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DAY DREAM -Heaven In Your Eyes 01-

 臨也、と静雄が呼んだのは、その日にやるべきことを全て片付け、羽島幽平主演のドラマも見終わって、そろそろ寝る支度をしようか、という頃合だった。
 ダイニングキッチンのシンクでティーセットを洗っていた臨也は、「なにー?」と振り返らないまま応じ、手にしていたポットをすすいで傍らの食器籠に伏せてから、タオルで手を拭きつつ、静雄を振り返る。
 静雄を見上げた臨也の表情は、何の気負いも無い、極自然なものだった。険もなければ、毒に満ちた薄笑いもない。ただ真っ直ぐに、何の用かと静雄を見つめてくる。
 そんな臨也に対し、やわらかな微笑みが浮かんでくるのを感じながら、静雄は手にしていたものを差し出した。
「何、それ」
 見た瞬間は、臨也はそれが何であるのか分からなかったらしい。否、正確には、中身が何であるのか、だ。
 静雄の右手の上に載っているのは、さほど大きくはない桐箱だった。赤と黄色の組紐がかけられて上部でしっかりと結ばれており、何かの小物が入っているのだろうとは推測できる。だが、知らなければ、中身が何であるのかを正しく察するのは、かなり難しい代物だった。
「湯呑みや茶碗にしちゃ箱が小さすぎるし、箱書が無いし……あれ?」
 とことこと好奇心旺盛な猫のように近付いてきた臨也は、桐箱の上部に押してある落款に気付いて、目をまばたかせる。
「え……これ、って……」
「あー、やっぱりこのブランド知ってたか」
 さすがに出し抜くのは無理だったかと微苦笑しつつ、静雄はその箱をダイニングテーブルの上に置いた。
「昨日、届いたっつー連絡が入ったんだよ。だから、今日、仕事の休憩時間に受取ってきた」
「──え…、あ……」
 しゅるりと組紐を解く静雄の指先を見つめたまま、臨也は言葉になっていない声を微かに零す。
「なんで……シズちゃん……」
「あ? 指輪やるっつっただろ?」
「いや、そうじゃなくて……それは覚えてるけど、でもなんで、ここのブランドなんか……」
「──まさか、嫌いだったか?」
「嫌いじゃないよ!」
 もしやと尋ねれば、強い口調で否定が返る。
「じゃあ、何が気に入らねぇんだ?」
「気に入らないなんて言ってない! ていうか実物見てないのに、気に入るも入らないもないだろ!?」
「……そりゃそうだな。じゃあ、見ろよ」
 桐箱の中に収められているのは、更にもう一つ、清らかな白磁の箱だった。
 それを丁寧に取り出して、そっと蓋を開ける。
 そこに純白の絹に半ば埋もれるようにして収められていたのは──揃いの銀色の指輪だった。
 照明の光を受けて白く輝くそれを、臨也は目をみはって見つめる。
 それから、ゆるゆると顔を上げ、静雄を見つめた。
「俺のために……これを買ってくれたの?」
「別にお前のためだけじゃねぇよ。ちゃんと二つあるだろ」
「そうだよ、一つじゃないよ。ってことは値段も倍だ。……一体、給料何か月分、突っ込んだんだよ」
「額面なら一月で釣りが来るけど、手取りなら二ヶ月ちょいってとこだな」
 肩をすくめて静雄は答える。
 静雄は仕事内容が内容なだけに、給料の総支給額は決して低くは無い。多額の法人税を国に納付する気などこれっぽっちもない会社の意向もあって、同年代のサラリーマンに比べたら倍近い金額を得ている。
 しかし、そこから税金や社会保険料の控除が約三割弱、更に器物損壊分の実費弁償分を控除すると、実際に手取りとして振り込まれるのは、同年代のサラリーマンの手取りよりもやや少ないくらいの金額だった。
 とはいえ、静雄は別に浪費家ではないし、家賃と水道光熱費、食費と煙草代があれば大体足りる生活をしている。故に、はたけばこれを買えるくらいの貯蓄はあったのである。
「いいんだよ。こんなもんを買うのは一生に一度のことなんだしな。ケチって妥協するより、これだっていう奴を選んで買いたかったんだ」
「シズちゃん……」
 名前を呼んで、臨也は静雄を見上げる。が、感動しているようだった表情が、ゆっくりと渋いものになってゆき。
 やがて、はっきりと眉をしかめて、臨也は静雄を睨んだ。
