。どうしても念押ししておきたいことが一つだけ、あるのだ。
今更改めて確認するまでもないことだと分かっている。
それでも、今ここで聞きたかった。
「シズ、ちゃん」
ようよう絞り出した声は、かすれ、震えていた。が、それを恥じる余裕もなかった。
真っ直ぐに静雄を見つめ、言葉を押し出す。
「本当に、俺でいいの」
「お前じゃなきゃ駄目だ」
答えは、間髪入れずに返ってきて。
そこが限界だった。
堰を切ったようにほろほろと涙が溢れ出す。泣き顔を見せたくなくて顔を逸らせば、ぎゅっと背中を抱き寄せられた。
それに応えるように静雄の肩に両腕を回して首筋に顔を埋めると、宥めるように優しく背中を撫でられる。
その温かさ心地よさに一層零れる涙を臨也が持て余していると、不意に悪戯めいた静雄の声が耳を打った。
「おい臨也。俺はまだ返事聞いてねーぞ」
そんなの察しろ、と言いたかったが、しかし、ここはきちんと答えるべき場面だろう。
こみ上げる嗚咽を必死に噛み殺して、臨也はうん、とうなずく。
「受け取る、から。だから、指輪ちょうだい、シズちゃん」
「──ああ」
うなずいた静雄の声も、感情をぐっと堪えたように深くて。
また更に涙が零れてゆく。
静雄も臨也ももう子供ではない。成人して数年が経っている恋人同士である以上、一緒に暮らし始めた時点で、二人の意識の中における二人の関係は、そういうものにはなっていた。
だが、形がなかったのは勿論のことだし、言葉に出して確認することもなかった。
お互いに新婚生活みたいだと思ってはいたはずだが、だからといって、そんな恥ずかしい感想を口に出せるはずもない。
ゆえに暗黙の了解のようになっていたつもりでいたが、ごく普通の家庭で真面目に育てられた静雄は、臨也よりももう一歩踏み込んだ先を考えていたのだろう。
だが、そんな理屈はどうでもよくて、静雄が二人の関係を形あるものにしたいと思ってくれたこと、それがただ純粋に嬉しかった。
「シズちゃん、シズちゃん……っ」
「あー、うん。分かってっから、そんなに泣くな」
溢れ出す感情にたまらず名前を繰り返せば、苦笑と共に後頭部を撫でられる。
「それより顔上げろよ。このままじゃキスもできねぇだろ」
「ヤだ」
こんなやり取りばかりだ、と思いながらも臨也は即座に拒絶する。何故か静雄はこういうことがある度に、臨也の泣き顔を見たがるのだ。
絶対お断りだとばかりに両腕に渾身の力を込めてしがみつくが、しかし、臨也にとっては大変遺憾なことに、その効果があった試しはなく。
今夜も、仕方ねぇな、の一言と共に、べり、と容赦なく引き剥がされる。
そして顔を覗き込まれ、毎回毎回何をしてくれるのだと恨みを込めて睨み返せば、静雄は本当に楽しそうに、そして嬉しそうに笑った。
「お前、マジで可愛過ぎ」
「──どこに目ぇつけてんだよ。っていうか、シズちゃんの目、おかしいよ絶対。いい加減、新羅に検査してもらったら」
「おかしかねぇよ、何にも」
楽しげに笑みながら、静雄は臨也の濡れた頬を指先で拭う。そして、ほんのりと熱をもった両目元に触れるだけの優しいキスを落とした。
「臨也」
名前を呼ばれ、好きだ、と告げられて、心の一番深い部分が震える。
「俺も……好きだよ」
黙っていたらまた涙が零れてしまいそうだったため、そう口にしてみたが、やはり泣きたくなって困ってしまう。
どうしようもなくなって、手を置いていた静雄の肩辺りのシャツをぎゅっと握り締めれば、静雄は臨也の心情を察したのだろう。微笑んで頬に口接け、それから、ゆっくりと唇を重ねてきた。
甘く優しいキスに何もかもが溶けてしまいそうで、その感覚に耐え切れずにまた涙が零れれば、ゆっくりと唇を離した静雄が、先程と同じように優しい指先でそれを拭った。
そのまま温かな両腕にやんわりと胸に抱き寄せられて、臨也は全身の力を抜き、全てを静雄に預ける。
すると、静雄の手が臨也の背中を、あやすようにゆっくりと撫でた。
「後で指輪のサイズ、教えろよ」
「……うん」
ふと思い出したように耳元で囁かれて、臨也は小さくうなずく。
───ペアリング、だなんて。
想像したこともなかった。
そもそも臨也自身は、一緒に暮らせるようになっただけで十分に満足だったのだ。だから今夜、誕生日プレゼントに何が欲しいと聞かれた時も答えられなかった。
なのに、静雄はそんなことを考えていたなんて。
一体どんな顔をして用意するつもりだろう。
そして、どんな顔をして渡すつもりだろう。
想像するだけで池袋の自動喧嘩人形には似合わなさ過ぎて、自然と口元に小さな笑みが浮かぶ。
「楽しみにしてるね、シズちゃん」
「おう、任せとけ」
「うん」
うなずいて目を閉じ、温かな腕に抱き締められたまま、臨也はあともう一粒だけ、幸せ過ぎる涙を静かに零した。
End.
前作のまんま続き。
もう1話、続きます。