Last Good-bye

 高層ビルの上階は、案外に音がうるさい。
 ビルとビルの間で街の喧騒が跳ね返り、共鳴しつつ空に向かって解き放たれるからだ。それにビル風も入り交じり、時にはつんざくような音が鼓膜を苛む。
 だが、この建設中のビルの最上部は、外壁が完成し切っていないがために、それらの喧騒から免れることができていた。
 まるで台風の目のような空白感。それは今の状況にとてつもなく似つかわしいと、臨也は思う。
 腰掛けているビルの端、下ろした脚の下に広がるのは淡い闇だ。幾ら明るい都会の夜とはいえ、五十メートルも地表から離れていては、下がアスファルトであろうとそうでなかろうと平均的な視力では判別などつかない。
 その永遠の深淵に続く奈落を覗き込むような心もとなさも、実にこの夜にふさわしく、臨也は満足だった。

 今頃、彼は何を考えながら階段を上っているのか。
 星が消えた漆黒の夜空を眺めつつ、臨也は思いを馳せる。
 耳の奥では、先程、電話越しに聞いたばかりの「あばよ」という一言だけが鳴り続けていた。
 あれほど穏やかに名前を呼ばれたことは無かった。
 臨也、といっそ優しげなほどの声音。
 ああ、この男はこんな声をしていたのだと久しぶりに思い出したような気分になった。――現実には、そんな声を自分に向けて響かせられたことは一度もないのだが。
 彼が自分を呼ぶ時の声は、壮絶な憤怒と絶大な嫌悪、その二色(ふたいろ)に塗り潰されていて、他の感情を探し出そうとすることすら思いもよらなかった。
 だが、先程の声には、その二色の感情すら伺えず。
 あったのは、ひたすらに静穏。ただ、それだけだった。

 物質が爆発する直前、内圧と外圧が均衡を保って静止する瞬間がある。
 今のあの男の状態はそれだ。
 そういう一瞬の均衡状態に陥った彼を、これまでに見たことがないわけではない。
 静から動へ瞬間的に切り替わる特異な感情の起伏の持ち主であるがゆえに、爆発する前にはいつも必ず、僅かなためがある。
 しかし、臨也がこれまでに見てきたいずれとも、今の彼の状態は違っていた。
 たとえるのならば、宇宙創成のビッグバンの一秒前、とでもいうところだろうか。
 永遠の凪のような限りない静穏。
 その次に待ち構えているのは、前代未聞、あるいは空前絶後と呼ぶしかないエネルギーの解放だ。
 ビッグバンの後には今の宇宙ができた。ならば、人間でありながら限りなく人間からかけ離れたあの男は、一体何を生み出すというのか。
 その光景を見ることができれば面白いだろうな、と臨也は考え、口の端を小さく吊り上げた。

「九年……、いや、もう十年になるのか」

 改めて振り返れば、実に長い時間が経過している。
 互いにとどめを刺すまでに、どうしてこれほどまでの年月を要したのか。その理由は臨也自身にも、よく分かっていなかった。
 決定打がなかったということはある。少なくとも臨也は、静雄を殺せるだけの手段を持たなかった。
 機関銃で一分間に二百発以上の弾を打ち込むか、対戦車ミサイルを打ち込むかすれば、さしもの化け物も息の根が止まるだろう。だが、そんなものを調達する方法など、一介の市民にあるはずもない。
 所詮はただの人間である臨也にできたのは、あの化け物が早く死にますように、せめて身動きが取れなくなり、自分の前に現れることがなくなりますようにと祈ることだけだった。
 一方、静雄の方はどうであったのか。
 殺す殺すと常に喚き立てる割には、臨也に骨折以上の重傷を負わせたことはない。
 それこそ脚を潰しでもすれば、臨也が情報屋という裏稼業を続けることは困難になるにも関わらず、彼の姿勢は一貫して、池袋から臨也を追い払おうということに集約されていた。
 その生ぬるさが、一体どこから生まれてきたものであったのかは、臨也の知ったことではない。
 ただ、静雄のそういうぬるい部分が、どうしようもなく臨也を苛立たせ、二人の諍いを長引かせてきたことは確かだった。

「君と俺は、どうして殺し合わなきゃいけなかったのか……。その答えは神様だって持ってないんじゃないかな。もし、答えがあるなんて言われたら、俺はその神を殺したくなるだろうね」

