ある晴れた日に 04
繰り返されるキスの温もりが、やんわりと全身に広がってゆく。
その甘い優しさが心地いい、と臨也は素直に思った。
広いベッドの上で向かい合い、座り込んだ静雄の太腿の上に完全に乗り上げる形になると、臨也の方が少しだけ目線が高い。
既に臨也は着ていたセーターを脱ぎ捨て、静雄もまた、シャツの前ボタンは全て外れて、綺麗に筋肉のついた腹部まで完全にはだけてしまっている。勿論、ボタンを外したのは臨也の仕業だ。
その辺はかつてと変わらないのに、あらゆることが過去とは決定的に違う。
こんな風に触れ合うことが自分たちにできるなんて、と感動すら覚えながら、そっと手を上げて静雄の肩に触れる。
洗いざらしのやわらかなフランネルの感触の下に、確かな筋肉で覆われた肩骨がある。首から腕へ、あるいは背中へと繋がる起点であるそこは、臨也の手のひらにぴったりと沿う形をしていて、そんなことさえも不思議に嬉しい。
本当にどうかしている、と思いながら、臨也は何度も触れては離れるキスにうっとりと溺れた。
「臨也」
響きのいい声が耳元で名前を呼び、耳の下の薄くてやわらかい皮膚を温かな唇がそっと食む。たったそれだけの刺激でも、臨也の背筋はふるりと震えて先を望む。
その言葉には拠らないサインを目ざとく読み取ったのか、静雄の唇はゆっくりと頸動脈に沿って首筋を降りてゆき、肩と首の境目で、また皮膚と筋肉を甘噛みした。更にやんわりと痕の付かない程度に歯を立てられて、そこから小さな稲妻が身体の深い部分に向かって走ってゆく。
まるで本能だけの獣になったように、喜びをもって臨也はその感触を受け止めた。
考えてみれば今日、静雄を伴ってこの部屋に戻ってきてからというもの、性欲に睡眠欲に食欲と、本能に忠実な欲望しか満たしていない。
今も、真っ昼間から何をしているのだという思いが脳の理性的な部分から湧き出してくるが、しかし、その声は、感情を止めるには余りにも小さかった。
「ねえ、シズちゃん」
緩く抱きしめられ、肉体を構成する骨や筋肉の一つ一つを味見するかのように優しく歯を立てられ、舌を這わされる。
そこから生まれる熱に酔いそうになりながら、臨也はそっと囁いた。
「さっきの、もう一回言って……?」
さりげなく告げたつもりだったのに、自分らしくもない、ひどく甘ったるい声になってしまったことに恥ずかしさを覚える。だが、こんな場面で、他にどんな声を出せばいいというのか。
そんな風に言い訳めいたことを思ったが、幸いなことに、静雄は臨也の声音については突っ込んでくることはなかった。
「何をだよ」
言葉そのものに気を引かれたらしく、臨也の鎖骨のほっそりとした形を確かめる作業を中断して問い返してくる。
そうして改めて問われれば、また新たな恥ずかしさが臨也の胸の内に差した。
言葉をねだるだなんて、一体自分はどこまで堕ちてしまったのか。
けれど、どうしてももう一度聞きたかった。三年前は聞きたくても聞けなかった、ねだることすらできなかった言葉を。
こみ上げる切実な欲求に突き動かされて、臨也はそっと唇を動かして思いを音声に変える。
「どこにも行くなって……離れるなって、もう一回言って……?」
至近距離から見つめてくる鳶色の瞳を覗き込みながら告げると、一瞬、目が見開かれ、それから深い色合いを湛えて細められた。
そこに浮かんだ表情は、切なさ、で合っているだろうか。そんな風に分析していると、静雄の目線が逸れて頭が下がってゆき、臨也の首筋、頸動脈の真上をがぶりと静雄は噛む。
痛みの一歩手前の疼くような感覚に、臨也が思わず目を閉じると、すぐ耳元で静雄の声が聞こえた。
「もうどこにも行かせやしねぇよ」
甘さを含んだ、獰猛にさえ聞こえる低い声が宣言する。
「離してなんかやらねぇ」
望んだよりも遥かに強い、引き止める言葉ではなく、捕えて我がものとする言葉を囁かれて、ぞくりと身体が震えた。