「ねえ、シズちゃん。誠心誠意を込めて、ついでに貯金もはたいて指輪を買ってくれたのは分かったよ。でもさあ、このシチュエーションは無いんじゃない?」
「そうか?」
「そうかって……別に正装しろとは言わないけどさあ、パジャマだよパジャマ! 俺も君も! しかもキッチンでって……!」
 毛を逆立てた猫のような勢いで臨也は文句を付けてくる。しかし、静雄も伊達に一年以上も恋人として付き合ってきたわけではない。その辺りの反応はとっくに予想済みだった。
「俺ららしいだろ」
 笑みを浮かべて言ってやれば、更に臨也の眦(まなじり)は吊り上がる。
「どこが!? それとも俺が所帯じみてるとでも言いたいわけ!?」
「バーカ。んなわけねぇだろ。俺だって一応、考えたんだよ」
 尋常でない力を持つ静雄は、これまで一度もごく普通の結婚というものに憧れたことは無い。正確に言えば、憧れることを無意識に諦めていたのだが、ともかく正面切って考えたことはなく、結婚にまつわるあれやこれやに関する知識にも乏しかった。
 だが、それでも今回の件については、伴侶に指輪を贈り合う儀式は神聖なものであって、絶対にぞんざいに扱うべきではない、というくらいの知恵は働き、それなりに渡すシチュエーションを考えてみたのだ。
「お前も考えてみろよ。俺とお前だぜ? 普通のカップルが婚約指輪を贈るみたいに、正装して夜景の綺麗なレストランかホテルで……なんて似合わねぇだろ?」
 そう言ってやれば、臨也は反論したそうな顔をしつつも眉間に皺を寄せる。
「……確かにシズちゃんのキャラじゃ、そういうベタな演出は無理だろうけど」
「な? だったらどこがいいんだって考えたら、もう、うちしかねぇなって」
 臨也の答えにはいささか失礼な物言いが混じっていたが、それに取り合っていたら、指輪を渡し終えるのは日付変更線を超える羽目になる。だから、静雄は敢えて聞き流して、会話を先に進めた。
「この部屋にいる時が、一番俺たちらしいだろ。俺も、お前も」
 言い切ってやると、臨也は複雑そうに顔をしかめて静雄を睨む。
「……そこまでの理屈は、とりあえず理解したけど。じゃあ、なんでよりによってダイニングキッチンなわけ? リビングだって寝室だってあるのに」
「それには、あんま意味はねぇよ」
 二人で暮らすこの部屋で渡そう、と決めたものの、しかし、この3LDKのマンションの中のどこで、とまでは決めていなかった。
 どこででもいいよな、とリビングのソファーで寛ぎながらぼんやりと考えているうちに、先程、寝支度をしようとティーセットをトレイに載せた臨也がダイニングキッチンに入っていった。その後姿を見た時、不意に、いま渡したいと思ったのだ。
「もともと全部片付けて寛いでる、この時間になったら渡すつもりだったんだけどよ。さっき、お前がここに入ってくの見た時、今だと思ったんだよな」
 そう言い、静雄はぴかぴかに磨き上げられたシステムキッチンを見やる。
「お前と一緒に暮らすのは何でも楽しいけど、お前と一緒に飯作ったり、それを食ったりするのが、俺はすげぇ好きなんだよ。だからじゃねぇかな」
 そんな静雄の説明をじっと聞いていた臨也は、やがて、小さく溜息をついた。
「なるほどね。キッチンはシズちゃんにとって家庭の象徴なわけだ。シズちゃんのお母さんも料理上手みたいだし、きっと、シズちゃんちの食事風景は毎日、絵に描いたような家族団欒だったんだろうな」
「──あー、言われてみればそうかもしんねえ」
 確かに臨也の言う通り、静雄の家は家族四人、いつも揃って食卓を囲むのが常だった。
 静雄は口下手、弟は無口で、両親も穏やかに喋るタイプだったから、決して賑やかではなかったが、温かな御飯を家族と共に食べた記憶は、おそらく、静雄の中に家庭や家族のアーキタイプを作り上げている。
「お前、やっぱりすげーな」
「……シズちゃんが単純なんだよ」
 素直に感心すれば、それなりに嬉しいのだろう。そんな憎まれ口が返ってきた。
 そして臨也は、降参とばかりに胸の前で両手のひらをこちらに向けて、ひらひらさせる。
「はいはい、了解。シズちゃんなりに考えた結果が、これなわけね。俺的には色々残念だけど、いいよ、もう」
「いいのか?」
「うん」
 仕方ないだろうと言いたいのか、肩をすくめて臨也はうなずいた。