 神の思惑だろうが宇宙の節理だろうが、知ったことではない。
 ただ、気に食わない。
 静雄に出会って以来、臨也の中にあるのは、常にそれだけだった。
 もっとも、初めて実物の彼を目にした時、初めて特撮物のテレビ番組を見た子供のように気分が浮き立ったのは事実だ。それを否認する気はない。
 圧倒的な暴力。人の形をした理不尽の塊。
 欲しい、と腹の底から思った。
 この絶大な力が意のままになれば、どれほど面白いだろう。そう思ったのは間違いなく真実だった。
 だが、当の化け物の方は、臨也の思惑を真っ向から拒絶した。
 同時に臨也の方も、至近距離で目と目が合った瞬間、彼と自分は決して相容れない存在であることを理解した。
 間違いなく、二人は天敵同士だった。
 ただ、誤算があったとしたならば、臨也が一番最初に彼に対して抱いた、欲しいという執着。それを完全に振り払うことが中々できなかったということだ。
 その主原因は自分の内にではなく静雄にある、と臨也は分析している。
 決してとどめを刺そうとはしない静雄のぬるさ。
 化け物にあるまじきその隙が、臨也の愚かしい期待をも細く細く生き長らえさせたのだ。
 ―――もしかしたら、今度こそ。
 策を巡らせる度に思考の片隅で、ついついそう考えてしまうことが、どれほど苛立たしかったか。
 絶対に手に入らないということは最初の時点で分かっていたのに、本当に「もういい」と臨也が見切りをつけることができたのは五年もの月日が過ぎてからの話だった。
 だが、静雄のタチの悪さは筋金入りだった。
 冤罪を被せて今度こそ徹底的に自分を憎めるよう仕組んでやったのに、彼がぬるさを完全に振り払うまでには、更に五年もかかったのだから、もはや呆れて物も言えない。
 だが、今、静雄は人間的な全てを捨て去り、純粋な怒りと憎悪のみを抱いて自分のもとに辿りつきつつある。
 それを思うと、たまらないほどに臨也の心は浮き立ち、満ち足りた。

「本当に長かったよねえ」

 付き合いだけで言うのなら、新羅の方が静雄よりも三年、古い。
 だが、濃密さで言うならば、静雄ほど近く付き合った相手はいなかった。
 十年も殺し合う馬鹿な関係など、普通なら築きたくとも築けないだろう。
 こうして振り返ってみれば、あっという間の歳月だった。

 昔も今も愚かしいことをしているという自覚は重々ある。
 人生の半分近い歳月を静雄を潰すことだけに費やしてきた。
 何とも無駄な時間であり、労力だ。建設的なことに振り向ければ、どれほどのことができただろう。
 だが、臨也の関心は、平和島静雄にしか向かなかった。
 本気で欲しいと望んだのも、本気で殺したいと思ったのも、彼唯一人だった。
 この感情をどう呼べばよいのか、長年考えてはいるが答えは見つかっていない。
 恋ではない。そんな生ぬるい感情では決してない。
 かといって、純粋な憎悪や嫌悪かと問われたら、そんな生易しいものではないとも思う。
 眉をしかめながらも、存在そのものを気にせずにはいられない。
 腹を立てながらも、何かにつけ、その姿を、その物言いを思い浮かべずにはいられない。
 それはたとえるならば――どうしようもないほどに捻じ曲がり、歪んだ執着、あるいは愛、だった。

 十年の時を経て、その愛と呼べるかもしれない何かにもようやく決着がつこうとしている。
 真実、彼が居なくなったら、自分はどう感じるのか。
 そう想像したことは何度もあるし、人に問われたこともある。
 その度に口先では、せいせいすると嘯いてきたが、本当のところは全く想像がつかないというのが正直な思いだった。
 解放感を味わうのか、喪失感を味わうのか。
 そのどちらでもあるような気がするし、どちらでもないような気もする。
 臨也の中ではっきりしているのは、静雄さえ目の前から消えてくれるのなら、その後に待ち受けるものは、もう何であろうと構わないということだけだった。
 この殺し合いを生き延びることができたなら、あとは平和島静雄のいない世界で、自分はまた生きるだけだ。
 彼のいない世界で、笑い、嗤い、この街の光と影の狭間を歩き続ける。
 意味も価値もない、ろくでもないクソッタレの人生がこの先も続く。
 それだけのことだった。

「俺と君は、出会うべくして出会ったのかもしれない。俺はこういう人間だし、この俺を真っ向から止められる人間がいるとしたら、それは多分、君のような奴でしかないんだろう。これが天の配剤ってやつかもしれない。でもね、シズちゃん」

 夜の池袋を見つめ、臨也は静かに呟く。

「俺は、君にだけは出会いたくなかったよ」

 こんな風に決着をつけるしかない不毛な関係など。
 決して欲しくはなかった。
 百万回、出会いをやり直したところで自分たちは天敵同士にしかならない。
 静雄が自分に屈服することはあり得ないし、自分が彼に感化されて改心することもない。
 永遠に二人は分かり合えない。
 理解することも尊重することもできず、ただ苛立ち、傷付け合うばかりならば、出会った意味などどこにあるだろう。
 並び立てぬ存在が、互いを食らい合う。
 自分たちの間には、それ以上もそれ以下もないのだ。
 そこに一体何の価値があるだろう。

 けれど、それでも。
 自分たちは出会い、ここまで来てしまった。
 今、自分にあるのも静雄にあるのも、いかに相手の息の根を止めるかという一点のみだけだ。
 他には何もない。
 ここまでそれぞれに思惑を持って街を走り抜け、数多の人とかかわり合って、その最後の最後にそれぞれの手に一つだけ残ったもの。
 それはやはり、どうしようもないほどに捻じ曲がり、歪んだ執着、あるいは、たった一人の天敵に対する愛、だった。

 ただの人間である臨也の耳には、階段を上る足音など聞こえない。
 武術の達人ではないから、気配など感じ取れない。
 それでも、もうすぐ彼がこの場に姿を現すことだけは、ひしひしと感じる。
 そう、最後の数段を上り。
 ドアの取り付けられていない開口部へと足をかけて。
 彼は自分のもとへとやってくる。
 二人が出会ってから初めて、純粋な殺意のみをその眸に光らせて。




「さあ、始めようか。――シズちゃん」

End.

<< BACK