「な…んなの、その俺様宣言」
俺、そんなこと言ってって頼んでない、とかろうじて言い返すが、静雄相手に通じるはずもない。
案の定、答えは再度の甘噛みだった。
俺のものだ、と宣言するような愛撫に目がくらむ。小さく体が震え、心臓の鼓動が速くなる。
捕食者に食らわれることを期待して喜ぶような身体の反応に、臨也が戸惑い、恥ずかしさを感じるのと、静雄の掌が左胸に置かれるのとは、ほぼ同時だった。
「すげぇ心臓、速くなってんな」
それに熱い、お前、体温低いのに、と言われて更に全身がかあっと熱くなる。
反論したくても、咄嗟に言葉が出てこない。静雄とのSEXで、こんな恥ずかしい思いをするのは初めてのことだった。
元々が殺伐とした感情の上で始まった関係だったから、これまでは肌を晒すにしても身体を開くにしても、羞恥心を感じたことは一度もない。あるとしたら、仇敵相手に甘い声を上げてよがってしまうことへの屈辱であり、それも、ともすれば快楽の前に薄れてしまう儚い感情だった。
言葉もキスもろくにかわさず、身体だけを繋げる。そこには羞恥心が介在する余地など、どこにもなかったといっていい。
そんな過去に比べて今、言葉を交わしながら触れ合っていることが、たまらなく恥ずかしい。どう反応すればいいか分からないだなんて、およそ初めての経験だった。
慣れない展開に上手く言葉を操ることすらできず、固まってしまった臨也を見つめて、静雄がふっと微笑む。
臨也の前では、まずまともに笑うことのなかった静雄のその表情に、臨也の心臓がまたどくんと音を立てて逸った。しかも、静雄の掌はその上に置かれたままであり、全てを見抜かれているのかと思うと、本当に身の置き場がない。
「シ、ズちゃん」
「ん?」
「手……、どけてよ」
小さな小さな、蚊の鳴くような声で懇願する。
「なんで」
「なんでって……」
問われて、臨也は返答に窮した。
女性ではあるまいし、たかが胸の上に手を置かれた程度で、恥ずかしいだなどとは到底口に出せるものではない。
でも現実問題として、顔から火が出そうなくらいに恥ずかしい。
どうにもできないまま、ぎゅっと口を引き結んで、僅かに目線の低い静雄を見下ろしていると、またもや静雄が微笑んだ。
「お前、そういう顔もできたんだな」
「そ、ういう顔って」
正直、憤死すること確定な説明など聞きたくなかったが、条件反射的につい言い返してしまう。
「そういう顔」
それに対し、静雄は臨也の目元をぺろりと舐めただだけで、それ以上の説明をしようとはしなかった。
そのことに臨也は少しだけほっとするが、しかし、『そういう顔』を静雄の眼前に晒していることには変わりない。居たたまれなさから逃れたくて、小さく身じろぎすると、背に回されていた静雄の腕の力がわずかに強くなった。
「シズちゃん……」
咎めるというよりは途方に暮れた声で名前を呼ぶと、今更だろ、という言葉が返る。
「俺と何度、こういうことしてんだよ」
「……回数の問題じゃないよ……」
先程の勢いに駆られたSEXも過去のいずれの経験とも違っていたが、今はまた話が違う。決定的な言葉だけは互いに吐いていないものの、それ以外の全てを暴露し合った直後に感情の高ぶりを抑え切れず、また寝室に戻ってきての行為である。
何もかも勝手が違うし、相手のしぐさの一つ一つにこみ上げる感情も、また色合いが違う。冷静に受け止めて対処しろという方が無理だった。
だが、ぐるぐる考えている臨也の空気を、静雄は全く読む気はないらしい。
「まあ、俺も初めて、お前を可愛いと思ったけどな」
その暴言に、さすがの臨也も絶句する。
静雄がおかしくなったのか、それとも情緒に欠ける彼にもそう言わせるほどの表情を自分が晒してしまったのか。