「最初からやり直せって言うのも馬鹿みたいだし、俺も別に、一流ホテルのスイートルームで、なんて考えてたわけじゃないしね。ていうか、もう忘れてるのかと思ってたんだよ。あれから一ヶ月以上経ってるし」
「忘れてねぇよ。もともと注文から受渡しまでの期間が五週間だったんだっての」
「それがね、一番の意外。まさかシズちゃんがこんな高いブランドのやつ、買ってくれるなんて思わなかったから」
 そう言い、ふふ、と臨也は笑う。楽しげなその笑みは、ひどく嬉しげでもあって、静雄もまた嬉しくなる。
 このブランドを選んだのは、純粋に良いものが欲しかったからでもあるが、臨也のこういう顔を見たかったからという理由も勿論ある。
 好きな相手──それも生涯の伴侶と決めた相手に、その証を贈るのである。そのためには自分ができる限りの範囲で最上のものを選ぶべきだと思ったし、また、叶うことならば臨也には、その気持ちを受け止めて心から喜んで欲しかった。
 そして、臨也の笑顔を見る限り、それには成功したと言っていいだろう。
 よし、と静雄はケースから煌めくペアリングのうち、小さい方を取り上げる。
 すると、臨也も一歩静雄に近付いて、左手を差し出した。
 顔は真っ直ぐに静雄を見つめ、やわらかく微笑んでいる。そのとても綺麗な表情に静雄も微笑んで、臨也の手を取った。
 入浴を済ませた後だから、いつも人差し指にしているシルバーリングも今は無い。
 節の目立たないすんなりとした形のいい五本の指のうち、迷わず薬指を選んで、手にした指輪をゆっくりと通す。
 ややきつめの感触で第二関節を通り抜けた指輪は、ぴったりとその先に納まった。
「きつくねぇか?」
「ううん、大丈夫。ちょうどいいよ」
 自らの左手に輝く指輪を嬉しげに見つめながら、臨也は答える。
 そして、手を伸ばしてテーブルの上のケースから、もう一つの指輪を取り出した。
「あれ、文字入れしたの?」
 リングの内側に刻印があることに気付いたらしい。照明に翳しながら、臨也は目を近づけて小さなその文字を読み取ろうとする。
「──201X.5.4. from I to S、って……」
「日付をどうしますかって言われてな。いいだろ、それで」
「………馬鹿じゃないの、シズちゃん」
 驚きよりも呆れが勝ったような表情で小さく笑い、まぁいいけど、と臨也は呟いた。
「でも、なんでよりによって俺の誕生日かなー」
「じゃあ、他にいつにしろっていうんだよ」
「まあ、確かに他にないけどね。あとは……ここに引っ越した日とか?」
 くすくす笑いながらも、臨也は静雄用のリングを指先で揺らめかせ、その鮮やかなきらめきを確かめてから、静雄を見上げた。
「シズちゃん」
 呼ばれて、おう、と左手を差し出す。
 すると臨也も、静雄がしたのと同じように静雄の手を取り、その薬指にゆっくりと指輪を通した。
 やはり少しきつい感触と共に第二関節を金属の輪が通り抜け、そして指の付け根近くにしっくりと納まる。
 そして二人は、自分と相手の手に輝くリングに、しばし見惚れた。
「……本当にお揃い、なんだね」
 サイズの差はあれど全く同じ、何とも言えないなめらかな線を描くプラチナの造形は、天井の照明をきらきらと眩しいほどに反射して煌めいている。
「よく似合うな」
「シズちゃんも。不思議だよね、俺の手と君の手は全然感じが違うのに、同じデザインが似合うなんて」
「それは店の人にも言われたな。一人ひとり似合うデザインが違うから、本当はお相手の方にも来ていただいた方がいいのですけど、って」
「うん。結婚指輪って普通、男女対のデザインで作られてるセットリングなんだけど、最近は、ブランドは同じでも違うセットのをそれぞれ選ぶケースも半分くらいあるらしいよ。そっちの方が自分に似合うからって。そんなの、ペアリングの意味ない気がするけどね」
「あー、でもこれも、対になってるのは少し違うデザインなんだぜ。小さなダイヤがついててよ。けど、店の人に聞いたら、うちのデザインには男女の別はないから、大丈夫だって言われて、同じデザインのサイズ違いにしたんだ」
「へえ、そうなの」
「対の指輪も綺麗だったけどな。お前のイメージじゃなかった」
「──これ、俺のイメージなの?」
「まあ、それだけでもねぇけどな。お前も知ってるかもしれねぇが、ここの指輪は全部、銘がついてるんだ。それが気に入ったってのもある」