後者だったのなら、本当にどうすれば良いのだろう。思い切り殴ったら記憶を失ってくれたりしないだろうか。しかし、過去十年間どう手を尽くしても倒せなかった化け物を、一体どうやって昏倒させればよいのか。
「それ、シャレになってない」
さすがに本気で死にたくなりながら、かろうじてそうとだけ言い返し、手を伸ばして静雄のフランネルシャツの襟元を掴み、引き寄せて口接ける。
言葉の応酬で負けを認めるのは癪だったが、しかし、このまま放置していては余りにもダメージが大き過ぎる。
「も、いいから、続きしよ?」
ともかく黙らせたくて、そう囁くと、静雄はどこか感心したような得心したような顔でまばたきした。
「お前って言葉責めに弱いタチだったのか?」
「は、あ?」
「すっげえ予想外」
「ち、ちょっとシズちゃん、妙な誤解やめてよ」
「あー、でもSMっぽい普通の言葉責めは平気そうだよな。平然と言い返してくる気がする。――なるほどなぁ」
「ちょっと、何一人で納得してんのさ!」
抱き締める腕を何とか引き剥がそうともがきながら、臨也は静雄の妄想を止めるべく声を上げる。
だが、静雄の方は、まるで気にする様子がなかった。
「別にいいだろ、今更お前の弱みを握ったからって、どうする気もねぇし」
「だから、弱みとかじゃなくて! 俺はそんな気(け)はないから!」
決して言葉責めに悦ぶような性情の持ち主ではない、と強く訴えると、静雄はわずかに目を細めて、ふぅん、と呟く。
「臨也」
「――何」
はっきり言って悪い予感しかしない。直感的にそう思ったものの、抱き締められて体のあちこちが触れ合っているような状態では逃げようもなかった。
「可愛い」
顔を寄せ、わざわざ耳元でそう囁き込まれて。
「真っ赤になって泣きそうなお前の顔、すげぇ可愛い」
顔面ばかりか全身が、再びかあっと熱くなる。
「シズ、ちゃん」
やめて、と懇願するが、聞いてくれる相手ではない。
「食っちまいてぇ」
そんな囁きと共に首筋に歯を立てられて、臨也は耐え切れずに目を閉じた。
まるで自分らしくない反応だと分かっていても、どうにもならない。それほど静雄の声と言葉には破壊力があった。
そんな臨也の様子をどう見てとったのか、緩く抱きしめていただけだった静雄の腕が臨也を更に引き寄せて、胸の中にぎゅっと抱き込む。
顔が見えなければそれだけましのような気がして、静雄の首筋に頬をすり寄せると、どこかアンバーの香りに似た彼自身の肌の匂いが感じられて、とてもではないが頬の熱さも逸る鼓動も収まる方向には向かない。
もうやだ、とフランネルシャツを掴む手を爪を立てる形に変えれば、静雄が小さく含み笑うのが触れ合った箇所から直接伝わってきた。
「なんか、誰かがもういい、って言ってくれたような気がするな」
「――?」
不意にそう言われて、臨也は閉じていた目を開き、まばたきする。僅かに身じろいだだけの仕草でも問いかけの意は通じたのだろう。静雄の手が慣れない手つきで臨也の髪を撫でた。
「お前ともう会っても大丈夫だ、ってよ。今なら会ってもいいっつーか、会え、って誰かが許してくれたみたいだ」
それは多分、十日前の再会のことを言っているのだろう。
確かに、静雄は臨也を探していたとは言ったが、それは気持ちの上での話で、具体的に臨也を探すための手立てを彼が持っていたわけではない。
そして一方、臨也はと言えば、もう二度と静雄に会うつもりはなく、少なくとも自分から会いに行く気はなかった。
だから、再会は本当に偶然の産物で、臨也があの日あの時、あの道を歩いていなければ、静雄は臨也を見つけることは出来なかったはずなのである。
本当に千載一遇のチャンスだったのだ。
こういうのを天の配剤というのかもしれない。本心では神も運命もまるで信じていない臨也だったが、今の自分たちの現状を考えると、その全てを否定するのは難しいような気がした。
だとすれば、自分たちはもう大丈夫なのだろうか。あの頃のように否定し合い、傷つけ合うことはもうないのだろうか。
こんな風に温かな感情だけで繋がっていけるだろうか。
臨也がそう思った時、なあ、と静雄の声が臨也を呼んだ。
「そういや俺、お前の答えを聞いてねぇ気がすんだけど」
「――答えって?」
何の話かさっぱり分からず、顔を上げないまま、おそるおそる問いかける。
すると、静雄の手が少しじれったそうに臨也の背中を撫でた。
「どこにも行くなっつったろ」
そう言われて、三秒ほど考えてから臨也は首をかしげる。
「……それって、答えが必要な話だったの?」
「要らねぇとは言ってねぇ」
「……俺、うなずかなかったっけ」
昼食前のSEX中に、もう離れんな、と言われた時に、うなずいたような気がする。そう思い、問いかければ、静雄はきっぱりと答えた。
「あー、そうだったな。でも、言葉では聞いてねぇよ」
「……あ、そう」
でも、言って欲しいとねだった時点で、答えは分かっているのではないか。そう思いはしたものの、しかし、理屈の通じる相手ではない。
静雄は単純に臨也の答えをはっきり聞きたいと思ったのだろうし、臨也が答えるのを拒めば、機嫌を損ねるまではいかなくとも不満を感じるだろう。
そんな小さな不満など直ぐ忘れる性格だということは分かっていたが、頑強に拒むほどのものでもない、という結論に達して、臨也は目を閉じる。
「──もう、どこにも行かないよ」
小さな声で、静雄の髪に頬を寄せたまま、そう告げる。
だから離さないで、と続けるのは、さすがに無理だったが、それでも十分に伝わったらしい。ぎゅっと一瞬静雄の腕の力が強まり、それから力が緩んで、頬にやわらかく触れた手が顔を上げろと促してきた。
やだ、と小さく首をすくめれば、親指の腹でそっと頬骨の辺りを撫でられる。そのくすぐったさに絆されかけたタイミングを見計らったかのように、静雄の指が顎にかかって顔を上げさせられた。
至近距離で合った鳶色の瞳にじっと見つめられて、臨也は居心地の悪さにまばたきし、目線を伏せる。
すると、その目元にそっとキスを落とされた。
目元ばかりでなく、頬にもこめかみにも鼻先にも愛おしむようなキスの雨を降らされて、臨也はたまらない気分になる。
くすぐったくて、むず痒くて、何だか逃げ出したい。むしろ泣き出してしまいそうな、そんな心許ない感覚に耐えきれず、小さく身を引いて静雄の唇から逃れ、シズちゃん、と制止の意味を込めて名前を呼びながら目を開ける。
だが、それは間違いだったかもしれなかった。
「シ、ズ…ちゃん」
こちらを見つめる静雄のまなざしはひどく真摯で、それでいて甘く酔ってしまいそうな光を湛えている。
その目を見て、臨也は唐突に気付いた。或いは、気付いてしまった。
愛おしむような、ではない。本当に愛おしまれているのだ。
十日前に再会した時点で、執着を持たれていることは分かっていた。今日、駅で目と目が合った時点で、自分たちの間にある感情が、煮えたぎった糖蜜のような想いであることも分かっていた。
だが、おそらく本当の意味では分かっていなかったのだ。
自分の感情を制するだけで手いっぱいで、静雄の感情を真実、理解するにまでは至っていなかった。
そんなここまでの一連の流れで分かっていたつもりのことが、突然、怒涛のような理解を伴って臨也の内に流れ込んできて、息が止まりそうになる。
「臨也?」
静雄を見つめたまま固まってしまった臨也を心配して、静雄が名前を呼ぶ。その声すらも優しくて、臨也は泣きたくなった。
こんな瞳で自分を見つめて、こんな声で自分を呼んでくれるのなら、もう他に何もいらない。心の底からそう思いながら、そっと顔を寄せて、静雄の唇に自分の唇を重ねる。
触れて離れるだけの、情けないほど拙いキスだったが、そうすることしかできないこの想いが伝わればいい、伝わって欲しいと思いながら、静雄の目を覗き込む。