 言いながら、静雄は自分の手元を見つめる。
 デザインもだが、その銘にこそ強く惹かれたのだ。二人が一生身に付け続けるだろう指輪に、その銘とそこに込められた意味をどうしても欲しいと思った。
 店頭で感じたその時の強い気持ちを思い返している静雄の心を察したのだろう、そっと臨也が問いかける。
「なんていう銘?」
「──『祈り』」
 短く静雄は答えた。
「添えてあった具体的な文句は忘れちまったけどな。繋いだ手を離さず、一生一緒にいられますように、っていうような意味合いだった」
 そう告げると、臨也は軽く目を見開き、それから微苦笑するように表情を崩す。
「恥ずかしいなあ、シズちゃん」
「別に恥ずかしかねぇよ」
「シズちゃんは平気でも、聞いてる俺が恥ずかしいの」
 くすくすと笑い声が零れる。
 だが、そこまでだった。
「────っ」
 不意に、臨也の両目からぼろぼろと涙が零れ始める。
「臨也」
 こうなるだろうということも予想していたから、静雄は驚かなかった。
 静雄の前だけでは泣き虫になる臨也が、揃いの指輪をして泣かないはずがない。だが、もし外で渡してしまったら、臨也は素直に泣けないし、たとえ泣いても、静雄は抱きしめてやることもキスしてやることもできない。
 それが指輪を渡すのに、この部屋を選んだ一番の理由だった。
 ここでなら、二人とも本当の自分をさらけ出せる。そのことが何よりも大事だったのだ。
「ごめ…っ、泣くつもり、なかったのに……っ」
「構わねぇよ。お前が泣き虫なのは知ってる」
 そう言った静雄の言葉に反論しかけ、しかし、臨也は声を詰まらせて、更にぼろぼろと涙を零す。
「──っ…全然、…」
「ん?」
「こ…んな、日が来るなんて……全然、想像したこともなかったから……っ」
 口元に手の甲を押し当て、嗚咽交じりに告げた臨也の言葉に、静雄は目をみはる。
「臨也」
「すごい……嬉しい……」
 涙に濡れて赤くなった目が、懸命に静雄を見上げてくる。静雄も、そこが限界だった。
 両腕を伸ばし、臨也を胸の中に強く抱き込む。細い体はすんなりとそこに納まり、臨也もまた、静雄の背中に両腕を回して、力いっぱいにしがみ付いてきた。
「シズちゃん、シズちゃん……っ」
「臨也」
 ほんの僅かな隙間も厭うように擦り寄ってくる体をきつく抱き締めながら、いざや、と何度も繰り返し、愛しい名前を呼ぶ。
 だが、想いは後から後から溢れてきて、尽きる気配もない。
「シズちゃん」
 泣き濡れてくぐもった臨也の声も、何度も何度も飽きもせずに静雄を呼んで。
「あの、さ」
 静雄の肩口にぎゅっと顔を押し付けたまま、臨也がかすれて震える言葉を紡ぎ出す。

「一目惚れだった、って言ったら、信じる?」

 その言葉を聞いた瞬間、静雄は心臓を鷲掴みにされたような気がした。比喩だけでなく、本当に胸の奥が締め付けられるように切なく痛む。
 馬鹿野郎、と思いながら、声を絞り出して。
「だったら、もっとそれらしい態度しろよ。気付くまで九年近くも遠回りしちまっただろうが」
 そう文句を付けると、腕の中で臨也が小さく泣き笑った。
「そんなの無理だよ。俺だって自覚なかったんだから。絶対、認めたくなかったもん」
 シズちゃんを好きだなんて。
 そんな捻くれたことを言う臨也が心底、愛おしい。
 もう二度と離れたくない、と強く思う。
 一生離さない。
 この腕の中の存在は一生自分のものだ、と思いながら、静雄は抱き締めた臨也の背中を撫でる。
「好きだ、臨也。もう一生、離してなんかやらねえ」
 想いのままに、黒髪の間から覗くこめかみに口接けながら告げると、うん、とうなずきが返った。
「臨也」
 抱き締める腕の力を少しだけ緩め、薄紅に染まった耳にキスをする。すると、ひくんと臨也は小さく震えて、その隙にあらわになった目元にもキスをすると、そこは濡れていて仄かに甘い涙の味がした。
「シズちゃん……」
「ん……」
 そのまま小さな顔に幾つものキスを繰り返してから、すべやかな頬をそっと手のひらで包み込むようにして見つめる。
 透明感のある色合いの瞳は、まだ水気を湛えたままだったが、臨也は目を逸らすことなく静雄を見つめ返した。
 いつも二人きりで寛いでいる時よりも更に無防備な、無垢なまでに純粋な想いだけが浮かぶ臨也の表情は、これまでに見たどの表情よりも綺麗で。