そこには泣き出しそうな自分の顔が映っており、静雄は真摯な感情にほんの少しだけ困惑を混ぜ、臨也を見つめ返していて。
「……泣くなよ」
不器用な言葉を唇に乗せて臨也の頬を撫で、それからゆっくりと口接ける。
臨也ももう抗わず、静雄の首筋に素直に両腕を回してそれに応えた。
たかがキス、たかが粘膜の触れ合いだ。なのに、とろけてしまいそうに甘い。泣けてくるくらいに切ない。
「シズちゃん……」
キスの合間に自分でも分かるほどに潤んだ声で名前を呼べば、宥めるように情感の込められた掌が背を撫でてくれる。
単に優しいだけではない、そこに熱のこもったその感触に臨也はまた心臓の鼓動を早めながら、静雄のシャツの合わせに指先を掛けた。
そうする間にも、また口接けられて反射的に目を閉じてしまうから、シャツを脱がせるのは、ほぼ手さぐりになる。だからといって白旗を上げるわけにはいかず、臨也は半ば意地のようになってキスに応えながら、律儀に静雄が留めていた袖口のボタンをも外し、肩からシャツを引き下ろして静雄の肌からやわらかな布地を引き剥がした。
すると、それを合図にしたかのようにキスが途切れ、くるりと視界が回転して、臨也はベッドの上に仰向けに組み敷かれる。
その姿勢のまま見上げれば、静雄は優しさと楽しさがないまぜになった光を目に浮かべて臨也を見つめ、伸ばした掌を臨也の頬に当てる。そして、そこからゆっくりと下へと手を動かした。
首筋を滑り降り、触れるか触れないかのやわらかなタッチで身体の線をたどってゆく。そして、ウエストまで辿り着くと、その手は、今度は逆に上に向かって上り始めた。
「シ…ズちゃん……」
温かく大きな掌が、ゆっくりと薄く筋肉で覆われた腹部から胸部へと上がってくる。それがどこを目指しているのか、疑問を挟む余地もなかった。
肌の上を滑る感触に身をすくませながら、その時をじっと待っていると、温かな指先が胸元をなぞり、心臓の鼓動を探り当てて止まる。
「やっぱり速ぇ、な」
「……この状態で普通だったら、シズちゃんだって困るんじゃないの」
ささやかに言い返せば、静雄は少しだけ考える素振りを見せ、しかし、答えるには如かずと判断したのか、無言のまま臨也の肌に唇を寄せて、かり、とほっそりした鎖骨をかじる。
ずるいよ、と臨也はなじったが、その甘い響きは睦言と変わらず、静雄が動きを止めることもなかった。
それ以上の追求は臨也も諦め、全身を確かめるように触れる静雄の手指や唇の動きに身を委ねながら、静雄の少し痛んだ金髪や、細身であってもしっかりと広い肩を撫でる。
一つ一つ触れられてゆくうちに、最初のうちはくすぐったさと紙一重だった感触が少しずつ色を変えて、たまらない疼きへと繋がってゆく。そのもどかしいような感覚が、臨也は好きだった。
こうして時間をかけられればかけられるほど、後から得られるものは深く、大きくなる。かつて、まるで恋人に対するような静雄の愛撫を受け入れていることについて、臨也はそんな風に理由付けしていた。
それは確かに、真実の一面でもあったが、素直になってみれば本心はもっと単純で、性急に体を繋ぐのとは対極の丁寧な愛撫が嬉しかったからだ。
即物的な快楽を求められるだけでなく、とても大切に愛されているような錯覚。それを味わいたくて、静雄のもとに事ある毎に通っていただけの愚かしい話だ。
そんな自分の惨めさから目を逸らして、自分の中から湧き起こる不可解な苛立ちを、ひたすら静雄にぶつけていたかつての己に、臨也はほろ苦い笑みを口元に浮かべる。
すると、不意に胸元の尖りに軽く歯を立てられて、そこから全身に響いた甘い感覚に、思わず臨也は小さな声を上げた。
「何考えてんだよ」
「え……ああ、」
臨也が意識を逸らしていることに気付いての報復だったらしい。少しばかり不機嫌さを滲ませた静雄の声とまなざしに、臨也はきょとんとなり、それから合点してうなずく。