 何よりも貴いものが目の前にあることを強く感じながら、静雄は臨也の額に一つ、やわらかなキスを落とす。
 それから、もう一度目を合わせる。と、臨也が、シズちゃん、と澄んだ声で呼んだ。
「宣誓句って知ってる? 病める時も健やかなる時も、ってやつ」
「──ああ、聞いたことあるな」
 有名なフレーズだ。結婚式のときの誓句として、静雄もドラマや映画の中で見聞きしたことはある。ゆえにうなずくと、臨也は小さく微笑んで、その形のいい薄い唇を開いた。

「この者を我が伴侶とし、良い時も悪い時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓います」

 古来、連綿と続いてきたその誓いの言葉に、静雄はただ聞き入った。
 言葉の内容もさることながら、臨也がそれを口にした、ということを何にも変えがたいと感じながら、臨也を見つめる。
「誓ってくれる? シズちゃん」
 だから、最後まで言い終えた臨也が、静雄を真っ直ぐに見上げてそう問いかけた時、静雄の胸に広がったのは果てのないほどの愛おしさだけだった。
「誓う。この先死ぬまで、お前だけだ」
「──うん。絶対に離れないで。二度と俺を一人にしないで」
「しねぇ」
 また潤み始めた臨也の目元を親指の腹でそっとなで、それから、ゆっくりと顔を寄せて互いの温もりが通い合い、一つになるまで触れるだけの優しいキスをする。
 そしてゆっくりと離れた静雄は、そのまま軽く屈みこむようにして臨也の両膝裏を自分の腕で掬い上げた。
 前触れなく抱き上げられて目を丸くする臨也が何かを言う前に、その唇を自分の唇で再度塞ぎ、やわらかくキスを深めながら、キッチンを後にして寝室へと向かう。
 臨也もすぐに抵抗することを諦めたのか、単に流されたのか、静雄の首に両腕を絡めて深いキスに応えて。
 辿り着いた寝室のクイーンサイズのベッドに静雄が臨也をそっと下ろすと、ゆっくりと目を開けた臨也は、静雄を見上げて甘く微笑んだ。
「シズちゃん、うちで指輪を渡すのを選んだのって、これも狙ってたんだろ」
「バレたか」
 悪戯っぽく問いかけてくる臨也に、静雄も照明の明るさをリモコンで調節しながら悪ガキのように笑う。
 これについてはオマケ程度の話だが、外で渡すとなれば、どこかのホテルの部屋でも取らない限り、勢いのままにベッドになだれ込むことはできない。
 熱を燻らせたまま帰路を急ぐのも、それはそれでもどかしくも楽しかったりするのだが、さすがに今夜はそんな青臭い真似はしたくなかったのだ。
「でも、悪くねぇだろ」
「うん」
 ふふ、と笑って臨也は静雄の首筋に回したままだった手で、静雄の後頭部からうなじを愛情のこもった手つきで撫でる。
 だが、そうする間にも水気を帯びていた目に再び透き通った涙が滲んで、音もなく眦から零れてゆき。
 そんな臨也に、泣くなとは言わず、黙って唇を寄せて濡れたこめかみをそっとぬぐってやると、更にほろほろと涙が零れ落ちた。
 おそらく、と静雄は考える。
 今、臨也の中ではこの十年間のことが怒濤のように思い出されているのだろう。出会ってから静雄が臨也の想いに気付くまでの長い長い年月。そして、ひたすらに幸せだった、この一年余りの月日。
 その全てが飽和し、涙になって溢れ出してゆくのが目に見えるようだった。
「臨也」
 どうしてこんなにも愛しいのか分からないまま、静雄は自分の指輪をはめた左手を臨也の右手に重ね、指を絡める。すると、きゅっと力のこもった細い指が握り返してきて。
 離さないで、と言葉にならない言葉に請われているようで、ただでさえ溢れそうな想いが、更にいや増してゆく。
 なのに、
「好き。シズちゃん。本当に好き……」
 愛してる、と涙に潤んだ臨也の声が、一途に見上げる切ないまなざしが追い打ちをかけてくるのだ。自分の方こそ何もかもが溢れ出して、内側から壊れてしまいそうだと静雄は思わずにいられなかった。
「好きだ」
 どうにかして想いを解き放っていかなければ、本当に自分が破裂してしまいそうな錯覚に襲われて、そう囁き、口接ける。だが、そうする間にも、また新たな愛しさが湧き上がってきて、少しも水位は低くなる気配がない。
「くそ、止まんねぇ」
 目の前の存在はとっくに自分のものであるというのに、もっと何もかも自分のものにしたくてたまらない。
 細い顎先に口接け、耳の下の薄い皮膚に唇を這わせながら低く獰猛に呟けば、いいよ、と臨也の小さな声が返った。
「止まんなくていいよ、シズちゃん」
 何がとも分かっているとは思えないのに、臨也はそんな風にそそのかしてくる。馬鹿言え、と静雄は呻いた。
「お前を壊しちまう」
「大丈夫だよ、俺はそんな簡単に壊れたりしない」
 まるで恐れを知らない口調で臨也はそう答え、静雄の背を撫でる。
「ね、シズちゃん。俺を見て」
 請われてゆっくりと上体を持ち上げ、目線を合わせれば、臨也は潤んだままの瞳で真っ直ぐに静雄を見つめていた。
「俺が誰だか思い出して。誰もが怖がって逃げだす君に十五の時からずっと喧嘩を売り続けて、それでも壊れなかった、たった一人の人間だろ。確かに俺は、頑丈さではシズちゃんには敵わないよ。でも、そんな簡単には壊れない。そんなやわじゃないよ」
「臨也」
「全部受け止めたいんだよ、俺は。昔からずっとずっとそうだった」
 君のすること全部を自分のものにしたかった、と臨也は静雄を見上げる。
「一目惚れの自覚なんかなくったって、俺は出会ったあの日から君を一人占めしたかった。君を俺のものにすることができないのなら、君に嫌われるのも憎まれるのも、全世界で俺一人にしたかった。君がその目に映す人間は、俺だけでいいって……ずっとそう思ってたんだよ」
 そう告白する間にも、臨也の瞳からはほろりほろりと涙が零れ落ちる。それをたまらなく綺麗だと静雄は思った。
「壊して欲しいわけじゃない。でも、たとえ壊されても全部欲しいんだよ、シズちゃん。君になら殺されても俺は文句言わない」
 その余りにも純粋で貪欲な願いに、静雄の胸はどうしようもないくらいに締めつけられて。
「──言っただろ、お前が居なくなったら、俺は独りになっちまうって……」
 やっとの思いでそう声を絞り出し、臨也の前髪をかき上げるようにそっと撫でた。
「壊さねぇよ。一生大事にする。大事にするから……」
「うん……」
 うなずき、臨也はぎゅっと静雄を抱きしめる。
「俺を全部あげる。あげるから……シズちゃんを全部、俺にちょうだい」
「ああ」
 うなずき返して静雄も臨也を抱きしめ、唇を重ねる。深く深く、貪るように口接ければ臨也も同じように貪欲に応えて。
 二人の魂が一つに重なり、溶け合ってゆくのを、静雄ははっきりと感じた。
「臨也」
 もう一人ではないのだ、という思いが急速に全身の細胞に染み渡ってゆく。愛し愛されるこの存在がある限り、もう決して孤独になることはない。愛することも愛されることもできず、他人に触れることのできない自分を嘆く必要もない。
 臨也の孤独が過去のことになったように、静雄の孤独も、もはや過去のものだった。
 時が流れて、いつか再び一人になる日が来たとしても、それは過去に味わった孤独とは違う。全身全霊で愛された日々の続きであって、真の意味での孤独ではない。またいつか出会う日までの静かな時間だ。
「臨也、お前が俺を愛してくれて良かった」
 全身を貫く深い歓喜に、たまらず幾つものキスを繰り返し、ほっそりとした首筋に唇を這わせながら、静雄は告げる。
「お前に出会わなかったら、俺はずっと独りのままだった」
「それは……違うよ。俺が、ちょっかい……んっ、出さな、かったら……」
「違わねえ」
 いつか静雄は自分以外の誰かを愛して居なくなるはずだった、という臨也の強固な思い込みを静雄ははっきりと否定する。
「そりゃ俺のことを好きになってくれる奇特な奴は、世界中探せばお前以外にも居るかもしんねぇ。でも、お前みたいに全部を懸けて愛してくれる奴は、他にどこにも居ねぇよ」
 全身全霊を懸けて静雄に執着し、そして、静雄もまた、手加減や気遣いなしに感情を向けられる相手。
 そんな相手は、世界中探しても折原臨也ただ一人だ。
 愛おしさに気が遠くなるほどの想いをこめて、静雄はその甘く、すべやかな肌に口接ける。
 パジャマのボタンを一つ一つ外し、あらわになる肌に優しく手指を這わせ、しなやかで端整なその形を確かめてゆく。
 そのやわらかな触れ合いだけで臨也は小さく甘やかな声をあげ、身体を震わせた。
「っ、ふ…、あ……シズ、ちゃん…っ…」