愛撫している最中に、受けている側が上の空だったら、誰だって腹を立てるだろう。だから、静雄の苛立ちを理不尽だとは思わなかった。
「ごめん……ちょっと昔のこと、思い出してたから」
「昔?」
「うん。三年前までのこと」
素直にそう告げると、静雄もまた考えるような思い出すような目になる。
それを見て、不意に臨也は、ずっと聞きたかった質問があったことを思い出した。
「ねえ、シズちゃん」
少しぱさついた静雄の髪を指で梳きながら、問いかける。
「どうして、俺が誘った時に拒まなかったの? それに、どうして乱暴にしなかったわけ? 特に一番最初とかさ……」
それを聞いた静雄の眉が小さくしかめられる。そういう難しいことを俺に聞くな、というような表情にもめげず、じっと目を覗き込むと、静雄はほどなく諦めたように溜息をついた。
「なんでっつっても、分かんねぇよ。……まあ、お前がいきなり誘ってきた時は驚いたけどな。でも、そのうちの半分は、そういう関わり方もあったのかっつー驚きだった気もする」
静雄も全くこの件について考えたことがなかったわけではないのだろう。訥々とした語り口ではあったが、ゆっくりと言葉を選んで並べてゆく。
「殴り合ったり殺し合ったり、そういうのとは違う付き合い方ができるんなら、してみたかったのかもしんねぇな、俺は」
俺は、という物言いに少しだけ責められたような気がした。
あの時、臨也もそういう気持ちで向かい合ったのであれば、確かに自分たちの関係はその時点で変わっていたかもしれない。
だが、臨也が抱えていた感情は、その真逆だった。そんな相手と抱き合うことを静雄はどう受け止めていたのか。
「嫌だとは思わなかったの? 俺が君に対して良くない感情を持ってたのは、抱き合ってれば伝わっただろ」
「あー、まぁな。俺もそこまで馬鹿じゃねぇし、そもそも手前のことなんざ信用してなかったし。でもまあ、殴るよりは気分はマシだったからよ」
その答えを聞いて、臨也は少し考える。
つまりは、臨也相手でも殴った後の自己嫌悪はあった、ということなのだろう。対して、SEXは臨也から誘いかけたものであり、少なくともそこには痛みを伴う分かりやすい暴力は存在しなかった。静雄にしてみれば、その分だけ、僅かなりとも気分は楽だったのかもしれない。
「……拒まなかった理由は分かったよ。でも乱暴にしなかったのは?」
「それはフェアじゃねぇとか、そういう風に思ったんじゃねぇのか」
「フェアじゃない?」
あまりにも自分たちには似つかわしくない単語が飛び出して、臨也は鸚鵡返しに呟く。
「SEXと殴り合いは、全然違うもんだろ」
すると、静雄は目線を逸らしたまま、一つ目の問いかけと同じように言葉を探し探し答えた。
「喧嘩してる時は、俺が殴りかかっても、お前は避けるだろ。でも、SEXは……一度突っ込まれちまったら逃げらんねぇ。そもそも同じ男なのに、俺が一方的に好き勝手やるのは駄目だろ」
「……あの頃、シズちゃんは俺のこと嫌いだったよね……?」
「ああ」
「じゃあ、チャンスだとは思わなかったわけ? 俺のこと目茶苦茶にできたのに。ていうより、喧嘩の時は俺のことをとっ捕まえたら、結構遠慮なく殴ったよね? 骨折止まり程度には加減してくれてたけど」
「だから、SEXでそういう真似をしちまったら、男として終わりだろうが」
少し苛立った様子でそう言われて、臨也は静雄を見つめたまま考え込む。
そして結論らしきものに辿り着き、これでは敵わないわけだ、と今更ながらに自分の敗北を納得した。
「……そういうことか。ちょっと考えれば分かりそうなものなのに……馬鹿だったなぁ」
「? 何の話だ」
「ああ、うん。シズちゃんのSEXに対する考え方が分かったってこと」