 肌理の細かい肌は、こうして触れているだけでも恐ろしく心地良い。それなのに、更なる先を求めて臨也は静雄に手を伸ばしてくる。
 細い腕に肩を抱き寄せられ、応えるように淡い色の胸の尖りに唇を落とせば、臨也はびくりと息を詰めた。
「あっ……ひ、ぅん…っ……」
 まだやわらかなそこの周辺にやわらかく舌を這わせ、少しずつ硬さを帯びてきたのを見計らってから、舌先で優しくつついてやる。
 決して急ぐことなく、ゆっくりと何度もそれを繰り返しているうちに、小さな尖りがつんと丸みを帯びて熟れてゆく様に静雄は目を細めた。
「すげぇ可愛いな……」
 それに美味そうだ、と呟いて、やわらかく歯を立てる。
「ひぁ…っ! や、あ…っ…あぁ……ん、っ…」
 そのままふにふにと甘噛みしてやると、臨也は背をのけぞらせ、びくびくと震えながら甘い悲鳴を上げる。
 だが、静雄の頭をぎゅっと抱き締める仕草は、引き離そうというには程遠く、むしろ、もっととねだられているようで、それに応えるべく静雄は、反対側の尖りにも指を伸ばした。
 同じようにやわらかく薄い皮膚に覆われたそこの周辺を、指先で丸く優しく撫でる。
 そのうち中心が仄かに立ち上がってくるのを感じて、ゆっくりと指先を左右に滑らせてやると、臨也はまた甘い声を上げた。
「や、だ……っ、も…、それ…っ…っあ……感じ、ちゃう……!」
 細い爪をうなじに立てられて、愛撫を続けながら静雄は小さく苦笑する。
 感じちゃう、と言われて止める馬鹿がどこにいるだろうか。
「もっと幾らでも感じりゃいいだろ」
 つんとしこった尖りから僅かに唇を離して、そう囁き、再びやわらかく吸い上げながら、舌先で先端の敏感な箇所ををくすぐってやる。
 同時に、反対側も指の腹でやわらかく転がし、親指と中指で軽く摘まみ上げながら先端を人差し指でつついてやれば、面白いように臨也の体はびくびくと跳ねた。
「──っあ、ああ…っ、や、駄目、っシ、ズちゃ…ぁ……ひ、ぁ……!」
 感情の昂ぶりが最初から尋常でなかったせいもあるのだろう。いつもよりも遥かに感度よく静雄の愛撫を受け止めながら、臨也は早くも絶頂寸前のようなすすり泣きを零す。
 もどかしいのか、細腰までもシーツから浮いて不規則に揺れているのを感じたが、静雄は愛撫を止めなかった。
 左右を入れ替えて、それぞれを口唇と手指で優しく優しく愛してやる。
 やがて臨也の身体がその愛撫に少し慣れてきて、乱れていた呼吸が僅かに落ち着いたのを見計らい、静雄は少しだけ身を起こして、はじけんばかりに熟れた小さな果実のような尖りを両の手のひらでやわらかく転がすように白い胸を撫でた。
「ふ、あ…っ、ああっ……ん…っ、あ…っ…」
「こうされるの、気持ちいいんだろ?」
 一年以上も愛情を込めて抱き続けてきた身体だ。弱い所も、好きな愛撫の方法も知り尽くしている。
 耳元で囁いてやれば、臨也は甘やかにすすり泣きながら、こくこくとうなずいた。
「気…持ち、いい……っ、気持ち、い…か、ら…ぁっ…、も…ぅ…だめ……っ」
「駄目? 何がだ?」
 素直に愛撫に応える臨也が愛おしくて、少しだけ意地悪く問いかける。
 勿論、その間も愛撫の手は止めず、硬く張り詰めた小さな尖りをやわらかく摘まんで、その弾力を楽しむように強弱を付けてこりこりと揉みしだき、敏感な先端を舌先でくじるようにつつく。
「や、ああ…っ、駄目っ、だ、めだ…っ…て……ん、あっ…!」
 そして、そっと爪弾くように指の腹で優しく転がしてやれば、その甘い責めにたまりかねたように臨也は高い悲鳴を上げて、上半身を大きくのけぞらせた。
「──っ、ひ、ぁ…っ、あああぁ……っ…!!」
 細い首筋を晒して、びくびくと身体を痙攣させる。その過敏すぎる反応に、静雄はもしや、と手を止めて臨也の下腹部に目を向けた。
 臨也のパジャマは黒のコットンであるために分かりにくいが、よく見れば、確かにそこは濡れて色を濃くしていて。
「胸だけで達ったのか……?」
 さすがに驚いて呟きを零せば、耳聡くそれを拾ったのだろう。
「だ…から……、駄目って言ったのに……っ」
 快楽の余韻にぐずぐずとすすり泣きながら、恨みがましげに臨也が睨み上げてくる。だが、その羞恥に染まった表情は、いつもと同じように甘く宥めてやりたくなるようなものでしかなく、迫力は微塵もない。
 可愛くてたまらず、思わず微笑むと、涙に濡れた臨也の眦(まなじり)が更に吊り上った。
「何笑ってんの……!?」
「そんなん、お前が可愛いからに決まってんだろ」
 笑いながらそう言い、赤く染まった頬に手を添えて臨也が何かを言い返す前に、ちょんと唇にキスを落とす。
「すげぇ可愛い」
 そして目を覗き込んで告げてやれば、臨也は更に赤くなり、また泣き出しそうに目を潤ませた。
「だ…から、俺は男なんだってば! 可愛いとか、全然褒め言葉じゃないし……っ」
「でも言われんのは嫌いじゃねぇだろ」
 臨也が本気で嫌がれば、静雄は二度は言わない。だが、臨也もきちんと理解しているのだ。静雄が可愛いと言うのは、決して臨也を女扱いしているわけではなく、自分を一途に愛してくれるその心の形が愛おしいという意味だということを。
 だから、口先では何と言おうと、本心では嫌がっていないし喜んでもいる。それが分かるからこそ、静雄も可愛いという言葉を繰り返すのだ。
「──嫌いじゃない、けど、嫌だ…っ…」
「何だよ、それ」
 ここまでくると子供がぐずっているのと変わらない。思わず噴き出しながら、静雄は優しい手つきで臨也の頬を撫でた。
「じゃあ、言い方変えてやるよ。すげぇ好きだ、臨也」
 そう表現を変えてやると、今度こそ臨也は言葉に詰まって、悔しさ半分恥ずかしさ半分といった表情でまた目を潤ませる。
 その甘やかな表情に、ああもうこの野郎、と思いながら静雄はもう一度、唇を重ねる。そして深く口接けてやれば、臨也もまた懸命に応えながら静雄の首筋に両腕を回し、縋り付いてきた。
 何度も角度を変えながらキスを繰り返し、息苦しさからか臨也が首筋に爪を立ててきたのを合図にゆっくり解放してやると、臨也は呼吸を乱しながら目を開けて、シズちゃん、と名前を呼ぶ。
 その声のどこか意を決したような響きに気付いて、ん?、と静雄が見つめれば。
「あの…さ、俺が嫌だとか、駄目だとか言っても……、今夜は聞かなくていいから……」
「臨也?」
「シズちゃんの、好きにしていいから……」
 もどかしげに、そして切なげに熱を帯びた身体をすり寄せて、臨也は顔を赤く染めたまま、たどたどしく囁いた。
「俺を、シズちゃんでいっぱいにして欲しい……」
 身も、心も。
 全てを静雄で満たして欲しいとそう願われて、静雄の身体の奥深い部分がぶるりと震える。
 それはもしかしたら、身体ではなく魂が震えたのかもしれなかった。
「──ああ」
 真摯にうなずいて、静雄は臨也の熱を帯びた頬に口接ける。
「全部、お前にやる」
 今夜だけは素直になりたいと願う臨也の心が透けて見えるようだと、静雄は思った。
 生来の捻くれ者とはいえ、この一年で臨也の感情表現は随分と素直になり、静雄に対して訳の分からない屁理屈を捏ねる回数は目に見えて減った。殊に最近は、喜怒哀楽全般について完全に素のままでいると感じることが増えている。
 だが、臨也にしてみれば、それでもまだ足りないのだろう。
 今日という日だけ、この夜だけは何一つ隠さず、全てをさらけ出して愛し愛されたい。
 ついつい、先程のように売り言葉に買い言葉のような反応をしてしまうが、そんなものは無視して、心ゆくまで愛して欲しい。
 その想いが込められた言葉は、間違いなく、折原臨也という人間が差し出した最上級の愛情表現だった。
「臨也」
 愛しさに溺れてしまいそうになりながら、静雄は名前を呼び、薄い唇にそっと触れるだけのキスをする。
 すると、臨也も手を伸ばしてきて静雄の頬に触れ、そっと引き寄せてやわらかなキスを返した。
 そしてまた、潤んだままの透明感のある色合いの瞳で静雄を見つめる。
「シズちゃんも、俺を全部もらってね……?」
 その声は静雄を信じ切っているようで、その癖、どこかおずおずと希(こいねが)うようでもあって。
 静雄は溢れ出しそうな想いを懸命に抑えて、うなずいた。
「頼まれたって、ひとかけらだって残してやらねぇよ」
 お前は俺のものだ。
 そう囁き、ありったけの想いを込めて最愛の恋人に深く深く口接けた。

to be concluded...

四部作最終話。
次回で終わります。

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