一言で言えば、臨也は静雄の尊厳を傷つけるつもりで誘ったのに、静雄の方は本能的に臨也の尊厳を守ろうとした、ということだ。論理的に考えたわけではないらしい辺りが非常に動物的だが、それは今更指摘する点でもない。
いずれにせよ、これでは臨也の卑劣な思惑が通じるはずもなかった。誘いをかけた時点で、臨也の敗北は確定していたのである。
その結論に、ほろ苦いような、馬鹿馬鹿しいような、それでいて嬉しいような複雑な気分で微笑むと、静雄が「何だ」と問いかけてきた。
「──シズちゃんが優しかったから、嬉しかった、っていう話かな」
「……は?」
「勿論、その時は分かってなかったんだけどね。俺は君のこと傷付けるつもりだったのに、まるっきりスルーされたんだから、当時は滅茶苦茶に腹立ててた。でも、やっぱり嬉しかったんだよ、本当はさ」
あの晩のことは、自分ですら気付いていなかった深層心理を、静雄に受け止めてもらったに等しかった。
静雄の優しさを五感全てで感じ取らなかったら、おそらくその後、臨也は最後まで立ち止まれないまま池袋の街を破滅に導いていただろう。その結果、現実とは比べ物にならないくらいの人々が泣き、傷付いたはずだ。
だが、当の静雄自身は、池袋の街や他ならぬ臨也自身を救ったことなど、微塵も気付いていない。
そのことがどうにも彼らしくて、おかしくて、臨也は小さく笑う。
すると、静雄は半分困ったような顔で、臨也の頬を指先でつついた。
「さっぱり分かんねーよ。説明する気あんのか、ノミ蟲くんよぉ?」
「ごめん、無い」
「おい」
ふざけてんのか、と凄まれて、臨也はとうとう声を上げて笑う。
何故だか、おかしくて仕方がなかった。昔読んだ小説の中に、神様の御都合主義、という造語があったが、これはまさにそれだろうと思う。
こんな風に全てが奇妙に噛み合って、こうして今、二人で居られるなんて、有り得ないレベルの奇跡だ。
おかしくておかしくて──どうしようもないくらい、幸せだった。
「だーかーらー、何笑ってやがるんだよ!」
「別に悪いことじゃないってば」
笑いながら臨也は、のしかかってくる静雄の頬を指先で撫でる。
「本当だよ。もうシズちゃんには嘘つかないから」
「……その台詞自体が嘘くせぇ」
「うわぁ、ひどい」
嘘くさいという静雄の台詞は、自分たちの会話に付き物だった売り言葉に買い言葉であることは考えるまでもなかったから、臨也は笑って聞き流す。
そして、笑いを収めて静雄を見上げた。
真っ直ぐに臨也を射抜く、鳶色の瞳。
まなざしだけでなく、何もかもが静雄は真っ直ぐだった。幼少時から人付き合いが少なかったせいなのか、先天的な性格なのか、二十代後半になった今も、子供のように純粋で不器用で温かい。
臨也が繰り返し仕掛けた暴力沙汰によって心は散々に傷付いただろうに、それでも臨也を受け入れて求めてくれた。
奇跡がこの世にあるとしたら、彼の存在そのものが臨也にとっての奇跡に他ならない。
「続きしよっか、シズちゃん」
微笑んでそう告げると、静雄はほとほと呆れたように眉をしかめる。
「マジで訳分かんねぇよ、手前は」
「俺は分かってるから大丈夫」
「全然大丈夫じゃねぇっての。後できちんと説明しろよ?」
「……うん」
聞く気あるんだ、と聞き返しかけて思いとどまり、臨也はうなずく。今日の静雄は何度も臨也の長話に付き合ってくれたのに、この上で混ぜっ返すのは、さすがに失礼な話だった。
臨也がうなずくと、それで静雄は満足したのだろう。
よし、と応じて、キスを落としてくる。
臨也ももう余計なことは口にせず、目を閉じて甘く優しい温もりを受け止めた。
to be concluded...
神様の御都合主義=『夜は短し歩けよ乙女』 森見登美彦著 角川文庫より
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